回想:すごいきれいな冗談を

 別れの日を飾るには相応しくない曇天の下。

「ヒビキ、次はどの辺り掘れば良い?」

「今掘ってる所の……三十センチメクトルぐらい右だって」

「よっしゃ分かっ……って、また折れた」

 剛力に耐えかねて柄の中腹からひん曲がったスコップを放り、新しい物を手に取った、カルス・セラリフは第二マウンテンの地面を掘り進めていた。

 ヒビキと、複雑な面持ちで佇むノーラン・レフラクタが見る図面には『エトランゼ』を後世まで伝える目的で先人が遺した『五柱図録』が記されている。

 ノーランがこの方法を発見し、それに則ってカルスは一年かけて血晶石の収集や根回しに励んだ。彼もまた儀式に必要な模造剣の作成に取り組み、それらが結実するのが今日という事になる。

 成功すれば、隣でカルスとやり取りを交わしている少年ヒビキはこの世界から消える、ノーランにとって願ってもない結末が訪れる。

 発見した方法は本当に正しいのか。何も代償を支払わずに世界を跨ぐ、大それた事象を享受するなど許されるのか。

 最良の着地点が見えているにも関わらず、巣食い続ける不安で身を硬くするノーランと、彼に怯えと疑問が入り混じる視線を向けていたヒビキに、地中から声。

「出来たぞ! 流し込むから手伝ってくれ」

 弾かれたように硬直が解け、作り出した溝から飛び出たカルスに、溶解させた血晶石が入ったバケツを手渡す。身体の鍛え方が違うのか、瞬く間に必要な量の血晶石を溝に流し込んだカルスは、最後の仕上げに移る。

「ヒビキ、手ぇ出せ」

「……うん」

 カルスの指示に、ほんの少しだけ躊躇を見せたヒビキだったが、やがて小さく首肯して左腕を伸ばす。

 あらかじめ下書きを施しておいた『アスピラーダ文字』で記された文言に、かすれや誤りが無いかを入念に確認し、それを終えたカルスはヒビキを抱き寄せる。

「出来たぞ。……元の世界に戻ったらご両親と仲良くして、友達沢山作れよ」

「……」

「俺の事も忘れて良いからな。忘れるのは悪い事じゃない。そうしてくれる方が、俺にとっても嬉しいんだよ」

 胸に顔を埋めて、小刻みに身体を震わせるヒビキを見つめる蒼眼にも、少年と同じ感情が宿っている。

 別れを回避したい気持ちは同じだが、嘗てヒビキに語った通り、子供は正しい世界で本来の親の元で生きることが正解という、カルスの根本的な考えに揺らぎはない。

「ノーラン、貸してくれ」

 全長一・四メクトルの血晶石製模造剣を、ヒビキを抱えたまま受け取り、図の中心部に位置する『白銀龍』アルベティートを模した箇所に辿り着いたカルスは、ヒビキを降ろして剣を横たえる。

 涙は止まっていないが、辛うじて折り合いをつけた様子の少年に、これまた出来損ないの笑みを返して、カルスは手を振りながらアルベティートの図から退場。

 やがて、意を決したように表情を引き締めたヒビキが、地面の模造剣を難儀しながら持ち上げ、そして突き刺した。


「……!」


 掘り出された資料の記述通り、流し込まれた血晶石から放たれた光は天へ伸びてヒビキの姿を覆い隠す。魔術に関して凡庸な才覚しかないノーランにも、この場に満ちる魔力が大規模な戦場に匹敵する量と察して肌が粟立つ。

「これで終いか」

 光の柱から這い出るように、固い表情のカルスが現れる。

 図の中に留まっていては、纏めておかしな場所に飛ばされる可能性や、不純物の介入で転移失敗という可能性もあるので、彼が戻ってくるのは当然の話なのだが、ノーランは内心で胸を撫で降ろす。

「で、お前はこれを学会に持っていくのか?」

「専門分野でもないし、証明する為のサンプルも確保出来ない。何より、人道的な利用法が何処にもない」


 世界の転移など、人類には大き過ぎる。


 仮に実用化に至っても、現在進行形で起きている紛争が他の世界に波及して、全方位に不幸を齎すだけだろう。

「だな。資料とかも焼いちまおうぜ。俺の部屋にもあるから、それもな」

「分かっているさ。持っているだけで危険だ」

「お前にしちゃ珍し――」

 カルスの身体が短く震え、言葉が途絶。疑問の色が浮かんだ男の腹部に、七色の槍が刺さる。

「は?」

 疑問の言葉は、二人同時に零れた。下手人を視認可能な位置に立つノーランの眼でも、光柱から突如伸びた物体に友人が刺されたとしか、現状を形容出来なかった。

 槍はその数を断続的に増やし、カルスの身体が次々と穿たれる。顔以外無事な箇所が無くなった段階で、大鮫の身体が光柱内部へ引き摺り込まれていく。

 手を伸ばすが、低い身体能力しかない上、完全に出遅れたノーランには後退していく友人の手を掴める筈もない。手が無様に空を切って、ゴミの大地に転倒。

「何が起きている!?」

「知るかッ! とにかく――」

 光柱へ完全にカルスが取り込まれ、声が途絶。無意味と知りながらも、後を追うべく駆け寄るが、不可視の壁に遮られ近づく事すら叶わない。

 傍観者の立ち位置を押し付けられた男は、ゴミ塗れの大地にへたり込み、只々内部の爆発的な魔力の増大を前に、不吉な予感を膨らませる事しか出来なかった。


                    ◆


 一方、全身を穿たれた上で引き摺り込まれたカルスは、やがて無造作に地面に叩きつけられ、そこで意識を手放しているヒビキを目撃。

 駆け寄ろうとした時、己に向けられる気配に表情が引き締まり、闘争の炎が灯される。

「これが引っかけでしたって言いたいなら聞くぞ、何の為だ」

「君の力が欲しい。この一点に決まっている」

「なら直接来て頭を下げろ。話は聞いてやる」

「世界平和に興味はないかな?」

 レヴィアクスを抜き、臨戦態勢に移行していたカルスの目が、流れを完全に無視して突飛な単語を放った謎の声を受け道化の如き円を描く。

 荒唐無稽に過ぎる単語と、物騒極まる現状の著しい乖離を鑑みれば当然の反応を見せる大鮫に、淡々と声は降り注ぐ。

「この子供のように、不幸な別世界の存在は決して少なくない。我々は悲劇を防ぐべく、古き時代から取り組みを続けてきた。君のような強者が参画してくれると、良き方向に進められるのだが」

「ならもう少し穏当な手ぇ使え」

「君が話を聞いてくれるとは思わないからね」

「まあその点に関しちゃ同意するわ。で、俺の答えは一つだ。誰がお前なんぞの計画に乗るかよ」

 迷いなく、朗らかに放たれた拒絶に場の温度が低下。規則性を持って生じていた光柱の明滅が、乱れ始める。

「騙し討ちから交渉を始めるのは構いやしない。俺が拒む理由はな、お前がバレッバレの嘘を吐いているからだ」

「嘘、とは」

「平和の為とほざいちゃいるが、お前の関心は最初から最後までヒビキに向いていない。腹の底にあんのは、何処までも独善的な欲望だけだ。どれだけ高潔なお題目を掲げていようと、お前の話に乗るつもりはないね」

 語りと現状の乖離から見える欺瞞を正確に突き、カルスはヒビキの元へ歩を進める。暫しの沈黙が内部に降り、少年にカルスの手が届きそうになった時、それは終わる。

「そうか、実に残念だ」

「……!」

 未だ身体に食い込んでいた槍が、そのまま軟体生物のように蠢く。動きから一拍遅れて血が噴き出し、神経に直接響く激痛で苦鳴が吐き出される。

 体内で散々暴れ回った槍が引かれた。掻き回されて挽肉となった筋肉と脂肪と皮膚の混合物体が、全ての槍に付着し落ちていく。看過出来ない重傷を負ったと認識したカルスは、身体の崩壊にもう一つ不味い事態が生じていると気付く。


――魔力を食われてるのか……畜生!


 単に体と魔力を削られるだけなら、残った力を配分して立ち回れば良く、戦場を駆け巡ったカルスは何度もその状況から勝利を得ている。だが、敵に魔力を取り込まれたとなれば話が変わってくる。

 奪った魔力を取り込めるとは即ち、奪われた側が放つ技や魔術の先読みが容易になり、相手が高位の魔術師ならば、放った瞬間に同じ物を返される危険が生じる。

 拮抗すればするほど、相手の裏をかく事が重要となる戦闘で、手札の強制的な減少は勝敗の天秤を相手側に大きく傾ける。

 そもそも敵が見えず、逆に敵は攻撃を仕掛けられる状態では、戦いの盤面は成立すらせずに蹂躙される。

 敗北への轍が徹底的に整備され、正気を手放しても責める者は誰もいない絶望的な状況で、ノーティカ最強の冠を戴いた男は不敵に笑う。

「御託を全部取っ払うと、お前は俺そのものじゃなくて魔力や戦闘能力が欲しい。で、ヒビキはその為の餌。……描いてる世界平和ってのは、随分と美しい代物だな」

「誰かが犠牲にならねば、大義は果たせない。君はそちら側で散るべき存在ではないと思うのだがね」

「手垢塗れの綺麗事をほざくな。それ言う奴が犠牲に回るのを俺は見た事がない」

「君の気高い意思は分かった。だが、この状況をどうやって突破するつもりかな?」

 極めて真っ当だが、一人を捉える為にこれほど入念でピンポイントな仕掛けを用いた狂人が放つ物としては、あまりに凡庸で退屈な問いを、カルスは鼻で笑う。

 折れつつあった膝を戻し、杖代わりに用いていたレヴィアクスを地面から引き抜いて正眼に構える。

 失血と魔力流出に起因する震えを押し止め、何度か深く呼吸して乱れた魔力流を整え、閉じていた瞼が開かれる。すると、攻撃を受ける前より強い光が、そこに宿っていた。

「どうするか? コイツをぶっ壊して、お前を引き摺り出して殺せばいい。安心しろ、両方俺の特技だ」

「君の身体は既に四割を損傷している。大技を使えば命が危うい」

「生死は問わない癖に変な事を言うな。今更死ぬのが怖いだなんてホザくつもりはない。ただ……」

 敵の介入によってだろう、未だ目を覚まさないヒビキに視線を一瞬だけ遣り、カルスは薄く笑う。

「こういうのだろ、父親の仕事って奴は」


 呟いた、カルスの身体が眩い蒼に染まる。


 竜の咆哮に似た地響きが、何処からか生まれる。最高潮へ向かう楽曲の如く巨大化を続ける重低音に身を委ねながら、カルスが指を打ち鳴らして『砲泡水鋸』でヒビキを覆う。

 忌憚なく力を振るえる状況を組み立てた男の足元には、攪拌された水の白。己の腰元まで届き荒れ狂う水を見つめる目に、動揺の色はない。

「勝機無き戦いでそれを使うのか」

「大半の人間が描く人生は愚かで、どうやってそれを彩るかが問題だ。お前が掲げた物を変えないように、俺も変えない。それ以上でも以下でもない」


 膨大な水が、カルスの周囲で爆裂する。


 舞い上がった水は渦を巻き、音速に匹敵する速さで旋回りながら上昇。発動者が握る物体と同じ力を得たように、光壁に斬線を刻む。

 旋回り続ける水に包まれたまま停止するカルスの額に汗。負傷と魔力の流出に加え、敵が支配する空間故に技の組み立てが阻害されている。

 そもそも分の悪い賭けだったが、発動すら叶わず終わる最悪の可能性が浮上し、そこから繋がる悪夢がカルスの脳内で踊り狂う。


 ――いやいやいや、そこを考えるなよ。生き残る事もだ。


 膨大な葛藤と恐怖を、彼自身も呆れる自己最速の思考で切り捨て、構えていたレヴィアクスが僅かに動く。

「終わりにしようか『冥海王浄海濤渦レヴィア・フェルテクス』」


 呟きを掻き消すように、水が吼えた。


 嘗て『覇海鮫メガセラウス』と激戦を繰り広げた、伝承の大海竜『冥海王レヴィアセス』が、魔術による模倣かつ頭部のみと言えど地上に曝け出された。

 流水で形成された大顎が振られ、壁に食らいつく度、亀裂が奔り光の輝度が低下を開始。 

 敵が蹂躙を受け入れる筈もなく、押し返すように修復が成されていくが、勢力はおよそ七対三と言った所で、水塊の進撃が明らかに上回っている。


 理不尽を理不尽で粉砕する。


 ある意味で、上位者同士の殴り合いらしい光景を引き起こしているカルスが咳き込み、口から盛大に赤が毀れる。赤は目や傷からも噴出し、レヴィアクスを掲げる手に痙攣が生まれ始めていた。

 最盛期に生み出し、材料が豊富な海で発動を試みても成功率は著しく低く、幾多の失敗と死を垣間見る羽目になっていた。一線を引いた今、過去より上手くやれる可能性は万に一つもなく、辿り着く場所も既に見えている。

 そもそも、この戦い自体に勝ち筋がない。

 聳え立つ残酷な現実と、内部から身体が崩壊していく感触に苛まれ、全身がひび割れ蒼光が漏出し消えていく。

 ――無駄だって? いやいやそうじゃない。未来を守れるなら、人殺しの兵器の最後にしちゃ上等だろ?

 世界からの冷たい嘲笑を鼻で笑った男は、崩れ行く身体に鞭を入れ跳躍。渦潮に乗って力の発信源と思しき場所まで到達。

 全身を捻り上げ、周囲の全てを己に取り込む。


「『鮫牙閃舞カルスデン・ブレスタ』ッ!」


 ヒト一人の身で到底抱えきれぬ魔力、業物の動きに合わせて男は大海を攪拌する波と化した。

 隔離された空間内を蒼が完膚なきまでに蹂躙し、演者の、そして空間外で取り残されたノーランの視界を覆った。


                   ◆


「やられた。あれをやられたらお終いだ」

「全ての魔力を放出し、我々に奪われる可能性を潰した。見事、としか形容出来ません」

「あれだけの力を『彼女』に取り込めなかったのは痛いけれどね。次に行こう」

「……残滓を集めれば、多少は回収出来るのでは?」

「ヒルベリアだからねぇ。僅かな可能性に賭けて危険を冒すのは良くない目だ。次に向かおう」

「御意に」


                   ◆


 縫い止められたように塞がっていた瞼が持ち上がり、呼応して意識が覚醒する。

 全身を苛む鈍痛を堪え、周囲を見渡すヒビキの眼に映るのは、隕石の落下痕に匹敵する巨大な陥没と、その中心で力なく座り込む養父の姿だった。

「お……」

 眼に蒼を灯し、地面に更なる傷を刻む勢いで駆けだすが、足を取られてヒビキは急斜面を転げ落ちる。

 何度も何度も弾みながら転がり、全身を打ち付ける鈍い痛みと、それとは異なる鋭利な物に突かれる痛みを感じながら落ちるヒビキを、彼がとてもよく知った感触が受け止め――

 それはすぐに失せる。


「おうヒビキ、怪我無いか?」

 

 いつもの声に顔を上げ、いつもの笑顔が視線を受け止める。そして、いつも彼を受け止め、数秒前もそうしてくれた右手が、ヒルベリアなら何処でも見られる埃のように、風に流れて消えて行く。

「おやっさん、それは……」

「英雄には付きものな負傷だ。全然痛くないから安心しろ」

 笑おうと表情筋を動かすと、顔に刻まれた線が蜘蛛の巣のように広がり、微細な埃がヒビキに落ちる。

 現状とここから数歩先にある結末は、敵の狙いを理解したカルスは予想していた物だが、意識を奪われていたヒビキには当然理解も納得も無い。

 問おうとして、しかしそれが多すぎて纏まらず、酸欠の魚のように口を開閉させるヒビキに、カルスの声が飛ぶ。

「ヒビキ、俺はここで終わりみたいだ」

 口を動かすと線が増え、落ちる埃の量もそれに倣う。ただの金属片と化して、持ち主に先んじて消えていくレヴィアクスを見送り、残る左腕を難儀しながらも伸ばし、ヒビキの両頬を摘まむ。

「お前のせいとか思うなよ。それは俺も辛くなるし、そもそも事実じゃないからな」

「……でも」

「最後まで聞け。これから先、お前は多分辛い思いをする。でも人生はお前の物だし、お前にしかない良さを分かってくれる人が、ライラちゃんやフリーダ君以外にもきっと現れる」

 口こそ辛うじて回っているが、既に両足が塵に変わり、蒼の瞳から色が失せ視線が固定出来ていない。

 辿る道を明確に理解したヒビキが縋りつこうとするが、崩壊を加速させるだけと踏み止まった様を見て、カルスは濁っていく思考と縺れる舌を死に物狂いで駆動させる。

「誰もいない道を臆するな。誰かが振り回す定めとやらは捨てろ。お前は幸せになる資格がある。……一緒に過ごした俺が保証する」

「いやだ! いやだ! おいていかないで! ……ひとりに、しないで!」

 大きく見開かれた目。全力で否定を示すように、何度も何度も振られる頭。

 普段なら、何をしてでもそのような表情から変えるべく動いていた光景すら、今のカルスには見えておらず、鍛錬で得た鋭敏な感覚の残滓で感じ取っているに過ぎない。

 崩壊は容赦なく進行し、目の光も完全に失せ輪郭も緩んでいく。内臓は機能停止を通り越し、両足とほぼ同じタイミングで消えている。

 慈悲か嫌がらせか、『魔血人形』の改造でヒビキに納められた魔力の一部が勝手に反応し、彼をここまで生き永らえさせていたが、それも一分もしない内に無くなる。


 伝えたい事は山ほどあるが、どれか一つ言い切る事すら叶わない確信がある。


 だから、カルス・セラリフは最後に極限まで利己的で、シンプルな物を選んだ。

「俺は、お前と過ごせて楽しかった。……ヒビキ、お前はどうだった?」

「ボクは――」

 叫ぼうとしたヒビキの前から、カルスの顔が消えた。

 中途半端に口の開いた間抜けな姿勢で、養父の姿を探す。だが、上下左右どこを見ても、一片の痕跡も見つけられず、無機質な埃が空に消えていく風景しか、彼の前にはなかった。

 押し寄せる現実という津波と、何が引き金となってこれが生じたのか。

 連鎖的に思考が繋がっていき、結論が出た時、ヒビキの内側から音がした。

「あぁ……」

 毀れた音は、発信者の辿り着いた場所を明確に示し、それはマウンテンを通り越してヒルベリア全域に響く。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 荒れ狂う感情の波濤は、ヒビキの喉が潰れ、掻き毟られた頭部共々出血しても尚続く。

 少年が発する慟哭は、壁が失せて全てを見ていたノーランの耳を灼き、音を捉えた、珍事を非常に好むヒルベリアの住民をマウンテンに近づけさせなかった。

 声の形を失って只の空気の振動に変わっても尚、続いた叫びは、やがて唐突に終わる。

「……」

 全身が黒と赤と蒼の汚液に塗れ、意識を手放してマウンテンに倒れたヒビキ。

 本来なら、助けるべきなのだろう。

 理解していながらも、異なる方向の感情で硬直したノーランは、咆哮の停止に伴いやって来た住民によってヒビキが搬送されていく様を、見送る事しか出来なかった。

 昏睡状態に陥ったヒビキは、数週間の時間を経て意識を取り戻した。

 しかし、何があったのかの問いかけについては、まるで記憶を剥奪されたかのように一切の答えを返せなかった。


 彼の欠落は、七年後の今もまだ埋められずにいる。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る