422.出産という戦場に出陣

「頑張っては禁句です!」


 慌ててストラスが声を張り上げる。が時すでに遅し。あのルシファーでさえ避けた禁句を耳にしたアデーレは、自由になる片足で夫を蹴飛ばした。


「がんば……って、わよ!! ぐぅ……いたっ」


「母上、力まないで。すぐに助産婦が来ます。まずは深呼吸、そう……」


 ストラスは妻イポスのお産の経験を活かし、何とか宥めることに成功する。蹴飛ばされて呆然とする夫アスタロトに、一度隣室へ移動するよう言い聞かせた。イポスを呼ぶよう指示を出し、彼女が到着したのを待って母を任せる。


「悪いけど、頼む」


「悪くなんかないわ。お義母様の出産だもの。私を呼んでくれてありがとう」


 助産婦もまもなく到着する連絡が入ったので、ストラスはようやく部屋を移動した。隣室で項垂れる父は、吸血鬼王の異名が嘘のように肩を落としている。


「アデーレは?」


「落ち着きました。今は陣痛に耐えています」


「助かりました」


 我が子相手でも丁寧な口調のアスタロトは、大きく溜め息を吐き出す。向かいに腰掛けたストラスは、素直に疑問をぶつけた。


「父上は今までに何人もご結婚なさって、僕は兄が何人もいましたよね。なぜあのような発言を?」


 経験者なのでは? と問われ、アスタロトはまた肩を落とした。


「……今までの妻達に、出産時の立ち会いを求められたことがありません。魔王城で仕事をしていたので」


 経験値がないのだと白状する父に、同情が生まれる。つい口をついた応援の言葉だが、出産時期の女性は些細な言葉にも敏感に反応する。元から壊れやすいガラスのハートだが、この時期はすぐ砕けて飛び散り、こちらに突き刺さるのだ。対応は薄氷を踏み締めるが如く、命懸けの綱渡りだった。


「では想像してください。薄くて割れそうな氷の上を歩くように、踏み出す一歩に気を使ってください。単語ひとつでも、無理をさせる言葉は禁止です」


「そういうものなのですね」


 うーんと考える父に、禁句とされる単語を教えた。頑張れや大丈夫は危険であること。事実や状況は的確に短く伝えること。近くで慌てた様子を見せれば苛立つこと。など、イポスの出産や育児を通じてストラスが学んだ事実だ。


「よく知っていますね」


「妊娠時期から、僕はずっとイポスに叱られてばかりでしたから」


 彼女のお陰です。そう笑う息子に、アスタロトは仕事ばかりだった己の過去を振り返る。もう少し、寄り添うべきでしたか。思い浮かべた過去の妻達が、大きく頷いた気がした。


「育児を経験してみます」


 魔獣フェンリルの初代セーレやハイエルフの子など、他種族の子は何人か面倒を見た。だがミルクを飲ませたり寝かしつけは、魔王城の侍従や侍女が行う。面倒を見たと言っても、事実上の子育てではなかった。


「良いことです。きっと母上も喜び……あれ? それだと僕の時も母上に任せっきりですか?」


「あの時は災害復旧で忙しく、顔を見に帰る程度でした」


 魔の森全体に大雪が降り、魔獣を保護していた時期と重なる。そう告げた父に、息子ストラスは目を見開いた。


「今回は絶対に手伝ってください。母上に愛想を尽かされますよ」


「善処しましょう」


 アスタロトが確約したところで、廊下を走る助産婦に気づく。ぽんと肩を叩かれ、アスタロトは慌てて立ち上がった。


「入室して構わないのでしょうか」


「そっと入って、母上の手を握ってあげてください。汗を拭いたり、水を飲ませたり、することはイポスが指示してくれます。父上、出産は戦場ですから。気を抜かず生き延びてください」


 真剣に諭す息子に頷き、アスタロトは気配を殺して扉の隙間から滑り込んだ。

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