回想:定めの紅は、その胸の奥へ

 父の実家への帰省では、楽しい時間と緊張する時間の両方を体験することになる。

 本土ではなかなかお目にかかれない食事や遊びは、年二回の訪問で味わい尽くすことは出来ず、出発する一月前からカレンダーに印を入れることが大嶺ゆかりの慣例になっていた。

 しかし、初日に必ず発生する祖父と父が難しい顔で繰り広げるやり取りに同席させられる時間は、今年で七歳になった彼女を疲弊させる物に他ならなかった。

 二人が望んだのか、母は先んじて町に繰り出しているので助け舟は何処にも無い。

 祖父や彼に応じる父が用いる、この地域特有の言葉は断片的にしか理解出来ず、二人もゆかりが理解することを望んでいないかのように、淡々と会話は続く。

 異国に放り込まれている錯覚を覚えながら、空気の通りを重視した家の開口部から見える蒼空を見て、ゆかりは唯々会話が終わるのを待つ。

 流れる雲を綿飴や羊と例えて数える行為にも飽きを覚え始めた頃、二人のやり取りは終わりに辿り着く。これで遊びに行けると、内心意気込むゆかりだったが、父に手を引かれて家の奥に連れていかれる。

 有無を言わせぬ力を感じ、縋るように祖父に目を遣ったが、あまり父と似ていない祖父はただ険しい眼差しでこちらを見るばかり。

 されるがままの状態で父に手を引かれたゆかりは、やがて家の地下へと辿り着いていた。

 今にも消えてしまいそうな白熱電球の光に灯された、薄暗くかび臭い空間は非常に狭く、一目で全体を把握することが出来た。

 そして、殺風景な空間にぽつりと安置された石に、ゆかりの視線は必然的に固定される。

 文字や模様の類は皆無。おまけに風化が酷く自壊寸前の状態だが、周囲が掃き清められているので、何らかの意味があるのかもしれない。

 そんなことを考えていると、先行して石の前に屈みこんだ父、草平に手招きされる。駆け寄って同じように屈みこむと、草平の静かな声が耳に届く。

「この石は海里叔父さんの……お爺ちゃんのお兄さんに当たる人のお墓なんだ」


 祖父・大嶺朝苗に兄弟がいた。


 そんな話は聞いたことが無いと首を捻るゆかりの頭を、草平は優しく撫でる。

「父さんも会ったことはない。……叔父さんは戦争で亡くなったからね」

 以前、ゆかりは『戦争』について祖父母から聞かされた。

 命の価値が極限まで軽んじられ、町が灰と黒と赤で染まって消える。ついさっきまで手を繋いでいた友人が、一瞬で肉片と化す。

 幼いゆかりはどれだけ話を聞いても、遠い世界の出来事か悪夢の中の話としか受け止められなかった。だが、先刻の儀式に近い会話以外では朗らかで優しい祖父の中に、確かな過去としてそれはある。おまけに、兄弟が戦争によって失われた。

 何かが詰め込まれたように、胸が重くなる。同時に、顔も見た事も無い大叔父についての興味が生まれた。娘の変化を察したのか、草平の纏う空気が少し変化する。

「本州……つまり、私達が住んでいる場所の何処かで海里叔父さんは亡くなった。そして戦争が終わった後に、お爺ちゃんの元に一人の男が現れた。お爺ちゃんに海里叔父さんの死を伝えた男の人は、これを残していった」

 ゆかりの口から「あっ」と小さな声が漏れる。

 伸ばされた父の手には、丸く紅い石が鎮座していた。図鑑やテレビで見られる宝石とも異なる、呼吸するかのように輝きの角度を変え、幼い心にも底知れぬ何かを感じさせる石。

「綺麗だ」の一言では片付けられない不思議な存在は、初めて見た時からゆかりに興味と想像を掻き立てていたが、触れるどころか見る事すら殆ど許されなかった。そんな代物が、父と祖父とのやり取りを経て未知の場所に連れていかれた末に提示される。

 何らかの意味を感じ取って息を呑んだゆかりの目を見据え、父は淡々と言葉を継いでいく。

「これは海里叔父さんの遺志が刻まれた物だと、その人は言った。『目覚めない方が良い。だが、貴方の血脈に連なる者に適合者が現れ、再び戦いが定めになった時に力は再醒する。大嶺海里は、そこにいる』ともね。最初はお爺ちゃんが持ち、私が受け継いだ。そして、私はもう三十歳だ」

 父の言葉を聞いたゆかりの、忌憚なき感想は「何を言っているのか分からない」だった。

 その時がどんな時なのか。適合者とは一体どういう意味なのか。父が真剣そのものの面持ちで、一切嘘を吐いていない事実だけを支えに、「分からない」を紡ぎ続ける父の言葉の終着点を待った。

「恐らく、私も選ばれなかったんだろう。……そもそも。いきなり現れた人間の突飛な主張を真に受けるのは滑稽な話だ。終わらせることが正解だけど、お爺ちゃんが旅立つまでは継いでいきたいと考えている」

 首の後ろに父の手が回され、金属同士が擦れ合う音が暫し響いて離れる。微笑みを湛えた父を見た後、視線を降ろす。


 胸元に、鎖で括られた紅い石が鎮座していた。


 近くで見て触れたいと思っていた石が、あっさりと手元に転がり込んできた事実は、喜びよりも困惑と畏れを幼いゆかりに齎す。照明の助力を拒み、妖しく輝く紅に目を奪われたまま、ゆかりは父に手を引かれる。

「あまり真面目に考えなくって良い。それに、私はその石を持ってから大きな病気や怪我をした事が無い。幸運のお守りと思ってくれれば、お爺ちゃんも海里叔父さんも喜ぶ。……行こうか、最初は何処に行く?」

「水族館!」

 弾んだ声で応じたゆかりは、父と共に地下室を去っていく。

 疑問と畏れは、地上に戻って触れた楽しみと、そして帰省を終えて戻ってきた日常に押し流され、大嶺ゆかりの内側から徐々に消えて行く。

 汚損や紛失が生じぬよう注意を払って扱いながらも、肌身離さず装着する。だが、そうする理由の核を忘却する、ある意味父が望んだ道を歩みながら、ゆかりは成長を重ねて大嶺海里の享年に追いつき、そして追い抜いた。

 このまま何事も無く年月を重ねられれば。

 祖父や父が抱いていた願いが叶うのか否か。答えは、未だ誰も知る由も無かった。


                  ◆

 

 灰色だけで構成された天井と床に、持ち主以外に意図を解せないほど複雑に配線がのたくり、一般家庭ではなかなかお目にかかれない音響機材が配された部屋。

 その片隅で、大嶺ゆかりは椅子の上で己の左手を真剣な面持ちで睨んでいた。

 彼女の視線の先にある指は異なる位置の弦を抑え、右手は涙型のピックを握り、タイミングを図るように、何度か小刻みに上下する。

 内側の調整が上手く行ったのか、やがて立ち上がったゆかりは、目の前のマイクを軽く叩き、一度だけ深呼吸。


「えぇと、それじゃ……ワン、ツー、スリー」


 あまり様になっていない掛け声を合図に、ピックが弦を弾く。

 四捨五入すると、十年前にリリースされたロキノンバンドの曲を、平均より少し高い声が紡ぎ出す。

 赤いストラトキャスターが弾き出す音に力負けしているものの、声の途切れを間奏部以外で見せることなく、ゆかりは四分四秒を歌い上げた。小さく肩を上下させ、滲む汗を椅子に掛けていたタオルで拭っていると、前方から拍手の音。

「やっぱ上手いなぁ。同年代の連中に負けてると思ったことないけど、ゆかりの歌聴いたら、微妙に負けた感する」

 弦の張り替えを行いながら聴き役を担っていた、獅子神色葉の言葉に苦笑を返す。活動上必要なせいか、多様な言葉をマシンガンのように操る彼女のストレートな表現は、腹の底からの本心を出す時に使われると、それなりの付き合いを経た今なら分かる。

 何の邪心もなく褒められると、気恥ずかしさを覚えてしまうのは、ゆかりの性分から来るものだ。

「一人だけで一曲歌ったからだよ。他の人と合わせて歌うのは、私には出来ない」

「そうかなぁ……」

 腕を組んだ色葉が唸る。が、悩むことにすぐ飽きたのか勢いよく立ち上がり、艶消しの黒で塗られたエレキギターを構える。奏でる音楽のジャンルに相応しい、太い弦を弾きながら、赤髪の少女はニッと笑う。

「まぁええわ。ちょっと合わせてみよか。曲は何する?」

「アンハッピーリフレインが良いな。この前、配信で本人が歌ってるの見たんだ」

「あーアレな。OK・やってみよ。ドラムおらんから、適当に合図出すわ」

 言うが早いが、色葉が右腕を振り上げる。それに合わせる形で、ゆかりも指の位置を調整、完了次第構える。

 灰色の部屋に、二種類のギターサウンドが響き渡った。

 一曲を通り越して四曲を演奏し、流石に疲労困憊といった様子で座り込んだゆかりの頬に冷たい感触。

「結構走ったなぁ。ってか、前より上手くなってるやん」

「練習はしてたから。……ここまで出来ると思ってなかったけど」

 差し出された麦茶のペットボトルを受け取って口に含むと、水分が体内に浸透する感触が体を走る。一息に五百ミリリットルを煽った色葉は、腕を回しながら音響機材の電源を落としていく。

 場所は獅子神家の地下室。

 曰く「昔は倉庫やったらしいけど、爺さんと親父がいつの間にか防音仕様に変えてた」場所で楽器をかき鳴らす。予定がかみ合った二人の主な「遊び」はこのような物だった。

「これ直したらまだちゃんと鳴るし、直すんも年玉貯金で何とかなる範囲やで」

 野暮用で入った中古家電販売店の片隅。ジャンク扱いで置かれていたギターを見た色葉の言葉に後押しされて購入し、彼女の手ほどきを受けながら修理、そして練習に励んではや二年。ギターが部屋を飾るアクセサリーにならず、本懐を果たせる所まで上達した。

 ――でも、やればやるだけ欲が出てくるね。もっとこう、色葉に付いていけるようになりたいというか……。

「そう言えば、ゆかりはアレ出したん?」

 初心者を脱した者が抱く感情を膨らませていると、片付けを終えた色葉が対面に座して問う。アレ、だけでは分からないが、友人がスクールバッグを指差した事で正解に行き当たる。

「進学で出したよ。色葉は?」

「メジャーデビュー」


 端的かつ大き過ぎる目標が投げられた。


 友人故の贔屓もあるのだろうが、時間がかかったとしても色葉は確実に夢へ辿り着く。三年少々の付き合いで、彼女の持っている熱量と積み重ねた練習を知って抱いた確信だ。

 音楽の浮沈は才能や努力もそうだが、時流にも左右される。浮上出来たとしても、不安定過ぎる道だ。彼女の両親以外は反対するだろうが、それでブレる彼女でもない。

「私は止めないよ。寧ろ応援する……って、それはもう知ってるか」

「色々知ってるゆかりに、止めろ言われたら流石に揺れるわ。」

「じゃあ、仮に止めたらどうする?」

「炎上配信者か陶芸家?」

 謎過ぎる二択に、思わず吹き出す。

「その二択……おかしくない!?」

「おかしいけど、つまりそういうこと。道塞がれた場合は考えたことない。というか、ゆかりは何したいん?」

「……大学行って、就職する、かな?」

 あまりに漠然とした答え。友人が掲げた物と比べる以前の問題で、声に出すだけでゆかりは微妙に悲しい気分に陥った。

「それが普通なんかもしれんし、世間的に見たら大馬鹿モンのアタシが言うたらアカンかもしれんけどさ……ちょっと勿体ないよな、それ」

「……うん」

 人生は一回きりで、子供は無限の可能性がある。だから自分のやりたいことを大切にしなさい。

 子供は周りからそう言われるものだが、十代半ばになれば無限ではなかったと当然気付ける。今からスポーツや芸術の道へ進む事は現実味が著しく欠け、周囲も制止するだろう。

 それを振り切って突っ走る胆力や確信は、悲しいかな大嶺ゆかりには無い。もう少し先になれば、何か見えるかもしれないが、その時に見えた物は既に過去の遺物となっている。

 現時点でも、幽かな可能性の光を見落としてきた自覚はある。この先も沢山の可能性を見落として、頁を進めて行くのかもしれない。

 そうなった果てに辿り着く、凡庸な社会の歯車という役割は決して軽視してはならない。けれども、今年の冬にようやく十七歳になるゆかりは、それが輝かしい未来と思える程に成熟もしていない。

「アタシのバンド入る? もっとガチで練習したら通用すると思うし、皆歓迎するで」

「……ギターは仁科さんがいるでしょ? 私の出る幕はないよ」

 冗談が三、取り成しが五。そして本心が二を占める色葉の言葉に、ゆかりは乾いた言葉で応じて微妙に重い動作でギターに触れ――


 ピっ、と短い音が生じた。


「――っ!」

「ゆかり!」

 痛みで左耳を抑えたゆかりに駆け寄り、切れた弦に思い切り叩かれた耳を確認した色葉は、すぐに安堵の息を吐いた。

 ゆかりの耳は少しだけ皮膚が切れて赤が滲むに留まり、それもすぐに収束して平常時の状態に回帰を果たした。

「なんともなくなったわ。やっぱり怪我とかの治りがめっちゃ速いなぁ」

「骨折とかは普通にするから、そんなに速いと思ったことはないんだけどね」

「骨折がすぐに治ったら、それもう只のサイボーグやん。人間ちゃう」

 特別な何かではないよ。と言おうした結果、奇妙な言い回しになってしまった。骨折がすぐに治るのは本当にただの怪現象だろうと、自分の言葉を咀嚼したゆかりは思い至る。

 色葉のツッコミを受け、先刻までの暗雲が僅かに取り払われたゆかりは小さな笑みを浮かべた。

 そんな彼女の胸元で、いつも通り鎮座するネックレスの紅が何度か瞬く。

 救難信号のように短い瞬きを繰り返した紅は、それを二人に気付かれることはないまま、再び沈黙に回帰した。


 何にもない、ね。いいや違う。君は産まれた瞬間から盤面に立っている。

 まぁ、立たされた俺は果たせずに死んだし、その事実が喜ばしいかどうかは微妙な話だけど。

 親戚が盤面に登るのは気分が良くないし、しかも手にした力が俺をぶっ殺したあの野郎の力に近いってのは、神様も酷い真似するよな。……うん、死んでるから俺はあまりゴチャゴチャ言えないんだけど。

 ここじゃない何処かに行かない限り、本当の意味で君が盤面に立つ日は来ない。俺も君が平穏な日々に埋もれる事を願っているが、持っている人間は確実にそこへ引き摺り出される。

 本当に腹立たしい話だけど、これもまた踊る世界の運命なんだよ。

 だけど君が戦うなら、何かを掲げて挑むなら、忌まわしい俺の血は必ず君の力になるし、ここに封じられた『紅』は再醒する。

 その力でやるべきことはシンプルだ。

 

 運命に叛逆し、君だけの正解を紅き刃で描き出せ。


 迷っても嘆いても良いし、挫けても良い。けれども、君は俺と違って既に一人じゃないし、盤面でもきっと魂を預け合える仲間に出会える。だから最後は勝って、そして生きてくれよ?

 それが俺の、大嶺海里の願いだ。

 


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