33.脳みそまで筋肉なのでしょうか

 激しい咆哮、喉が裂けて血が噴き出すかと思うほど、酷い声だった。獣よりもっと野蛮で獰猛な何かが、目覚めようとしている。ルシファーは本能が命じるまま、防御用の結界を張り巡らせた。


 自らの身が纏う結界ではなく、アスタロトを閉じ込める結界だ。アスタロトの中に何かがいて、それが狂気を放っている。そう感じた。


「下がれ、ベルゼ。その子をどこかへ逃してやってくれ」


「でも……」


 忠義心の強い彼女は、そう言わなければこの場に留まろうとする。危険が迫っているのに、彼女を守りながら戦うのは無理だ。追い払おうとするルシファーをしばらく見た後、ベルゼビュートは溜め息を吐いた。


「この子を置いてすぐ戻ります。ご武運を」


 転移で姿を消したベルゼビュートは、僅か数分で戻った。その間に何が起きたのか。ベールの張る結界が、近くにある神獣の巣を守る。辺り一帯は赤黒い炎が踊っていた。


「何これ!」


「ベルゼビュート、左側の神獣の子をこちらへ」


 今は動けない。そう告げるベールの切羽詰まった要望を聞き入れ、少し先の茂みで蹲り震えて動かない幼獣を抱き上げた。驚いて牙を立てたものの、食い込む前に自分で力を緩めた。幼獣の頭を撫でて「いい子ね」と褒めてから、ベールへ引き渡す。


 魔法陣なしの転移は危険を伴う。だが見える範囲で移動する分には、座標計算も容易だった。結界をコンコンと叩き、中へ幼獣だけ引き取らせた。


「助かりました」


「それはいいけど……何が起きてるのよ」


 あの巨大な炎の中に、二人はいるの? 炎に耐性がある魔の森の木々が、まるで松明のように燃えていた。魔力が満ちた森の木々は、炎も氷も撥ね除ける。にも関わらず、ぼうぼうと燃えているのだ。


「アスタロトが呼び出した炎です。水を掛けても消えないので、精霊は避難させましたよ」


「あら、ありがとう」


 ベルゼビュートが神獣の子を助けたように、ベールも精霊を避難させたらしい。見れば、神獣の巣の向こう側で、ちらちらと様子を窺っていた。同族の無事を確認して、ベルゼビュートは安堵の息を吐く。その間にも森は燃え続けた。


「ルシファー様は?」


「アスタロトの無差別攻撃を引きつけて、あの中にいます」


 ベールの説明は、今も攻撃を引き受けているという意味に聞こえた。実際、周囲への被害は延焼くらいだ。直接叩きつけられる炎や攻撃を、すべてルシファーがいなしているのだろう。流されるたびに熱くなって、アスタロトの攻撃はルシファーへ集中するはず。


「本当に……ルシファー様って、自己犠牲の人よね」


「……魔王は強さだけでなく、このような素質も必要かも知れません」


 服従を誓う気はないが、対立するのはやめる。そんなスタンスだったベールの言葉に、変化が現れていた。狂化して襲い掛かったアスタロトを受け止めながら、周囲への気遣いを見せた。ルシファーの言動に、ベールは感動に似たものを覚える。


 自己犠牲は尊いが、同時に恨みや怒りを残した。投げ出した己が被害者に分類されるなら、加害者が生まれる。感情は理性で割り切れず、遺恨となって受け継がれた。その鎖を断ち切るには、被害者を生まなければいい。圧倒的強者が盾となり、誰も犠牲を出さないこと。


 被害者も加害者も作らず、力尽きるまでアスタロトの攻撃を流し続けることができたなら……あるいは。


 期待の眼差しを向けるベールの隣で、ベルゼビュートは豊満な胸の上で組んだ手を解いた。その手に呼び出したのは、愛用の剣だ。銀の刃がぎらりと陽光を弾く。


「あたくしが参戦しても構わないわよね? アスタロトとは本気でやり合ってみたかったの」


 口では冷たい言葉を吐くくせに、女だからって手加減して途中で戦いを放棄する。そんなアスタロトの本気が見られるなら、手足の一本くらい諦めるわ。にやりと笑った赤い唇が弧を描き、彼女はピンクの髪を靡かせて炎の中に飛び込んだ。


「……脳みそまで筋肉なのでしょうか」


 呆れ返るベールの声を背に受け、胸の巨大な脂肪を揺らす美女は嬉々として剣を振り下ろした。

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