8
『ディアブロ』の期待をも、当人の預かり知らぬ内に背負わされているユカリは、未だ山頂に辿り着けぬまま迷宮内部を彷徨っていた。
彼女の目から、出発時に宿っていた光は消えつつあり、そして足取りも非常に重いものに変化していた。
獣人の群れから逃げる際に左腕を負傷しただけでなく、その後何度も敵襲を受け、服のあちこちが破れ、全身に無数の傷を作っている。
眠る前に、ハルク達から手渡されていた薬を飲んで自然回復力を高め、探索を続行しようとはしているものの、それが救いになっていると言い難いのが現実だ。
現階層より上の階層に行くことが叶わぬまま、ここ数日を彼女は無為に時間を使ってしまっている。
無論ユカリ自身も、停滞した現状をダラダラと継続する意味など無い事は、重々理解している。
しているのだが、道を阻む存在を対処する術を、彼女は見つけられずにいる。
「あれを何とかしないと先には……」
あれ、とは彼女が先日対峙したバリオクスを指している。
バリオクスによって下の階層に追放されたユカリは、どうにかしてまた上の階層へと登り、そしてまた遭遇して先に進めない、の流れをこの数日間繰り返していた。
セマルヴェルグの持つ魔力によって、迷宮は同じ階層でも様々な構成の物が存在していて、同階層の別の空間には移動出来ない。
ハルク達から教わった法則も、奴には当てはまらないという事なのだろう。どうせなら、もう少しこちらに利する例外が生じて欲しかったが、それは詮無い話だ。
もう十五回近く再挑戦している階層は、悪いことにこれまでの挑戦の中で一番複雑な構造をしている。大量の分かれ道と今まで以上に荒れた足元、そしてこちらに敵意を向けてくる生物と、探索に苦労する要素のみが存在している。
生物の気配を感じた時に、入り込んでやり過ごす為の裂け目などが多数あったりと、一応こちらの助けになる要素もあるが、それでも対等な状況からはほど遠い。
機械的に足を進めている内に、ユカリはまた新たな分かれ道の前に立った。
この手の分岐で、予め正解か不正解を判断する術はなく、行き止まりにぶち当たるまで進むしかない。
故にユカリ自身、これまで選んだ道が正解かも把握出来ていないのが実情だ。
瓶に詰められた水を一口飲み、近づいてきた獣人に対してウラグブリッツによる示威行為を行って退かせ、ユカリは暫しの間立ち止まって考える。
これまでと同様、特段深い何かによって根拠付けられた物ではないが、やや上り坂傾向を見せている道を選び、地面に落ちていた石を拾って投げる。
音に反応して、バリオクス等の凶暴な生物が出てくる事はない。
安堵の溜め息を漏らし、ユカリは再び歩き出す。
数歩踏み出した所で、足の裏の感覚が消えていると気づき、最悪の記憶が想起されてユカリの全身が粟立つ。
また「落とし穴」だ。前に落ちた時は運よく獣人がクッションになってくれたが、幸運が二度も起こるとは考え難い。
岩石の床に叩き付けられると、ヒトという生物は死ぬ確率の方が圧倒的に高い。
冷静に思考が出来たのはそこまでで、ユカリは視界が傾ぐ中、無意識の内にウラグブリッツを引き抜き、完全に身体が下へ吸い込まれる直前に大地に突き立てた。
全体重が乗った右腕が激しく軋み、表情が苦悶に塗り変わったものの、どうにか落下死は免れる。しかし、今までのダメージによって劣化していた服の一部が剥がれ落ち、それが見えなくなった頃に物体が溶解する音が届いた事で、彼女の表情が一気に凍り付く。
下にあるのは只の岩肌ではない。恐らくは強酸性の液体。それに浸かれば、生きながら溶かされる素敵な体験が待っている。
治癒の魔術が使えない彼女にとっては、ごくわずかな部位が溶けただけで終わりが近づく。
気休めにと手渡されていたナイフを、拙い動作で引き抜いて岩盤に突き刺し、体勢を多少マシな物に作り替え、一気に身体を引き上げて危機を脱したユカリは、その場にへたり込む。
青を通り越して白に彼女の顔は染められ、全身の震えと、無意識に歯が鳴らす耳障りな音が止まらない。
この程度の危機ならば、彼女は既に何度も経験している。
開けた空間に踏み込むなり『
肉体と精神両方が消耗し切っている彼女が、そのような洗礼を浴びる対象でなければ、の話だが。
――もう、帰りたい。
後ろ向きな意思が、ユカリの中で少しずつ湧き上がり始めた。
使命など知るものか、自分は死にたくないんだと、卑怯かつ、危機に立たされた者として極々真っ当な思考が、まだ彼女を侵しきっていないのは、今では単なる「帰り道がないから」との後ろ向きな理由以外にない。
無言で立ち上がり、開いた大穴を避ける形で道の端を岩壁に張り付いて歩き、ユカリは大きな溜め息を吐く。
バリオクスにこの階層で出会わない可能性など、今までの積み重ねから考えれば皆無。そして勝算も同様。
仮に彼を撃破してもう一段上の階層に辿り着いたとしても、それを上回る存在と相対する可能性だけは無駄に高い。山頂に辿り着いてからは、最早想像の余地はない。
全身を引き摺るようにして、ユカリはのろのろと歩く。
前に存在している可能性も薄いが、後ろに希望が完全に存在しない以上、前に縋る事だけが彼女に今選べる道なのだ。
薄暗い空間を夢遊病患者の様に歩き続ける時間は、不意に、そしてユカリにとって最悪の形で中断させられる事になる。
突如として眼前の地面が割れ、そこから黒い泡が湧き上がる。
湧き上がった泡はやがて人の形を取り、両目と思しき場所に光を灯し、不定形の武器を掲げて戦闘体勢を執った。
ハルク達が作った、エル―テ・ピルス内部に生息する生物の目録には無かった相手であり、接近戦を挑む事に不安は確実にある。
湧き上がる感情を振り切るかのようにユカリは走り、距離を詰める。意表を突く登場だったが、人型の何かの動きは緩慢で、あっさりと懐に入り込む事に成功。
「当たれぇっ!」
間抜け極まりないと、声に出してから少し感じた叫声と共に、ウラグブリッツを抜刀。
極限まで薄く作られた青緑色の刀身が、ユカリの動きに呼応、いやそれ以上の速力で閃く。
柄を通した彼女の手に、粘ついた液体に触れた時とよく似た感触が伝わる。
感触に何らかの感情を起こすより速く、ウラグブリッツは敵の身体を通り抜け、同時に刀身から放射された烈風が、人の形を完全に崩壊させる勢いで相手を切り刻んだ。
気を緩めたいところだが、相手の詳細が分からない以上油断は禁物。
深追いではなく一旦距離をとる事を選択し、ユカリは慣れないバックステップを行って後退。
大きく深呼吸して颶風剣を構え直した時、側頭部に衝撃が走った。
「い――」
声が言葉となるよりも先に口が塞がれ、壁の中へと引き摺り込まれる。
――こんなところに隠し扉があったなんて!
見落としていた事を悔やんでいる間に、隠し扉の先にあった小部屋の地面に叩き付けられる。
「釣れた釣れた。久しぶりだったが、こんな間抜けな、だが見た目は良い物がここに来るとはついているな!」
嘲りの声の方向に顔を向け、その主と小部屋のおぞましい内装を目にして、ユカリの表情が凍り付く。
「どうだ? 私の家は!?」
時折り気配こそ感じてはいたものの、敵対的な行動を選択されるのを恐れ、接触を避けていたヒト型生物と、久方ぶりの対峙を果たしたが、相手の異様さのせいで喜びは一片たりともない。
最早只の布切れに近い
本人の意思とは無関係に、あちらこちら動き回っている瞳と、恍惚とした表情に恐怖を煽られていると、男が何らかの魔術を発動し、ユカリの両腕は拘束される。
「どうした? この素晴らしい家に感想はないのか!?」
感想など、真っ当な神経があれば言える筈もない。
男が家と呼ぶこの小部屋に置かれている物は、全てヒトの身体が素材となっているからだ。
壁面に置かれた棚は人骨で構成され、その中には、瓶詰めされた人の眼球が丁寧に詰め込まれ、光の無い眼差しがユカリを凝視している。
天井からは、それぞれ付け根の所で切断が為され、干物と化したヒトの脚と腕が等間隔でびっしりと並ぶ。
隅の方には、ガッチリとした男の剥製がズラリと並べられ、目の有った部分には全て鉄の串が突き刺さっている。
他にも大量のハンドメイド製品が部屋のインテリアとして存在し、この男がどういう事をしているのかが、非常に良く分かった。
そして、自分がこの被害者達の仲間入りを果たすという思考の終着点にも、ユカリは悠々と辿り着いてしまった。
「や、やめ……」
ユカリの抵抗の言葉と動きは途中で止まり、代わりに絶叫が響き渡る。
両足首に鉄の杭が刺さり、床に彼女の身体が固定されていた。
視界が朱に染まり、身体が折れそうになった所で腹に拳を入れられ、強制的に立たされ、理性が失われた男の、無遠慮な視線をしばし浴びた後、杭を引き抜かれて地面に転がされる。
「うるさい。……手も足も身体も貧相で価値は無いな。でもまぁ、顔は悪くないから、活用は出来るか」
意味を理解したくない発言と共に、男は一度ユカリから離れ、これまた人骨などで作られた箪笥を開いて、何かを探し始めた。
「っつ、うぅ……」
逃げるなら今しかないと分かっている。だが両足が動かない。骨も肉も両方損傷していること以上に、非現実的な負傷をしているという恐怖が、ユカリの精神を蝕んでいるのだ。
そうこうしている間に、男が巨大な鉈と瓶を担いで戻って来てしまう。
瓶を満たしていた液体が首にかけられ、激烈な痛みに首を抑えて転げまわるユカリを見ながら、男は最悪の趣向を丸出しにした笑声をあげる。
「あへひゃははあはへへは! 安心しろ、すぐに終わる! その歪んだ顔も、綺麗に整えてコレクションにしてやる! ……不味い、我慢が出来無さそうだ!」
理解を全力で拒否したい言葉と共に、最早声も出ないユカリの腹を踏みつけて、男は鉈を高々と振り上げる。
一瞬、恍惚とした表情でここではない何処かを見た後、鉈は迷いなく首筋へと振り下ろされる。
こんな死に方が、あっていいのか。いや、良い筈がない。
そんな感情に浸食されて、ユカリの意識は失われる。
「○○○○○!」
「!?」
部屋の外から聞こえてきた、聞き覚えの無い言葉と声、そしてあの人型が弾ける物と思しき水音で、男の手が止まり、ユカリの腹から足が引かれる。
「コレクション候補が多く来るのは喜ばしいが、今に限っては邪魔だな。……殺してからにするか」
踵を返し、部屋と外部が繋がる穴へ男は姿を消す。
そして数分が経過した頃、男の絶叫と何か重い物体が床に落ちる音が、ユカリの耳に届く。
これだけならば救いであり、ユカリの表情は少し緩む。だが、二つの声と足音が聞こえてくる事に気づき、また凍り付く。
『何だったんすかね、あの変態男?』
『大方精神を侵されて、この山に住みついたんだろうよ。あの手の輩は平地でもたまにいる』
『はぇー、それでコレクションだなんだ言ってたんすね。……で、何で部屋を確認するんですか? ……嫌な予感しかしないっす』
『作業中がどうたら言ってただろう。誰かが捕らえられていて、ソイツはまだ生きているかもしれん。生きているのなら、助けても良いんじゃないかと思ってな』
『なるほど』
二つの声による会話はこんな物で、およそユカリに対して敵意等を持っていない。
では何故、ユカリの表情が凍りついていくのか? その答えは単純だ。
声の主は二人共ノーティカの国の者であり、当然ながらノーティカ語によって会話を行っている。
つまり、ユカリは近づいてくる会話の内容を解せないのだ。
「……こ、ころされる。はやく逃げないと」
麻痺しかかった口から言葉を吐きながら、足に頼るのを諦めて両手で這いつくばるようにして動き始めるが、この部屋から出る方法は、声が近づいてくる空間を抜ける事のみ。
結局、何も事態を変えられなかったユカリと、ノーティカ人の男達は対面を果たす。
『うおっ! 本当にいたっすよ! ……女の子一人って、酷い事しやがるっすね』
『……いきなり『
イッカクの角を模したと思しき突剣を、腰に差した背の高い男がユカリに問いかけてくる。
善意に基づいた男の言葉は、言語の違いと、精神が恐慌状態に陥っているユカリには届かず、彼女は只ひたすらに後退って、二人から距離を取ろうとする。
『……もしかして、言葉通じて無いんじゃないっすか?』
『かと言って、このまま放置するのも不味いだろう』
『なら、『睡牙』でも使いましょうか? 落ち着いてから対処するって事で』
『そうするか。……頼むぞ』
背の高い男が後ろに引き、両の手に丸ノコの刃に似た物体を装備した、小太りの男が進み出て、笑いながら呼びかける。
『あー落ち着いてくださいっす。俺ら敵じゃないんで。取り敢えずアンタが寝てる間にここ脱出しますんで、そっから話をしましょうや』
努めて敵意が無いことを示しながら、小太りの男はユカリへと接近していく。
が、丸ノコの刃が旋回を始めた事で、ユカリは更に怯えの色を浮かべて、地面にへたり込んだまま更に後退を続ける。
『いや、これはアレなんすよ。魔術の発動準備であって、アンタに危害を加えるつもりは……』
「……嫌だ、こないで。こないでぇッ!」
完全に言語が通じないことで、男達の善意は届かない。
やがてユカリの背中が壁に当たり、逃げ道が失われた。
『痛くないから大丈――』
退路が無くなっても尚逃げようとするユカリに、笑いながら丸ノコの刃から光を発した男の姿が、強烈な破砕音と共に消失した。
鰐に似た頭部の先端に、男の残骸を引っかけたバリオクスが、壁を全て破壊して表われた。
「ガアアアアアアアアアッ!!」
この階層全体を震わせる咆哮と共に、バリオクスはその場で超高速の旋回運動を開始する。
突如として相方を失いながらも、気丈に突剣を構えた男の頭部を、大量の棘が並ぶ尾でへし折って身体から離脱させる。
「あ、あぁああ……」
地面に転がり、巨大な前肢で圧潰された頭部からの液体をユカリは浴びる。
今度こそ絶体絶命の危機だ。数日前に対峙した時とは異なり、逃げ道はない。
為す術もなくへたり込むユカリに対し、バリオクスは再び旋回。
頭部への直撃は免れたが胸部を尾の棘が掠め、服と皮膚が裂けて、肉が舞って骨が砕ける音も聞いた。
痛みに対しての感情が振り切れ、笑いそうになるほど傷口から血が溢れ出し、ユカリはもう動く事さえも出来ない。
ゲームセットは、もう目の前だ。
――たべられる。それとも、潰されるのかなぁ……。
非日常、かつ残酷な二択問題を頭に浮かべるユカリだったが、捕食を選んで口蓋を大きく開いたバリオクスは、突如としてその巨体を反転させて、自らが開いた大穴へと消えていく。
生物に詳しい者ならば、彼が何かに怯えるようにして退いたと察せられただろうが、素人そのもののユカリが知る筈もないし、退却した所で彼女に突きつけられた厳し過ぎる状況が好転した訳でもない。
寧ろ半端に生きているが故に、恐怖が何度も勝手に反芻されて彼女の精神を蝕み、麻痺していた痛みの信号が喚き始める。
それらをどうにか出来る方法が無い今、ユカリの感情が行き着く所は一つだけだった。
「……もう、無理だよ。痛いよ、怖いよ、帰りたいよ……」
自らを鼓舞出来なくなり、ユカリの目から涙が流れ、口からは嗚咽が漏れる。一度外に出てしまったそれは、最早止まらなかった。
「ヒビキ君、フリーダ君、ライラちゃん……。あんな事言ったのに、何も出来なくてごめんね。でも、私はもう歩けそうにないよ」
二人の男の惨殺死体以外、誰も聞く者がいない空間の中で、ユカリは意識が消えるその時まで泣き続けた。
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