420.夜泣きに苦戦する魔王陛下

 執務室へ出勤したアスタロトは、思わぬ光景に目を見開いた。愛娘イヴと生まれたばかりの息子シャイターンを膝に乗せ、魔王が目を擦っている。どうやら一晩中、夜泣きするシャイターンに付き合ったらしい。


「寝ないんだ」


「なぜあなたが眠そうな顔を……」


 以前は勇者と数日にわたる激戦を繰り広げても、けろりとしていたのに。怪訝さを隠さない大公へ、魔王は肩を落とした。


「リリスを寝かせてやりたくて、ここに移動したんだが……イヴが一緒に大泣きして」


 両方の間を右往左往して、必要以上に疲れたらしい。いっそドラゴンを複数相手どって戦う方が楽だと嘆いた。ちなみに、抱っこされたイヴは熟睡中だ。首が折れたかと心配になる角度で、後ろにのけ反った姿勢だった。


「その姿勢は……」


「ああ。移動させると起きる」


 首が痛いだろうと気遣い手を添えると、飛び起きて泣き出す。夜中に何度も繰り返し、ルシファーは学んでいた。子どもは柔軟性があり、寝ている時は触るな、起こすな、揺らすなが鉄則なのだと。


「少し代わりましょうか?」


「無理だと思うぞ」


 先程、別の侍女が同じように申し出て、すでに失敗した。その話をしている間に、シャイターンが目を覚ます。


「うぎゃ……っ」


 泣くために大きく息を吸い込んだタイミングで、ぱくりと哺乳瓶の乳首を咥えさせた。見開いた目が潤んでいるが、うっくうっくと音をさせて飲み始める。


「腹が減った、つまり、次はオムツだ」


 ぼそぼそと呟きながら、ルシファーはオムツを空中から取り出した。完全に育児疲れした母親である。ベッドで眠る妻を休ませたいのは分かるが、ルシファーの様子にアスタロトは溜め息を吐いた。


 正直なところ、リリスに子育てを任せたい。ルシファーは他の業務もあるし、当然だが魔王なので視察や裁定も予定されていた。


「お義父様、失礼しま……あ! 魔王様、すみません」


 ルーサルカがノックと同時に駆け込み、慌てて頭を下げた。この時間にルシファーがいると思わなかったのだろう。それもどうかと思うが、そう判断されるほどルシファーが執務室を留守にする時間が長い証拠だった。


「お疲れのようですが、お預かりしましょうか?」


 すたすたと近付くルーサルカは、造作もなくイヴを抱き上げた。先程まで、何をしても起きて泣いた娘が、大人しくしている。というより、起きなかった。目を輝かせたルシファーは、保育所への送迎を依頼した。


 出産が近くなったここ数日、母リリスにべったりだったイヴだが、そろそろ保育所へ顔を出さないとならない。お友達と遊ぶ日常を取り戻す必要があった。


「いいですよ」


 着替えを数枚受け取り、ルーサルカは執務室を出て行った。その様子を見送ってしまい、アスタロトはルシファーを睨む。


「ルシファー様、彼女は私に用があったのですよ? 邪魔をしないでください」


「本人に言ってくれ」


 至極当然の反応だ。大事な用件なら、ルーサルカも思い出して帰ってくるだろう。


「あ、いけない! お義父様、お義母様へこれを届けてくださいね」


 話している最中に戻って来たルーサルカは、立派な狐の尻尾を揺らして小さな包みを手渡した。傾けても音はしない。


「お義母様に頼まれたんです。明日までにお願いしますね」


「分かりました。預かりましょう」


 アスタロトは機嫌よく請け負い、机の端に置く。今日は仕事を早く切り上げるつもりで、書類の山を崩し始めた。そんな彼のそばで、ルシファーは眠りの船を漕ぐ。ミルクを飲み終えたシャイターンは、中身のない哺乳瓶を咥えたまま。


「ルシファー様、シャイターン様を預かりますので寝てください」


 珍しく優しい声をかけられ、ルシファーは感涙しながら息子を渡す。が、すぐに大泣きされてルシファーの腕に戻された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る