154.絶対に惚れてはいけない顔だけの悪魔降臨
「いいか、イヴ。アスタロトはダメだ。あれは悪魔に違いない。絶対に惚れてはいけない。顔だけだからな」
愛娘を抱き上げ、呪文のようにアスタロトを否定する魔王。書類を運んで扉を開けたアベルは一度止まり、そっと扉を閉めた。いけない物を見てしまった気がする。だが手にした書類に気づいてノックした。そうだ、ノックを忘れて開けた所為に違いない。今度はまともな魔王がいるはず。
期待して開いた扉の先は同じ光景が広がっていた。大公女達と会合というお茶会があるリリスはおらず、執務室は珍しく人が少なかった。魔王ルシファーと娘イヴのみだ。いや、よく見たら足元で敷物のように平たくなって気配を消すフェンリルがいた。
「ヤンさん……」
可哀想なくらい平らだ。尻尾や耳はぺたりと床に張り付き、手足もぺたりと伸ばしていた。存在感や魔力はほぼ感じられない。獣の気配を消す能力の高さに感心してしまった。
「ん? アベル。どうした」
「書類をお届けに来ました。ここに置きますね。では」
丁寧に説明して未処理の書類を机に置き、急いで踵を返す。本能が叫んでいる。この場に残るのは危険だと! アベルは己の本能が命じるまま、大急ぎで扉にたどり着き……絶望した。目の前に立っているのは大公アスタロトである。それも何やら黒い気配を纏っていた。
「ルシファー様」
「アスタロト? 書類はこれからだぞ」
けろりと明るい声で返すルシファーは気づいていないらしい。こんなに顕著に機嫌が悪いと示されているのに、無視できるなんて……これが最強の魔王の所以か! アベルが青ざめ震えた。ごめん、ルカ。俺は無事に帰れないかも知れない。心の中で妻に謝罪していると、義父に当たるアスタロトに押しのけられた。
完全に視野に入っていないようだ。邪魔だからどかしたという態度だった。それでも命拾いにほっとする、が……どこまでも運が悪い男アベルは顔を引き攣らせた。この部屋の出口である扉を、アスタロトが塞いでいる。
すり抜けるには隙間が狭い。ぶつかったら睨まれそうだし、そんな勇気もなかった。震えながら元勇者は息をひそめる。ちらりと視線を向けた先で、ヤンと目が合った。あ、仲間がいる。お互いの目がそう語っていた。かくして、アベルは置物のフリを始めた。
「分かっておりますとも」
声の響きがいつもと違うことに気づき、ルシファーはようやくアスタロトをじっくりと眺めた。手にした書類とペン、整った顔は気味が悪いほど満面の笑みだ。普段は見られない状況に、何か失敗をしたかと反芻し始める。
真珠騒動の前は特に異常がなかったから、それ以降か。うーん、心当たりがない。ルシファーは早々に考えるのを放棄した。
「機嫌が悪いのか」
「いいえ。最高の気分ですよ。絶対に惚れてはいけない顔だけの悪魔でございますから」
全部聞かれていた。そう気づいたルシファーが顔色をなくす。置物のアベルと敷物のヤンが目配せし合った。この部屋で気配を殺していても危険だ。外へ逃げよう、二人の意見は一致した。ソロソロと這って移動を始めるヤン、一気に動くとバレてしまう。手招きしながら屈んだアベル。
こそこそと二人はアスタロトの足元を抜けた。幸いにも息をひそめて気配を消した二人を、アスタロトは咎めない。外へ出てすぐにアベルが扉を閉め、そこに背を預けてずるずると座り込んだ。
「あっぶなかったぁ」
「助かりましたな、アベル殿」
「本当だよ、ルカには甘いけど……あの人……」
文句を言いかけたアベルが、ひっと息を詰めて口を押さえる。万が一にも聞こえたらと首を竦めた彼の頭上すれすれを、何かが飛んで行った。ヤンの鼻先を掠めて、短剣が壁に突き刺さる。
「逃げるぞ」
「待って」
腰が抜けたアベルの襟首を咥え、ヤンは一目散に廊下を走り階段を駆け下りた。一階まで逃げた事実に安堵するヤンは、アベルを床の上に下ろした。体中傷だらけだが生きている。
「助かった……ありがと、恩にきる」
死ななくて良かった。愛しい妻ルーサルカ、今から君のところへ帰るよ。しかし、まだ腰が抜けたままのアベルは自力で立てず、義母アデーレによって妻の元へ届けられた。
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