219.フェンリルの背に乗って崖下り
火の精霊は頼まれた仕事に一直線だ。周りを燃やさず、灰色魔狼を追いかける。簡単そうで難しい役目を完璧にこなしていた。ひらひらと舞いながら、下を走り抜ける高速のフェンリルに近づく。普段なら絶対にない考えが浮かんだ。ついていくだけでいいのなら、乗って行けば確実では?
ある意味、真理を突いている。火の精霊だから触れたら燃えるなんて効果はない。精霊自身が望まなければ、やや体温が高い空気程度の存在だった。もそもそと首元の毛皮に潜り込む。ここと尻尾が一番毛足が長くて侵入しやすいが、尻尾は揺れるので首元を選んだ。
マフラーのようにふわふわの毛皮に包まれ、フェンリルに乗る。なんとも贅沢な経験に、精霊は大興奮だった。見失う心配がなく命令を果たせる。これなら女王様も大喜びだろう。頭のいい自分を褒めながら、フェンリルの毛皮で寛ぐ。
「きゃっ!」
火の精霊の上にベルゼビュートが出現し、取り繕う間もなくフェンリルに跨ってしまった。転移先を火の精霊に指定したため、まさにジャストフィットである。突然背中に生き物が飛び乗れば、足を止めて振り払おうとするのが普通の反応だ。しかしヤンは振り返りもしなかった。
夢中になって走る彼は、背中に乗ったベルゼビュートをそのままに駆ける。当然首に跨る者の安全など考えていないので、慌てたベルゼビュートは勢い良く伏せた。ずりずりと位置を後ろに下げ、ヤンの首に手を回して抱き着く。背中にべったりと全身で張り付いた形だった。
「これなら木の枝も大丈夫ね」
精霊女王であるベルゼビュートが近づけば、魔の森の木々も道を譲ってくれる。足元の草も左右に割れて通すのが当たり前だった。だがこの高速で駆け抜けるフェンリルの背は、木々が避けるのも間に合わない。己が通り抜けられるギリギリを抜ける獣の背は、うっかり頭を上げたら枝に払い落される未来が待っていた。
落ち着くまでこのまま張り付いているしかない。平らになろうとするが豊満な胸が邪魔で、あれこれと試行錯誤した。ヤンが本来の大きさに戻っていたのが幸いだ。そうでなければとっくに落とされただろう。耳や頭も大きくなったヤンのお陰で、かろうじてベルゼビュートも隠れる。
「うっ……なんでこんなことに」
火の精霊が悪いわけではないので、叱るのも大人げない。彼は心配そうにベルゼビュートに近づいて頬にすり寄った。悪いことをした気がする。そんな表情だが、具体的に何がマズイのか理解していない。幼子を突然怒鳴りつけるのと一緒で、気が咎めてしまった。八つ当たりは出来ないわね。
「ご苦労さま。とても助かったわ」
一生懸命、この子なりに考えてくれたのは伝わった。だからお礼を言って頬をすり寄せる。嬉しそうな火の精霊がほわりと笑った。
「ひっ! ひぃいいいいいいい!」
直後、ヤンは崖からジャンプした。巨体は躊躇なく宙を舞う。後から考えれば、この時に手を放して空に浮けばよかったのだが、反射的にベルゼビュートはしがみ付いていた。自分で飛び降りるなら高さは気にならないが、他者任せの落下は恐怖しかない。
悲鳴を上げながら落ちていくが、ヤンは耳元で騒がれても一切反応しなかった。軽やかに着地してからその異常性に気づき、涙目になりながらもルゼビュートは首を傾げる。まあ、今振り返って女大公の涙を見てしまったら、抹殺するけどね。
怖ろしいことを考える彼女の鼻を潮の香りが擽る。顔を上げた先はもう低木しかなく……海が広がっていた。
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