181.泣くくらいならやっつけて来い

 書類がインク浸しになっても気にしない。後で魔法で消せばいいからだ。署名用の特殊インクしか置かないルシファーの机の上は、べったりと黒く染まっていた。


「マーリーンですか、意外でしたね」


 アスタロトが感心しながら呟いた。泣かされたのはイヴ、先ほどまで後ろを付いて回っていた年上のマーリーンが手を出したのだ。その状況をばっちり目撃したアスタロトは、苦笑いするしかない。


 アスタロトの息子ストラスと、サタナキア公爵令嬢だったイポスの娘であるマーリーンは、今年で2歳になった。アスタロトにとって2番目の孫だが、彼女は息子より嫁のイポスによく似ている。活発で負けん気が強い。お気に入りのイヴが、リンばかり構うのが面白くなかった。


 リンは嫌がって逃げるのだから、自分と遊んでくれたらいいのに。そんな感情を拗らせて、後ろからイヴを押し倒したのだ。転がったイヴは結界に守られケガはないが、突然の状況にびっくりして泣き出した。泣くと余計に悲しくなり、最後はなぜ泣いていたのか思い出せなくなるのが赤子の特徴でもある。派手に泣いたイヴは、すでにその状況だった。


「うわぁあああ!」


「よしよし」


 抱き上げたルシファーへ八つ当たりを兼ねて攻撃する。それを適当にいなしながら、頬を緩めたルシファーは腕の中のイヴに目を細めた。ケガがなければ、ケンカなどいくらしてもいい。大切な姫だが、閉じ込めて世間知らずにすると後が怖いのだから。


 リリスの育児でいろいろと学んだルシファーは、子どものケンカは仲を深めるきっかけでもあると知っていた。魔法で攻撃したり物で殴ったりしない限り、放置する。泣き止んだイヴをリンとマーリーンが待つ囲いの中に下ろした。


「イヴ、泣くくらいならやっつけて来い」


「物騒な嗾け方をしないでください。二人ともうちの孫ですよ」


「守護魔法陣と追跡魔法陣を持たせたくせに」


 攻撃を防ぎ居場所を知らせる。アスタロトが施した魔法は、二人を守っていた。だからイヴが叩いたくらいでは大きな問題にならない。そう笑う魔王へ、側近アスタロトは肩を竦めた。


「守られていれば殴ってもいい法はありません」


「お前だってオレを攻撃したじゃないか。まだ幼気な少年だったオレは、ひどく怖い思いをしたもんだ」


 古い話を持ち出すルシファーへ、アスタロトが一礼して丁寧に返答した。


「もちろんです。あの当時のルシファー様は敵でしたから、手加減する方が失礼でしょう。それに幼気だったかは疑問ですね。裸でうろうろする変態ではありましたが」


「変態じゃないぞ! ちゃんと布で隠してた」


「ほぼ全身を出していたなら、変態でしょう」


 陰部を隠してたかどうかで揉める親と祖父を放置し、子ども達はまた遊び始める。マーリーンに掴まったイヴは蹴りで脱出を試みるが、足首を取られて動けない。助けに入ったリンがマーリーンの手に噛みついた。逃げたイヴが、捕まったリンの後ろに回り込む。


 興味深い光景に、いつしかルシファーとアスタロトは口論をやめて見入っていた。


「ちょっと! 珍しくあたくしが報告書を仕上げたってのに、二人は何をサボってるのかしら。早く承認して頂戴」


 顔を覗かせたベルゼビュートが、報告書を片手に抗議する。空いた手を腰に当てて、得意げな顔をした彼女だが……すぐに後悔することとなった。


「こことここ、間違っています。綴りまで違いますね」


 計算以外の間違いを微に入り細に入り指摘され、半泣きで書類を直す羽目に陥った。その隣では、ルシファーが零したインクの始末に追われる。署名済みの書類を侍従ベリアルに運び出させ、魔力を流して机や書類のインクを消した。透明になったインクに満足し、振り返ったところ……巻き添えを食った書類片手に頭を抱えるベルゼビュートとアスタロトに睨まれる。


「わ、わざとじゃ……」


「わざとなら、頭を叩き割ってますわ!!」


 手直しした分が消えたベルゼビュートは、今日の仕事を切り上げて帰宅する。逃げ損ねたルシファーの執務室は、夜遅くまで灯りが煌々と灯っていた。

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