16:不可視の希望を描くもの

 異次元の闘争が繰り広げられるフィニティス。そこからかなりの距離があるものの、演者と大きく関連する者の拠点たるアガンス。

 マルク・ペレルヴォ・ベイリスとストルニー・バスタルドは、床を覆い隠すまでに積まれた書類に没する形で休息を取っていた。

 異邦人から報せを受けて以降、彼らはそれを活かす手段を議題に延々とやり取りを続けていた。

 アガンスの名士と言えど、民間人の彼には定められた放映予定に割り込み、そして伏せているがアークス上層部にとって「正しくない」映像を流すのは容易ではない。

 疲弊した面持ちで紙の海に沈む一・二メクトルのキノーグ人に、ベイリスが紅茶の杯を差し出す。芳醇な香りで緩んだ空気を、一瞬で重く変える表情を浮かべた氷舞士が口を開く。

「面倒に引き込んですまない」

「あなたの命令なら幾らでも。……近頃の我が国はどうなっているのでしょうね」

「アークスだけではない。他国でも大小を問わない異常が生じている」

 この数か月、正確には異邦人が姿を現す少し前から今に至るまで、各大陸で政変や奇怪な戦闘の報が、頻繁に届いていた。

 期間限定でフリーダを招いた事も、来るかもしれない何かへの備えの一環だが、具体的に何が、までは読めない。

 無力感に苛まれながら、書類の山から無造作に抜き出した写真で、ベイリスの心に更なる暗雲が立ち込める。


 映し出されているのは、金属で構成された少女と形容すべき代物だった。


 上述の時期から各所で目撃情報が出始めたこの代物は、魔術全盛の現代に於いても理不尽と括られる挙動で、大きな破壊を齎すと専らの噂。

 写真の撮影者も、転送した直後殺害されたと伝聞が流れ、実際に撮影したと名乗り出る者は今尚いない。

「単なる武力以外で所員の底上げが必要ですね。マルク、次の一手は?」

「幾つか案はある。ただその前に、一度故郷に戻ろうかと考えている。勿論私だけでなく全員でな」

 故郷とはどちらの事だ。そう問おうとしたストルニーは、壁の地図に盟友が向ける視線で理解する。


 インファリス大陸北部、ロズア諸国連合。


 ベイリスが生まれた小国も吸収した連合は、英雄アリエッタ・リンクヴィストと彼女の武器にして統一の象徴『救済者グレイシア』をヴェネーノに奪われて以降、内外問わず混乱が続いている。

 アリエッタが死した今、一応出身者で高い実力を持つ、ベイリスを新たな象徴に望む一派も確かに存在し、実際何度か接触も図ってきていた。

「私がいた年数は十年弱。血に問題がなくとも、アリエッタ女史の後任が私では多くが納得しない。国の崩壊を私は望まない」

 真っ当な理屈で退け、一度ここを訪れた使者に断りを入れている様を、ストルニーも目撃している。

 何故今なのか、問いに先んじる形でベイリスが口を開く。

「所員から、時折私の故郷を見てみたいと声が上がっていてな。写真の存在が本格的に動く前に願いを叶えたいと思う」

「ルーチェとカルラ辺りでしょう、言い出したのは。雪は見られますが、この辺りで凍土見物は不可能ですし、研修名目で行きますか?」

「予算は私が出す。私の我儘も半ばあるのだから」

「すぐにそう決めるのは……!」

 先日の戦いの後遺症が残るが故の鈍重な、しかし鬼気迫る様子で上司が自身に飛び掛かる様に、ストルニーは硬直してされるがままとなる。


 獣人にベイリスが覆い被さった瞬間、所内を激しい震動が襲う。


 縦横問わず襲い掛かる暴力的な揺れに、外から悲鳴や破砕音が届き、積み上げられた書類や、一定の秩序に基づいて並べられていた調度品が落下し、氷舞士の背を殴りつける。

 永遠にも思える、しかし現実には一分に満たない時間で震動は終息する。

「怪我はないか」

 答える前に、ストルニーの体内通信が起動。

 彼が何か口にするよりも先に、通信相手の友人が一方的に捲し立てる。発する言葉は多数の言語が入り交じり、内容も支離滅裂で殆ど理解出来ない。

 ただ、悪夢のような事実と、通信が終わる間際に零れた「この世の終わりだ」という嘆きだけは聞き取れてしまったストルニーの身体が、無意識の内に震えだす。

「通信の内容は?」

「アトラルカ大陸北端部が切り離され、そこに在った生命が……蒸発した」

「!」

 大陸の一部が切り離される。

 『エトランゼ』級でようやく可能となる異次元の事態が、彼らの顕現無きこの瞬間に成された。

 あり得ない、あってはならない事態を受け沈黙する二人の耳に、室内にある通信機器が一斉に鳴り響く。

 不気味な紅に染まる空の下、アガンスの町は混乱に陥った。


                   ◆

 

 上下左右、縦横無尽に何処までも黒が広がる世界に、不意に黄金の光が射し込む。

 光で露わになった空間にうず高く堆積する、瓦礫の山が勢い良く弾け飛び、顔に刺青を刻む美丈夫が姿を現した。

 美丈夫、いやユアン・シェーファーは、優れた視力で遥か上方に映る、自分達が落ちてきた穴を見つけて顔を顰める。 

「……地上のバカ魔力は何だったんだ。床が割れてなけりゃ死んでたぞ。ってかここ地下迷宮か、面倒くせぇ――っ!」


 苦鳴と共に蹲るユアンの口から、血反吐が吐き出された。


 四天王たる彼の左腕は、攪拌機にかけられたようにズタズタになり、白と桃色の前衛的な物体と化した。腹部には無数の破片が突き刺さって肉が零れ落ち、幾つかの傷口は炭化している。

 内臓機能も著しく低下しており、超高位に立つ彼でなければ、とっくに死んでいる重傷。

 血をばら撒き、足を引き摺って時折瓦礫を蹴り飛ばしながら歩むユアンだったが、不意に立ち止まって、眼前で転がる者に呼びかける。

「俺の勝ちだな」


 瓦礫に埋もれて動けない、ハンナ・アヴェンタドールの姿がそこにあった。


 彼女の負傷はユアンと大差なく、二人を分けた物は運と捉えられる状況。だが、ユアンの淡々とした、喀血混じりの声はその視点を否定する。

「右目が潰れていたお前は、狙い通りフラスニールを振れなかった。これがまず一つ。もう一つ、最大の敗因は……ハンナ、お前俺を助けようとしたろ」

「なん……のことだ?」

「とぼけんな。最後の一撃に限って、お前は全力を出していなかった。あの技は難易度が恐ろしく高くて俺には使えない代物だが、力の強弱程度は読める。同程度の実力で、しかも絶対に勝たなきゃいけない戦いで、『人道的配慮』をしたお前は負けて当然なんだよ」

「私だけが甘い、か。貴方も『人道的配慮』をしたのに、その言い草は酷いな」

「あ?」

 右目を失った他に、痕が残りかねない無惨な傷を刻んだ顔を上げたハンナが、激しく呼吸を乱しながらも微笑み、対するユアンは苦みを表出させる。

「……最後の瞬間、貴方も放出する魔力を緩めていた。私が今生きているのはその為だ。諦めたような口ぶりだが、貴方の心はまだ死んでいない」 

「敗者が偉そうな口利いてんじゃねーよ」

「それも、そう……だな」

 微笑を浮かべたハンナの身体が脱力し、再び瓦礫の中で倒れ伏すが、彼女の持つ魔剣は一切動じず。魔剣の伝承を知るユアンは、大きなため息を零す。

「魔剣的にはまだ価値があるってか。……まあそりゃそうか」

 動かない竜騎士の身体が、四天王の手から発せられた『癒光』に包まれる。

 消耗と負傷により、彼の力量と相手の負傷を鑑みた時、本来必要な時間の半分程度で照射を終え、ユアンは背を向ける。

「目と臓器の修復は最低限終わった。後は医者に頼め。最後から二番目の戦いがお前で良かったと心から思う。『船頭』が取り仕切る世界でまた会おうぜ」 


 一歩踏み出した時、ユアンは両手から発せられる異音に気付いて足を止める。


 握られていた『魔蝕弓ケリュートン』。彼と彼の家族や種族を繋ぐ最後の存在に、無数の線が刻まれていく。

 線の無い地点がヒトの目で捉えられなくなった時、ケリュートンは甲高い音を立てて砕け散り、黄金の欠片に転生する。

 起こった現実を、暫し呆然と眺めていたユアンは、やがて口元だけの不格好な笑みを浮かべて歩き出す。

「一人で死ねってか。まぁ、それもそうだよな」

 

 “誰かの為“ いや、自分の為だ。


 復讐の本質はここに帰結する。

 死者の言葉など存在せず、誰かを殺し続ける唾棄すべき選択は、他ならぬユアンが勝手に選んだ事。

 最低の行いに、付き合うつもりはない。

 過去からの明快な意思表示を受けても尚、ユアンは『竜翼孔』を発動し、内在する誓約を果たすべく地上に向かう。


                 ◆


 どれだけの崩壊ならヒトは生存し、そして立っていられるのか。

 

 一定の層が答を欲するこの問いに、荒野に立つヒビキは身を以て答えていた。

 左腕は愚か、左脇腹や腰の一部まで失い、顔には醜悪な火傷が刻まれ右目と両耳は消し飛んでいる。右足も内部で破壊が起こっているのか、骨が至る所から飛び出し、液状化した肉が地面に垂れていた。

 声が出せないヒビキは、ぎらつく蒼で周囲を見渡し、そして絶望を深める。

 崩壊しつつあったが、一応町の体裁を保っていた筈のフィニティスが消滅し、底が見えない深い亀裂だけが大地に残る光景などあり得ない筈だ。しかし、更なる事実の前にはこれすら安い。

 刻まれた亀裂は南へ、ヒト族の視力の限界よりも先へ長く長く伸びる。

 義眼が零れ落ちそうな程に目を見開き、それを眺めていたヒビキの耳に、重低音が届く。


 インファリスとアトラルカを分かつ海峡。


 当然満ちている海水が二つの尖塔を形成して天へ伸び、そして自重に耐えかねたように崩落してあるべき姿に回帰していく。

 神話級生物の生誕と見紛う光景。それを作り出した男と自分の間に横たわる差を、ヒビキは壊れた身体の隅の隅まで認識する。

「この剣技を受け、今まで生き延びた者はいない。良き戦い……!?」

 血涙を流し、全身から湯気が立ち昇り、刺青から噴き出した血が地面を汚す事に加え、肩を激しく上下させる。消耗が明白な様子ながら、朗々と声を張り上げるヴェネーノの鋼の瞳が、恐らく誰も観測したことのない驚愕で染まる。

「何故生きているッ!?」

「(……俺が知りたいよそんなモン)」

 ヴェネーノが放った『世界ヲ掴ミシ禍ツ唄ワールドイズマイン』の全貌は、真っ向から受けてしまったヒビキも掴めていない。

 一つだけ分かるのは最終的に受けた攻撃は、狂的に力を高めたフランベルジュの斬撃だった事。

 それだけで身体の大半と再生能力をヒビキは破壊され、世界は大きく歪められた。


 どれだけの命が、一人の男によって消えたのか。


 あの技があれば、世界征服とて容易に実現可能だろう。

 残酷な現実を前に、無様極まる喘鳴を溢す他ないヒビキを見つめ、沈黙で混乱を表現するヴェネーノだったが、やがて生命が絶えたこの地に不相応な笑声を発する。

「やはり俺の目に狂いはなかった! ヒビキ・セラリフよ、貴様は俺に相応しい獲物だ! 更なる奇跡を」


 口から炎を吐き出しながら、ヴェネーノはフランベルジュを翻す。


「俺に、見せてみろォッ!!」

 炎を魔剣が絡め取って火竜が生まれ、一直線にヒビキに突進。

 消耗で組み立てが甘くなったか、先刻放った物と比すると遥かに遅い。しかし、身体が崩壊したヒビキには凄まじい脅威。

 辛うじて動く右腕でスピカを構え、左足で跳ねて逃げを打つが、壊れた身体ではそこから先がない。重力に従い落ちるだけの彼の上を取ったヴェネーノが、渾身の突きを放つ。 

 狙いをほんの僅かに逸らしただけで、スピカが戦いから追放され、ヒビキの脇腹を魔剣が穿ち、炭化した肉がボロボロと零れ落ち傷口が炎上する。

 空気の流れの変化で追撃を感知し、唯一残された右腕を引き絞り、相手の胸部に向け激発させる、筈だった。

「……あ゛?」


 爛れた呼気を漏らすヒビキの視界に、蒼の美しい光が散っていた。

 

 敵の力にこんな色はない。では何だ。そして、何故動きを止めた覚えもないのに自分は停止している?

 白々しい現実逃避など無意味。だが、受け入れてしまえば今度こそ終幕が訪れる故に、目を逸らしてしまったのだ。

 ヒビキの義腕の肘から先が、ヴェネーノの牙で微塵に砕かれていた。


 即ち、勝敗は完全に決した。


 叫ぶ。泣く。正気を手放す。

 感情が何らかの形を取る前に、決めの一手となる、フランベルジュの横薙ぎの斬撃が迫る。

 直撃は免れるも、生まれた暴風を躱す手立てはなく、病葉同然に吹き飛んだヒビキは、皮肉にもスピカの柄に腹をめり込ませる形で堕ちた。


 ――駄目だ。俺は、ここで殺される。


 歩行さえ難儀する者と、消耗著しいが未だ戦闘続行が可能な者。彼我のどうしようもない余力の差から描かれる決まり切った未来を幻視し、ヒビキの目の端に涙が滲む。

 全てに於いて上回っている相手に、ここまで粘った事も、結局敗北するのなら何の意味も持たない。

 ――けど、持ってる物全部突っ込んだんだ。他に俺は何を……

 不意に、この逃避行のお陰で随分遠くの物に感じる、ペリダス戦が記憶の海から浮上する。

 あの理不尽な動きなら、ヴェネーノの裏を掻ける可能性はある。実行する方法さえあれば、とっくに彼も使っている。

 だが、その方法が分からない。引き出そうとしても、思考の深い所がそれを拒む。

 皆の前で自虐的に語っていた、これまでの敗北が彼の思考を苛む。

 自分は所詮出来損ないの劣化品。本物には、何をしたって勝てやしない。今まで何を守れた? 答えは単純、自分一人では何も守れはしなかった。

 全てを己の手で掴み取った相手と正反対のゴミ屑が、ヒビキ・セラリフが積み上げてきた現実なのだ。

 自己嫌悪と恐怖と絶望で、ヒビキの全身に暗い物が絡みつき、彼を呑み込もうと蠢く。滲む視界の先では、ヴェネーノがトドメの一撃を放つべく力を整え始めている。

 何処をどう見ても終幕しか見えない、その時だった。


 ――ヒビキ君!

 

 ここで聞こえる筈の無い声に、遅々とした動きで発信源に首を向ける。そこには、奇妙な明滅を繰り返すスピカと、蒼光で形作られた異邦人の少女が立っていた。

 既に死んだ自分が幻覚を見ているのではと疑問を抱きながらも、聴き取りに全精力を籠めると、弱々しいながらも心臓はまだ鼓動を続けている。

 となると、『船頭』の力を内包したユカリのネックレスが、彼女とスピカを繋げたのか。

 努めて深刻さを感じさせないように、しかし状況が悪すぎる為に堅い笑みを浮かべるユカリが、混乱するヒビキの目を見ながら再び言葉を紡ぐ。 

 ――私は今アガンスにいる。もう少しで、押し付けられた物を取り払える。けれど、ヒビキ君が帰って来ないなら何の意味もない。

「アイツに勝つ方法がない。この身体じゃ、スピカを振る事も出来ない」

 ――でも、ヒビキ君は負けたいなんて思ってないでしょう?

「そりゃな。……けどもう詰みだ。どんな屁理屈を捏ねても、誰がどう考えても、アイツを超えられる道理は俺にない――」


 ――馬鹿な事言わないで! 


 久方ぶりに耳にする怒気の籠った声を受け、弾かれたようにヒビキが顔を上げると、声と対称的に目に涙を浮かべたユカリの姿がそこにあった。

 ――世界がどんな風に言っても、どんなに秀でた人が分析をしても、私は何度も守ってくれたヒビキ君が勝つ事を信じていて、再会する事を願ってる。……ヒビキ君は、どうなの?

「そんなこた……」

 発声すらダメージに繋がり、激しく咳き込んで言葉が途切れるも、彼が言おうとした事をユカリは正確に汲み取り、ヒルベリアにいる時と同じ笑みを浮かべる。

 距離があり過ぎる為か、ヴェネーノの魔力が干渉しているのか、単に両者の力の限界なのか、スピカの光が弱まり、ユカリの映像も乱れ始める。

 ――そう思っているなら大丈夫。ヒビキ君なら絶対に勝てる! ……皆で待ってるから、必ず帰って来てね。

 別の言葉も探していたようだが、時間が無い事を悟ったのか、ユカリはシンプルな願いを放つ。ヒビキの耳にそれが届き、そして何らかの答えを返そうとした時、スピカから発せられる光が止み、ユカリは蒼の粒子と化して消えた。

 何度か目を開閉した後、ヒビキはスピカを口に咥え、残された魔力を搔き集めて右足を再生して立ち上がり、狂戦士へ一歩踏み出す。

 超大技を発動したせいか、ヴェネーノは未だ力の集束を継続している。一撃だけなら、攻撃は出来る筈。

 

 脅威が消えた訳でも、ユカリとの会話で急激に実力や体力が上昇した訳でもない。

 

 変わったのはたった一つ。ヒビキの心構えだけだ。

 ――ユカリにもう一度会う為に、足掻く事を決め、ヴェネーノとの対峙を選んだ。それに俺はまだ歩ける。なのに、ここで投げ出してどうすんだ!

 怯えは未だ残る。敗北への不安もまた然り。

 

「使おうと考えるな、死ぬぞ」


 脳内で反響する言葉を放った、ヒビキより遥かに長い人生経験を積んだ存在の指摘は紛うことなく正しい。

 この札を切って勝てるのか。そして切り方が正しいのか、今ここで教えてくれる者は誰もいない。

 けれども、これまでのユカリとの生活や戦いも、誰も教えてくれやしなかった物で、彼は日々をどうにか積み重ねてきた。

 教わらなかった歩き方と感情と共に、人は進むものだ。

 故にヒビキは、奇跡を信じてヴェネーノを打倒すべく前進する。

 亀のように動く足が徐々に加速し、やがて未開放時の疾走と同程度の速度に到達。

「来たか! だが、これで終わりだ。『暴竜勇炎禍剣ヴォルカンテ・ドラグセイバー』!」

 勝利を確信するヴェネーノの咆哮を受けても、ヒビキは動じない。

 風が叩き、傷口が盛大に悲鳴を上げるが、取り合わず更に加速。

 加速に耐えかねて、スピカが口から剥がれて後方へ押し流され――


 そして、蒼雷で形成された左手が異刃をしかと掴む。


 奇跡は左手に留まらない。破壊され尽くした彼の全身が左手と同様に再生し、これまでの負傷の痕跡さえ消滅する。全身から蒼雷を迸らせ疾駆する、ヒビキの顔が激烈な痛みで歪む。

 身体の修復と比例する形で、神経を直接切り刻まれる激痛と、先へ行く事を拒むような高熱が彼を襲い、血晶石製の眼球が軋んで火花が舞い踊る。

 未踏領域への意図的な到達を、身体は止めようとしている事実を受け、脂汗を垂らしながら、ヒビキは笑う。

 ――知ったことかよ。「頭の良い」判断なんざ、世界最強には何の意味もない。ユカリ、フリーダ、ライラ……いや、俺の為にアイツを倒さなきゃいけないんだッ!

「――――ッ!」

 狂気か、希望か、絶望か。

 正解を判別し難い咆哮と共に、スピカを前面に掲げたヒビキの視界が蒼光で染まる。 

 紅炎を全身に纏い、空から突進するヴェネーノの姿を僅かに認識した事を最後に、ヒビキの姿は世界から消えた。


                  ◆


 ヴェネーノ・ディッセリオン・テナリルスは、力に絶対の自信を持っているが、過信していない。

 世界を書き換える威力を持つ『世界ヲ掴ミシ禍ツ唄ワールドイズマイン』は、ヴェネーノに相当な消耗を強い、一度放てば数時間の冷却が必要となる。

 理屈が不明ながら、ヒビキが一応生き延びた段階で、彼は究極の剣技で仕留める考えを頭から捨てた。

 距離の問題で詳細を捉えられなかったが、何らかのやり取りの後、相手が別人のように活力を取り戻し、何やら奥の手を切った事にも気付いていた。

 故に、亜音速の突進斬撃を行う『暴竜勇炎禍剣』を最後の一撃に選択し、ヒビキに何もさせず殺害する事を狙った。

 組み立ては完璧に正しい。奥義に拘泥しなかった事もまた然り。

 

 だが、彼は唯一にして最悪の失策を犯していた。


 蒼光が空中を突進するヴェネーノの目に映った瞬間、蒼き星が彼の身体を貫通。

 通り抜けた蒼星の残滓が消えると同時に、ヴェネーノの右腕は身体と斬り離され、フランベルジュが遥か高空へ追放される。そして、体内を膨大な魔力の刃が切り刻んでいく。

「なるほど。貴様の切り札は、これか……!」

 何かが変わったとは言え、ダメージが大き過ぎる故に切り札が発動出来る筈がない。そして、何の練習もしていないのでは、発動しても決まる訳がない。

 努力と才覚で上に登ってきた彼らしい真っ当な判断。しかし、この瞬間はそれこそが墓穴を掘った。

 致命的な失策と敗北を悟ったヴェネーノは、全身から血を噴出させ、光を失いながらも、清々しい笑みを浮かべて地上へ堕ちて行った。

 

                 ◆

 

 細かな瓦礫を踏み砕きながら、ヒビキは荒野と化したフィニティスを歩む。

 先刻までの爆轟舞う世界は過去に仕舞い込まれ、生温い風だけ流れる平穏な空間を数分歩んだ頃、ヒビキは立ち止まる。

「おめでとう。貴様が勝者だ」

 右腕を失い、悪意の光を放つ刺青によって体を蝕まれているヴェネーノは、地面に転がったまま笑う。

「……それは」

「俺の身体に刻んだ物は、これまで倒した者の魔力だ。当然奴らは俺に憎しみを抱いているが、力で抑えつけていた。が、貴様の一撃を受けた今の俺には、抑える余力はない。……敗者の泣き言は良い。貴様の力は、一体何だったのだ?」


 ゆっくりと首を振る。


 ヒビキ自身も、何が起きたのかまるで理解に至っていない。

 蒼光に呑み込まれ、気付いた時には遥かに離れた所に立ち、ヴェネーノを斬っていた。そう告げると、狂戦士は微笑を浮かべる。

「人類の、いや生物の限界を超え、貴様は光の世界に到達したようだ。俺が闘争に捧げても辿り着けなかった境地に、貴様は何故届いた?」

「……さっき言ったので全部だよ」

「素晴らしい理由だ。俺も、そのような物を持てていれば辿り着けたのかもしれんな。……敗者の無意味なif(もし)だな」

 ヴェネーノの所業はどう足掻いても正当化出来ない。最低最悪の殺戮者だ。

 だが、彼はヒビキが欲する「何者にも遅れを取らぬ圧倒的な力」を、己の鍛錬とその成果で掴み取ってきた、言わば戦う者にとって希望でもあった。

 自分にとって大切な人の為に戦う。

 ただそれだけで足掻く事は、比較してしまえばあまりにも小さい。無意識の内に顔が曇ったヒビキに対し、ヴェネーノは鷹揚に首を振る。

「戦う理由に大小などない。各々が掲げた物は異なる輝きを放つ。勝敗で決まるのは道を繋げるか否かで、正誤ではない。貴様も胸を張って前に進め」

 戦いを全てとしてきた者だけが説得力を持たせられる言葉を受け、首肯したヒビキに対し、ヴェネーノがもう一度呼びかける。

「ヒビキよ、少し近付け。安心しろ、勝者に危害は加えん」

「?」

 一歩踏み出した瞬間、ヒビキの全身を紅の燐光が包む。

 全身を襲う異物感に、反射的に後退しようとするヒビキだったが、ヴェネーノが放つ眼光に気圧されて足が止まり、同時に発光は終息する。

「勝者への供物だ。フランベルジュや他の武器を託しても良かったが、貴様には素晴らしい相棒がいる。加えて俺は、供物と出来る程の金品の持ち合わせはない。よって、肉体に少々手を入れさせて貰った」

「手を入れたって、何したんだ?」

「貴様に存在していた肉体の上限を破壊した。貴様の鍛錬次第だが、ハンナの領域まで確実に届き、運が良ければ俺をも超えられる筈だ。……巨悪が蠢くこの世界で、貴様が定めに背き生き残る事を、切に願っている」


 狂戦士の言葉はそこで終わる。


 定めのように激しく吐血し、長い長い息を吐いて、世界最強に手をかけた男は動かなくなった。


                 ◆


 そして、ヒビキは闇夜を疾走する。

 ヴェネーノを倒す事は、彼個人にとって主題となっていたが、ヒルベリアに辿り着けなければ、何もかもが無に帰すのだ。

 身体の修復はされたが、精神に余裕は一切ない。野生動物を蹴散らし、驚愕する通行人に目もくれず、ヒビキは不眠不休でこの数日間走り続けていた。

 周囲の建造物の少なさから推測するに、現在地はコラトルだろうか。ここまでくれば、ヒルベリアまであと僅かだ。

 ――やっと、やっと戻れるのか。

 無意識の内に、ヒビキは表情を綻ばせる。

 勿論、ザルコとヴェネーノが呼んでいた黒竜からカメラを回収し、我が身に降りかかった濡れ衣を晴らす必要があると理解している。

 それでも、会いたいと願った者に会う事を、まず彼は望んでいた。

 土を噛み、疾走を続けるヒビキの視界の先、ほんの僅かだがヒルベリアが見える。まだかなりの距離があるが、救いが更に近付いた事に彼は足を速め―― 

 そして、彼の真横を黄金の矢が通過して足を止める。

 土煙を齎し、闇に消えていった黄金の矢を呆然と見つめていたヒビキだったが、殺意の再接近を察してスピカを引き抜くなり、この場で聞きたくなかった声の一つが耳に届く。

「いよぅ犯罪者ヒビキ君。悪いが、お前に故郷に戻る権利は無い。大人しくここで死んでくれや」

 人を小馬鹿にしたような美声の主は、ユアン・シェーファーで間違いない。

 彼がいるとは即ち、ハンナ・アヴェンタドールが敗北を喫した事に直結する。ここまでの旅路で重々理解していたが、現実はつくづく残酷な方にしか向かないようだ。

 彼の感情を読み取ったかのように、四天王は声のトーンを少々落として宣告する。

「結構こっちもしんどくてな。お前のやり口に合わせてやれる余裕は無いんだわ。恐怖を感じたくないなら、目を閉じてな」


 再度飛来する黄金の矢を、反射的にスピカで薙ぎ払う。


 精神の疲労が効いているのか、掠めただけで刀身が暴れる。衝撃で身体を傾がせながらも、ヒビキの脳は思考を巡らせる。

 四天王の声には、隠しきれない疲弊がある。だが、現状が示す通りそれはこちらに与しない。

 状況が悪ければ悪い程、ユアンはヒビキに都合の良い射程に現れる愚を犯さず、有利な間合いから延々攻撃を仕掛ける事に徹する。

 視力や聴力といった、感覚器官は相手が圧倒的に上回っている中で、敵が組み上げた予定調和を破壊出来なければ、ここで死体が一つ完成する。

 ――始まりから終わりまで最低だ。……けど、相手が誰だろうと、今更俺のやるこた変わんねぇよッ!

 決意を抱き、ヒビキは黄金の殺意に向けスピカを抜いた。

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