6.フォール・トゥ・スカイディスペア

回想:荒野を裂く鮫

 インファリス大陸の何処か。


 お世辞にも軽やかと表現し難い足音の塊と、土埃を騒々しく巻き上げながら、許容量を遥かに超えた大きさに膨れ上がった背嚢を背負った男が、際限なく広がる荒野を駆けていた。

 日頃、運動から縁遠いと一目で分かる生白い肌を恐怖で更に白くして、全身から滝のように汗を流す男は、何やら口を開閉した後、意を決したように顔を上げた。

「君達の、縄張りを、犯した事は非常に、申し訳なく思う! だから、いい加減許してくれないかなぁっ!」

 振り返り、枯れきった声で訴えるも効果は皆無。諦めたように再び男は前を向き、止まりそうな足に何度も鞭を入れる。

 男を熱心に追うのは、翼が退化し、走行能力を手に入れた走竜種『タルボヌス』の群れ。爬虫類の性質を色濃く残す竜属は、魔術が一切使用出来ない為、一定の実力を持つ者なら油断しなければ負けない程度の存在と括られる。

 だが一般人なら話は別で、追われる男の戦闘能力はまさに一般人そのもの。彼我の距離は徐々に詰まり、そして男の転倒で逃走劇は終わりへ急加速する。

「どうにも私はこれまでだ。ジーナ、結婚したばかりで死ぬ私を……」

「なぁあんた、生き延びたいか?」

「……は?」

 疾走するタルボヌスの姿が大きくなり、最期の言葉を並べ始めた男の耳に新たな声が届き、慌てて視線をそちらに向ける。


 すると、彼の履いている靴の模様を背に刻んだ男の姿があった。


 五指の間に水かきに似た小さな膜が伺える、荒波の如く逆立った青髪の男は、ゆっくりと手を伸ばし、身を竦ませる自分を踏み付けた相手に言葉を投げる。

「不躾で悪いが食い物をくれ。ここ数日何も食ってなくてな」

 場にまるでそぐわない依頼に、男の目が真円を描くも、死にたくないという感情はとても強く、可能性を提示されれば、彼に乗る以外の選択は無かった。

「こ、こんなものしかないが……」

「……ん、まあこれなら何とかなる、か」

 過酷な道中に付き合わせた結果、平時ならゴミと判定されるカビかけた焼き菓子を背嚢から慌てて掻き出し、男は頼りになるのかならないのか、微妙な言葉を溢しながらそれを受け取って口に放り込む。

「は、はやくしてくれ! もう……」

「オーケーオーケー。準備万端だ」


 不意に地面が割れ、蒼の鉄柱が姿を現した。


 実情は、大地に深々と突き刺さっていた武器が、立ち上がった持ち主によって引き抜かれたという単純な光景なのだが、纏う空気の激変と大地の割れ方を受け、男はそう評するしか出来なかったのだ。

 袖の無いシャツ一枚に、各部に雑な修繕痕が見える粗末なサバイバルズボンで覆われた鉄塊の如き身体。そこから放たれる威圧感は、隣に立つ男の皮膚を泡立たせ、距離を詰めていたタルボヌス共の行動をも停止させた。

「三十……八か。何頭来ようが、敵じゃないな」

 別人のように引き締まった声からは、強者特有の冷酷さと、己の力量や勝利を掴み取る未来への絶対の自信。青髪の男は、髪や露出した腕を彩る刺青と同色の巨大な剣を掲げ、そして告げる。

「サービスだ。『鮫牙征海浪撃カルスデン・ヴェトレツァス』」

 相手に対する侮辱、と捉える事も可能な遅々とした速度で、蒼の刃が降ろされた。 

 ただそれだけの動作で、刃の着地点となった地面から膨大な水が噴き出し、水は無数の鮫に転じてタルボヌスに襲い掛かる。

 生なき鮫の噛みつきで硬質な走竜の皮膚が切り裂かれ、そのまま体内を駆け抜けて大穴を穿つ。

 幸運にも撃墜成功した個体も、明後日の方向から跳ねてきた水滴に身体を削られ、悲鳴を上げて動きを止めてしまい、別の鮫に食い千切られる。別の個体は、尾の一撃を受けて肉のサイコロに転生を果たす。  

 へたり込んで眺める他ない男は、職業柄放たれた技を無意識に分析し、答えに辿り着いて背筋に薄ら寒い物を感じた。

 魔術によって引き出された水は、精製水同然の物もあれば何かが混ぜられている物もある。眼前で地獄を展開している水は紛れもなく後者に属し、切断力から鑑みるに工業の世界で用いられる物に混入される研磨剤と同質の物が混入している。

 加圧して物体に激突させれば大抵の物質は切断可能で、生物の肉体など思考の余地がない。だが、こうして水そのものに自律的な行動を付与して制御するなど、彼もこの瞬間が初めて見る光景であり、発動者の技量と魔力量に唯々驚愕する他なかった。

 やがて、タルボヌスを全て肉塊に変えた鮫たちが只の水に回帰し、水は地面を抉り取りながら何処かへと消え、荒野に沈黙が降りる。

「っし、終わり」

 悠然と剣を背負い、一方的な虐殺を展開した男が向き直る。

 文字通りの三白眼に、岩から削りだしたような厳めしい造りから、何処か甘い空気も感じられるアンバランスな顔には、先刻までの闘争の炎はない。

 何度も首を縦に振る相手に対し、虐殺者は笑って口を開く。

「俺の名はカルス・セラリフ。お前は?」

「ノーラン・レフラクタだ。しかしあなたのような……」

「馬鹿面が『あの』カルス・セラリフなんて嘘だ、ってか?」

 笑いながら問うてきたカルスに対し、今度は首を横に振る。

 コーノス山脈を越えた先にある、海と共に生きる者が集う国ノーティカは、ノーランが住まうアークスとの関係性がそれほど濃くはないものの、傭兵を出荷して富を得る国として名は売れていた。

 戦士の出荷という商売を行う関係で、優秀な者ほど外部に流れる傾向が強いノーティカが、ヒト一人の身に余る厖大な対価を払って繋ぎ留める化け物であり、敵を徹底的に解体し尽くす戦闘様式で、同胞からも恐怖を向けられていると噂されているのが、ノーランの眼前に立つ男が持つ物だった。

「国の鎖は切れたし、恩人のお前を殺すつもりもない。じゃあな」

 一歩踏み出そうとした時、地響きに似た腹の音を発せられ、カルスの足が止まる。

 その様子を見て、一方的な蹂躙を目撃した事実や、肩書きに対する恐怖も忘れノーランは笑い声を溢す。

「携帯食料も無い状態なんだ、路銀も持っていなければ、行く場所も決まっていないんだろう? 私の町に来ないか? 君がノーティカで持っていた物は殆どないが、良い場所だよ」

「いや、敵国に入るのは不味いだろ」

「家も食事も、そして見栄えは悪いが仕事もある」

 振り切って歩みを再開しようとしていたカルスの首が大きく捻られ、その状態のまま、ノーランに問いが投げられる。

「その仕事はアレか、お前の国の為政者を殺せとかそういう感じの奴か?」

「そんな訳ないだろう。只の廃材集めだ」 

 回答を受け、カルスは何度も目を瞬かせ、やがて口の端を吊り上げる酷薄な笑みを浮かべ、ノーランに接近していく。

 ――失敗したか? 折角危機を超えたのに、ここで……。

「乗った。お前の国に連れて行ってくれよ」

 殺害への恐怖に目を閉じたノーランの耳に、状況からすれば意外過ぎる言葉が飛ぶ。

 恐る恐る目を開くと、闘争心が完全に失せた男の顔が視線の先にあった。

「……本当か?」

「家も金もないのは事実だからな。それにお前が提案したんだから、嘘も本当もないだろ。……行こうぜ、とりあえず休める場所を見つけないと駄目だ」

 投げられた問いへの答えを、地面に叩き付けるように放ち、カルスは歩みを再開する。化け物と呼ばれた男が彼の過去から遠く離れた提案を受けた事、そして自分の命が繋がれた事実への安堵。

 これらが混ざり合って、ノーランは表情を幽かに緩め、そして口を開く。

「ああ行こう。だがカルス、その方向だと私の国から離れていくぞ」

「……知ってたよ」

 盛大に足を滑らせながら溢した言葉には、虚勢が多分に含まれていた。その事実が妙におかしく感じられ、ノーランは疲弊も忘れて大笑したのだった。


「……」


 天板の殆どを本に支配された机に伏していた、病的に白い肌を持つ男の目が、ゆっくりと開かれる。机と部屋の主、ノーラン・レフラクタは先刻まで見ていた光景が夢だと認識し、机上に転がっていた眼鏡をかけ意識を完全覚醒させる。

 あの時の出会いが、何故今浮上してきたのか。

 それはカルスと同じ力を持つに至った、自分がこの世界に解き放った少年と対峙したせいだと一瞬で結論を弾き出し、年齢以上に老けて見える男は顔を歪める。

「お前は最初から最後まで善だった。あの時の善行だけは、命を捨ててでも止めておくべきだったが」


 生気の失せた声を溢し、ノーランは乱雑に貼り付けられた図面の内、二つを意味もなく見つめる。


 彼が生み出した『魔血人形』の設計図と、カルス・セラリフの部屋にも転がる、血晶石を用いた『世界を跨ぐ手段』が記された図面が、彼を嘲笑するように、当時と変わらぬ彩度を保ち視線を受け止め続けていた。

「お前の願いは果たされるのか。……いや、運命の外にいるアレには無理だろうな」

 嘆きと悪意が等分に含んだ言葉は、発信者以外に聞かれることなく、薄暗い部屋に溶けて消えた。


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