73.乳を与える父親という羨ましい話

「事前に伝えたわよ。許可だって貰ったんだから」


「誰に?」


 情報伝達に問題があるなら、事前に対策しないと。その程度のつもりで尋ねたルシファーへ、ベルゼビュートはうーんと悩んだ。名前が思い出せないらしい。


「ほら、侍従長のベリアルの部下で、ふわふわっとした子犬っぽい……えっと、フル? あ、フルフル! 彼よ」


「あの子か」


 以前もアベルの世話係をした際、大切な情報を伝達し忘れた前科がある。今回も伝えたつもりになっているか、伝えるのが遅かったのどちらかだろう。過失だから厳しく叱るのも気が引ける。何よりあのコボルト特有のふわふわした毛並みが、叱りづらさを増長した。


「叱りづらいな」


「わかるわ。あの柔らかい毛並みは、エリゴスに匹敵するもの」


 夫と比べるのもどうかと思うが……と、ルシファーは目の前の光景に慌てた。


「ベルゼ! 息子が窒息してる」


「え? あらやだ、本当だわ」


 事態のわりに、緊迫感の薄い受け答えをしたベルゼビュートは、息子の背中をぽんぽん叩く。それから慣れた様子で口付けた。ふっと空気を送り込み、何度かそれを繰り返す。けほんと咳き込んだ息子ジルが、大きく息を吸い込んだ。泣き出すかと思ったが、けろりとしている。


「まさかとは思うが……その」


「平気ですわ、陛下。あたくしの子ですから、このくらい日常ですもの」


 額に手を当てて唸る。やはりそうか。ここはジルの保護を目的に取り上げるべきか? でも両親が揃っている家から、子を奪うのは……云々。顔色を青くしたり赤くしたり忙しいルシファーは、収納から小さな宝石を取りだした。それに魔法陣を刻んでペンダントにする。


 美しい銀色の飾りは淡いピンクの宝石がはめ込まれていた。以前リリスに上げようとしたら、色が気に入らなくて却下された宝石だ。捨てるより活用しよう。それをジルの首に掛けた。近づいた際、イヴが好奇心から手を伸ばそうとするが、さっとルシファーが握って隠す。


 異性に触れるのはまだ早い。むっとした顔で刻んだ魔法陣を発動させた。


「あら、結界?」


「そうだ、お前が窒息させたり溺れさせたりしないための措置だ」


「助かりますわ。よく入浴中に沈むから」


「それは手を離したんじゃないか?」


 入浴中によそ見をしたか、自分を洗うのに夢中で忘れたか。ベルゼビュートならその辺だろう。想像は大当たりだったらしい。


「よくご存じですわね。覗いてらしたの?」


「……分からない奴がいたら見てみたい」


 呆れ混じりに溜め息を吐いた。ベルゼビュートは己が治癒に特化していることに加え、ジルが長い間幼児のままでいることに慣れてしまった。多少の危険があっても取り返しがついてしまうのだ。だが危険に晒していい理由にはならない。


 結界の上から頭を撫でる。父親であるエリゴスの毛色に似た灰色の髪は、少し硬かった。母親譲りの桃色の瞳は色が濃く、そこそこの魔力量があると示している。この母親では心配だが……結界があれば生き残れるだろう。がんばれ。心の中で応援して手を引いた。


 哺乳瓶の中身を飲み干したイヴは、ちゅっちゅと音をさせながらまだ足りないと主張する。新しい哺乳瓶を取りだし、温度を確かめてから交換した。


「ほーら、イヴぅ。おいちいぞぉ」


 ちょっと民に聞かせられない甘い声でミルクを与えると、下でぐぅと腹の音が聞こえた。ジルか? 目が合うと嬉しそうに手を伸ばす……が、お前の食料は目の前の母親の乳だろう。


「ベルゼ、ジルが空腹らしいぞ」


「え? あら、でもエリゴスがいないから困ったわね」


「なぜエリゴスなんだ?」


 でかい乳から飲ませればいい。オレは退室すると言いかけたルシファーの耳に、とんでもない言葉が飛び込んだ。


「魔獣の時のエリゴスが乳を与えてるの」


「は?!」


 父親なのに、自前の乳を!? なんて羨ましい。ぎりぃ、歯を食いしばった後、ひとつ深呼吸して気持ちを落ち着けたルシファーは、予備の哺乳瓶ミルクをジルの口に突っ込んだ。そのまま無言で部屋を出る。


 オレも乳が出ないだろうか、獣に変化したら出るのか? 側近がいたら慌てて止めるだろうが、ルシファーは服をはだけてイヴの前に差し出してみる。しかし見事に無視されてしまった。

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