7
炎に包まれた世界の中で、自分は取り残されている。
逃げ場が何処にもない空間の内部にいるのは自分だけの筈なのに、重苦しい呻き声が空間内で延々と響き渡っている。
燃え盛る炎への恐怖で硬直した身体が、声の発信源を探すべく、動く事を拒否する首を強引に、ギリギリと音を上げながら動かす。
首を最初に向けた先、自分のすぐ隣に人型の消し炭が転がり、そこから声が発せられているのだと、すぐに気付く。
もっと詳細を見ようとすると、突如として消し炭が跳ね起き、手首を掴まれる。
常識を遙かに超えた力と熱に晒されて、口から絶叫吐き出されるが、それに呼応するかの様に掴む力は強まり、相手と変わらない色に手首が瞬く間に変色する。
「……が、……」
何か呟いているが、聞き取れない。痛みで感覚が支配されてしまっているのだ。強引に振り払おうと試みると、炭化した手首より先がボトリと地面に落ち、文字通り粉々に砕け散った。
自らの絶叫、そして笑い声で空間は埋まる。
「痛いか、苦しいか? そりゃぁそうだよな? 自分の身体が炭化するまで焼かれるなんて経験、誰も出来ないからなぁ」
何故かはっきりと聞き取れるようになった声は、自身がよく聞き慣れた声だが、その存在が発するとはとても思えない、怨嗟と加虐の悦びに満ちた声に、身体が硬直する。
緩慢な動作で立ち上がり、全貌が見えるようになったヒト型の消し炭は、左眼だけを狂気に輝かせ、ゆっくりと異形の剣を抜き放って構える。
その立ち振る舞いで、消し炭の正体が誰であるのか理解出来てしまい、更に硬直が強まってしまった自分を嘲笑する声が、高らかに空間内に響き渡る。
「お前のせいで、俺はこんなザマになったんだ。責任は、ちゃんと取ってもらうぜ」
蒼白い閃光が、視界を包み――
「――っ!」
跳ね起き、頭を岩にぶつけて視界に星が飛ぶ。
額に滲む血を無視して、周囲を見渡す。敵の気配は無し。今のぶつけた音に反応して接近する存在も、どうやら無さそうだと判断して、ユカリは安堵の息を吐くが、すぐに表情を曇らせる。
エル―テ・ピルスに侵入して既に三日が経つ。
本当なら二十四時間全てを迷宮の探索に用いたいが、休息無しの行動は逆に首を絞める結果を齎すだけだと、ハルク達から指摘を受けている為、極力岩の裂け目などに身体を埋め、一定の時間を睡眠に充ててはいる。
眠る度に先程までの物と同様の夢を見て目が覚めてしまい、休息の効果は薄いのが現実ではあるのだが。
猛り狂う炎の竜に囚われ、今も生死の境を彷徨っているヒビキに対しての感情が、自分にこのような夢を見せているのだろう。
所詮夢と割り切れるようになれば楽になれるのだろうが、精神をそこまで強靭な物へと作り替えることは、未だに出来ていない。
――とにかく、起きたからには探索をしないとね。
完全に足を引っ張り、危機に陥れた自分をどう思っているのかなど、ヒビキが目覚めてから直接聞けば良い話だ。
そんな決意と共に背嚢を背負い、抱えていたウラグブリッツを腰に固定して裂け目から這い出し、ユカリは再び歩き始める。
発光する微生物の数が少ないせいか、この階層は妙に視界が悪いと、朝食の堅焼きパンを口に押し込みながらユカリはそう分析する。
「せめて、一つでも上の階層に行きたいなぁ……」
未整備故に大小様々な石で形成され、転倒からの負傷を狙う悪意が感じられる荒れた路面を警戒しつつ足を動かし、他者に捕捉されない程度の声量でぼやく。
既に先人の誰かがかけたのであろう昇降可能な梯子を、相当な回数発見して登っているのだが、今一つ山頂へと近づいている実感や期待感が薄い。
幸い戦闘は今のところ殆ど行わずに済んでいる。
出会ったり、気配を感じ取ればすぐに遁走し、相手が飽きるのを待つ消極的な姿勢だが、今の自分にとってはこれが最善だ。
「出来るだけ早くしないと……っ!」
ふと目を向けた先にある石の壁の中に、半分ほど粉砕された頭蓋骨が無惨に埋め込まれている事に気付いてしまい、絶叫しそうになるのを、ユカリは口を塞いで強引に抑える。
――もう何度も見たでしょう? それに、私は既に生きる為に誰かを殺めている。だから、落ち着いて……。
何度も同じ言葉を念仏のように唱えて、一方向に跳ねた感情を鎮め、声の発生を抑え込んだ後、薄暗い道を再び歩き出す。
自身の発する呼吸音と、天井から滴り落ちた水が地面を叩く音を背景音にして、歩き続ける中、どうにもこの階層は微生物以外の気配も、今までの階層と比すると非常に薄いとの感覚をユカリは抱く。
昨日までに突破した階層には、進入早々に対峙したスフェノチュラを始めとした多様な存在を目にし、それが山の中にある迷宮という、非現実的な空間を現実たらしめている要素となっていた。
リスクは確かに軽減されるが、ここまで気配が感じられないのは妙だ。
元の世界で言うならば、鼠や羽虫の立ち位置に該当する存在さえも見当たらない事による静寂が、逆にユカリの不安を煽っていた。
だが不安を感じても、選べる道は一つ。
自身をそう奮い立たせて歩き続けるユカリだったが、その歩みはやがて止まる。
「……行き止まり、かぁ」
緩やかな一本道となっていたこの階層、その道を歩いた結果は、彼女の目の前に設えられていた巨大な岩盤が示していた。
落盤による物ではなく、元来このような状態であったと見受けられるその壁から判断すると、探索の仕方に不味い物があり、別の道が他にあるのかもしれないとの考えに思考は着地する。
ならば別の場所を虱潰しに探すまでと踵を返した時、ユカリの鼻は、岩壁の向こうからの僅かな臭気を捉えた。
この世界に来て、ユカリの身体能力が向上した訳ではない。つまり、その臭気があまりにもキツイせいで、彼女でも捉える事が出来たのだろう。
ここで一番重要なのは、ここが行き止まりなのではなく、この岩の向こうに続きがある可能性が発生したという事だ。
――迷宮の中には、普通の目では見えない物も存在する。そういう時は大体魔術を使ったりして場所を特定するんだが、君は魔術が使えないから、地味な方法で見つけるしかないな。
ハルクの言葉を思い浮かべ、ユカリは暫し立ち止まって思考を回す。
「時間がかかるのは良くないけど、仕方ないよね」
ウラグブリッツを鞘ごと腰から取り外し、鞘に収まったままの刀身部を握り締めて、柄頭で壁を小突く。
響かない、重い音が耳に届く。外れだろうか。
実に古典的で地味、まるで異世界に来たとは思えない方法で、ユカリは可能性の世界に存在する扉、もしくは空間を探し始める。
一回だけでは判断を誤る可能性がある為、一つの箇所を二、三度叩く事を選択したせいで、無為な時間は延々と流れていく。
「早く見つけ……」
何らかの気配を感じて手を止め、ユカリは近い所にあった岩の裂け目に、身体を滑り込ませる。
相手が小さな体躯を持ち、勘付かれて裂け目に飛び込まれれば一巻の終わり。だが自分が戦った場合の勝率と天秤にかければ、この方法が堅実だと判断を下しての選択。
かなりの時間、ユカリは裂け目の中で息を殺して、気配が自分の存在に気付かずに遠ざかる事を待った。
互いに認識することなく、気配が遠ざかっていく。完全にそれが消えてからユカリは裂け目から這い出し、作業を再開する。
時計が無いせいで、はっきりとした時間は分からないが、かなり時間を費やした頃に、ある一点で明らかに違う響きの音が聞こえてきた。
念の為、何度もその箇所を叩くが音は変わらない。引き当てたようだと、ユカリは汗が浮かび始めた顔に、うっすらと笑みを浮かべる。
「見つけたら確かこうやって……わっ!」
異なる音を発した壁面に手を付け、思い切り力を込めると、身体は存外あっけなく力を込めた方向へ傾いて行く。
慌ててとった受け身は失敗寸前の成功。頭を地面に軽くぶつけて視界に星が舞い、顔を顰めながらも立ち上がる。
「と、とりあえず先に進もう、うん」
不可視の扉を発見して突破した割には、その先の空間に今までとの特段の差異はなく、岩石と僅かな植物以外の要素は無い。
周囲の景色に変化が見受けられない事に少し落胆しながら、ユカリは眼前に伸びている道を進んで行く。
この道もまた、生物の影が無さすぎる。自分の歩ける範囲内の道全てがこのような状況なのは、絶対に何かがおかしい。そんな彼女の不安と疑問は、すぐに答え合わせが為されることとなる。
迷宮内部の光量が、増しているのと同時に、道の先が開けている事に気付く。
上の階層へ行けるのかもしれない。そのような期待と共に、ユカリは足を速めて道の終着点へと急ぎ、すぐに辿り着く。
そして、終着点たる空間で巨大な二つの山と対面する事になる。
否、少なくとも片方は山ではない。巨大な生物だ。その生物がもう片方の山に首を突っ込んで、何やら食事の最中のようだと判断したところで、その山の形成物質に、ユカリは気付いてしまった。
肉の塊だ。それも只の野生生物だけではない、ヒトの物も混ざっている。
図鑑でしか、もしくは完全に解体された状態でしか、彼女が見た事のなかった代物であるヒトの内臓と共に、出鱈目な赤のオブジェが眼前で形成されていた。
「……うっ、くぅ……」
胃の中の内容物が、口から漏れ出て来そうになるのをどうにか堪え、薄暗い空間の奥へユカリは進んで行く。
眼前の生物は、これほど接近しても尚食事に夢中で侵入者に気付く気配はない。
上の階層へ通じる道があるのか否かを早く確認して、こんな所は早く抜けてしまいたい。その一心で、ユカリは歩を進めていく。
当の生物は、呑気に山の中から生物の死体を引き摺り出し、食事を継続しようとしていた。今度の食事は、二メクトル近い体躯を持つ男のベスターク人の死体のようだ。
腹が破れて腸が飛び出している死体の、頭部を咥えた状態で首を振り、死体の頭部と身体を引き剥がそうと試みる。
すると、その動きで繋ぎとめていた部位が完全に破壊されたためか、死体の頭から一つの眼球が飛び出し、放物線を描いて飛んでいく。
よりにもよって、ユカリの居る方向に。
何かが飛んでくる気配を察し、向き直った彼女の視界に、濁った眼球がじっと顔を見つめたまま接近してくる絵面が展開していた。
常識からあまりにもかけ離れた光景を前にして硬直したユカリの頬に、眼球はべチャリと音を立ててぶつかり、地面に落下して転がる。
何かに操られているかのように動いた、彼女の頭部は下を向いて眼球を見る。生気が完全に失われた、無機質なそれを見て、彼女の中の何かが切れた。
ユカリはその場にへたり込み、口から吐瀉物を吐き出す。抑えなければいけない事は分かっている。だが、今この場で見た光景は、平凡かつ善良な人生を送って来た彼女にとっては、とても耐えきれる代物ではなかった。
「カッ、はッ、あが……」
濡れた物体が地面に落下する音を、この距離で生物が捉えられない筈がない。ゆっくりと振り返った生物は、ユカリの姿を認めるなり、歓喜の咆哮をあげた。
耳をつんざく咆哮に晒され、ユカリは恐怖と言う名の拘束から解かれ、慌てて立ち上がる。
そして、この階層がやけに静かであった理由にも気付く。
……こ、これがいるから、この階層はやけに静かだったんだね……。
全長が約四メクトル程度で翼はない。赤褐色の鱗が全身に敷き詰められ、頭部は鰐によく似ているが、四足は元の世界をかつて支配した生物同様、機動性に優れた構造を有しているように見受けられる。
要注意生物の一つとして名前を挙げられていた、飛行能力を失った地走竜目に位置する『バリオクス』は、食事への侵入者を制裁して新たな食事とすべく、その巨大な頭部を振り上げ、一気に地面に叩き付ける。
堅牢な筈の床に易々と亀裂が入り、迷宮内が激しい震動に晒される。
立っていられなくなり、地面に伏せたユカリの頭上を暴風を纏いながら丸太の様な尾が通過し、壁を叩き割る。身体からどっと汗が噴き出す。
当たれば確実に死ねるし、受け止める事も自分では不可能、との現実が数秒で提示され、あっさりと倒す選択肢を放棄。正解はやはり逃走する事なのだろうが、それでは奥へと辿り着けない。
単なる幸運の代物ではあるが、バリオクスが破壊した穴の先に、更に強い光が発せられている事に気付いたのだ。
先に行ける可能性が見つかったのに、退く道理はない。
乏しい経験と知識を総動員して、ユカリがこの場をどうにかする術を探していると、バリオクスが突如として跳躍。
何事かと視線を上に向けると、地竜が巨躯を空中で器用に捩じり、螺旋回転をしながら突撃を仕掛けてくる姿が目に飛び込む。
「そんなのあり⁉」
理不尽が過ぎる光景に悲鳴に似た問い口から漏れるが、現実がそうなっている以上ありなのだと納得する他ない。
足を縺れさせながらも、着弾するであろう地点から逃走を開始する。
爆音と共に発生した粉塵が濛々と立ち上り視界を覆う。粉塵の隙間から、のたうつ尾を視認し、そこから推測可能な事実にユカリは驚愕する。
「が、岩盤がこんな簡単に……」
あまりの威力に頭部が岩盤の深い所まで突き刺さり、バリオクスは引き抜こうともがくが、どうにも抜ける様子はない。
隙が生まれた為、一応ウラグブリッツで斬撃を仕掛けるがあっさりと弾き返され、スフェノチュラやその他の相手に齎した効果はまるで生まれず、くぐもった咆哮の音量が大きくなる。
業物であっても、自分が使うとこの位の相手からお話にならなくなる事と、今の攻撃は相手の心に
ヤケクソで何度もウラグブリッツを振るい、バリオクスの皮膚に小さな傷を大量に刻んでいく。
虫に付き纏われて嫌な顔をしないヒトがいないのと同様に、バリオクスもユカリの抵抗に苛立ちを覚えた様子。傷の増加も厭わず、強引に頭部を岩盤から引き抜いて身体を旋回させる。
瞋恚の火を両目に灯しながら、ユカリを正面から睨みつける竜は、短い咆哮と共に再び跳躍。
回転殺人体当たり、としか形容出来ない動きで自らに迫る巨体を、ユカリはじっと睨み、自らの身体能力で対応可能な距離ギリギリまで引き寄せ、横に飛んだ。
飛んだ先の地面に散乱していた血で手を滑らせ、無様に転びながらも回避には成功。振り向くと、仕留めにかかった一撃が仇となったか、先程より更に深く身体をめり込ませ、後肢と尾をうねらせるバリオクスの姿が見えた。
「やった!」
絶対に倒せない事が分かっているならば、時間稼ぎさえ出来れば良い。死にさえしなければ、こちらにとっての勝利なのだ。
後ろを振り向きもせず、ユカリはバリオクスが作りだした穴へと入り、先にある光を目指して疾走する。
時間、距離ともに、今まで彼女が歩いてきたそれに比べれば非常に微々たるもの。
しかし、ついさっき命の危機に晒されたばかりのユカリには、それは永遠にも等しいものとなっていた。
良い方向への予想が珍しく当たった。
視界の先に、上の階層へと続く梯子が見えた。あの背後で未だにもがいているであろう強大な存在から逃れられる、そして、自らのやるべき事の達成がまた一つ近づいた。
気分が高揚し、走る速度を上げたユカリの足が、不意に接地感を失った。
短い疑問の声をあげるのと同時に、重力の法則に従って、彼女の身体は下方へと落下していく。
――これってまさか!
迷宮の中にある罠の一つであり、有り体に言うならば『落とし穴』なる物に自分が引っかかったのだと気付いた頃には、何もかもが手遅れだった。
ヒトの本能に刻まれている、落下の恐怖に囚われたせいで、銃を抜いて『
「――痛っ!」
永遠に続くかと思われた落下は、妙に柔らかい物体に弾かれ、地面に転がされて終わる。奇跡的に無傷、だが恐らくは下の階層に強制的に降ろされた。
仕切り直し、となってしまったのだろう。
同じ手は二度も通じない筈。ならばどうやってバリオクスを躱すか。
そのような思考は、また別種の咆哮で中断させられる。そう言えば、地面に落ちる前に何か柔らかい物の上に落ちた筈。では、その柔らかい物とは一体何なのだろうか?
答えを知るべく、恐る恐る振り返ったユカリから、一気に血の気が失われた。
身長は彼女より低い、だが各々がガラクタで作られた鎧に身を纏い、思い思いの武器を担いで、戦闘の意思を朗々と示している獣人の群れが、憤怒の形相でユカリを取り囲んでいた。
どうも寝ていた所を邪魔されたようで、明らかに穏便に済ませるつもりが無い風情。おおよそ十五は軽く超えている相手には、やはり勝ち筋はない。
何としてでも、五体満足の状態を保持して逃げなければならない。その為には、やはりある程度戦う事が必要だ。
半泣き、かつ全身を激しく震わせながらユカリは叫び、ウラグブリッツを振り上げた。
彼女の叫び声を、耳に捉えた者が一人いた。ユカリより半日ほど遅れて迷宮に突入したティナ・ファルケリアである。
セマルヴェルグの力によって、迷宮は常識とは異なる構造となっており、二者のいる場所は階層も場所も異なる。行動を共にする事がない限り、まず同じ場所には居られない。
恐らくは、山頂に達しない限り二人は出会う事はない。
「まあ、私にとってはその方が都合が良いのだけど」
誰に向けたのでもない言葉を、ティナは宙に投げる。
同時に、金属が擦れる小さな音を生じさせながら、彼女の左手にあった東方の
彼女の周囲を包囲していたスフェノチュラ達が、恐怖で後退して道を開けた。壁や床には、大量の同胞が無惨な姿を晒して貼り付き、空気が揺らめく程の湯気を生じさせていた。
顔に血化粧を纏って歩くティナは、スフェノチュラに一瞥くれる事さえもせず、上の階層への道を探して、迷宮の奥深くへと消えた。
◆
ロザリスはリオラノの地下に在る、軍のみが使用可能とされている鍛錬用の闘技場。
「どうした、まだ終わっていないぞ」
頭部を覆っていた装甲を消失させ、銀髪蒼眼の女の顔が顕わになる。全く無傷の女、いやハンナ・アヴェンタドールの周囲には、大量の戦士が倒れていた。
彼らが身に付けている積層鎧は完全に粉砕され、盾の中央部には大穴が開き、武器の大半が完全に破壊されている。持ち主達も、行動不能に陥るには十分過ぎる傷を負い、疲労と恐怖の色が濃い。
「もう勘弁してくれ、これ以上は無理だ」
溶けて折れ曲がった長剣を杖替わりにして立ち上がった一人の男が、乱れた息で白旗を掲げ、他の者達もそれに追従する。
男達もアークスの持つ四天王に対抗する為に構成された個人戦専門の者であり、強さの階層では上位に位置する存在である。そして比率は実に二十対一。
圧倒的な数の差をあっさりと覆してみせた竜人の騎士は、最初に白旗を掲げた男に黙礼を残し、闘技場から出て行く。
「……所詮逃げた分際で偉そうに」
「この間の総統からの仕事も失敗したんだろ。ザマあねぇわな」
「ま、総統とコネが有るイスレロん家のクソガキが七光りでディアブロだからな。そいつのお気に入りである限り、アレもクビ飛ばされないんだろ。羨ましい話だ」
完膚無きまでに敗北した事に対する八つ当たりと、ハンナの日頃の態度への苛立ちなどが絡み合い、地に伏した男達は嫌味を吐いて笑い合う。
距離などを考えれば当然、耳に入ったハンナは足を止めて方向転換し、一人の男の元へと向かい、襟首を掴んで高々と持ち上げる。
「何しやがるッ!」
「落ち着け、アヴェンタドール!」
最初に白旗を掲げた男の制止を無視して、更に高く持ち上げたハンナは、彼女らしからぬ激情に満ちた言葉を吐く。
「任務に失敗した事は事実。私がドラケルンの恥晒しである事もまた事実。これらに関して私が反論する余地はない。甘んじて受け入れよう。……だがな」
一度言葉を切って長槍、いやパラボリカを男の首筋に突きつけて語りかける。
「レーヴェを愚弄する事だけは絶対に許さない。……次に同じ事を言った時、パラボリカは止めない。……覚えておけ」
吐き捨てながら男を床に放り捨て、様々な感情を伴って向けられる視線には反応せずに、ハンナは今度こそ闘技場を出て行く。
明日以降の闘技場の使用許可を得た後、パラボリカを持ち手と刀身に分離させて背に背負って地上へ出る。
槍の形態時は問答無用でハンナの身長を超え、剣の形態でも全体の長さが一・六メクトル近くになるパラボリカを、街中でそのまま持ち歩くのは法律で引っ掛かる為に施された苦肉の策には、当初は難色を示していたがもう慣れた。
高身長故に無駄に目立つハンナに対し、声をかけてくる街の人々におっかなびっくりではあるが手を掲げて返す。相棒ならば、年齢にそぐわぬ上手い立ち回りで愛想を振りまくのだろうが、自分はまだそこまでは出来ない。
暴力以外能が無くとも、一応国民の税金を食んで国民の為の仕事をしている。せめてちゃんとした反応を返すぐらいはこなせるようになるべきだ。
――まだまだ、私も学ばないといけないな。
内心思いつつ、ハンナは迷いなく歩く。
もっとも、微妙に顔を赤くし、視線を僅かに斜め下に向けて歩いている様子から、市民は彼女の決意を汲み取る事は出来なかっただろう。
二十分ほど街中を歩き、待ち合わせの場所である煉瓦作りの小さな家の前へ辿り着き呼び鈴を鳴らすと、すぐに趣味の良い燕尾服に身を包んだ男性が顔を出し、ハンナの顔を見るなり相好を崩した。
「遅かったじゃないか。相方はとっくに始めてるよ」
「すまない。鍛錬の後に少し手間取った」
「下準備は出来ているから、少し席で待っていてくれ」
優雅な所作で示された席へハンナは向かう。
「ふぁっ、ふぁーひゃんは!」
「……食べながら話すな。ご両親に怒られるぞ」
年相応の幼い表情でパンを頬張りながら、手を振ってくる相棒に注意して席に着く。その重量に、椅子が悲鳴にも似た軋みを挙げる。
早速話をしたい所だが、この『キエーザ亭』の店主にして調理人であるアンドレア・キエーザが、料理を運んでくるまでに終わるような話題でもないし、腹が減っていては思考が回らない。
故にレヴェントンはひたすら食事に励み、ハンナは黙して到着を待つ。
レヴェントンが皿に盛られた料理を完食し、追加の注文の呼び鈴を鳴らす頃、ハンナの前にも食事が置かれ、机が軋み、他の客が目を丸くする。
煉瓦と見紛う分厚さの牛肉のステーキに、骨付きの鶏肉のスパイス揚げ。トマトをベースにした赤いスープがたっぷりと入った深鍋、だけでは終わらず、瑞々しい葉物が盛られたサラダと焼きたてのパン、茹で上がったばかりで湯気を立ち昇らせているパスタが並ぶ。
「前に出していた東華の料理はどうしたんだ?」
「あれはお前以外に受けなかったから、舌に合う改良が出来るまでは無しだ」
「そうか、あれはなかなか気に入っていたんだが、やはり東方の食事は難しいんだな」
「お前は気に入ってたがな。謝罪と代わりと言ってはなんだが、久しぶりに質の良い牛が入ったからサービスだ。次いつ入ってくるか分からないから、心して食えよ」
「勿論だ!」
声を弾ませて、ハンナは料理に齧り付く。ナイフとフォークが猛り狂い、肉や野菜が引き裂かれて呑みこまれ、パンとスープが吸い込まれていく。
常人の何人前か、との計算を放棄したくなる量の料理であっても、骨を金属の類に置き換え、筋肉の密度を限界まで引き上げて、更に恒常的に肉体の再生能力を活性化させている戦士にとっては決して食べきれない量ではなくなる。
それらの要素に加え、ドラケルン人であるハンナの前では、そのような戦士でさえも苦戦する量でも、完食以外の結末は存在しない。
瞬く間に料理は消えて行く。途中で揚げた鶏肉が追加されたが、それも彼女を止める事は出来なかった。
「それでさ、返事はいつ来るのかな?」
両者共に完食した所でレヴェントンが今日の題目を切り出し、ハンナは緩んでいた顔を引き締めて返す。
「あの少女次第だろう。月を跨ぐ事は無いが、それなりの時間はかかるに違いない」
「ちゃちゃっともう一回乗り込んで攫えば良かったね……」
「立場的に国境を越えるのが難しいからな」
式典の類に呼ばれたりしない限りは、一応軍人である『ディアブロ』が、武装した状態で他国へ入るのはご法度とされる。以前の急襲でも、裏ではかなりややこしい根回しをしていたとの話を後に聞いた。
ロドルフォの次で決めろ、との言葉も自分達に対してプレッシャーをかける目的以外にも、その辺りの事情もあるのだろう。
だが、ハンナからすれば時間が空く事はとても望ましい物だった。表情に出ていたのか、レヴェントンは怪訝な顔で問うてくる。
「……あのパッとしなさそうなお兄ちゃんにやたら拘るね」
「……なかなか面白い相手だったからな」
力量差は、経験で培った観察眼で完全に見切ったつもりでいた。
あの少年の実力は、アークスの国軍の上級の兵士を下回る物でしかなく、噂で聞いた特殊な力も肉体強化と再生程度で恐れるに足りない。すぐに仕事は完遂出来ると踏んだ。
結果として、読みは大外れで反撃を食らい、相手の力の巡りが不完全であった為、軽傷で済んだが大技を浴びせられ、こちらも大技を使う羽目になった。
少年と再び対峙した時、あの技はもう使えない。失策を犯した自分の愚かさに、ハンナは歯噛みする。
「でもさ、あのお兄ちゃんは実際に大したことなかったよ。剣技もメチャクチャだし、腕力もハーちゃんに比べたら余裕で下。魔術もロクな物が使えない。なのにあそこまで持ち込めるって、一体どういう事なんだろ?」
レヴェントンの抱いた実に常識的な疑問に、ハンナは苦い顔を作る。あまりにも精神論的な物だが、一応答えは知っている。
「愚かさ、だ」
「愚かさ?」
「客観的に見て正しい選択や思考、そう言った類をかなぐり捨てて自分がすべき事、為したい事を選択する事だ。当然、これだけではただの自爆癖でしかない。それを果たす為に、己の持つ潜在能力を無意識の内に引き出せる者も居る。ギガノテュラスを討ったドラケルン大剣士、ハンス・ベルリネッタが自らの強さの理由として残し、私達ケブレスの魔剣の継承者も身に付けるべき物として教育を受けていた」
――私は他の二人と異なり、それを得る前に潰れたが。
自虐は飲み込んで説明を終えると、レヴェントンは暫し沈黙。
何か失言が有ったのかと、癖として身に付いた不安が膨らみ始めた頃、両手をガッチリと掴まれる。
「劣等感なんて感じる必要はないよ!」
「……え?」
今の説明でどう着地したのか。疑問は次の言葉で氷解する。
「可能性はあくまで可能性だし、才能だけがあっても、経験の前には勝てないよ。今は、そしてこれからも正しい努力を積み続けるハーちゃんが勝つに決まってるよ! ボクだって、そのためにいるんだからね! だから今は、あっちからの返事をゆっくり待とうよ!」
相方の言葉は励ましでも何でもない。ただの確信だ。情けなくもロザリスに逃げてきた自分を、恐らくは一番長く見続けた者が放つ確信は、どのような政治家や聖者の演説よりもハンナの心に刺さる。
「そう、だな。レーヴェとならば、誰が相手でも勝ってきた。魔力形成生物であろうと竜であろうと、魔女であろうと。あの少年がどのような策を講じようと同じ事だな」
「うん!」
決意の焔を目に宿し、身長差が非常に大きい二人は拳をぶつけ合う。
――君が必ず戻って来る事は分かっている。楽しみにしているぞ!
そしてハンナは、アークスにいる少年に向けて心の中で吼えた。
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