142.もう魔王やめる、仕事なんかしない

 保育園増設は、思わぬ問題にぶち当たった。というのも、魔王城周辺にあれこれと施設を建て過ぎたのだ。庭や保育園の広さを確保しようとすれば、他の施設の邪魔になる。森を切り開けば場所はあるが、魔の森が魔族の母であるため勝手に伐採するわけにも行かなかった。


 何より、魔の森は樹木を伐採されると魔力を奪う。その性質があるがゆえに、魔の森と呼ばれてきたのだ。その一角に、保育園が出来るほど広く伐採を行えば、周囲の魔族の生活や生命に影響が出るのは必至だった。


「魔の森に聞こうにも、現在は眠ってるし」


 いっそリリス経由で尋ねようと考えたが、あっさりと「今は寝てるから無理よ」と返された。そうだ、長い眠りに落ちた我らの母を叩き起こす程の事件ではない。ましてや魔の森は眠りに就く前、大量の魔力を摂取している。栄養満点の現状、しばらく眠り続ける予定だろう。


「うーん、まいったな」


「人族が作った平地はどうなの?」


「あの辺りは遠いし、辺境だから警備の問題が……」


 リリスと話しながら、ぼんやりと目で追っていたイヴが突然立ち上がる。頭が重いので前に倒れそうになるが、揺れながらバランスを取って足を踏みだした。ぐらつくものの、数歩歩いて笑う。


「イヴっ! 凄いぞ、パパのところまでおいで」


 両手を広げたルシファーへ向け、僅か3歩の距離に挑戦するイヴ。しかし彼女は左にいたヤンの方へ向きを変えた。父の手をすり抜けて、いつも遊んでくれるヤンに飛びつく。尻尾を振って受け止めた大型犬サイズのヤンは、ひやりとした空気に固まった。


 謝るべきか、いや、その方が危険だ。我は置物で反応してはならん。自制するヤンは、イヴを転ばさないよう毛皮に包みながら転がり、ぺたりと尻尾や耳を畳んだ。怯える姿に、リリスが呆れ顔で助け舟を出した。


「ルシファー、ヤンに懐くのは当然だわ。あなたより一緒にいる時間が長いんだもの」


 事実だ。だからこそルシファーの胸にぐさりと深く刺さり、突き抜けて背中に穴をあけた。ショックを受けた魔王はしゃがみ込んで、床に「の」の字を書き始める。すっかり拗ねていた。


「もう魔王やめる。ずっとイヴといる。仕事なんかしない」


 ぶつぶつと文句を並べ、リリスが肩を叩いても顔を上げない。この場所が執務室だと忘れて拗ねたのが運の尽き。書類を運んできたアスタロトに発見された。どう叱ろうかと考えるアスタロトの後ろから現れたベールが、呆れたと顔をしかめる。


「陛下、何をしておられるんですか」


「もう魔王やめるから、陛下じゃない」


 言い返したルシファーは純白の髪を床に散らして、蹲っていた。呆れ顔でお茶を飲むリリスが大まかな状況を説明する。ヤンは転がったままだった。気配を消して、まるで狩りのために茂みに潜む狼のように。その腹でイヴはすやすやと眠っている。


「こんな状況、覚えがありますね」


「リリス様の時ですか? まったくいい加減にして欲しいものです」


 アスタロトの苦笑いに、ベールがぴしゃんと厳しい言い方をする。だがルシファーは動かない。今回はかなり重症らしい。ついに呼吸まで静かにして回数を減らす程、ヤンは居心地が悪くなってしまった。


「イヴ姫様、起きてください」


 突然ベールがイヴを揺する。うぅ……唸りながら目を開けたイヴは、見慣れた銀髪青年に目を輝かせた。抱っこを強請るように手を伸ばしかけ、その視線の先に純白の塊を見つける。いつも美味しい物を食べさせ、抱っこして寝かしつけてくれるパパだ。


「ぁう! パーパァ」


「聞いたか!? 今イブがオレをパパって!! やっぱりオレがいないとダメなんだな。さすがイヴだ、おいで」


 蹲った姿勢から一瞬で寝転がり、イヴに視線を合わせてにこにこと笑う。這うように進んだイヴが途中で立ち上がり、よたよたとルシファーの腕に倒れ込んだ。パパと呼んで抱き着いた娘の姿に、ルシファーはさっきまでの拗ねっぷりが嘘のようにご機嫌となり、魔王退職の件はうやむやになったとか。

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