6
夜が明け、また日が昇れば一行の活動は再開が為される。携帯食料による食事と川での簡易な洗体を済ませて、熱帯雨林の奥へと向かう。
そして、この日の一行は大きな変化と直面していた。
「ユカリちゃん! 最後まで手、放したら駄目だよ!」
上から届くライラの声に首肯を返しながら、ゆかりは暗い竪穴を滑り降りて行く。降下するごとに、高温多湿の世界が遠ざかっていくのを感じながら、やがて靴底が硬い感触を捉える。
「っと」
命綱から手を離し地上へ照明弾を打ち上げたゆかりは、先んじて地面に降り立っていたハンヴィーに肩を叩かれる。
「よぅし、地下の探索も気合入れて行こうぜ!」
「煩い」
勢いよく拳を振り上げたハンヴィーに、コルヴァンがすかさず突っ込みを入れる。どこか漫談じみたやり取りにゆかりは苦笑するが、眼前に広がる薄暗い通路に意識を向け緊張を張り直す。
――フリーダ君やライラちゃんを長く待たせる訳にもいかない。出来る限り早く終わらせよう。
二人を地上に残し、三人がここまでの風景とは全く異なる空間へ飛び込んだ。
変化の始まりは、ほんの些細な物だった。
地図を持たないが故、感覚と記憶を頼りに未踏区域を割り出す非効率的な手法を取らざるを得ない一行は、各々の手法で纏わりつく草木を払いながら熱帯雨林を進んでいた。
コルヴァンやハンヴィー曰く季節は乾季。消耗が激しくなる、降雨に遭遇する可能性が低いのは朗報だが、高温多湿の環境は変えられない。
止めどなく流れる汗を拭い、ゆかりもまた鬼灯を振るって低木を打ち払う。手と靴裏に伝わる感触には慣れたが、体力の消費量はそれほど抑えられている訳ではない。
バキバキと耳障りな音を立てながら開かれる道を見て少しだけ湧く、進んでいる実感を支えにゆかりは伐採作業に集中する。余計な事を考えたり、口に出していては予期せぬ負傷に繋がる。故に思考は単一に埋め尽くされる、筈だった。
「顔が赤いけれど、何かあった?」
「何もないよ。うん、全然!」
「そう? 」
クレストを装備した拳で樹木を砕くフリーダの問いを受けたゆかりは、大慌てで首を振る。怪訝な面持ちながらも作業に意識を戻した茶髪の少年を他所に、ゆかりは大きく息を吐く。
昨夜ハンヴィーから受けた言葉が、彼女の集中を大きく乱していた。念の為に補足すると、ヒビキをどう思っているのかについてが大半であり、最後の余計な茶々はあまり関係ない。筈だ。
ヒビキ・セラリフが大切なのは、今更論じるまでもない。問題は「どのような意味で」大切なのか、だ。
家族ではなく、恩人で終わらせられる相手でもない。となると形容の行先は自ずと限られるが、そこでゆかりの思考は混乱して止まってしまう。
――元の世界で色々言われていたのって、こういうことだったんだなぁ……。
他者と繋がっているようで微妙に浮遊している。
元の世界で色葉から受けた指摘が、異世界で突き刺さるとは思いもしなかった。
必要性が薄かったことは、思慮が浅かった言い訳に成り得ない。
この世界に於ける歴史上の存在が絡み始めた以上、残された時間は予想以上に少ないと、彼女も理解している。バディエイグに訪れる切欠となった出来事より、更に悪辣で一瞬で終わりを突きつける事態の発生も、現実的な物と考えるべき状況に進んでいる。
何らかの結論を出すことを、ゆかりは求められている。
――焦ったら間違える。けれども、余裕を持って構えられる訳でも……ッ!
乾いた音を立てて、振り下ろした鬼灯が弾かれる。
脇差は回転しながら明後日の方向へ飛んで行き、前方を向いていたコルヴァンの手に収まり止まる。痺れの残る手と、異なる感触を齎した箇所を交互に見比べるゆかりに、ライラが駆け寄る。
「変な音したね。怪我ない?」
「私は大丈夫。ちょっと変な感触が……」
「ん~? ちょっと見てみよっか」
駆け寄ってきたライラが屈み、鬼灯が捉えた箇所の検分を開始。ゆかりには皆目用途が分からない小さな道具を巧みに繰り、残る三人が集まった時には作業が完了していた。
ライラが掲げた樹脂製の棒に、鈍く光る紅色の金属粉が付着していた。周囲の光景から乖離した物体の正体を、いち早く理解したコルヴァンの目が鋭さを増す。
「血晶石か」
「ですねー。色が薄いんで最近生成された物だと思いますけどね。この辺りに採掘場所とかあるって聴いたことあります?」
「探せばある筈だ、としか言えないな」
「なるほど。だったら……」
方向は異なるが豊富な経験で二人は会話を成立させ、何やら盛り上がっているが、残る三人を置いてけぼりにする領域に到達。手持ち無沙汰な三人の内、ハンヴィーが小さく耳打ちをしてくる。
「血晶石の採掘場所があれば、何か分かるのか?」
「私も漠然としか分からないけれど……血晶石は魔力の強い干渉で精製されるらしいから、何か手掛かりがありそうな場所が近いかもしれない。ぐらいかな」
「へー」
拙い解説に、ハンヴィーは感心したように何度も首を縦に振る。学校に行っていないのかというフリーダの問いに、元気よく「サボっていた」と返す様を見ると、細かい知識は異邦人のゆかりと同等だろう。
ありがたくない事実を噛み締めていると、ライラと言葉を交わしていたバディエイグ軍人が、突如ハングヴィラスを掲げる。
「大丈夫、私が頼んだから」
身構えた三人にライラの制止が飛ぶと同時、掲げられた特異な剣が振り抜かれた。
剣は狙い過たず鬼灯を弾き返した箇所に落ち、粉塵と破片が盛大に舞い上がる。
「ライラック君の言う通り、だな」
「いきなり血晶石の破片が見えたから疑ってみただけですよ。それと、ライラで良いです」
二人は何らかの意図を共有しているが、残る三人はさっぱり理解不能の状況。混乱する中、答えが煙の中から姿を表した。
金属塊と思しき物体はコルヴァンの一撃で消失。それがあった地点に、五十センチメクトル四方の穴が口を開けていた。内部は伺えないが、破片を落とすと音が届き、小さな火を放り込むと消えることなく吸い込まれていった。
「隠し通路かな?」
「恐らく。この島の嘗ての役割を考えると、どこにあっても不思議ではない」
「それじゃ、行くかぁ!」
議論のぎの字もないままに、ハンヴィーの姿が穴に消える。
「意外と低いぞ~! 皆早く来いよ!」
ヒルベリア組三人は一様に顔を見合わせ、コルヴァンは無言で鼻を鳴らす。一人で行くのは無論危険だが、五人全員で行った場合もまた然り。
どのように人員を割り振るのか。長期化しそうな議題の答えを最初に提示したのは、フリーダだった。
「僕とライラがここに残る。コルヴァンさんとユカリちゃんで行けば良いんじゃないかな?」
「俺は構わないが、そう割り振る理由は?」
当然の疑問に、フリーダは肩を竦める。
「この場で一番替えが効かないのはハンヴィーであり、貴方は彼? 彼女? を守る任務がある。そして、ここに来る動機がもっとも強いユカリちゃんは、ありとあらゆる事態を経験して材料を集めなければいけない。となると、僕達二人が残ることが最善じゃないかな」
立て板に水の勢いで為された説明を、非合理的・非現実的な物を極端に嫌う節のあるコルヴァンは黙して受ける。四度目になるハンヴィーの呼び声が下方から響いた頃。
「フリーダ君の意見を採用しよう。……死ぬなよ」
やはり素っ気ない言葉を残し、バディエイグ軍人も穴の奥へ消えた。地下の探索要員に選ばれたゆかりは、残ると決めた二人に小さな首肯を返す。
フリーダの意見は理に適う物であるが為に、コルヴァンも肯定したのだろう。提示された好機を、決して逸してはならない。
ライラが無言で突き出してきた拳に拳を合わせる。鈍く重い感触が全身に浸透する様を感じながらゆかりは穴に飛び込んだ。
◆
「空気に毒素はない! 気合入れて行こうぜ!」
ハンヴィーが拳を突き出し、コルヴァンが無言でハングヴィラスを整えたのを合図に、三人は地下の探索を開始した。
穴の底から伸びる道はヒトが並べる程度は確保されていたが、並んで歩けば急襲を受けた時に武器を振れない。戦闘を考慮して形成された縦列の、最後尾についたゆかりは注意深く周囲に視線を走らせる。
足裏の感触は、時折嵌り込むような泥濘も存在していた地上と百八十度異なり、何処までも一貫して硬い。雰囲気はエルーテ・ピルス内部に近いが、悪意こそあれヒトの介入した痕跡は無かったコーノス山脈最高峰の迷宮とも趣が異なる。
――そっか。アガンスやハレイド、飛行島の一部の階層に近いんだ。
僅かな時間で、記憶から近い物を引き出すが、浮かび上がったのはいずれも自然環境から程遠い人工物が跋扈する場所。無人島にあるべきかと問われれば、否と答えざるを得ない。
予想以上に長く伸びる通路を歩む三人が生み出すのは、靴底が床を叩く音ばかり。
先頭のハンヴィーは、心なしか忙しない挙動で周囲を警戒しており、何処か今までとは様子が異なる。軽口を叩く役回りがいなくなり沈黙が続くのは必然と言えた。
「君は異なる世界から来たと聞いたが、俺には極東人に見える。本当に異邦人なのか?」
「それを言うなら、あなたも純粋なバディエイグ人ではない筈。ベラクスさんに勧誘されたのかもしれませんが、何故乗ったのですか?」
沈黙を打ち破ったコルヴァンは、ゆかりからのカウンターを受け無表情に確かな感情の波が広がる。暫し口を無音で開閉させた後、やがて溜息にも似た音を発する。
「父がバディエイグ人だ。商人だった父はロザリスで母と出会い、そして俺が産まれた。この国について常々語っていて、膨らんだ憧れは大佐の誘いに乗るには十分だった。理由に直せば単純だ」
「意外と普通な理由なんだなぁ。もっとこう、野心とかに満ちたのだと思ってた!」
「始まりは得てして凡庸だ。俺とて例外ではない、それだけの話だ」
「……ベラクスさんの体制は不興を買っていますよね?」
「毒を以て毒を制す。強き者が道理を作る。理屈付けは幾らでもあるが、俺は不満はない。それよりも、俺にとっては君と友人達が不思議な物に映る」
足を止め見下ろしてくる男の目に、今度はゆかりが心を乱す。
何かを察したのか、制止を試みたハンヴィーを押し退ける形で、男の言葉は着地点へ向かう。
「切欠を作った少年は横に置き、そもそも戦闘が生業ではない君も例外としよう。だが、あの二人はどう見ても弱過ぎる。力なき者が舞台に上がれば待つのは死だ」
怒りは生まれなかった。
それ以上に、恐怖と疑問があった。
力無き存在の介入を拒むのは、今まで対峙してきた敵にも多数いた。いずれも常人離れした力と、それに見合う圧倒的な戦果を持つ彼等がそのような結論に至るのはある意味妥当な話。
だが、ここまで見てきた物で判断する限り、コルヴァン・エラビトンは、かなり腕の立つ軍人に留まっている。つまり、人外共の領域に至っていない筈だ。にも関わらず、何故ここまで冷酷な論理を掲げているのか。
反論、疑問の提示、果ては理屈を放り投げた大暴れ。
「おい、そこまで言うこた無いだろ! 皆お前みたいに割り切れる訳じゃないんだぞ!」
「……甘い理屈で生きているお前に、俺の論理を否定する権利はない」
正解がまるで読めない色の光を灯し、暴論を叩きつけたコルヴァンが、話は終わりだとばかりに歩みを再開する。
「……あんな奴の言うこと、気にしなくて良いからな! 理由は皆それぞれ! 誰かにゴチャゴチャ言われる筋合いはないんだよ!」
唖然としていたハンヴィーが先んじて我に返り、ゆかりの肩を叩く。だが、励ましを頭から受け入れる事は出来なかった。
振りかざすことに違和感はあり、暴論ではあるものの、コルヴァンの指摘は一定程度刺さる物だった。本来「いるべきでない」自分が余計なことに首を突っ込み、友人達を危険に晒している事実は確かだ。
旗振り役が核を持たず、迷いに囚われれば集団は崩壊もしくは壊滅への一途を辿るのは、元の世界の歴史でも多々あった話。不吉な予兆を振り払いたいが、そうするだけの材料が、今のゆかりにはなかった。
重さが一段と増した沈黙を連れ、三人は前進を続ける。途中何度か出くわした分岐点の調査も入念に行ったが、さしたる成果はないまま時間は進む。
様々な物を浪費するだけの、不快な状況への忍耐力が枯渇し始めた頃、不意に沈黙が終わりを告げた。
突き当たりと思しき空間に踏み込むなり、ゆかりの目が反射的に眇められる。
地上からの光が天井に刻まれた穴から降り注ぎ、通路とはまるで異なる空気を齎していた。光で暴かれた空間は石畳で整備され、壁に刻まれた紋様は侵入者の、即ちゆかりの思考を加速させる。
――「二頭の蛇」か。
「礼拝施設か? 大戦以前の技術は使われていないようだが、凄まじいな」
採光用の穴には無数の色を組み合わせた硝子が張られ、空間に齎す色を少しずつ変える。光が直接降り立つ地点には時折空や地上の風景が不規則に映り、見る者を幻想に誘う。そして、光に照らされた床も息をするように刻まれた紋様を変化させ、観劇者を決して飽きさせない変化を繰り返していた。
絶賛有事の只中であることを忘れさせる空間に、しばし心を奪われていたゆかり。
似た感情を抱いたのか、ハンヴィーも壁に刻まれた紋様や硝子窓に忙しなく視線を行き交わせ、記憶から何かを発掘せんとしているのか、腕を組んで唸る。
「……なんってか、こう、違う? いや、でも」
意味を為さない音が、前触れもなく途切れた。
「ハン……」
「待て、様子がおかしい」
突如崩れ落ちたハンヴィー。彼を助け起こそうとしたゆかりに太い腕が伸び、前進を強制的に止められる。
何故? 問う前に、ゆかりの視界に新たな彩が差し込まれる。
虹をも上回る彩を持つ光が、数秒前までハンヴィーが目を向けていた紋様から生まれていた。極光の如く揺れる光は、しかし確かな意思を持つかのように少年へ吸い込まれていく。
意識を手放したまま、ハンヴィーは後一歩で死人に転じる者が見せる痙攣を繰り返す。彼の意思、状況を無視して生じる現象を肯定的に考える事は無理がある。
こんなところで、同道した人を死なせてたまるか。
感情に蹴り出され、制止を振り切ってゆかりが駆け出した刹那、光が忽然と止んだ。始まりと同様、前兆なき変化に硬直を余儀なくされた二人の前で、ハンヴィーが蠢く。
安堵の息は、関節可動域を完全に無視した挙動で立ち上がる光景に呑み込まれる。明らかにおかしいが、正解は分からない。混乱するゆかりを他所に、時間と事態は無慈悲に進み、やがて急展開を叩き付ける。
遅々とした動きで少年が振り返る。
「あハっ♪」
全身の刺青に奇妙な光を、美しい顔に淫猥な笑みを浮かべて。
蛇の威嚇音を引き連れ、コルヴァンが始動。重装備を物ともしない急加速で必中の間合いに滑り込み、背負ったハングヴィラスの柄をしかと掴む。
「暴走するなら仕方がない、死ね」
仕方ない、以上の感情が垣間見える簡潔な台詞。そして鉄風。
数メクトル離れたゆかりの足を掬う風を纏い、異形の剣が振るわれる。完全な不意打ちかつ、馬鹿げた勢いで放たれた斬撃は、ハンヴィーの首を正確に狙う。
ゴッ、と鈍い音。そして舌打ち。
生物の頭骨を模した両手剣は空を切り、壁の装飾を削るに留まる。ハングヴィラスを跳ね上げ周囲を見渡すが、コルヴァンの視界にハンヴィーはいない。
少し離れた地点にいたが故、辛うじてハンヴィーの位置に気付けたゆかりは、驚愕と共に声を絞り出す。
「上です!」
「……!」
吸盤でもあるのか、天井に手足を貼り付けてハンヴィーは嗤っていた。完全に後手を取られた状態から回避した反応速度。何の予備動作もない状態から五メクトル以上跳ねた身体のバネ。自由落下をしながらも、コルヴァンが放つ『牽火球』を回避する不可解な挙動。
理不尽をヒトに詰め込んだ少年は、ヴァイアーを片側のみ展開。掲げられたハングヴィラスと激突。
単なる腕力勝負なら分があると読み、前進を選んだコルヴァンだったが、息をするように形状を変えたヴァイアーに刃を流される。
「ちィッ!」
背を晒した男は、腕だけで強引にハングヴィラスを振り回す。当たらないと重々承知の仕掛けで懐に入られる事を防ぎ、体勢の立て直しを図る。
武器の性能と筋力が合わされば、崩れた体勢からの一撃でもヒトの首は飛ぶ。窮地に立ちながらも下した選択を受け、ハンヴィーは二人の予想を大きく裏切る道を選んだ。
「あっはぁ!」
嬌声を上げ、ハンヴィーが更に前進。旋り続けるハングヴィラスに猛然と突進し、跳躍へ繋ぐ。狙いを察した軍人が剣を引くも、ハンヴィーの右手が刀身に触れる方が速かった。
極彩色の光がハングヴィラスを染めた刹那、男の右腕が地面に落ちる。
「何が……」
持ち主よりも重い物体の落下で生じる、震動と音に弄されながら、急展開に起因する硬直を解かれたゆかりはコルヴァンに駆け寄る。
軍人の目は闘争心に満ち、身体に特段の異常も見受けられない。地面に括り付けられたかのように硬直する右腕は、何らかの作為によって描き出されているのは明白だろう。手を離せと目で訴えたゆかりだが、彼の返答は否。
「手が動かない。感覚が、消えている」
「そん……!」
皆まで言わせず、ゆかりの身体に衝撃。突き飛ばされたと理解に至った時、ハンヴィーの右手がコルヴァンの胴に触れる。
そして、屈強な男が無音で倒れ伏した。
「ひゃっほぅ!」
「――っ!」
実に軽い叫びを上げながら放たれた回し蹴りを転がって回避。土を払い立ち上がったゆかりは、ハンヴィーと彼の先にいる男に視線を戻す。命に別状はなさそうだが、立ち上がる気配もない。
ここまでの探索で、彼の頑健さはゆかりも散々目撃している。触れられただけで行動不能に陥るなどあり得ない。
――そうだ、力の根源が蛇。……だったら!
フラヴィオやハンヴィーの言葉が急浮上した結果、シンプルな着地を果たしたゆかりの思考は、闘争を描き出す方向に切り替わる。
長期的な視点では見れば、ヒビキやフリーダのように、相手の力の底を把握するまであしらいながら戦う事が最良。
だが、推測通りなら長時間の戦闘はコルヴァンの命に関わる上、続ければ続けるだけ、ゆかりに勝ちの目は消える。彼我の力量差には、非常に大きな隔たりがあるのだ。
「……短期決戦、しかないか」
乾いた銃声が玄室に響く。
残響を引き裂き飛来する拳に拳を合わせ、骨が打ち合う鈍い痛みが走る。『怪鬼乃鎧』で肉体を強化しても、絶対的な力量の低さは埋まらない。左腕全体が一瞬麻痺するが、敵から瞬の停滞を引き出した。
鬼灯を出鱈目に引き抜いて斬りつける。笑顔を浮かべたまま、しかし明らかな動揺を見せて頭部を引いたハンヴィーから数本の黒髪が切断され、背後の壁に不可視の斬撃が突き立つ。
手本の技から格段に劣るが、辛うじて狙い通りの仕掛けは決まった。希望を見たゆかりだったが、敵が描き出す光景を前に目を剥く。
衝撃波で砕かれ舞い上がった破片。ヒトが足場とするには卑小に過ぎる物体をハンヴィーは足場に変え、ゆかりとの距離を即座に詰めていく。
上下左右を自在に入れ替える、無軌道な動きを読み取れずに硬直するゆかりを他所に、ハンヴィーが彼女の頭上に到達。黒の弾丸と化して、狙い通りの位置へ落ちる。
ゆかり自身ではなく、ゆかりの傍らの床に。
十の剣から二の槍に転じたヴァイアーが、歴史的価値を持つ床を無慈悲に砕く。先程の意趣返しとばかりに舞い上がった塵芥が目を、轟音が耳を。そして衝撃が彼女の全身を聾する。
身体を直接狙われたのなら、万が一は有り得た。地面を砕かれ、震動で動きを潰されたゆかりに成す術はない。
急速接近したハンヴィーの顔。首筋に痛み。咬まれたと気付くと同時、全身が脱力して床に落ちる。
「――かッ!」
美しい褐色の指が首に吸い込まれ、ゆかりは首の骨が軋む音を内側から聞いた。
膂力こそあまり強くないが、視界と意識は確実に乱れている。毒の作用か体温は急速に上昇、心音は加速する。
口の端から唾液を垂らし、事を進めるハンヴィーは先刻と変わらない。殺人よりも性交の直前に近い蕩けた顔で、ゆかりを殺害せんと確実に力を籠めて行く。
抵抗虚しく彼女は表情を青く染め、身体の痙攣も小さくなっていく。視界は白濁し、口からは切れ切れの息が漏れるばかり。
敵ではなく味方に、訳も分からないまま殺されるのは流石に予想外だった。己の想像力と戦闘力の欠如を呪いながら、ゆかりは思考を手放す。
転瞬、彼女の首元から紅の閃光が迸った。
玄室を単一に染め上げた光はゆかりを強引に再覚醒へ導く。そして、彼女の殺害を遂行せんとしていたハンヴィーから力を奪い取り、無言のまま床に伏せさせた。
「あ……うん、生きてる、よね?」
毒が抜けたことを確かめるように声を発しながら立ち上がる。床に転がるハンヴィーに、先刻までの殺意はない。それどころか、ここが寝室であるかのように呑気な寝息を立てる始末。
訳が分からないままだが、ひとまず嵐は去った。
安堵の溜息を吐き、ゆかりはハンヴィーを背負う。玄室に同行していたコルヴァンに呼びかけようとした時、巨剣の切っ先を自身に向ける男の姿を目撃する。
「ハンヴィーを降ろせ。ここで斬る」
端的な言葉に威嚇や脅迫の成分は無い。抱いている何らかのわだかまりの類を一切排し、純粋な危険因子の排除の為に、ハンヴィーを殺害すると告げていた。
ゆかりは指示を拒み、ハンヴィーを背負ったまま後退する。微量の不快感を表出させた男の腕に力が籠り、彼女の背を汗が伝う。
「君も体験しただろう。抱える力を、そいつ自身も御しきれない。今回のように運が味方し続けると期待するのは愚かだ」
「何も分からないなら、この事態がハンヴィーの意思に依らない可能性もある。戦力が減る……いえ、最初に声をかけてくれた人を曖昧な理由で殺したくありません」
「温い理屈だ。君達と最初に交流した現地人? そのような肩書は只の偶然で作られた物。君達に与し続ける証明になりはしない。多少戦力が減じようと、牙を剥きかねない危険因子を抱えるより良い」
コルヴァンの指摘は豊富な経験に裏打ちされ、筋も通った物だ。
ハンヴィーとの出会いは偶然に過ぎず、幾ら腕が立つと言っても、先刻の事態が再現されれば、状況次第では全滅が現実的な未来図になる。
彼の養父から依頼された『止めてくれ』という単語には、最悪のオプションとして殺害も含まれている。変貌の事実を掲げれば、感謝こそされても恨みを買うことはないだろう。
決して無駄な行為ではなく、万事を上手く運ぶ現実的な手段だ。そして、既に命を踏み躙った経験を持つゆかりに、人道で相手の主張を否定する権利は失われている。
あるのは自己完結した手前勝手な論理だけ。しかし、今はそれを貫徹すべきだと、彼女は内側で決を下した。
「確定していないままの決着を私は許容しない。あなたの主張を通したいなら、まずは私を斬って下さい。どれだけ下賤な身でも客人の私と、国民に信仰されているハンヴィーを殺したあなたに、ひいてはベラクスさんの身に何が起こるのか。想像を膨らませてから、ね」
現実的な可能性も少々含有されているが、大筋は姑息な暴論に過ぎない。
二人を、もしくは地上で待つライラとフリーダも纏めて殺害しても、本土に戻り『野獣の襲撃を受けて死亡した』と報告すれば話は終わる。多少疑いを抱かれても、彼我の信頼の差を鑑みれば追及はすぐに終わるだろう。
ベラクスの人となりは不明瞭なままだが、優秀な戦力と異邦人、後者に与した厄介な信仰対象のどれを最も信頼しているか。良い賭けではないのは確かだ。
眼前の男が苛立ちと共に腕を一振りすれば、命は消える。
無言の睨み合いを展開する中、即物的な殺し合いと別種の恐怖がゆかりを蝕む。緩慢だが殺意に満ちた沈黙は、端役ながら命のやり取りに何度身を投じても慣れることはない。
泥沼の根気比べに突入する危機感を抱き、ゆかりが鬼灯を静かに構えた頃。長身の男はハングヴィラスを納めた。
「真実を見届けてからでも遅くはない。だが覚悟はしておけ。君の人道的な判断は平時では通用するだろうが、戦場では通用しない」
「……百も承知です」
両者の間で火花が散るが、それもまた一瞬の出来事。
本来の目的を果たすべく、二人は淡々と地下空間の探索を行う。何もないと結論を下すなり、さっさと地上に戻って二人と合流し、野営の準備を始めた。
日が沈み、本日の見張りフリーダ以外が寝静まった頃。
何もないと判じられた玄室。無粋な侵入者に踏み荒らされた空間は静謐を取り戻していた。
変わらぬ時間がただ流れるだけとなった空間に、前兆なく光が走る。厖大な魔力を宿した燐光が床の紋様に堕ち、有機的な脈動が繰り返される。
沈黙の中で彩が踊る時間が流れた果てに、光は忽然と消え失せた。只の自然現象と解するにはあまりに不気味な変化。
「器が遂に」
性別・年齢共に不明瞭な、激しく罅割れた声が空間に挿し込まれる。聴衆は当然不在だが、それは寧ろ幸運だろう。
前述の要素に加え、声はヒトの放つ物と微妙に異なる狂いと、道理から外れた感情の発露が確かに有していた。
無理に形容するなら飢えや狂喜、愛憎といった物が滲む声は、何度も同じ言葉を繰り返し、その度に玄室は小さく震動する。
「始祖を、頂点を気取る余所者に穢された地が、遂に戻る」
「我等の意思を引き継ぐ者によって」
「善き意思を持つ者によって」
「我等の世界に回帰する」
二種の声が織り成すやり取りは、その者達だけで完結した、何処までも独善的な形で綴られ、始まりと同じく唐突に消えた。
「創造の先を成し、世界は再醒する」
何処までも不吉な音を残して。
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