2

「よし、始めようか」

「おっそーい!」

 首都ハレイドにあるギアポリス城の地下に広がる、大理石で構成されているだだっ広い空間の中心部で、「四天王」二人が向かい合う。

 片方は特徴の無い軍服と、その上から銃弾と思しき物体が取り付けられた弾帯を身に纏った気苦労の多そうな眼鏡の男、パスカ・バックホルツ。

 彼と対峙するのは、華美なドレスとは不釣り合いな小さな身体と、光の無い双眸が印象的な桃色の髪の少女、デイジー・グレインキ―。

 バトレノスでの負傷による入院生活を終え、実戦での調整を希望していたパスカは、同性の同僚、ユアン・シェーファーとの模擬戦スパーリングを設けていた。

 しかし、当日になってユアンが「大事な別件が出来た」と突如宣い何処かに消えてしまった。

 『極彩狂爆炎ヴィオレルトウェイト』等の魔術が撒き散らす有害な物質の、外界への拡散を完全に抑え込める地下鍛錬場は、一般の兵士や王立武器工廟の者達も様々な用途で使用する為、予約を取る事が難しく、当日のキャンセルは混乱以外の何も産み出しはしない。

 結局模擬戦の相手にデイジーを指名したが、パスカの気分はかなり重い。

「デイジー、何度も言ったと思うが、これは調整の為の模擬戦だ。命のやり取りじゃない点を、よく覚えておくんだ」

「わ~かってるわょ~。パスカってばぁ、心配し過ぎぃ~」

「お前と模擬戦を行った一般兵が殺されたと、報告が上がっているからな」

「戦う領域に入っていないゴミはぁ、加減する価値も無いでしょぉ?」

 年下の同僚の発言で、パスカの懸念は理解出来るだろう。

 検診メディカルチェックでは「問題なし」と診断されたにも関わらず、湧き上がってくる頭痛に顔を顰めつつ、パスカは軽く手を振るう。彼の動作に呼応して、鍛錬場に鐘が鳴り響き制限時間が通告。


 そして、両者が同時に始動する。


 パスカが何も無い空間から、一メクトルを超える長大な銃身と、十四・五ミリメクトルの口径を持つ艶の無い黒の重機関銃を引き出す。前方の空間に銃口を向け、おおよその狙いを付けて引き金トリガーを引いた。

 悲鳴に似た金属音が鍛錬場に吐き出され、装弾されていた四十発の弾丸全てが、発火炎を伴ってデイジーに殺到する。

 この程度の銃撃はパスカが初手を決めた段階で、デイジーは読んでいる。読めているならば、回避する事は四天王たる彼女にとって児戯に等しい。

 パスカが引き金に指をかけた段階で射線から身体を外し、修復された一対の曲剣『幻想禍げんそうかパーセム』を抜き放ち同僚に迫る。

 機関銃の重量は、同僚の体格では手こずる程度、との推測は見事に当たり、眼前の男は明らかに銃の取り回しに苦慮している。

 ――これなら、楽勝ぉ!

 唇を舌で舐め、自らの眼前で交差させたパーセムを、パスカの首に奔らせ――

 

「――きゃうっ!」


 目標に刃が届く寸前、背後に魔力の塊を、腹部に発砲による熱を抱えた銃身を叩きこまれ、デイジーは大理石の床に転がされる。

 回転を活用して受け身に移行するデイジーに、無慈悲な鉛の雨が迫る。

 常識の尺度で図れば、ここで終幕は確定する。


 そして、デイジー・グレインキ―は常識の尺度に生きる者ではない。

 

 両の手に握られたパーセムが剣の形を喪失。融解した金属が平板状に引き延ばされ、パスカの方向に向けられた面から、消失した筈の曲剣の刀身を模した禍々しい棘が屹立する。

 金属の構造に介入し、伸長、伸縮等の変形を可能とする『錬変成アルケルム』で形成された、攻撃の為だけに生まれた盾が銃弾を四散させ、デイジーはそのままパスカへ突撃。

「わるぅッ!」

「――ッ!」


 打撃には打撃を。


 そんな意図があるのか定かではないが、パスカは回避を捨て『怪鬼乃鎧オルガイル』に依る肉体強化を選択。全身の筋肉が密度を増した事で、人外の領域まで引き上げられた腕力に任せ、重機関銃を盾に向けて強かに殴りつける。

 火花と悲鳴、そして互いの得物から削り取られた金属の粉塵が、鍛錬場に踊る。

 両者ともに、激突の衝撃に負けて僅かに後退するものの、床の大理石を踏み割って体勢を立て直し、再度激突。

 空間全体を震撼させる打撃の応酬を暫し続けた後、一際大きな音を響かせる打撃を放ち合い、二人は距離を一度開ける。

 呼吸を整えつつ、デイジーは同僚の持つ得物をマジマジと観察し、剣に回帰したパーセムと同様に、思考を回す。

 ――背中から魔力が来たってことはぁ、あの銃はパスカが前にゆってた機構を使ってるってかもねぇ。……どーするべきかなぁ?

 単なる鉛玉と魔力封弾、どちらが来るのかが分かっていれば、対処することは児戯にも等しい。加えて初手で読みきれずとも、それさえ躱してしまえば、得物が鉛玉を放つ型と魔力封弾を放つ型のどちらなのか、読み取る事が出来る。

 しかし、同僚の持つ長大な銃は、両方の種類の弾丸を放ってみせた。

 ――読み合いなんて無駄! ってことねぇ。

 飛来する無数の『牽火球フィレット』と『牽雷球ボルレット』を弾きながら、デイジーは内心でそう結論付ける。

 受けきれなかった炎と雷がデイジーの矮躯を容赦なく焼く。

 ――が、彼女の身体に刻まれた傷は、始めから無かったかのように塞がっていく。

 

 故に、デイジーは負傷など意識の端にも置かず再度突撃。

 

 双方の得物が激突し、先刻のやり取りとは異なり、互いに離れずに絡みあったまま膠着状態へ移行。

 再装填が為されていない点を考慮した結果、このまま一気に押し切る事が最良と判断し、デイジーは更に力を籠める。

 彼女が始動して間もなく、継続していては押し負けると判断したのかパスカが突如後退。

 だが、逃げを打ったところで鍛錬場のスペースは限られており、尚且つ身体能力は互角でも、瞬発力に限ればデイジーの方が上回っている。

 ほんの一瞬だけ降り立った床を蹴ってデイジーが前進し、暴風を纏いながら同僚の首へ向けてパーセム共々加速。

 相手もすぐに体勢を立て直してはいるものの、速力の差で抵抗しきれないとの確信を抱き、デイジーは笑みを浮かべて更に加速し――


 そして、彼女の視界は鉄の槍で埋め尽くされる。

 

 雨とでも形容すべき量の『鉄射槍ピアース』が、恐らくはパスカのもう一つの銃から超高速で射出され、矮躯を蹂躙すべく降り注ぐ。

 戦闘による精神の高揚によって、速度の上昇を見せるデイジーの思考は二つの選択肢を提示。受け、もしくは突破。どちらを選んでも対処し損ねる可能性はほぼ等分との結論が出る。

 リスクが存在するならば、敵を打倒することが可能な選択肢を。

 これがデイジーの基本的な思考だが、これが模擬戦であり、尚且つパスカが病み上がりである事が、彼女の記憶の端に浮かぶ。

 ――パスカとかならぁ、完調な時にコテンパンにしたいわねぇ~。これお仕事じゃないしぃ~。

 デイジーが判断を下すと同時、再びパーセムが盾に変化。それを覆うようにして『輝光壁リグルド』の防壁が展開。

 巨大な光球と化した四天王は、鉄の雨を強引に方向変換させながら直進、そのままの状態でパスカに向かう。

 揺らめく炎を刀身とした、不可思議な剣を持ったパスカは、デイジーが襲来する事を待ち構えていたのだろう、光球が射程内に入った瞬間に刺突を放つ。

 彗星の如き軌跡を描いて放たれる剣と、太陽の如き強烈な耀きを放って突進する光球。地下の鍛錬場に、破滅を齎すであろう二つの魔力塊の激突が発生する直前、制限時間に達した事を告げる鐘が鳴り、両者共に急停止して武器を引く。

「悪くはない、な」

「いつもよりびみょぉーに、発動速度が遅くなってたけどぉ、まぁ病み上がりにしては悪くはないんじゃなぁい? でもぉ、あの機関銃は何なのぉ?」

「『先導者フレデリカ』だ。専用の弾丸を使う必要があるが、通常の銃弾と同じ攻撃と、魔力封弾による攻撃を使い分ける事が出来る。銃弾が銃口から放たれる瞬間まで、どちらを使うのかを相手に読ませない事が可能だ。魔力を弾丸に注入する機構の洗練が未熟で、無駄に大きくなってしまったがな」

 先導者の肩書きからするに、機関銃の名前はヒト族の人種差別撤廃を訴えたものの、家族に売られて火刑に処された聖職者、フレデリカ・リーブスからとったと容易に推測可能。

 『狂彩獄爆炎』を刀身として光刃剣擬きと化していた『反逆者バークレイ』もそうなのだが、パスカ・バックホルツの名付けの感性センスは、師匠たるクレイトン・ヒンチクリフとは方向こそ違えどよく似ている。

 ただ、デイジーにとっては武器の名前についてなど、非常に低い関心の序列にある話であり、同僚が新たな力を手に入れ、首を取る価値が上昇したことに対して心を躍らせるのだった。

「昼食を持ってきたから降りて来い。食べたらまた仕事だ」

「やったぁ! 今日はなにを……」

 喜色満面の表情でパスカの元へと駆け寄り、彼の持参した鍋を開けて中身を覗き込むと、デイジーの声が止んで表情が曇る。

「また野菜ぃ~?」

「ユアンが相手の予定だったからな。前々から仕込んでた物を捨てる訳にはいかないだろう。それにデイジー、お前の食生活の乱れを色々な所から聞いている。薬に頼るだけじゃなく、ちゃんと野菜を食え」

「うぅ……」

 今にも泣き出しそうな表情に転じたデイジーに対し、特段の反応を見せることなく、パスカは鍋からニンジンとダンガン豆を主材料とした、質素なスープを椀に盛って手渡す。

 表情は変わらず、嫌そうな素振りを全面に出しながらではあるが、デイジーはスープを黙々と口に運んでいく。

「……固いぃ」

「確かに。だがユアンが食べなければ、これが正解かどうかも分からん。ただ、これは外れの可能性が高いな」

 ユアンと食事を行う際には、パスカは必ず同じ材料を用いたスープを作る。それは、このアークス王国に「絶滅」させられた、グナイ族最後の生き残りである彼の好物らしい、との理由がある。

 四天王として正式に組む前、在野の狩人だったユアンと共同で仕事をこなした事があり、食事を作る際に何が好物であるのかを問うた時の、彼の表情と言葉が、パスカには今でも強く残っている。

「アンタは俺の刺青の意味を知っていた。ってことは俺の出自についても知っている。なら分かるでしょう? 俺の好物なんて、もうこの世にありませんよ」

 今の彼ならば絶対に吐かない台詞だろうが、当時の十代半ばという年齢と、隠蔽されているグナイ族の知識をパスカが偶然頭に入れており、それを尊重して振る舞っていた為に、思わずそんな台詞を零したのだろう。

 仕事上の付き合いが続く中で、辛抱強くユアンに問うた結果、「両親が作ってくれたニンジンとダンガン豆のスープ」が好物であると聞き出し、パスカは再現を試みている。今日のスープも、その試みの中にある物だ。

 もっとも、この六、七年の試みで彼から「この味だ」との言葉を貰ったことはなく、「美味いけど微妙に違うっす」という結果の連続なのだが。

 ――二人だと食いきれんな。後で持って行くか……。

 結論付けたパスカの耳に、ザラザラと物体が擦れる音、ボリボリと咀嚼する音が隣から届く。

 苦い物を感じながら音の発信源へ向くと、想像の通り、デイジーが大量の錠剤を流し込んでいる姿が目に飛び込んでくる。

 彼女もまたユアンと方向は違えど暗い過去を持ち、年齢不相応に幼い精神となるに至った理由がその過去にあり、感情を暴走させない為にその薬が必要な物であるとは、知識と経験から理解している。

 ベケッツの田舎役人の子供として、質素ながらも特段不自由のない幸せな家庭で育った自分に、どうこう言う資格は無いのかもしれない。

 それでもパスカは同僚達に、明るい物を原動力にして生きて行って欲しいと願ってしまう。

 ――同僚に対して過剰に感情移入するな。そんな事を教官やルチアさんに言われていたな。あの先生クレイトンさんにまで言われたのだから、俺は相当甘いのだろう。しかしな……。

 デイジーが錠剤を噛み砕く音を聞きながら、パスカ・バックホルツは長い長い溜め息を吐いた。


                  ◆


 同時刻、ハレイドの中でも非常に整備された区画である、マッセンネ。

 富裕層の集う区画ではあるが、その中でも一際目を惹く白亜の邸宅の中で、事は起こっていた。

 質の良い調度品が並ぶ応接間の中央。購入するには七桁のスペリアを積む必要があると言われる、貝殻を模した重厚な椅子に、一人の老人が縛り付けられていた。

「それで? お前の知っている事は全てか?」

「……あぁ。だから――」

 皆まで言わせずに、老人の正面に立っていた長身の男――

 暗灰色の髪に飴色の瞳、顔の右半分を鷲頭竜グリューオンの刺青が彩っている男に蹴りを叩きこまれ、老人は椅子共々絨毯に転がされる。

 男、アークス王国四天王ユアン・シェーファーは、氷像のように表情を固定した状態で、老人の腹を踏みつける。

「まだ終わる訳ないだろが。概要を聞いただけで満足する馬鹿が何処にいる? 実際にあの作戦を考案し、判を押したのは誰だ。そう聞いてんだよ」

「それはヤルフィレスが……」

「ソイツにもお話は聞いた。知らないと宣ったんで、永遠の眠りに就かせてやった。お前も知らないなんて言葉は通らない、す・べ・て話せ」

 

 整った顔を意図的に下卑た物に歪め、無造作にユアンは短剣を取り出して老人の眼前でチラつかせる。

 彼の凶暴な表情に気圧されたか、床に貼りついたまま、老人は苦い顔を作って口を開く。

「グナイ族の掃討作戦は、当時の首相が決定したことだ。しかも、作戦に会議は一度も開かれず、私達の所に降りてきた時には既に実行以外の選択肢が無かった」

「軍人を噛ませずに政治屋だけで話を決める。どこぞの独裁国家みたいな独断専行を、我がアークス王国がしていたって話をされてもな。……常識的な思考回路を持った人間が信用出来ると思うか? 自分を俺の立ち位置に置いて考えてみろよ、元・元帥殿」

「お前が信じようと信じまいと、私に話せる事など、これ以上は何も無い」

 その後、ユアンが問いをぶつけて老人が否定する流れが延々と続けられる。

 演技の類ではなく、老人は自らの持つ物全てを曝け出して相手の質問に答えているが、望む回答を得られない事に、ユアンの苛立ちは募るばかり。


「もういい、時間の無駄だ」


 ユアンは右腕の一閃で、老人を縛めていた鋼糸を断ち切って椅子から解放。左腕で襟首を掴んで持ち上げ、高い天井へ向けて投げた。

 天井に激突する鈍い音と、老人の苦鳴を聞きつつ、ユアンは目を閉じて腰を落とす。天井から剥がれ落ち、空気の流れによって重力の縛めに従った老人が自らの眼前まで落下してきた瞬間、痛烈な回し蹴りを腹部に撃ち込む。

 汚物を吐き出す老人の顔面に拳を入れ、首を掴んで床へ叩きつけ、転がったところで肘の部分を踏みつける。

 ごくごく短時間で、芋虫と大差ない動きしか執れなくなった老人に対し、トドメを刺すべく背中のケリュートンを展開。黄金の翼にも似た弓が、薄暗い部屋に光を提供する。

 何も無かった右腕に明滅する矢を生み出して番え、老人に向けた時、ユアンの視界は壁に掛けられた写真に吸い寄せられた。

 老人の隣に、彼と同じように老いた女性。二人を囲むようにして、一組の男女と、三人の子供が被写体となった写真は、何処にでもありそうな、凡庸極まりない家族写真である。

 しかし、それはユアン・シェーファーという男に、大きな動揺を生んだ。

 この場に第三者がいれば、その者が全ての事象に於いてド素人と言えるような存在であったとしても、はっきりと認知出来たであろう程、ユアンの表情と瞳は大きく揺れる。

 番えられた矢から離し、ユアンはだらりと下ろした右手を何度も握りしめては開く。激しい運動の直後の様に呼吸が荒れ、身体を折って胸を抑える。

 先刻まで痛めつけられていたのにも関わらず、老人がその様に不安な物を抱く程の醜態を暫し晒した後、ユアンは理性を取り戻して短い言葉を吐く。

「興が冷めた」

 矢を光の粒子として散逸させ、ケリュートンを畳んで背負い直して、ユアンは老人に向けて『慈母活光マーレイル』を発動。

 光に包まれ、自らの傷が全て消えていく事に戸惑いを隠せない老人に背を向け、黙したまま応接間の扉を開く。

 床に這いつくばったまま、壊れた蓄音機か何かのように、ひたすら「ありがとう」を連呼する声を聞いて、その美しい顔に皮肉な笑みを浮かべる。


「誰が殺さないって言ったよ?」

「……は?」


 ユアンの右中指の爪が、先端に三叉の形状を形成して伸長。分子レベルまで細められた切っ先は、老人の頭皮と頭蓋骨を貫き、脳の血管の一つを損傷させて引き抜かれる。

 損傷によって、自然の節理として出血が生じ、血液はクモ膜下腔へと流れ込んで脳脊髄液に混入する。

 即座に襲来した極大の苦痛に老人は頭部を抑え、汚物を吐きながら床を転がりまわるが、その光景も長くは続かなかった。

 一際大きく身体を跳ねさせた後、老人の全身が脱力し、目から光が消えて呼吸も停止する。

 老人の生命活動が終わる様を醒めた目で眺めていたユアンは、乱れた部屋を違和感の無い程度に整え、自身の持つ優れた感覚で、自らの毛髪の類が部屋の中に落ちていないかを確認してから背を向ける。

「脳出血による死亡は、お前の年齢ならよくある事だ。事件性など疑われもしない。これなら、お前の子供や孫は俺と同じ列に並ばずに済むだろ? ……礼なら幾らでも受け取ってやるから地獄で待ってな、シリル・ダニング元帥殿」

 敬意など微塵も感じられない敬礼を一つ残して、ユアンは『転瞬位トラノペイン』を発動して屋敷を脱出。移動先として事前に発動式を刻んでいた、ハレイドの中央部に在るオフィスビルの屋上に座り込んで長い息を吐く。

「今回も当たりのようで外れか」

 頭の中で、独力で調べ上げた殺すべき存在のリストを浮かべ、その中にまた一つ×印を付けると、昏い喜びと悲しみが湧き上がってくるのを感じる。

 ――次は誰を殺す? いや、安易に動くよりも先に、情報を探すべきか。しかし……。

 思考を回していると、強い痛みがユアンの心を抉る。

 最後に母は自分に何と言ったか。自分の行為はその言葉に真っ向から反する、最低の親不孝だと理解はしている。復讐など、何も生まない無意味な行為であるとの正論もまた然り。

 だが、憎しみで一度根本まで焼かれた彼の心は「正しさ」を受け入れる事など出来はしない。

 地獄を見て十六年、大抵の者から鼻で笑われる長さの、しかしユアンにとっては永遠にも等しい時間を、供物として捧げて来た。


 嘲笑されようと、唾棄されようとも、今更止まるつもりなどない。 


 感情の昂りを、顔の右半分に刻んだ刺青を撫でて鎮め、ユアンは思考する。

 これまで自分が始末したのは既に八人。幾らグナイ族が歴史から抹消されようとしていても、そろそろ聡い者は勘付いて始動する頃だ。

 個人が集団に勝った事例など、歴史の中でも両の指で数えきれる程度の数しかおらず、自分には勝者の側に立てる才がないと、ユアンは理解している。

 全てを果たせるか否かの結果に関わらず、最終的に自分は無惨に討ち果たされ、今まで討った者達と同じ汚泥の中へと沈むだろう。

 しかし神は、グナイ族に於いて『鷲頭竜グリューオン』はヒトを救うために現世に降臨したことはない。そして悪魔もまた然り。

 救済者も断罪者も顕れぬならば、汚泥に沈むことへの躊躇など、ある筈もない。

 まだ、立てる。まだ、歩ける。……まだ、全てを殺しきってはいない。


「早く行き着いて、逝かないとな」


 飛び降り自殺者を防ぐ為に設けられた鉄の棒が、奇怪な形に転生する程に強く握りしめ、眼下に広がる幸せな光景を見つめながら、ユアンは一人呟いた。

 

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