229.大公の吊るし亀甲縛り

 アンコウの吊るし切りをご存じだろうか。滑る体表を切り裂くため、ぶら下げた状態で包丁を入れる。朝起きて、気分良く着替えをしたルシファーは、バラ園の手前に吊るされた美女の姿に脱力した。


 風邪を引いたり、死ぬ心配は不要だ。だからこそ余計に力が抜ける。なんとか夜中に書類を仕上げ、パシパシする目を瞬きながら妻子の眠るベッドに潜り込んだ。それもこれも、ベールが休みの許可を貰ったからだ。その原因を辿れば、ベルゼビュートが報告を怠ったせいだが。


「何をしてるんだ」


「あたくしもそう思いますわ。でも解いたら殺されそうなんですもの」


 見事な亀甲縛りで、温室の柱に縛り付けられた彼女はけろりと言い放った。まったく堪えていない。怒ったベールが怖かったので、一晩大人しくしていたのだろう。


 くすくす笑いながら周囲を舞う精霊達は、花びらを散らしたり水滴を飛ばしたりと元気がいい。つまり精霊女王である彼女の体調は、すこぶる上々と判断できた。


「解いてくださいな、陛下。リリス様」


「うーん、ベールが怖い」


 素直に心情を吐露する夫の隣で、リリスは愛娘を抱いてこてりと首を傾げた。


「ベルゼ姉さんのお胸って、左の方が大きいのね」


「「……」」


 指摘された当事者は唖然とし、ルシファーは目を逸らした。間違って凝視しようものなら、鉄拳制裁は間違いない。この辺は学んだ経験を活かせていた。


「エリゴスはここで眠ったの?」


 足元の獣に気づいてしゃがむリリスは、にこにこと笑いかける。茂みの中から前足と鼻先を出した夫エリゴスは、くーんと声を上げた。


「そう。確かにベルゼ姉さんはスタイルがいいから心配よね」


 どうやら動けない妻を心配して護衛をしていたらしい。エリゴスには悪いが、間違っても襲うバカはいないと断言できた。元々強いのはもちろん、人妻に手を出すのは御法度だ。魔族にとって家族は最小単位の国家であり、領土であった。そのため侵略者に対して非常に厳しい。


 結婚前のあれこれは緩いのだが、結婚後は浮気も死に物狂いで特攻する必要があった。そこまでして浮気するなら、別れて違う相手と再婚する方が簡単なのだ。故に、魔族で人妻に手を出すクズは滅多にいない。


 完全にいないと言い切れないところが悲しいが、エリゴスの心配はその辺だろう。まあ、囚われの妻に寄り添う姿勢は評価に値した。


「エリゴスのために解いてやろう」


 理由づけがあれば、ベールの抗議も躱せると判断し、ルシファーはぱちんと指を鳴らした。ベルゼビュートの豊満な肉体を強調するように食い込んでいた縄が解ける。ぱらりと落ちた縄をそのままに、ベルゼビュートはエリゴス……現在は雌の獣である夫に抱きついた。


「助かったわ、ありがとう」


「助けたのはオレだがな。ベールにきちんと謝っておけよ」


「はい、気をつけます」


 何度も聞いた言葉だが、彼女は何度でも同じ失態を繰り返す。溜め息を吐いて、ふと気づいた。


「ジルはどうした?」


 まさか幼子を部屋に放置? 青ざめるルシファーだが、イヴは「あうっ!」とエリゴスを指差した。のそりと茂みから出てきたエリゴスの腹の下、すやすやと眠る幼子の灰色の髪が見える。


「ちょうど良かったわ。陛下、あたくし今日は忙しいんですの。この子を保育室で預かってくださいな」


 ぽんと渡され、拒否するわけにいかず受け取る。魔法で着替えを済ませたベルゼビュートは、エリゴスを連れて中庭へ向かった。仕事先へ魔法陣で移動するつもりのようだ。


「朝から騒がしい奴だ」


 苦笑してバラを数本手折り、魔王一家はおまけを連れて部屋に戻った。まだすやすや眠るジルが目覚め、母親も父親も不在の状況に大泣きするのは数十分後のこと。

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