348.怒ると叱るの違い

 叱る時のキツイ響きで名を呼ばないこと。この保育所の基本姿勢だった。一歩間違えると、名前を怒られる恐怖の対象として覚えてしまう。


 最初は理由を聞くところから始めて、なぜいけないかを説明する。その順番を無視した反論をされ、ついカッとなって声を張り上げた。感情任せの行為は、叱るではなく怒るだった。


 いけないよ! などの呼びかけなら問題ない。しかし幼子は声に宿る感情に敏感だった。自分の名を険しい声で呼ばれたら、その響きを恐怖として捉える。名を呼ばれることを怒られた経験と混同するのだ。だから気を使ってきたが……。


 大きな失態に落ち込むガミジンは、大きく溜め息を吐いた。人化した彼はタテガミに相当する髪をぐしゃぐしゃと乱す。それから玄関先にどかっと座り込んだ。


「おいで、リアラちゃん。いきなり怒鳴ってごめんね。サライちゃんが昨日どうして泣いたのか、理由を知ってる?」


 泣きながら首を横に振るリアラを膝に座らせた。昨日の経緯を順番に説明する。子どもだからと手を抜かない。リアラが仲良くしたことに腹を立て、誤解したサライがイヴを攻撃した。もちろん反撃したイヴも一矢報いるどころか、過剰防衛だったが。


 イヴも悪いし、サライも悪い。両方ともケンカしたままで、今日も口を利かないだろう。その話をリアラは、鼻を啜りながら最後まで聞いた。


「あたちがわるいの?」


「僕は誰も悪くないと思うけど、なんでそう考えたの?」


 ガミジンが質問し返す。卑怯な技だが、真剣な顔でリアラは答えた。


「ケンカは、あたちのせいだから」


「でもイヴちゃんと遊んで楽しかったのに、悪いことかな」


 考え込んで答えが出ない幼子に、ルシファーも床に座り込んだ。汚れるとガミジンが注意するが、気にしない。抱っこしたイヴは、泣き疲れて眠っていた。


「昨日はイヴと遊んでくれてありがとう」


 イヴの父親に怒られると思って身構えたリアラに、まずお礼から切り出す。


「今日のリアラは何がいけなかったか、分かる?」


「後ろから叩いた」


「そうだな、後ろからの攻撃は卑怯だ。二度としないでくれ」


 こくんと頷く。根は素直な子らしい。だからこそ、サライが泣いたと聞いて額面通りに受け取った。大切な友人が、イヴに叩かれて泣いたと。先にサライが手を出したことを知らなかったのだ。


 大好きな先生にいきなり怒られたのもびっくりしただろう。人垂らしの美貌を利用して、にっこり微笑む。ルシファーの無自覚な色気は、幼くても女の子のリアラに効果覿面だった。


「ケンカしてもいい。一緒に遊んでもいい。卑怯なのだけはダメだ。約束できるか?」


「うん、ごめんなさい。イヴにもごめんなさい」


「いい子だな」


 頷いたリアラは、ガミジンに抱っこされて保育所へ運ばれる。今日のイヴは連れ帰る方が良さそうだ。そう思って振り返れば、ゴルティーがふわふわ浮いていた。飛ぶことに慣れて、かなり安定している。


「イヴは寝ちゃったの?」


「ああ。明日また遊んでやってくれ」


「やだぁ、起きる」


 イヴがごしごしと目元を乱暴に手で擦るので、慌ててやめさせた。優しくハンカチで拭いてやり、抱き方を変える。顔が見える形で尋ねた。


「保育所へ行く?」


「うん……ゴル、一緒にいこ」


 ルシファーの腕をぽんと叩いて、下ろしてと要求する。イヴは思ったより逞しく成長している。そのことを嬉しいと喜ぶより、まさかゴルティーと結婚するとか言い出すんじゃ……と青褪めるルシファーを残し、二人は仲良く手を繋いで部屋へ向かう。


「琥珀竜……認めないぞ」


 遅いので迎えに来たルキフェルは、呻くように呟く魔王を回収する。玄関先で埃に塗れて座る魔王の姿は、かなり多くの父兄に目撃された。ゴルティーが魔王陛下を砂まみれにしたらしい。そんな冤罪が生まれかけ、即日公式に否定された。

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