220.ヒゲがっ! ヒゲがぁあああ!

 海に着いちゃったわ。呆然とするベルゼビュートを乗せたまま、ヤンは浜辺へ一直線に駆ける。止めなきゃ! 反射的にそう感じ、ヤンのヒゲを両手で掴んだ。急所でもあり、敏感な器官なので反応するだろう。そう踏んだ彼女の暴挙に、ヤンは急ブレーキをかけた。


 背に乗ってヒゲを両手で掴む女性が、足で踏ん張る間もなく宙を舞った結果……恐ろしい事態が起きる。戦闘でこのような場面は慣れているベルゼビュートは、くるりと一回転して華麗に着地した。審査員がいれば、10.0連発の完璧な演技だ。


 勝利のポーズのように高らかと掲げた彼女の両手、その拳は握られたままだった。そこから伸びる長いヒゲも健在だ。いや、健在と表現するのは間違っている。本来の持ち主から引き抜かれていたのだから。


「ぐぁおおおおおお! 何たる痛みっ、死ぬぅ」


 転げまわるヤンが白い砂まみれになっていく。頬と言うか、鼻先の敏感な部分が赤く染まっていた。引き抜いたので血も滲んだし、腫れたのも手伝い……なんとも気の毒な状態だった。前足で顔を覆い、ぐるぐると回転するフェンリルが落ち着くのはだいぶ先の話だ。


「ヒゲがっ、ヒゲがぁああああ!」


「……ベルゼ、お前……悪魔の所業だな」


 直前にヤンの魔力を終点に転移したルシファーが、青い顔で呟く。


「いえっ、違いますのよ。そうじゃなくて、治しますわ」


 治癒に関しては大公の中でも一番能力が高いベルゼビュートだが、傷ではなく抜いてしまったヒゲも戻せるのか。試したことはないが、過去にリリスがウサギの毛皮を消失した際に使った魔法陣なら、生えてくるかも知れない。そっと用意しながら、ルシファーは気の毒なフェンリルに話しかけた。


「ヤン、この魔法陣を試してみるか? 前にウサギの毛皮を生やしたやつだ」


 まだ苦痛の雄叫びを上げ転がるヤンは、対応できないようだ。仕方なく、勝手に適用してみた。結果は非常に残念なことになる。もさっと冬毛が生えたのだ。現在は暑い季節なので、ヤンは痛みに加えて暑さにも転がり回る羽目に陥った。


「す、すまん。今取り消す」


 大急ぎで魔法陣の効果を取り消す。夏毛に戻ったところで、痛みはそのままだ。今度は治癒の力を込めてヤンへ流し込んだ。少し楽になったのか、涙目のヤンがのそりと起き上がる。


 自慢の毛皮はばさばさに乱れ、白い砂に塗れていた。荒い呼吸で真っ赤に充血した目が痛々しい。近づいて撫でると頬をすり寄せるが、すぐにまた激痛に呻いた。あまりの状況に呆然とするベルゼビュートは近づき、ぺたんと砂浜に座り込んだ。


「ごめんなさい、ヤン。千切る気はなかったの」


「ベルゼビュート様? というより、なぜ我はここにいるのですか」


 海辺にいる状況にようやく気付き、不思議そうに呟く。ルシファーがヤンの下に治癒魔法陣を展開させたので、ベルゼビュートも魔力を注いだ。魔王と大公の治療を受けるヤンの毛皮は艶を取り戻し、ヒゲも少しずつ伸びてくる。


 この時点で痛みは和らいだらしい。本人はけろりとした様子で首を傾げた。


「何か歌が聞こえただろう? その後、お前は孫を放り出して海へ向かったんだ」


「はぁ……覚えておりません」


 歌を聞いたことは記憶にあるが、それ以降は覚えていない。孫を転がして走り去ったのはもちろん、森を傷つけながら全力疾走した記憶もなかった。ルシファーはベルゼビュートに目配せする。責任感が強いヤンのこと、森を傷つけたと知ったら嘆くだろう。


 その目配せをベルゼビュートは別の意味に受け取った。分かりましたわ、そのご命令に従いましょう。流す魔力を多めにして、彼女はヤンにとんでもない物を授けた。背に広がるのは大きな鳥の翼だ。ベルゼビュートは慌てて叫んだ。


「失敗したわ。本当は半透明の羽になる筈だったの!」

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