14

「やっ――」


 成し遂げたことに何らかの感情を抱くより先に、大怪鳥の周囲に再び暴風が吹き荒れ、為す術なく転がされた自分の傍らに、ユカリが降って来る事に気づき、ティナは慌てて彼女を受けとめる。

 固く閉じられた瞼がゆっくりと開き、黒い目が周囲を見渡そうと左右に動く様を見て、安堵の溜め息が無意識の内に、ティナの口から漏れる。

「……どう、だった?」

「やりましたよ。二度とやらないで頂きたいですけれど」

「そう――」

 二人を影が覆い、ティナと、肩を貸される形で立ち上がったユカリは後ろに向き直る。当然ではあるが、七色の羽を持つ大怪鳥がそこには鎮座していた。

「まさか、効果や拘束時間について何も知らない者に、エトランゼの特権を利用され、挙句傷を付けられるとはな。……やつがれも、ファルケリアとの戦い以降、戦から離れていた為に、ヒトの執念を忘れつつあったのかもしれぬ」

「……なら!」

「貴様の望み通り、やつがれの羽を授けよう」

 乾いた音と共に、セマルヴェルグの翼が振り下ろされ、そのまま刃としても利用可能な鋭利さを持った、風切羽にあたる部位の羽が闘技場に突き刺さる。

 戦闘の余波で抜け落ちた物とは異なり、生命の鼓動をも感じられる力強い輝きを放つ羽に、ユカリは呆けたように見入る。

 命を賭し、そして一度は投げ捨ててまで欲した物が目の前にある。成し遂げたから当然の事なのだが、彼女の中では今一つ現実味が薄いようだ。


「少し待て、異なる世界からの来訪者よ」


 何はともあれ、目的は達成されたので、極度の疲労によって震える手で羽を掴もうとしたユカリに、セマルヴェルグからの制止の声が飛ぶ。

 何か手順でも踏む必要があるのか、そんな疑問が生まれたユカリに対し、大怪鳥は憂いを帯びた声で告げる。


「貴様にどうしても見せねばならぬ物がある。ファルケリアの娘よ、少し下がれ」


 疑問を顔に浮かべながらも、大怪鳥に従ったティナが後退して二者から離れた事を確認すると、セマルヴェルグの巨大な鶏冠がにわかに輝き始め、ユカリとティナを分かつ光の壁を形成する。

「ちょっ――」

「案ずるな。すぐに終わる」

 球状の空間が形成され、セマルヴェルグと真正面から向かい合う。戦闘時に放たれていた威圧感が消失している為か、不思議と恐怖は薄い。視線と向き合った状態のまま、ユカリは大怪鳥の次の言葉を待った。

「貴様は異なる世界から来た。それは確かだな」

「……はい」

 今更確認されるまでもない。大嶺ゆかりは地下鉄に乗って帰宅する途中、理解が及ばない力によってこの世界にいる。

「貴様達と戦っている中で、やつがれは貴様の世界についての情報を、他のエトランゼとの共有領域を用いて探した」

 慈父の表情が苦悶のそれに、僅かな時間だが確かに歪めた大怪鳥が、天に向かって甲高い咆哮を捧げる。

「すぐに終わる。意識は保っておけ」

 空間内が軋みを上げながら回転を始め、脳を直接掻き回される不快感に崩れ落ちそうになるが、セマルヴェルグの言葉に従って、歯を食い縛って耐える。

 実際の時間にすれば短い、奇妙な空間の動きは停止し、ユカリは自らの身体が浮遊している事に気付くが次の瞬間、眼前に広がっている光景に全ての意識を持って行かれた。

「私の部屋⁉」

 最近メジャーデビューしたばかりの、バンドのサインが入ったアルバムポスター。学生には、いやユカリ自身にもおおよそ価値が分からない、父から送られた絵画が壁にかけられ、妙に機能的な形をした机の上に置かれた、自分と両親が写された家族写真。

 雰囲気だけでほぼ確信に近い物を抱いていたが、この三つが並立して存在している事で全肯定出来る。ここは大嶺ゆかりの部屋であると。

 手を伸ばして触れようとするが、不可視の壁に弾かれる。理屈の説明を求めようと背後を振り向くが、大怪鳥の姿はそこには無い。

「別の世界を見つけ出し、可視化する事は、我々にとっても力の消耗が激しいのだ。問いに終了してから答えよう。今はこの光景をしっかり見ておくのだ」

 不意に部屋の扉が開く。入って来た人物を視認して、目が見開かれる


「お母さん!?」


 母である大嶺和己の登場に対しての驚きは、彼女の変貌によってすぐに上書きされる。

 特段派手でもないが、病弱でもないごく普通の、人の良さがにじみ出ていた顔からは極度の心労が見え、腫れあがった目の下には巨大な隈が刻まれている。

 夢遊病者のような定まらぬ足取りで母は机へと向かい、天板に縋りついて身体を震わせる。表情は見えないが、母が何をしているかについては、考えずとも分かる。

 発すべき言葉が見つからず、無意味に口を開閉するだけの状態にユカリが陥っていると、部屋に新たな人物が登場する。

 自他ともに認める、平凡なサラリーマンの父大嶺草平は、やはり心労に侵され表情を浮かべてはいるものの、和己と比すればしっかりとした足取りで何やら呼びかけていた。

 セマルヴェルグと言えども限界はあるのか、二人の声は聞き取れない。しかし次の瞬間、和己が草平に掴みかかった事で大体の内容は察せられてしまった。

「あ、あぁ……」

 血走った目で父に掴みかかる母。対処のしようがない感情に突き動かされて二人は怒鳴り合いを始める。

 元の世界に居た頃には一度も見た事も無かった光景。平凡極まりないが幸せな家庭が、自分が世界を跨いだ事で崩壊を始めているのだ。


「父さん、母さん。私は生きてるんだよ! だから、だから――!」


 収拾がつかなくなりつつある感情のまま、口を開いたユカリだったが、全てを言い切るより先に空間が崩壊し、元のエル―テ・ピルス山頂に戻される。

 疲労困憊と言った風情で長い息を吐いたセマルヴェルグに対し、涙を流しながらもユカリは問いかける。


「……私に、元の世界の光景を見せた意味は何ですか?」

「世界の時間はそれぞれ独立し、停止する事はない。貴様はあちらの世界では生死不明として扱われている。亡骸が上がっていない事が理由となっているようだが、この意味が分かるな?」

 死体が発見されれば、両親の心には甚大な傷を作る。だが、現実が提示される為に、傷の無意味な拡大は抑えられる。

 生死が不明の状況は、待つ側に無意味な希望を持たせ疲弊させる。永遠に続く拷問に等しい状態を、両親に与え続ける事に直結するのだ。自分よりも早く、両親に最悪の結末が待っていても、不思議ではなくなってしまう。

「帰す方法を知らぬ、やつがれが賢し気に伝える役目を騙る事については、どのような誹りも受け入れよう。だがゆめゆめ忘れるな、貴様がこの世界で果たすべき事をな」

 手掛かりは何も見つからないまま、悪い情報だけが提供される現実に、ユカリの心は暗色で染まる。


「一体何を見たのですか?」


 壁が消失し、駆け寄って来たティナに対して引き攣った笑みを返し、ユカリは立ち上がって大怪鳥に呼びかける。

 焦りで満たされそうになった彼女を立たせたのは、本来ここに来た目的に対しての使命感、そしてこの世界に来て親しくしてくれている者達と情報を共有すれば、少しは心が晴れるのではないか、との希望的観測だった。

「ヒルベリアに転移させてください。……時間がないんです」

「私はこの山の麓に。……ユカリさん、落ち着いてからで良いですから、ウラグブリッツを父に返しに来てください。父は、貸した物を直接返してもらうことに妙な拘りのある人ですから」

「……うん」

 エトランゼが描かれた、ユカリにとっては見慣れつつある『五柱図録』が地面に展開され、ほどなくして二人の身体を黒い紋様が這い回る。

 紋様の意味を問う前に、黒光が空へと立ち昇る。それが消失した時には、二人の姿も山頂から消えていた。

 ごく限定的にだが世界を繋げたことによる疲労を、セマルヴェルグが感じていると、不意に空が陰る。

 見ると、大量の生物がこちらに向けて飛来する絵面を確認できた。

 攻撃の準備を始めたセマルヴェルグだったが


「よーそろー。お久しぶりね、セマルヴェルグ」


 少女の、しかし妙な恐ろしさを感じさせる声を捉えて、動きを止める。

 大量の生物の答えである、竜族、しかも最上位種に当たる飛竜達が続々と上空に終結する壮観な光景に対して、平然とした態度を保ったまま、セマルヴェルグは地上に降下してくる小さな白い影に呼びかける。


「またヒトの姿を取っているのか。しかも以前とは異なっているぞ」

「今時、筋肉ダルマの騎士なんて流行らないでしょ? この姿なら、最低でもヒト族の半分はカモに出来るしね」

「エトランゼたる者……」

「あーはいはい、説教は無しにしましょうっと」


 緊張感の欠落した声と共に、影が地面に降り立つ。

 おおよそ自然から生まれた存在では有り得ない、穢れ一つ感じさせない白い肌と、白く腰元まで届く長い髪。

 完璧な比率で構成された肉体と顔を持つこの少女こそが、エトランゼの一翼にして最強、全ての竜を束ねる存在の『白銀龍』アルベティートなのだ。

 アルベティートが移動を行う時には、必ず他の竜達が追従する。混乱を産む現象を極力防ぐ為に、日頃はサータイ山脈に籠っている存在が移動を行うとは、よほどの事態が起きたと判断し、セマルヴェルグは発言を促す。

「てゅら坊も、全身が闘争本能で支配されてる馬鹿ザメも『時序可逆遡行』による生命の再構成が終わった。中部のムガグ・ヤナール寺院で封じられてる堅物牛鬼も、近々封印を解くそうよ」

「そうか。……やはりその話し方はやはり止めろ。『船頭』を想起させて不愉快だ」

 エトランゼの揃い踏みが、遠くない内に果たされる事に、喜びよりも先に不安が大怪鳥の中に訪れる。

 前二体の生命の再構成は良いとしても、自ら望んで封印の道を選び、混乱の気配を察知するまでは覚醒しないと言い残していた、カラムロックスが自ら封印を解くと意思を察した事が、近頃の変化を感じ取っていたセマルヴェルグの不安を煽るのだ。


「って事はアレですね! ついにクソ雑魚の癖にクソ生意気なクソヒト族に――」

「三下は消えろ」


 沈黙したセマルヴェルグを他所に騒ぎ始めた、飛竜の中でも特別巨大な一頭、先日とある小国を滅ぼした崩城竜ベグザールが、アルベティートの一睨みでおよそ二十メクトルの物言わぬ氷像と化した。

 白銀龍の圧倒的な力を目の当たりにして、竦みあがった他の飛竜を放って、大怪鳥は低く唸る。


「やつがれ達全員が再結集を果たし、『船頭』は異なる世界から強引に異邦人を連れてくる。ヒト族はヒト族で何らかの計略を動かし始めている。……良い予感は何処にも見えぬな」

「二千年前と異なり、ヒト族の多くは動いていない。ごく一部が盤面に上がり手を指している。……運命の外にいる羽虫もいるが、全てを凍結させる訳にはいかん」

「無暗に手を出せば回りまわって、ヒト族への余計な介入となり得る。やつがれ達が戦を行わぬよう行動するとはなかなか難しいな」

「『船頭』は奴を『選ばれし者』と定義したが、何れにせよ無駄な足掻きだ。世界の事象は、その世界の存在によってのみ終わらせる事が正道だ」


 本来の声である、重低音を少女の姿のまま吐いたアルベティートは深く嘆息。仲間とでも形容すべき龍の抱く感情は、セマルヴェルグにも理解出来る。

 一つの世界で起こる事象は、一つの世界の内で完結させるべきであり、またそのように造られている筈。別の世界の者が絡めば確実に事態は混乱を迎える。

 指し手共は、混迷を利用して自らに都合の良い事態へと世界を誘導し、何らかの利を手に入れようとしているのだろう。

 ヒト族との共存が極めて難しい位置にいる、エトランゼが賢し気に調停者を気取るのはズレているとの指摘をする者がいれば、否定は難しい。しかし、別世界の者達が犠牲になる可能性があるのなら、彼らは阻止すべく動く必要がある。

 それこそが、世界の破壊者と調停者の両方を自負するエトランゼの役割。相手が見えずとも、そしてどれほど強大な者であろうと、放棄は存在の否定に直結する。

「カラムロックスが完全覚醒を果たした時、再度まみえよう」

「おおよその指針を定めておいて損はないな。その間に、不覚を取るなよ?」

「『時序可逆遡行』を異邦人に使った、貴様の方が危ういだろう」

 薄い笑みを浮かべてアルベティートは飛竜達に向き直り、竜にだけ通じる声を発する。

 奴隷と主人との形容が適切な勢いで、飛竜達は声に敏速に反応して巨大な翼を利用して高空へと飛翔。瞬く間に山頂から姿を消していく。

 嘗てヒト族が信心深かった頃、世界の終焉の前兆と慄いた光景を、セマルヴェルグは黙したままいつまでも見つめていた。

 

                 ◆


「おいヒビキ、しっかりしろ! ……ファビア、何とかならないのか!?」

「やれることは全てやっている!」

 同時刻、レフラクタ特技工房の一室は小規模な地獄と化していた。

 寝台に寝かされたヒビキの呼吸は、底抜けの愚者が見ても異常であると判断出来るほどに乱れ、塞いだ筈の傷口から黒と紅の液体が止めどなく溢れ出して床にまで達している。

 クレイが『妖癒胎動ファリアス』を用いて各部の損傷を抑え、ファビアが心臓に奔っている傷を抑えにかかるが、ドラケルン人の戦士が齎した傷は、小手先の技を全て嘲笑うようにそれらを拒む。

 ドラケルン人が放つ炎の類は、竜が吐く炎と同様に受けた相手の自然治癒力を格段に低下させる効果があることなど、経験の長い彼らは当然知っていたし、その知識に基づいた治療を行っていた。

 ここに来て突然効果が増大したのは、ヒビキ自身の生命力が急速に失われつつあるせいだと、二人の考えは一致している。

 不意にヒビキが激しく咳き込み、黒い液体が吐き出される。喀血が引き金となったかのように出血が更に増加。二人の表情も死人に近いものへと転じる。

 救いのない方向ににのみ進んでいく事態を前にして、クレイは思わず天を仰ぐ。

 すると、屋根に巨大な亀裂が走る事を視認。嫌な予感を抱き始めるのと同時進行で亀裂は拡大、何らかの物体が落下してくる事が容易に推測出来るまでになった。

「また敵かッ!?」

「冗談でもそんなことを言うなッ! 今来られたらこの子は死ぬ!」

 最悪の予想は、しかし屋根を破壊して表われた存在の姿で否定される。

「ユカリ君か! やったのか!?」

 やはり疲労の色が濃いためか、咄嗟には言葉を返してこなかったユカリだが、手か出血が見えるほど固く握っていた、七色に輝く羽を差し出し、確認した二人の表情が一気に好転する。

「よくやった!」

 クレイが肩を叩くと、ユカリは全身を震わせながら口を開く。

「これでヒビキ君は……」

「愚問だ。貴様が為したからには、私も必ず果たしてみせる」

「そう、よかっ――」

 体力に限界が来ていたのだろう、ユカリは床に崩れ落ちる。寝床に運んでやりたい気持ちは二人にもあったが、今はその時間さえも惜しい。

 巨大な羽を手に取ったクレイは、魔力を流し込んだ右手で羽を一気に捻り上げる。

 すると彼の握った部分の羽が、注視しなければ視認出来ないほどに細い、七色の糸へと転生を果たす。糸を受け取った肉体と実年齢が噛み合わない医者は、縫合針と糸を巧みに駆って、裂傷を瞬く間に塞いでいく。


「糸を紡ぎ終えたら、この子を安全な場所に連れて行ってやれ。……それと、友人二人を連れて来い」

「俺も用済みなのか?」

「糸を紡ぎ終えた後は、全て私の領分だ。お前はムラマサの回収に向かえ」

「了解した。……そういや、この治療代はどうするんだ?」

「ん? この子に払ってもらうに決まっているだろう? お前が払ってくれても私は構わんが」

 今までのしんみりとした雰囲気は何だったんだ。そもそもアンタは金に困ってないだろうが。アンタはヒビキを破産させるつもりか等々。

 全力で問いたくなる返しをしてきたファビアに対し、何も言わずに手を振り、ユカリを抱えたクレイは退室する。

 戯けた返しとは正反対の真剣な表情で、ファビアは傷の縫合を黙々と進める。

 セマルヴェルグの羽は、彼女やクレイがどれだけ手を施してもしつこく開いた傷を易々と縫い止め、そこから生命力を回復させていく。

 それでも傷の量の問題から時間は経過していき、クレイに呼ばれた、それぞれの生活の為の労働を行ってからやってきた二人が、力尽きて眠りについた後も手術は続けられる。

 そして、幾度かの夜を越えた頃――


                 ◆


 長い夢を見ていたような気がした。内容はよく分からないが、途轍もなく懐かしく、そして嫌な夢を。

 暗黒で満たされていた視界に、光が差し込む。ああ、これは自分自身の意思に依るものであり、生きているからなのだと、目を開いた少年、いやヒビキは判断した。

「分かるか?」

「……わか、るよ」

 飛び込んできた声に、言葉を覚えたばかりの幼子のような、たどたどしい返事を返す。久方ぶり過ぎて、上手く身体が機能していないようだ。

 自己分析を下していると、腹に衝撃。一応病人という立ち位置の者に対しての行為としては、最も可能性の低い行為に面食らっていると、下手人、いやファビアと名乗っていた医者が室外に声をかける。

「おい、蘇生したぞ!」

「ホントですか!?」

 ライラとフリーダが部屋に転がるように入って来て、ヒビキの姿を認めるなり、半身だけ起こしたヒビキに前者が飛びついてきた。

「生きてるよ、ヒビキちゃん生きてるんだね!?」

「お、おお。何とかな……」

「みーんな心配してだんだよ!? ユカリちゃんなんか、ヒビキちゃんの傷を塞ぐ為にエル―テ・ピルスまで行ったし――」

「何ッ!?」

 意識を失う直前、見てしまった負傷の度合から推測するに、奇跡に近い術を使う必要がある程の傷を負ったと感じてはいたが、まさかエル―テ・ピルスにまで向かったとは。

 一通り驚いた所で、肝心のユカリの姿が見えない事に気づき、フリーダの方へと視線を向ける。茶髪の友人は、固い表情で行っていた腕組みを解いて、ヒビキに告げる。

「ユカリちゃんなら別室で眠っている。体力と気力が、エル―テ・ピルス探索で限界を越えてたようだからね。命に別状は無いそうだから、その点は安心すると良いよ」

「そうか……」

 安堵の溜め息をつくが、すぐに自分がどうしてこうなり、ユカリが大陸屈指の山脈に挑む必要が生まれたのか、についての元凶が脳に浮かぶ。

「なぁフリーダ。ディアブロの連中に、なんか動きは……」

「あったよ。ほら」

 無造作に投げられた、既に皺塗れにされた手紙の文面に素早く目を通した、ヒビキの顔があっという間に憤怒と闘争心で満たされる。

 結局ディアブロの二人は、諦めたから撤退した訳ではない。泣こうが喚こうが問答無用でユカリを狙って再訪してくる。

 ならば、書く返事は一つだけだ。


「ちょっとヒビキちゃん!? 止めなよ!」


 ライラの制止を無視して、手紙の裏面にただ一言「受ける」とだけ書いて、ヒビキは窓の外へと放り投げる。

 投げられた手紙はくしゃくしゃの状態から、子どもが折る鳥の形に変化し、ロザリスの方角へ消えて行った。

「貴様の身体は完全に修復がなされたが、勝ち目は非常に薄いぞ。本当にやるのか?」

 ヒビキの行動に絶句したライラの代わりに、問うてきたファビアに対し、ヒビキは即答出来ない。

 戦った時、互角の状態だったのはハンナ・アヴェンタドールが多少力を抑えていた時のみで、本気の術技を使われた時は手も足も出ずに倒された。

 恐怖と圧倒的な実力の格差が記憶には確実に刻まれ、下手をすれば戦いの場で手が止まる危険も存在している。

 恐らく、次の戦いは相手は最初から全力で潰しにかかるだろう。そうなった時、立っていられる可能性は極めて低い。負の記憶が残っていれば猶更だ。


「無視してどうにかなるなら俺も受けない。でも、どんな対応をしたってアイツ等はやってくる。俺が逃げることでユカリに危害が加えられるなら、立ち向かう以外の選択肢はないんだ……!」

「そうか」

 ファビアは頷いて一度部屋を辞し、大量の書物を抱えてすぐに戻って来る。

「ディアブロ連中と戦うなら、渡すようにとクレイから預かった。……読んでみろ、使えるかは分からんがな。私はディアブロとの決着がつくまで、あの小娘の看病でもしておく。死ぬなよ?」


 ファビアが再び部屋を出て行った後、フリーダが決意の籠った表情で口を開く。


「僕も一緒に、ディアブロと戦わせてくれないか?」

 唐突な申し出に対し、その意図を推し量るようにヒビキはフリーダを見つめると、茶髪の友人は一言では形容が難しい表情を浮かべて肩を竦める。

「一人じゃ心細いだろ? 僕がクレイさんとかの替わりになるとはとても思えないけれど、友人として一緒に戦わせてもらいたいんだよ」

 ありがたいし、一人よりは間違いなく勝率は向上する。だが、戦いの相手が相手なだけに、フリーダの発言は「一緒に自殺に付き合ってあげるよ」の意でも解釈が出来てしまう。

 自分と違って家族がいるから、止めておいた方が良い。そんな旨の言葉を吐いて説得を試みたが、フリーダの意思は固く、最終的にヒビキは頷かざるを得なかった。

「それなら早速、身体を動かしておこうか。何日後を指定したんだい?」

「四日後」

「遠いようで近いね。先にマウンテンに行ってるよ」

「ああ、すぐに行く」

 足早に去って行ったフリーダを追うべく、ヒビキも寝台から這い出して家へと向かおうとするが、すぐに立ち止まってライラに問いかける。

「ライラ、ユカリは何処にいるんだ?」

「……私の部屋の隣」

「そっか、ありがとな。それと安心しろ、俺もフリーダも、必ず勝って帰る」

 返事が帰って来るよりも先に、ヒビキは踵を返して走り出し、すぐにその姿は見えなくなった。

「どーして命を皆軽んじるかなぁ。アレが若さって奴かな? そうだとしたら私はどうなるんだろ」

 感情を適当に整理しようとして失敗し、ライラは自身にもよくわからない言葉を宙に放り、彼女もまたユカリの眠っている部屋へ向かうべく駆けだした。

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