20

 敗北者が集う町の、敗北者の為に在るマウンテンから家への帰路を、ヒビキは一人で歩んでいた。そこに集う生物を狩り、身体の各部位や廃材を集めて換金する、何の感慨もなかった退屈な行為さえも、今の彼にはとても愛しい物となっていた。

「……」

 徐にスピカを鞘から抜いて掲げ、月明かりを受けて幻想的に輝く蒼の異刃を見つめる。露出しているその左腕には、蛇がのたくったような傷跡が刻まれていた。

 腕に留まらず全身に受けた、ヴェネーノから受けた斬撃の傷は痕が一生残ると宣告されたものの、身体機能や大よその外見は闇医者の高い技術で、崩壊は免れた。

 散々説教はされたが、それすらも立ち位置を取り戻していなければ叶わなかった事と、ヒビキは闇医者に頭を下げ、気味の悪い何かを見る目で見られた。

 身体の状態と支払いについて、ファビアとやり取りを終えて周囲を見渡すと、そこにはアークスの警察機構を統括する者、ヒビキにとっては違う世界の存在が深々と頭を下げる光景があった。

 異様に長く回りくどい話を総括すると、「あなたを殺人犯として指名手配した事はこちらの失策だった」との中身で、「その程度は一分で纏めろ」と吐き捨てたファビアの言葉に、内心で大きく頷いた。

 ともかく、これでヒビキに付いた汚泥は大方拭われた事になる。

 「善なる一般人」からの評価は負に振り切れたままだろうが、王国が態々雇い入れた者が殺人者だったという、彼らがより「正義」を執行しやすく「正しさ」を振りかざして楽しめる事実が出てきた今、所詮底辺のヒビキはすぐに忘却されるだろう。

 加えて、今の彼にとって、そのような存在はどうでも良い物と括られるようになっていた。


「……」


 首筋に残された、吼える竜を模した紋章を軽く撫でる。軽い動きだが、刻んだ男の強靭な意思と力の記憶が蘇り、戦いの最中で吐き出した自分の嘘偽りない感情が呼び起こされ、無意識の内にヒビキの顔が引き締まる。

 ラッバームを打倒した賞金で、ファビアへの支払いは完了し、借金の増加は辛うじて免れた。

 傷跡と紋章を残し、少女から奇跡の助力を得て打倒したヴェネーノの賞金も、ラッバームと同様に申請すれば得られた可能性は高く、そうすれば借金完済も叶っただろうが、ヒビキはそれを行わなかった。

 何の為に力を求め、戦っているのかの指針を引き摺り出し、抱いていた感情を明確に認識させてくれた男を金に換える行為は、彼を貶める冒涜だと感じたのだ。

 ここ数日で身体を動かしただけでも、自分の動きに飛躍的な洗練が起きていると彼は身を以て体感していた。それは恐らく、ヴェネーノによって引き出された指針が、身体に定着したからだろう。

 喜ぶべき事が複数起きている、珍しい状況を頭の中で反芻しながら、コートをはためかせる夜風と共に歩むヒビキの足取りが唐突に止まり、生身と金属、二つの手を見つめる。

 嘗て死を拒んだ自分が手にしたのは、人殺しの為だけに作られた身体だ。そういう意味では、殺害された依頼人宅でぶつけられた罵倒は正鵠を射ている。今回の一件も、理性的で誰も傷つかない手を打てず、暴力で全てを終わらせた。

 異邦人の少女に、戻ってきたら伝えたかった言葉は、結局言えずにいる。薄汚い暴力の世界にいるべきでない彼女を、そこに引き摺り込んだ自分が「好きだ」と言う資格などないのではないか。

 迷いが二の足を踏ませた結果、ユカリに対して言えたのは「元の世界に戻る策を探しに旅に出よう」だけだった。彼女は乗ってくれたし、元の世界に戻れるならそれが一番良い。

 抱いた感情を伝えたいなど、只のエゴであり、その手のものは決して人前に出さず、無意識の内に引いた一線を越えないように生きるのが世間の定義する正しい生き方だ。

 だが、ヒビキは一線を越えた先にも道はあると今回の一件で知った。ユカリに思いを伝えることが、正の方向に事態を転換させる可能性を、ここから先の自分は期待し、そして選ぼうとするだろう。

 今回の選択は及第点の結末を齎したが、この問題に関してはどう転ぶか分からない。どうしようもない破滅を、選択が描き出す可能性も十分以上にある故、慎重にならざるを得なかった。

「いつか言いたいな。……でも俺は、言えるようになるのかな」

 飾り気のない率直な感情を呟き、夜空から視線を戻したヒビキは歩みを再開し、思考を旅に切り替える。

 幸い向かうべき場所は一定程度見当が付いている。重要なのはどれだけ安全に、そして効率良く行けるかが――

「……!」

 不意にヒビキの視界がブレ、支えを失ったかのように地面に倒れ伏す。一体どういう事だと疑問を抱きつつ立ち上がろうとした時、彼に激烈な変化が訪れた。

 バシャリ、と嫌な音を立て口から血と黒い汚液が盛大に零れ落ち、地面を瞬く間に汚していく。拭おうとしたヒビキだったが、その動きさえも止まる。


「がッ! ああああぁッああああああああああああ!」


 生身、そして金属。彼の身体を構成する部品が皆例外なく魂を砕きにかかる激痛を発し、ヒビキは獣の咆哮を上げて地面を転がる。

 緩和してくれる物が何もない無慈悲な痛みが何故生まれたのか、当然の疑問は、全身の中で図抜けた痛みと熱を放っている箇所が脳と、白濁しつつある意識の中で理解した瞬間に氷解する。


「……そう、か。ヴェネーノに使ったアレの反動か」


 脳を補助する為に配された血晶石の役目は、処理能力を生物の限界を遥かに超えた領域に向かわせ、使用者を「特別でない者を特別に」変え光の世界に導く。

 ヴェネーノと初めて戦った後、ファビアから治療と共に受けた説明が記憶の海を急激に浮上する。

「生物の限界」を超える事が易い筈がない。

 ファビアの指摘は実に真っ当であり、ヒビキ自身も覚悟はしていた。

 していたが、その覚悟が現実と比すると甘い物でしかなかっただけで、これが現実なのだと、世界最強の男を打倒する結果への対価、即ち身体が解体される光景を幻視する痛みを支払う中で、ヒビキは嫌という程理解させられた。

「……」

 ここで転がり続けていては、誰かにこの光景を見られてしまう。そうなれば、ユカリにも異常が伝わる。それだけは避けなければと、激痛を堪えて立ち上がったヒビキは喀血を強引に抑え込んで前進を試みるも、いつの間にか現れていた者の姿を目にして足を止める。

「……何の用だ?」

 ライラの父にして、ヒビキの全身を作り替えた男。そして、彼の育ての親カルス・セラリフの友人だったノーラン・レフラクタが、そこに立っていた。

 元々の職業を加味してもあまりに白く、枯れ木同然の四肢は今にも倒れ伏しそうな不安を見る者に与える。家族であるライラでさえも会話の類が皆無に等しく、外出もまた同じ彼が何故ここにいるのか。

 疑問が明かされるより早く、煮凝った声が放たれる。

「……使ったようだな」

「使ったさ。引き篭もっているアンタと違って、動かなきゃ死ぬからな」

 カルスが消えて以降、異様に敵視してくる相手なら、友人の肉親でも礼節は不要と、ヒビキの棘のある返答を、ノーランは侮蔑に満ちた薄ら笑いで受け止める。

「それがお前を死に導いても、か」

「脳ミソあんのか? 突っ立ったまま死ぬ趣味は俺にねぇよ。足掻く事を放棄して生きられる程人生甘くないって、アンタの方がよく分かってる筈だろうが」

「運命の外にいる者がどう足掻こうと無意味だ。ましてや、選ばれた者の命を卑しくも奪い取り、のうのうと生きているお前なら猶更だ」

 運命。選ばれた者。日常ではまず用いられない語句が盛り込まれた言葉は、精神が壊れた者が喚く世迷言と切り捨てる事が一番真っ当な着地だ。

 だが、光が失せた目に宿る、自身に対する悪意以外の感情。即ち極大の恐怖を見たヒビキは、ノーランがユカリの来訪に関連する何かを知っていると確信を抱く。

「アンタは何を知っている? その口ぶりらユカリのことも、おやっさんのことも自事態に関わっている筈だ。……答えろ」

「お前にだけは話すつもりなどない。……外にいる者に話した所で、死んで無駄になる。これだけがお前にある正しい未来だ」

「待ち――」

 追及しようとしたところで痛みがぶり返し、再び地面に倒れ伏したヒビキに関心を失ったように、踵を返したノーランは杖で土を叩く音を残して去っていく。

 ――運命ってのは一体何だ? ユカリも、ペリダスも、……イサカワもそれに巻き込まれたって訳か? 一体、この世界で何が起こっている?

 続々と疑問が生まれ、それが激痛と共に思考を埋めていくが故に、身体の何処かに亀裂が入る残酷な音が生まれたことに、ヒビキは終ぞ気付きはしなかった。

 ペリダスやヴェネーノといった敵や、今対峙したノーラン。そしてヒビキの身体に善意で触れた者が指摘する、呪いのような定めと、それへの道を刻む何かが進んだ事実は、夜の空とそれを描き出す世界だけが認識していた。

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