7

 北部アメイアント大陸の東、インファリス大陸へ接続する西部大公海に程近いエスクト州リルファ。

 コルデック合衆国に位置する当地を空から見ると、延々と広がる緑を切り裂く形で巨大な灰色の四角を視認出来る。灰色の四角を描く混凝土舗装の平原の端に、水無月商会の本拠地が在る。

 日ノ本を追放されアメイアント大陸に流れ着いた、水無月桂孔が興した機械整備工場は拡大を続け、現在では食料品の製造販売から自動車競技チームの運営まで手広く行う規模にまで成長を遂げた。

 そんな水無月商会の内部では、老若男女人種問わず様々な人々が行き交い、言葉や書類をぶつけ合う。忙しなく人が動き回る建物の最奥部に、数千人の頂点に立つ男がいる。

 書類と電子演算器に挟まれ、机に両足をだらしなく投げ出して。

「行儀が悪い。部下の手本になるように振る舞え」

「来客もないし、仕事も片付けている。文句無いだろ」

「他者の目が無い時の振る舞いが、頭目にとって――」

「それ以上は良いって。次、何があるんだ?」

 水無月商会二代目、水無月蓮華は煩げに手を振り賀上頼三の言葉を遮る。未知との邂逅を目指して世界中を飛び回る『水無月怪戦団』の団長以前に、商会の頭目という肩書を持つ彼は、飛行島での一件以降そちらの役割に徹していた。

 隙あらば次の目的地に向かい、戻るのは補給目的のみ。そんな生活が定着していた彼が、この場所で仕事をこなしている。

 団員を多数失い装備の大半が損壊したことを、他の団員は理由と見ていた。それも正解の一つだが、先代と彼の両方を知る老戦士、賀上頼三とここにいない忍の末裔たる少女は、蓮華が目標を失ったが為に停滞していると察していた。

 生まれも育ちも北部アメイアントで、日ノ本に降り立ったのは成人してから。それでも父の背を見て育った蓮華は、物心付いた頃から政変で手放さざるを得なかった御三家の名誉と地位の回復を生涯の目標に掲げていた。

 金も人も、そしてそれらを引き付ける看板も手にした蓮華は、最後のピースをシグナ・シンギュラリティの遺産に求めた。世界の大半を救った英雄の武器を手にすれば、未踏の力と有象無象とは格の違う説得力を得られる。

 打算に基づいた選択は、部外者を巻き込んだ挙句に怪物との出会いを齎し、多大な喪失を引き寄せる結果に終わった。

 異邦の少女には明るく振る舞っていた。しかし、渇望し続けていた物や仲間を失った痛みは容易に拭えない。

 父や同じ御三家の末裔、ティナ・黄泉討・ファルケリア程の才覚を持たず、既に三十歳の彼が一流の壁を越え、飛行島で対峙した怪物の領域に辿り着く事は未来永劫ない。

 引き継いで十年弱で、商会を大きく発展させた事実を見れば、彼の適性がそちらにあるのは誰の目にも明らか。水無月怪戦団の解体と本業への専念を望む者は、決して少なくない。 

 嘗ての保護者役。会社を預かる男の補佐官。

 どの仮面を被っても、言うべき台詞は一つと老戦士は分かっている。前者の側面が強く出てしまい、きちんとした形で切り出せていないのが実情なのだが。

 打鍵音と紙が擦れる音。室内が二つの音に支配される時間が続いた末、不意に蓮華が立ち上がる。

「何処に行く?」

「釣り。大体終わったから、細かい処理は頼む」

「……おい」

 敵性生物すら臆させる頼三の制止を無視して、蓮華の姿は窓から消える。十秒弱で発動車の起動音が生まれ、遠ざかっていく。

 水無月商会の本拠地から、西大公海に面するクライス湾までは発動車で二十分程。食用に著しく不適な種ばかり釣れる点を除けば、悪くない息抜きと言える。

 蓮華の背にのしかかる迷いを幻視していなければ、そこで終われたのだが。

 ――我々ではどうしようもない、か。

 年齢不相応に屈強な肉体の男は、長い溜息を吐いた。

 彼の感情に呼応するかのように、部屋に設けられた映像機器が、水無月商会が運営する自動車競技チームのクラッシュを映し出す。無言のまま、頼三は通信機器を懐からひねり出す。

「……ドライバーの安否と残骸の回収と検証、報告を頼む」


 保護者代わりの男が抱く懸念とは他所に、蓮華はクライス湾に到着。そのまま海へ身を投げる訳でもなく、硬い地面に腰を降ろして釣り糸を垂らしていた。

 暗い青へ続く糸のゆらめきを眺めながら、蓮華は自らを取り巻く状況について整理していく。

 飛行島で団員を六人失った挙句、シグナの遺産は行方知れず。使い手となった最悪の敵、ラフェイアは塵も残さず消えたが、遺産の消失を見届けた訳ではない。

 もう少し損害が軽微だったなら。例えば団員が全員生きていたのなら、シグナの遺産が健在である可能性に賭けて動いたかもしれない。

 世界の敵と称されるラフェイアとの激突を。彼女の領域に挑もうとする少年少女を目撃した上での喪失は、彼から無謀な思考を根こそぎ奪い去ってしまった。

 表面上はそれなりに回しているが、只の腑抜けに成り下がっている自覚はある。惰性で組み上げた「それなり」の崩壊は非常に速い事例は枚挙に暇がない。

 心の停滞を映し出すかのように変化が無く、只々静かな海を蓮華は茫と見つめる。

「どうしたもんだかね」

「心の赴くまま……で、良いのではないでしょうか?」

 水面が割れ、生まれた白から黒が飛び出す。

 黒髪を後ろで束ねた忍びの末裔、加藤千歳が立ち泳ぎの状態で手を振ってくる。その様を見て、蓮華は噴き出した。

「どうして笑うんですか!? 私、おかしいこと言ってませんよ……ね……?」

 言葉が最後まで続かず尻切れ蜻蛉状態の少女は、彼が組織に引き入れた時と同じ姿だ。けれども、何らかの意思を他者へ示すことは皆無に等しかった。

 最悪の旅路での出会いは、彼女に変化をもたらした。否、ただ出会ったからではない。加藤千歳の内側に変化を望む意思があり、それを伏せなかったが為に変化は生じたのだ。

 小さく息を吐き、表情を緩める。

「おかしくない。寧ろ正解だ」

「本当ですか!?」

「けど、その格好はどうにかした方が良いんじゃないか? 女の子がサラシだけで海に入るのはちょっとアレだぞ」

 歓喜の色を見せた千歳が朱に染まり、自身の身体を抱える体勢に移行し、そしてバランスを失して沈む。彼女の装いは陸上でも用いる胸部等を覆う防具の上から、黒のサラシを巻いただけ。派手に動けば大惨事は免れないだろう。 

 小柄な十五歳と言えど、鍛錬を積んだ彼女の心肺機能は常人を遥かに凌駕する。とは言え、無限に潜れる訳でもない。

 そろそろ引き上げようかと蓮華が考え始めた頃、今度は静かに水面が割れた。

「……だって、アメイアント大陸の水着ってどれも体型が合わないんです」

「あぁ~なるほど」

 同じヒュマでも、日ノ本人とアメイアント大陸人では骨格や筋肉量が異なる。身長や体重が合致しやすい頼三でも、服を特注で揃えている。身長一・五メクトル丁度の千歳では、実年齢よりも低い子供向けの物しかないだろう。

 ――それに、仮に身長とかが合致しても千歳の場合……これ以上は止めとくか。

 思考は打ち切ったが、目は固定されたまま動かない。同年代の少年と何ら変わらない、千歳の平坦な部分をじっと見ていた蓮華は、何かを悟ったように頷いた。

「何処見てるんですか!?」

「いや、言わない方が良いだろ。邪魔は少ない方が良いだろ。千歳は忍者だし」

「その言葉で分かりますからね!? わ、私だって、将来は逢祢さんみたいに……」

「人の夢と書いて儚いって読むんだぞ」

「うにゃー!」

 何処から取り出したのか、顔を真っ赤にした千歳は無数の手裏剣を投擲。弩の速射をも上回る速力で迫る刃の雨を、首の傾きだけで蓮華は躱す。

 超一流に届かないと評される彼だが、それでも大半の戦士から仰ぎ見られる所に立つ力を持っている。間抜けな光景でその片鱗を示すが、当然仕掛けている千歳にとっては面白くもなんともない。

「一つぐらい当たってください!」

「……この手裏剣、いつも使ってる奴だよな?」

 頬を膨らませた少女の首が縦に振られ、蓮華の顔が戯画的に引き攣る。

 懐に携行可能な大きさ故、手裏剣単体で命を奪うことは非常に難しい。よって、小さな傷で相手を致命傷に至らしめる為に毒が塗布される。用いる毒の種類は使い手次第だが、千歳の場合はトリカブトの毒を基盤にした物を塗布しており、その効果はボブルスを自壊に至らせる激烈なものだ。


 ヒト属に過ぎない蓮華の場合、肌に掠めただけで即死する。


「団長に切り札を使う奴がいるか!」

「いらないこと言うからでしょう!? ……腹が立ってきました! こうなったら私の秘術を!」

「こんなところで使うな阿呆!」

 間抜けなやり取りは過熱し、蓮華も水彩を抜くべきかと物騒な選択肢が浮上し始める。

 無数の手裏剣が舞い踊り、制止すべく男が柄に手を掛けた時。存在を忘れかけていた釣り竿が、突如折れ曲がった。

 激烈な変化を目撃し、蓮華はやり取りを中断して引き上げにかかるが、逆に海へ引き込まれていく。咄嗟に『怪鬼乃鎧』を発動。筋力を増強して踏み止まる。

 ――西大公海に、こんなバカみたいなのいたっけ、なぁ!?

 海竜や超巨大魚辺りならあり得るが、クライス湾にその手の生物が出現した報はここ数か月間無い。ないからこそ、息抜きに釣りを選んだのだが、予想外に突き当たったようだ。

 抵抗虚しく、蓮華の靴底が僅かに前進。一度弾みが付けばもう止まらない。後は海へ真っ逆さまに落ちるだけだ。

「諦めないでくだ……さい!」

 妙に潔く色々と覚悟を決めてしまった男の身体が大きく揺れる。腹部の圧迫感は、無数に巻き付けられた『鋼縛糸カリューシ』に依る物。仕掛け人は、いつの間にか陸上に上がっていた千歳だ。

 水が滴る十指から伸びる『鋼縛糸』の五本が彼女と地面を縫い止め、残る五本が蓮華に巻き付いて彼の転落を食い止めていた。部下の意図を瞬時に解し、腹の中で感謝の言葉を投げつつ蓮華は全身に力を籠める。

「一発で決めるぞ。良いな!?」

「もちろん!」

「……!」

 千歳の返事を合図に、全力で竿を引く。

 破砕音を響かせながら、釣り竿の先端が跳ね上がる。太陽を一瞬だけ隠した後、引っ掛かった獲物は湿った音を発して港に堕ちる。

 獲物の姿を認めるなり、二人は息を呑んだ。

「……ヒト、ですよね」

「どこからどう見ても、な」

 疑問と恐怖を誤魔化す為か、蓮華から唸りに近い音が発せられた。

 背に屹立する、竜の意匠が施された白銀の両手剣こそ誇り高く輝いている。だが、同じ色を有していたであろう長髪は乱れ放題で四肢に絡み付いている。海棲生物に食い千切られたのか、左腕や乳房の一部が出鱈目に失われ、海の匂いと腐敗に起因する物が混じり合い吐き気を催す異臭を放つ。

 本来は整っていたであろう顔の、右目が有る筈の部分はヒトと獣に掘削された痕跡が刻まれ、無惨な空洞を晒していた。

 モノに成り果てたも同然のヒトに対し、二人は暫し何も言えなかった。

 戦いで斃れた死体なら幾らでも見ている。だが解体途中の屍肉塊も同然の、尊厳が一片たりとも伺えない死体を前に感情を完璧に殺せる程、二人は真っ当な感性を捨てていなかった。

「……お墓、作ってあげましょうか」

「だな」

 短いやり取りを終え、乗ってきた発動車へ蓮華は歩き出し――小さな音を捉える。

「!」

 弾かれたように死体に駆け寄り、腐肉同然の胸部に触れる。虫の息という形容がこの上なく似合う程微弱だが、心臓の拍動が彼の手に届く。

 発動車を回すよう千歳に指示を飛ばした蓮華は、徐に通信機を取り出す。

「立夏に昴、後ディンに指示を。……金に糸目は付けない、人助けの時間だ」


                   ◆


「……最後から二番目の戦いがお前で良かったと、心から思う」

 そのような声を朧気に聞いた後、闇へ引き摺り込まれた。

 上下左右全ての概念が消え去り、只々流されていく感覚と、時折何かが離れて行く感覚だけが自分に理解出来る全てだった。

 やがて輪郭が溶解し、じわじわと世界からの退場を強いられていく中で、不意に圧が届く。

「××××××」

 卑小な人の身には到底理解が及ばぬ巨大な圧の持ち主は、何らかの音を発しながら手を引いた。主の持つ鋭い牙が纏わりつく死を裂き、自分を自分へ回帰させる。

「××××××」

 再び音が届き、散逸しつつあった断片が凝集。練られ、叩かれ、固められて一人を形作っていく。

 白光一閃。

 混迷と破壊と再生を繰り返し、生命が確かに息をする。

「……」

 まず最初に、黒と白が見えた。

 漆黒に支配された右半分を即座に諦め、左半分を駆動させる。

 見覚えのない物体がそこかしこに散らばり、嫌悪を呼び起こす赤が各所に散っているが、大半は白で形成された窓の無い空間だった。

 左半分を下降。

 纏っていた戦闘服から遠く離れた、清潔な病衣が身を覆っている。つまり、ヒトのいる場所に引き上げられたのは間違いない。

 安堵と緊張が同時に生まれる。

 どこの誰の手に依る物かは分からないが、見ず知らずの存在にここまでされるとは即ち、何らかの策謀に巻き込まれるのは必定。今の自分は、それに巻き込まれている暇はない。

 やはり左半分だけの視界を動かし、無造作に立て掛けられた相棒『金剛竜剣フラスニール』を認識。また共にいられる喜びを膨らませながら跳ね起き――


 そして、無様に崩れ落ちた。


「く……そ……」

 立ち上がろうと藻掻くが、身体の反応が異常に鈍い。脳が放った指令の十分の一も届いていないような錯覚を抱きながら、再度試行するも結果は同じ。

 清潔な床に這いつくばり、どうにかフラスニールの元へ近づかんと動く。その時、壁が勢いよく開き、見ず知らずの女性が血相を変えて駆け寄ってくる。

「まだ動いちゃ駄目ですよ!」

「なん――」

「立夏さん、興奮状態の患者を説得しても無駄です。……持ち上げますよ、動かないでください」

 立夏と呼ばれた女性と他数人のヒトが自身を囲い、掛け声とともに抱え上げる。屈辱的かつ窮地への逆戻りとなる行為に、滅茶苦茶な喚き声を上げて抵抗を試みるも、状況は何も変わらない。

「……私は」

「戻らないといけない所がある。だから離せってか? 残念だがそれは出来ないね。一度拾い上げた命だ、軽々しく捨てるなよ」

 全力を絞り出した声に、軽薄な、しかし内側に刃を秘めた男の声が被さる。自身を抑え込んでいる者とは、明らかに毛色が異なる者を捉えるべく、視界を移動させる。

 荒れ気味の黒髪と、髪と同色の瞳を持つ顔は笑みを湛えているが、左手は右腰に伸びつつある。

 これ以上勝手を通すつもりなら「説得力」を行使する。物騒な意思を朗々と発する男はこちらの視線に気付くなり笑みを深め、道化の作法で身体を折って名乗る。

「俺は水無月蓮華。チンピラ兼商売人だ。魔剣継承者ハンナ・アヴェンタドール、お会い出来て光栄だ」

 

                    ◆


 出鱈目な感情の奔流が少し収束した頃、杯が差し出される。

 警戒の眼差しを向けると、蓮華の手が煩げに振られた。

「金と時間を突っ込んで助けた奴を毒殺する阿呆がどこにいる? ただの水だ」

 それもそうだと思い直し、手に収められた杯を持ち上げようとしたが、右腕は微動だにしない。何度試みても結果は変わらず、結局蓮華の部下と思しき女性に水差しで飲ませて貰う羽目になった。

 生命力の再生が五臓六腑に感じられると同時に、自分の身体がお人形同然の状態に成り下がった現実を否応なく突きつけられ、ハンナの視界がぼやける。

 気遣いの目を向ける女性に手で合図を送り、二人きりの状態を作った蓮華は、椅子に座したまま距離を詰める。

「起き抜けに悪いが、まず俺の方から現実を教える。ここは北部アメイアント大陸のコルデック合衆国に位置するリルファって町だ。インファリス大陸には、西大公海を渡らないと行けない場所だ。四日前、俺はクライス湾でお前を引き上げ、まだ生きていたから治療を施した」

 徐に言葉が止まり、手鏡が掲げられる。

 映し出された自身の顔に生じた、著しい変化にハンナは思わず息を飲む。彼女の感情の揺らぎを他所に、滔々と言葉は続く。

「一回修復されたようだが、それも中途半端だったみたいだな。右眼は完全に手遅れだったから、機械製の目を入れた。もうじき見えるようになる筈だ。無くなった左腕や、他の部位は再生魔術がギリギリ間に合った。だから外形は一応元通りだ。

 ……で、ここから本番だ。間に合ったと言っても、お前の体は海水に浸り過ぎた。魚か海竜に食い千切られた場所から海水が入り込んで、魔力回路は全て崩壊した。一応代替の回路を入れはしたが、生体と炭素繊維や金属じゃ魔力伝導率は桁違いだ」

「……まさ、か」

「今のお前は身に付けた術技の大半を撃てない。鍛錬次第で前線に戻れるだろうが、ご都合主義的な奇跡を重ねても元の六割が良い所だ」


 短時間だが、視界が暗黒に塗り潰された。


 術技の喪失と上限の著しい低下。戦士にとって致命的な現実を突きつけられ、ハンナは呻くことしか出来ない。激流に翻弄される彼女を他所に、平静を保つ蓮華は自身の疑問を解き明かすべく問う。

「次はお前の番だ。ロザリス総統の懐刀が、どうして西大公海を漂流していた?」

 口調こそ穏やかだが、煙に巻いて逃げを打つ事を封じる強さを、ハンナは蓮華から読み取った。

 嘗てアメイアント大陸に多数存在した職業「カウボーイ」に酷似した衣服を纏い、三枚目の仮面を被っているが、水無月蓮華の本質は捕食者のそれだと、ハンナはすぐに見抜いていた。

 物理的、精神的、どちらの側面からも逃げきることは困難である上、死を待つだけだった自分を引き戻してくれた恩もある。沈黙で逃げ切ることは不誠実。そう彼女は結論付け、一度深く息を吸い、口を開いた。

「今から言うことは全て真実だ」

「勿論。まるごと全部信じてやるよ」

 彼自身の胸を景気よく叩き、蓮華は語りを受け止める姿勢を示した。だが、ハンナの語りがアトラルカ大陸でヒビキと再会した段階から徐々に表情を曇らせ、彼が無実の証明とヴェネーノとの再戦を求めていたとを告げるなり全身を震わせる。

 アークス王国四天王ユアン・シェーファーと激突した末に敗北し、そこから先の記憶が無いと告げた頃には。


「あーうんうんなるほど。そりゃビッグな経験だなぁははははは……嘘だろ、アレ全部マジの話だったのかよ」


 話しているハンナが罪悪感を抱く程に目を泳がせ、奇妙な貧乏ゆすりが止まらない有り様になっていた。

「やはり、信じて貰えないか」

「いや、俺はお前と別れた後のヒビキと会っている。アイツがヴェネーノと戦って勝った話も聞いた。逆に色々と辻褄が合ったよ。死ぬほどビビったのは確かだけど」

「彼が生きているのか!?」

「ラフェイアとの戦いが終わった後、エトランゼになんか吹き込まれておかしくなったけどな。ともかく生きている」

 敵を決して逃がさないヴェネーノと出会って生きている。この事実から導き出されるのはたった一つしかない。

 ヒビキ・セラリフは世界最強の決闘者に勝利し、異邦人との再会を果たした。

 敵対から始まった間柄だが、共に死線を越えた少年の生存を知り、思わず存在を信じていない神への感謝が滑り落ちかける。その後に続いた言葉の咀嚼が完了すると同時に、彼女の表情も逆戻りするのだが。

「生憎、俺も強制退場を喰らってな。詳しい中身は知らない。けど、エトランゼが出張るような事態に奴らが巻き込まれているのは確かだ」

 語るごとに払底していた燃料が注入され、蓮華の目に怪しい光が灯る。ロザリス総統の直属『ディアブロ』である以前に、一人の戦士として多くの異常者を見てきたハンナだが、眼前の男の内在する物を認識し、不自由な体が無意識に精一杯の警戒態勢を執った。

 受け手が向ける感情の変化に気付いていないのか、意図的に無視しているのか。

 簡単な二択すら究極の選択に変える、独特の空気を纏う男は再び道化の仕草を執り、描いていた終着点をハンナに叩きつけた。

「ハンナ・アヴェンタドール。お前のリハビリに必要な全てを提供する。その代わり、だ。水無月怪戦団に参加しろ」

「二君に仕えるつもりなどない」

「命の押し売りをする奴が、相手に忠誠心を求めると思うか? あくまで契約関係だ、俺達は物資を供給してお前は力を振るう。シンプルで良いだろ? ロザリスと喧嘩するつもりもないんで、お前の忠誠心に傷を入れることもない」

 腐乱死体と扱われ、焼却処分されて当然の惨状の自分を救った。素性が割れていなかった点から考えて、水無月蓮華の善性によって為されたのだろう。

 破壊された魔力回路を人工物で代替するには、高度な技術と凡庸な人間の一生を賄う額の金がいる。軍の技術部隊を視察した時、ハンナは職員からそう教わった。

 利益を読めない段階で見ず知らずの存在に、惜しげもなく金と時間を使う決断力と、利用価値を見出すなり取引を持ち掛ける強かさを両立させる思考は、小悪党や商人魂で形容不可能な物だ。

 そのものが持つ要素は全方位が一流止まり。だが、ある程度秀でているだけでは人は付いてこない。組織を率いるだけの何かを、水無月蓮華は持っている。

 ハンナが興味を抱き始めた頃、彼女の変化を見届けた男は軽薄な笑みを浮かべて最後の一手を、魔剣継承者との邂逅で芽生えた野望を示す。


「一緒に見届けようぜ、運命とやらの結末をな」 

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