188.不幸な事故と香辛料

 混乱を極める魔王の執務室を抜け出し、アスタロトは淡々と魔力を追う。直接面識があるので、ゲーテの魔力は知っていた。コボルト同様、魔力が少ない種族なので探しづらいだけのことだ。急いで探す必要もないので、のんびりと別の仕事もこなしながら回った。


 文官のトップであるアスタロトの元へ持ち込まれる案件は、申請から報告、陳情と多種多様だ。さらに受領したら処理して返却するまでが役割だった。以前より分業化したが、それでも一般の文官の手に余る案件はまだまだ多い。


「もう少し効率良く出来ないか、アンナを交えて相談してみましょう。ああ、ルーシアも呼ばなければいけませんね」


 二人とも人妻なので、開かれた会議室で会う方がいいでしょう。頭の中で算段をつけながら、食糧保管庫がある地下へ向かう階段で、ゲーテを捕まえた。


「ゲーテ、お願いがあるのですが」


「何でしょう」


 仕事の話だと思って立ち止まる彼は、手に大きな籠を抱えていた。中には香辛料が入っており、これから厨房へ移動させる予定だ。


「爪をください」


「嫌です」


 真っ直ぐに希望を伝えたところ、即答で断られた。伝え方を間違えたと額を押さえるアスタロトが、言葉を選び直す。


「すみません。爪を根本からではなく、切った爪の先が欲しいのです。ドワーフに必要な建材だと言われまして」


「……はぁ、それならまあ……建材になるんですかね」


 不思議そうな顔で自分の爪を見ている。ネコ科の魔獣と違い、爪が引っ込んだりしない。硬さに自信はあるが、建材と言われても首を捻るのが普通だろう。


「粉にするのか、溶かすのか分かりませんが……もし希望するなら見学出来るようにしましょうか?」


「あ、ぜひ。息子も一緒でお願いします」


「分かりました。そのように取り計います」


 階段で話していたので、上から声がかかった。


「ゲーテ、香辛料はあったのか? あ、アスタロト大公閣下、失礼しました」


 調理場を預かるイフリートだ。仕事優先と動き出すゲーテの後ろを、アスタロトが続いた。それは偶然と呼ぶには、不幸な事故だった。誰も悪くないのだが、階段でゲーテが滑ったのだ。


 何かが溢れていたのを、薄暗い階段で見落とした。行きは右側の壁に沿って歩いたため、帰りに同じように右へ寄ると逆方向になる。そのため予想外の事態にゲーテは香辛料の籠から手を離した。咄嗟に体勢を立て直した際、後ろに大量の香辛料がぶちまけられる。


 一人で仕事をしていたなら、それで問題なかったが……後ろにアスタロトがいた。落ちた胡椒の実が踏まれて弾ける。物理と魔法の結界は、匂いを通過させてしまう。


「げほっ」


 咳き込んだアスタロトの目や鼻を刺激する胡椒に驚き、数段後ろへ下がったところに唐辛子があった。青い唐辛子が弾けて刺激臭を放ち、他の種族より鼻のいい吸血種を攻撃する。いつもなら落ち着いて結界を強化しただろう彼も、この場で混乱した。状況が理解できず、さらに周囲の香辛料を踏んでしまう。


 最低の悪循環からようやく抜け出した時、アスタロトは呼吸を完全に止めていた。目も閉じたまま、淡々とゲーテの爪を切る。恐縮しきりの彼が謝罪する以上、偶然の事故に対して責任を求めることは出来なかった。


 こんなことなら、ルシファー様と役割を交換するべきでした。後悔しながらアスタロトは執務室へ戻る。だが中で起きている幼子の泣き声大合唱と、髪を掴まれて項垂れる主君の姿に……どちらがマシだったか。真剣に思い悩む。空飛ぶぬいぐるみを叩き落とし、アスタロトはまだ顔を見せないベルゼビュートを呼びつけるため、ルシファーを見捨てて退室した。


「待て、アスタロト。助けろ!」


「申し訳ございませんが、私もいま重症です」


 意味不明の言い訳を残し、撤退する配下を見送るルシファーはがくりと項垂れた。

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