3

「ま、マジでアイリス・シルベストロなのヒビキちゃん!?」

「そうです。私こそが、アイリス・シルベストロなんです!」

「凄いよ! そうだ! サインを寄越しやがれください!」

「はい~」

 新築されて僅かに広くなったヒビキの家は、普段は無い喧騒で覆われていた。

 アガンスで結果的に彼とユカリが救い、彼の私物の『我こそ扇動者なり』と悪趣味なプリントが為されたシャツを纏う少女は、少なくともアークス国内では誰もが知っっている歌手、アイリス・シルベストロと名乗った。

 面倒事を避けたかったヒビキは、彼女をワルクロ団諸共警察に引き渡す、又は役所に保護を頼むかの二つの選択肢を検討していた。

 しかし、肝心の少女がそのどちらをも蹴り、彼やユカリと共にヒルベリアへ向かう事を望んだのだ。

 彼自身、自分が合理性の類から程遠い感性を有しているのは重々承知。しかし、眼前の少女の選択はどのように思考しても理解し難い。

 何故か自宅にいたライラ相手に、のほほんと即席のサイン会を行っているが、どう考えてもそんな呑気な真似は不正解としか、ヒビキの思考回路は導き出せなかった。

「冗談じゃねぇッ!」

 頭を掻きむしりながら、マウンテンで拾って来た、今にも壊れそうな椅子を蹴倒しかねない勢いでヒビキは立ち上がる。

「うわっ! どうしたのさヒビキちゃん!?」

「大声出すと心が乱れますよ?」

「乱してる張本人が言うなぁッ!」

 我慢の限界が来たヒビキは、アイリスに向けて指を向ける。

 本来ならば人差し指を使う場面で中指を使っている辺り、彼の動揺が伺えるなぁと、ライラが妙な感情を抱く中、ヒビキは早口で捲し立てていく。


「大体、アンタの次の仕事場所はアガンスだろ!? しかも後二週間を切ってる!」

「そうですが……何か問題が?」

「大ありだクソッタレ! 何処からどう考えたって、ここに来るのは大間違いだッ! さっさとリハでも何でもやって来い! 魔術が使えないなら、今から発動車で行かないと間に合わねぇぞ!」

「ヒビキさんはお固いですねぇ。もっと緩ーく生きましょうよ」

「そうだよ! もっと物事を軽く考えようよヒビキちゃん!」

「正しい事言ってんのにこの間違ってる扱いは何なんだろうなぁ!」

 

 ひとしきり叫び、数の暴力という偉大、かつ理不尽な力の前に敗北したヒビキは肩を上下させながら踵を返し、外に繋がる扉を開く。

「どこ行かれるのですかー?」

「……マウンテン。気晴らしと金稼ぎと練習」

「お気を付けてー」

 両手を気の抜けた調子で振って見送ってくれる美少女。

 通常ならば喜ぶべき構図なのだろうが、相手の立場が高すぎると喜びなど失われると、一生覚えなくても良かった知識を脳に刻みながら、ヒビキは自宅を後にする。

 家主の気配が完全に消えた頃、


「それでですねアイリスちゃんさん。どーして捕まってたんですか?」


 ライラは実に真っ当な質問を投げた。床に転がっていた訓練用の木剣を手に取り、重量に負けてコケかけていた歌姫は、細い指を顎の下に当てて「んー」と妙な声を発した後

「いやぁ情けないお話なんですが、移動中に妙な人に襲われまして、どうにか逃げ延びたんですが、すぐに気を失ったのであまり記憶がないんです。ただ……」

 最後の言葉を少し濁したが、ライラにはその理由がおおよそ理解出来てしまった。

 アイリス・シルベストロ程の存在なら、芸能会社も腕利きを護衛に雇う。

 護衛を倒して彼女を攫えるのなら、下手人はかなりの実力と、大量の護衛相手にも臆しないなかなか楽しい性格の持ち主だと考えられる。

 ヒビキ達が捕縛した、ワルクロ団なる恐ろしく三下臭い集団は、実力から鑑みるにに何らかの偶然で漁夫の利を得たに過ぎず、本当の襲撃者は別にいる。

 彼女がここにいる事実からの思考の結果として、襲撃者は再び出現すると考えると、ライラと言えども多少気分は沈むが、彼女はすぐに平常の物へと思考を切り換える。

 ――襲撃者さんも、こんな辺鄙な所に来てるとは思わないよね。すぐアガンスに行くんだろうけど、今の内にアイリスちゃんさんに色々と……。

 よからぬ事を思い付いたのか、ライラは手を揉みながら、興味深そうに家の中を見渡しているアイリスに声をかけようとした時だった。

「ただいま。……あれ、ヒビキ君は?」

「おかえりなさい~」

 紙袋を抱えた黒髪の少女、ユカリが扉を開けて家に入って来た。家主たるヒビキとは、近頃二日交代で食事を作っているとのことなので、恐らく食材を買い出しに行っていたのだろう。

 ――あれ? でも私が来た時、もうユカリちゃんいなかったよね? 買い出しにしては時間が……。

 ライラの疑問は早々に答え合わせが為された。

 懐かれたのか、じゃれついてくるアイリスをいなしつつ、紙袋を台所キッチンに置いてユカリが居間に戻ってくる。

 近頃目撃することが格段に減った、未知の事象への困惑をユカリは浮かべ、ライラが問いを投げるよりも先にテーブルに一通の葉書を置いた。

「買い物してたらいきなり渡されて。……必ず渡して欲しいって頼まれたから受け取ったんだけど、やっぱり不味かったかな?」

「うんにゃ、別に良いんじゃない?」

「手紙の渡し主さんは、どんなお姿で何と名乗られたのですか?」

 ユカリの細い腰にしがみついた状態で、アイリスが実に真っ当な問いを投げる。

 世間で伝わっている歌姫像と大きく異なる様を見て、ユカリが羨ましいと呑気な感想を抱いていたライラだったが、眼前の異邦人が発した名を聞いて絶句する。


「すごく肌が白くて背が高い、紳士的な人だったよ。マルク・ペレルヴォ・ベイリスって名乗ってくれた……ライラちゃん?」


 色白で背が高い、そしてその名前。条件が揃う存在は、ライラの記憶の中ではたった一人だけ。故に、彼女の表情に苦味が差す。

 ヒルベリアの人間で最も成功した男にして、当代四天王に最も接近した男。

 現在ではアガンスで自らの会社を立ち上げ、その強さは『氷舞士』と形容される。それがユカリに手紙を手渡した、マルク・ペレルヴォ・ベイリスなる男が持つ肩書きだ。

 彼の出身は正確に言えば大陸北部スカディファムの内、今は存在しない小国なのだが育った場所という観点から見れば、ここヒルベリアが出身となる為、訪れるのも別段不自然な話ではない。

 しかしライラ達、特にフリーダと因縁のあるベイリスが、態々名指しで手紙を渡しに来るなど今までは無かった出来事であり、アイリスに絡んだ用件の為に来訪したと常識的な結論を出しても、それだけで現実は停止してくれないという不穏な予兆を、ライラは抱く。

 ――良い事もあれば、悪い事もある、かぁ。……どうせ私はあんまり噛めないんだけど、いい加減良い事だけ起きてくれないかなぁ。

「ユカリさんユカリさん、料理作りましょう料理! 私切りますから、じゃんじゃん焼いてください!」

「え? う、うん。……って、その包丁の使い方は不味いよっ!」

「いいんですよ! こういうのは勢いでっ!」

「勢いで許されないこともあると思うんだ……」


 台所で繰り広げられる会話を聞きながら、ライラは溜め息を吐いた。


                ◆


 荒れた呼吸を整える。

 額から流れ落ちる汗が目に流れ込んで痛みを産むが、顧みることなく、光を放つ蒼き異刃を眼前に掲げ集中力を高めていく。

 異刃の先にある、投棄されたゴミによって出鱈目に形成された、マウンテン名物の週替わりオブジェを黒の双眼を見開いて睨む。

 一つの汗の雫が顎を伝い、ゴミの地面に染みを作った時、ヒビキは始動。

 足を掬う物体のみで構成された不安定な地面を物ともせず、瞬く間にオブジェとの距離を詰め、尾のように引き連れていた東方の異刃によく似た『蒼異刃スピカ』を前方に構えて身体を捻る。

 ――行くぞッ!

 双眼は黒、即ち力の解放を行っていない状態でヒビキは吼えた。

鮫牙カルスデン……ってあれ? ……げッ!」

 スピカを振るおうとした瞬間、バランスを失した彼は、妙な体勢で妙な悲鳴をあげつつ地面に落ちる。

 無駄になった、疾走によって付いた勢いは着地だけでは完全に殺しきれず、ヒビキはゴミの地面を転がり、本来なら斬っている筈のオブジェにブチ当たって停止した。

 痛みに悶えて地面を転がるのは一瞬。鼻血を垂らしつつヒビキは立ち上がり、スピカを地面に突き刺して苦い表情を浮かべる。

 『ディアブロ』との血戦を終えてから今日までの二週間弱、ヒビキは毎日のようにマウンテンへと足を運び、彼を彼たらしめている『魔血人形アンリミテッド・ドール』の力を解放しない状態で鍛錬に励んでいた。

 実戦で鍛えるのが一番早いと言っても、日頃マウンテンに出没する生物相手ではそもそも解放の必要が無く、逆に昨日のワルクロ団のように一定以上の力量を持つ相手では、勝つことに必死になるので細部を詰める余裕が無い。

 結果、技の確認については、こうして一人で行うようにしているのだが、進捗はあまり芳しくない。

 ――お前のその力は、まだまだ天井に達しちゃいない。カルス・セラリフの持つ力が込められ、ノーラン・レフラクタが組み上げたその身体なら、俺をも超越する力を手中に出来る筈だ。

 指導役の美しき元四天王の言葉に縋るように、ヒビキは無心に鍛錬を重ね続ける。

 これで『鮫牙閃舞カルスデン・ブレスタ』、『鮫牙断海斬カルスデン・スクァルクート』の二つ技を、力の解放無しで出来るようになっていれば美談に繋がるのだろうが、そうであるなら練習を継続する理由はない。

「……全っ然、形にならねぇ」

 スピカを背もたれ替わりに、地面に座った状態で吐き出した言葉が進捗度合を端的に表現していた。

 頭では、自分がどのように動いて技を繰り出しているのか理解出来ている。力を解放している時は、平常時に下級の魔術を発動する時と同じように何も意識せず、超高速の動きを実現している。

 では解放を行っていない時はどうか? これは彼の先刻の失敗と言葉から考えれば、一瞬で正解に辿り着ける。

「二つとも、ロクな形にもなりやしない。……どーしたモンかねぇ」

 嘆きの言葉を吐いて、痛覚が刺激される事も厭わずゴミの地面に身体を横たえる。

 異邦人のユカリが現れるまで、『魔血人形』の力の完全解放など一度もしたことが無い過去を顧みれば、現状は実に道理に適ったものだ。

 世界の敵『エトランゼ』の影、四天王に並びたつ『ディアブロ』等の、常識を鼻で笑ってその先へ到達している面々と伍する力を、僅かひと月程度で得ようなど浅ましい欲望だと、彼自身よく理解している。

 ユカリが来訪して以来重ねてきた無様な敗北、毎日の鍛錬での失敗が積み重なれば、己の非才は嫌でも分かる。これまで無駄にしてきた時間は、どう足掻いても取り戻せはしない。

 だからと言って、賢者を気取って努力を放棄するつもりなど、ヒビキの中には一切無い。

 ユカリ云々を抜きにしても、これから先に現れる者は、これまでの者達と同等かそれ以上の力量と考えるのが妥当だろう。

 こちらの才能の無さ、鍛練の時間のなさを理由にして、手を抜いて勝たせてくれるような甘っちょろい相手など、間違いなく存在しない。

 天才共の鍛錬と比すれば、雨後に屋根から垂れ落ちる水滴程度の量・質の鍛錬であっても、やれば微量ながら可能性が生まれる。

 今の自らの限界が化け物に届かないのならば、微量でも可能性を積み上げて化け物を超えていく他ない。

 積み上げた物を総動員しなかければ、自分に勝ち目などない。更に、勝ち続けなければ、ユカリを元の世界には戻せない。

 ――そして、俺が何者であるのか。答えを見つけ出す事も出来ないだろうしな。

 疲弊して歪み始めていた中性的な顔に、彼にとっては珍しい楽し気な笑みを浮かべながらスピカを再び構え、魔力を流し込んで蒼の刀身を輝かせる。

 二週間も使って習得したのがこれかと、腕の立つ戦士ならせせら笑うであろう下級の、しかしヒビキにとっては漸く習得を果たした『奔流槍クルーピア』を自身の周囲に展開。

 水の槍をオブジェに突貫させて跳躍し、それらが標的を縫い止める事を視認。そして体内の力の流れを一気に加速させる。

 ――っし!

 巨人に蹴り飛ばされるような加速を身体に感じながら、ヒビキはオブジェとの距離を詰め、大上段からスピカを振り抜いた。

 

 烈風と、金属の悲鳴を感じながら、ヒビキはオブジェを通過する。


 振り返ると、出鱈目な投棄によって様々な物質が混ざり合った結果として、相当な強度を実現していたオブジェに綺麗な縦線が刻まれ、等分に割れて地面に転がる様がそこにあった。

 この結果は、スピカを用いれば当然のものであり、彼が今重視しているのはその前の流れだ。

 両断されたオブジェの状態を目と手で確認し、『奔流槍』による損傷がほぼ無い事に対して、ヒビキは顔を顰める。

 ――当てられないと、どれだけ強力な攻撃であっても意味が無い。肉体を変質させて空を飛んだりすることが俺は出来ない以上、敵の動きを止める必要がある。でも『奔流槍クルーピア』じゃ厳しいか?

 近頃のヒビキが、重点的に取り組んでいる動きの流れは非常に単純な物だが、これまでの戦いを振り返れば、それが最適解であると彼は考えている。

 『魔血人形』の力の解放に時間制限タイムリミットが存在する以上、常識を超えた連中を相手に、長期戦を見越した戦い方を重視するのは合理的ではない。

 

 敵の動きを強制的に止め、自らの全ての力を込めた渾身の斬撃を放つ。

 

 戦いを重ねた中で導き出された、勝利の可能性を最も高める方法も、実現させるにはそれなり以上に高い壁がある。

 敵の動きが、こちらにとって都合の良い形で停止するなど有り得ない為に、実現する為にはまず拘束手段が必要となる。

 彼が不得手としている『鋼縛糸カリューシ』や『操蔦腕リエナス』は除外するとして、それなりに扱えるようになった『零下水縛アリーニス』も、想定している敵を考えればあっさりと打ち破られる可能性が高い。

 それ故の『奔流槍クルーピア』の使用だが、オブジェの状態を確認するに、ぁれが思い描いた結果からは程遠い。

 課題は山積。新たな敵の登場は待ったなし。新発想の誕生と己の進歩は亀の歩み。

 それでも幽かな前進の手応えが、心の内に柱となって彼の視線を前にだけ向けさせ、更なる。

「まあでも、現実なんてそんなモンだろ。……やるしかないな!」


 声を弾ませて、ヒビキはスピカを振るい続けた。


 もっとも、高揚した感情は帰宅してすぐに急速冷凍される事になるのだが、今の彼には知る由も無かった。


                 ◆


 発展した都市は、天然の光を拒んで輝く。

 誰かの言葉を証明するかのように、煌々と輝くアガンスの街の上空に、一つの影があった。

「この世界の住民による横槍で、あの少女を逃した。だが、次に向かう場所がここだと掴めたのは幸いだ」

 全身を鮮血の板金鎧プレートアーマーと思しき物体で覆った、二メクトル前後の体躯を持つ影は、両腕を身体の前で組んで錆びた声を吐き出す。

「異なる世界へと共に迷い込み、そして散った同胞達よ。君達の悲しみは私が背負おう。……だが、今は力を借りる事を許してくれ」


 芝居がかった仕草で、影は左手を天へ振るう。

 ほんの僅かな時間だが空が裂け、そこから這い出て来た影と似た意匠の鎧を纏った者達が、空を踊り方々へと散開する。

 その様を満足気に眺め、影は己の右腕に歪な物体を顕現させ、天へと掲げる。


「勝利が齎すは、この世界を我らの手中に収める為の礎。敗北が齎すは、私と同胞達の永遠に癒されぬ悲しみへの転落。……実に素晴らしく、実に悲しく、命を賭すには相応しい戦いだ!」


 喜悦に満ちた言葉は夜の静寂に飲み込まれ、捉えた者はいなかった。

 

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