8

 一つの島の一つの建造物の中としては異様に過ぎる多様な環境を、潜入者達は何日も費して踏破し、確実に上層へ向かいつつあった。

 人跡未踏と思しき層もあれば、真逆の状態を示す痕跡が多数見受けられる階層も混在し、現れる生物や仕掛けられた悪意も異なっていたが、潜入者達にそれほどの疲労は見受けられない。

「いい加減、別の景色も見てーな」

「ならさっさと歩いてくれ。アンタが金目の物がどうたら言う度、行軍が止まるんだからな」

「いや、それは団の結成理由的に……」

「度が過ぎるなら置いて行っても構わない」

「いやそれ酷くね頼三!?」

「自業自得じゃないんすかねー」

「おゥい、リスペクト何処にやった!? 泣くぞ!? 三十超えた男が泣くぞ!?」

 蓮華のボヤキを起点に発展していく戯けた会話に、ヒビキ達の表情は少し緩む。ただ、この瞬間歩んでいる階層の光景を再認識するなり、緊張の糸は瞬く間に張り詰める。

「……ペリダスみたいな敵が出てきそうだね、ここ」


 ユカリの呟きに、ヒルベリア側の二人は揃って首肯。


 雑草が繁茂し、各所に破損と風化が伺えるが、一定の規則性を持って並ぶ白磁の胸像や、色が加えられた硝子窓。生物が単純に生きるには不要な鍵盤楽器といった物は、ここに何らかの知的生命体が居た事を匂わせる。

 ユカリと同質の存在ながら、この世界に闘争を挑んだ事で『正義の味方』と括られたヒト型生物が居ても説得力を感じる空間は、しかしこの場所がどこか思い出せばすぐ違和感が湧き上がる。

 今まで抜けてきた空間と何かが違う。

 口にこそ出さないものの、共通の認識と緊張感を抱いて一行はこの美しくも不気味な階層に一昨日踏み込んだ。

 不意に鼻歌を奏でていた蓮華が短剣を放る。一直線に飛んだ鈍色の刃は、空中で短い悲鳴を奏でたかと思うと、すぐに地面へ落ちる乾いた音を生み出した。

「……馬鹿げた腕ですね」

「俺は下手な方だぞ。でもま、フリーダにも稽古付けてやろうか?」

「……遠慮しておきます」

 無音で忍び寄っていた『鎧虫』アクタヌスの唯一の弱点である甲殻の隙間に、対象を見もせずに短剣を捻じ込む曲芸への驚きは、かなり薄らいでいる。

 仕留められた甲虫も地上では希少な為、最初は目の色を変えて甲殻を拾い集めていたが、ここでは羽虫同然の存在と知った今、足を止めて拾おうとする者はいない。

 ヒビキもまた、甲虫に意識を向けることなくユカリに問う。

「ここまでで、元の世界に繋がりそうな物はあったか?」

「……無い、かな」

 口元に軽く手を当てて視線を彷徨わせた後、苦笑と共に返ってきた答えは、いつも通りだが堪える物だった。

 異なる方向に発展したこの世界とユカリの世界では、ヒトの手が及んでいない場所が何処なのか。この点は不思議と一致を見ていた。

 

 深海、高空、高山、そして惑星の外。

 

 他の場所と比して桁外れに多い、踏み込む為に求められる物を満たしても尚、帰還可能性が極めて低い故、知識が殆ど得られない場所に飛行島は該当している。

 非現実的要素に満ちたこの場所なら、もしかすると。踏み込んだ直後の緊張と、身体の順応が落ち着いた頃から抱いていた期待の結実は、現時点ではない。

 目の前の事態を一つずつ切り抜ける事が重要で、先に目を向け過ぎると足を掬われる。焦りを鎮める為に何度も繰り返し、友人や年長者からも受けた言葉は正しい。

 だが、その正しさには問題解決を先送りする逃避の感情も少なからずあった。見つからなくても「いつか」きっと状況は変わる。だから、今空振りしてもそこまで深刻に受け止める必要はない。

 希少性の高い場所での空振りによる落胆で、図らずも内在する甘えを炙り出され、ヒビキは足元に転がる小石を思い切り踏み付けた。


 快楽のツボから外れた音は、背を思い切り叩かれて掻き消される。


 咳き込みながら振り返る、その前にヒビキの身体に金の塊が貼りついて揺さぶられる。ヒノモト人の団長を筆頭に人種の幅が広いこの一行で、金色を持つのは一人、いや一本だけ。

「アンタ何……」

「ヒビキ君、悩みがあるならちゃーんと話しましょう! 人生の先達たるこの私がばっちり解決して差し上げます!」


 ――この人から、人生の先達っぽい台詞を初めて聞いたな。


 全身の激しい揺れと背中に伝わる柔らかい感触の波を、どうでも良い思考でどうにか流し、それを口にせぬままルーゲルダを引き剥がしにかかる。

「こらー! おねーさんに何も言わずに実力行使とは何事ですか!」

「おねーさんって年でも無いだろ……アンタ何歳だよ」

「あっ、ヒビキちゃんそれ禁句」

「レディーにそんなこと言うなんて酷いですよヒビキ君!」

 ぽつりと漏らしたライラの指摘通り、どこにそんな力があるのか聞きたくなる程に、細い腕から伝わる力が強まる。

 外から見ると微笑ましい光景なのか、水無月怪戦団の連中は笑うばかりで助けに来ず、金髪少女の中身を知っている蓮華は、隣に立つ千歳に何やら耳打ちをして笑っている。

 ヒトの非情さと物理的な息苦しさに押されながら、ヒビキは難儀してルーゲルダの拘束から脱出する。

 ハルク・ファルケリアより少し年上の弁を信じるなら、『忘想剣ルーゲルダ』は若く見積もって七十歳に近い。最多種のヒト、ヒュマなら墓と葬儀を検討し始める年だが、その事実と威厳を一切感じさせずに頬を膨らませる金髪少女を見据え、口を開く。

「くっだらねぇ悩みだよ。アンタに話すような事じゃない」

「そういう物を共有してこそ信頼関係が築けるんですよ!」

「それをレンゲにも言ってくれ」

「あ、ここで流れ弾撃つのかー」

「あんな悟っちゃってる系はもう矯正不可能です!」

 抗議を酷い形で切り捨てられ、流しの言葉も思いつかずに視線を逸らす他ないヒビキに、金髪少女は白い歯を剥き出しにして笑う。

「しっかたないですねぇ! ヒビキ君はそういうピュア系男子でいてください! ……でも、本当に大事な人には、全部伝えましょうね」

「……おう」

 意識を深く傾けてようやく聞き取れる声量で、的確に刺さる指摘を放ったルーゲルダに、鈍い返事をしてヒビキは前を向く。

「大したこと言われてねぇよ。ちょっと馬鹿な事だ」

「そっか」

 元四天王の指摘が一番当て嵌まる少女に先手を打つ形で答え、一歩踏み出した直後跳ね退さる。

 但し、二刀はまだ抜かない。暴力を必要とする存在が来た訳ではなく、他の者もそれは同じ。

 では、緊張感を走らせる気配の正体は一体何か?

「伏せろ」

 手本を示すように、素早く地に這いつくばった老戦士の声を受け、皆が反射的に追従した瞬間、答え合わせが為された。

「――ッ!」

「ヒビ……きゃっ!」

 デネブを地面に突き立てて身体を縫い止め、ユカリに覆い被さったヒビキの視界が旋り出す。彼が内に抱えている懸念と別の物が来たのは、頼三の掛け声と周囲と己の口から漏れる苦鳴で分かる。


 ――この揺れ、階層全体が回ってるのか!


 ご丁寧に軋み音や、整備不良の機械にありがちな不安定な回転速度も完備し、潜入者達の不安と恐怖を煽る回転は予想以上に長く続き、行きつ戻りつだが加速していく。

 建造物にこれだけの動きを強いるのはやはり無理があるのか、天井や壁面から剥がれ落ちた白塊が殺意を持って地面へと落ちていく。

「防げる奴は防げ! 出来ない奴は……叩き斬れ!」

 騒音塗れの空間でもやはりよく通る、蓮華の指示は言うまでもなく無謀だ。

 魔術構築の下準備すら出来ない状況下で、実際に選べるのは後者のみだが、全身の感覚を激しく侵されている今、後者も分の悪い賭けになる。

 耐え忍ぶしかない。そのようなヒビキの決断は、しかし彼がふと上に目を遣った瞬間粉砕される。

 無駄に荘厳な装飾がされていた天井。その一部が剥がれ、一行に向かって落下を始めていた。

 一部と言えど、広大な階層を覆っていた為に、甚大な被害を与えるに足る大きさの白塊は皮肉な程正確に落ちてくる。

 全員が死亡や負傷する事は無いだろう。だが、誰かが負傷する可能性がある。となると負傷者が自分やユカリ、友人達である事も十二分。

 ――やるしか、ないか!

 回転によって即座に吹き飛ばされそうになりながら立ち上がり、ヒビキは加速する白塊を睨んで『器ノ再転化』を実行。激しく攪拌される視界で、慎重に狙いを付けていく。

 外せば終わりの博打の緊張感から頬を伝う汗。それすら押し流される世界で、ヒビキは引き金を引き、同時に全身を重力で殴打されて飛んで行く。

「は?」

 再び襲ってきた状況の急変に抵抗の術を執れず、ヒビキはそのまま壁に叩きつけられ、空気を口から強制的に排出させてくぐもった音を零す。

 状況を確認しようとした所で、階層の回転が止まっていると気付いたヒビキの前に、いつの間にか蓮華が立ち、彼に手を差し伸べていた。

「ありがとな。下手したら、全員死んでた」

「となると、一応撃ち落とせた訳か」

「そうだ。それに、なかなか面白い事になったぜ」

 伸ばされた手を素直に取り、立ち上がったヒビキは蓮華の右手が示した方向を見て、そこに広がる景色に絶句する。

 見える範囲全てが、厳かな空気を漂わせているが空虚に広いだけだった空間に突如壁が屹立して視界を塞ぐ。壁の根元、即ち潜入者達が足で移動出来る部分には、二つの穴が開通を果たしていた。

 建造物が出鱈目極まる変化を成した事実への驚愕と、あからさまに怪しい二つの穴が生まれた疑問。潜入者達が共通して抱いた物は至極真っ当で、当然の反応として寸刻硬直する。

 水無月蓮華を除いては。

「変化したのは朗報だ。二つあるなら二手に分かれて……」

「おいちょっと待て!」

「自分から名乗り出てくれるなら早い。ヒビキと俺でこっち、後はこっちを探索しよう。危なくなったらすぐに逃げてここに戻るようにな。……まっ、皆がここで死ぬ筈無いだろ」

 抗議の芽を摘み取り、さっさと指示を飛ばし彼の部下も特段抗議や不満を見せることなく動き始める。

「ごねた所で話が変わる事はないし、とりあえず従おうか」

「ヒビキちゃんなら、レンゲさんに瞬殺って事は無いだろうしね! 危なくなったら……キュってしちゃえば良いよ!」

 フリーダとライラは素早い思考の切り替えを行い、水無月怪戦団の団員と共に歩んでいく。相棒が蓮華であるせいか、ヒビキはどうにも割り切れない。

「……気を付けてね」

「色んな意味で、な。ルーゲルダさんよ、ユカリをちゃんと守ってくれよ」

「もっちろんです! 今生の別れじゃないんだから、二人も明るく行きましょう!」

「それは難しい、かな……」

 歯切れの悪いやり取りを交わしたユカリもまた友人達の背を追う形で消え、場に残るのは蓮華のみとなる。

「さってと、楽しくやろうぜ!」

「……寝言は寝て言え」

 場違いに意気が高い蓮華を見て、暗雲の発達を感じながらヒビキは一歩踏み出す。


 そして、四日が経過した今、二人の成果はてんで空振りという有り様だった。


「何にも出てこねーな。……ちゃんと食わないと保たないぞ」

「食欲が出ねぇよこんなんじゃ」

「ヒルベリアはここよか衛生環境が悪いんだろ? だったら大丈夫な筈だ」

 生物の破片が散乱して汚れ放題の広間で、二人は焚火を囲んでいた。持ち込んでいた塩漬け肉の缶詰を食事に選択し、蓮華の方は普段通り口に運んでいたが、ヒビキの肉又を動かす手は非常に遅い。

 ヒルベリアがここより不衛生なのは事実。だが、現在進行形で湯気を上げ、血と腐敗が始まった事で生じる臭気に囲われた状態で飯を食う事は稀だ。しかも、そのような状況でどうしても、となれば出来るだけ状況を想起させない物を食べる。

 目に映る光景は堪えられても、臭いと斬った物を連想させる感触が手に届いて食欲が削がれる。

 強者の条件の一つらしい、躊躇しない事にこの状況も含まれるのなら、自分は強者になれないかもしれない。諦観を抱きながら渋い顔で肉を口に放り込み、塩の主張だけが激しいそれを強引に嚥下する。

 対称的に蓮華は手早く食事を終え、退屈を持て余して懐から糸を取り出して何やら図形を組んで遊んでいる。意図が少々気になったが、彼が食事を終えるなり似非侍は糸を仕舞って問いかけの機会は失われる。

「ま、ここからどうするかはデカいわな」

「何も見つからないからな」

 赤に塗れた空間で異様に映える、白い床を踵で叩きながら発せられた言葉に、ヒビキは同意する。

 二手に分かれてから彼らが新たに発見出来たのは、壁に幾つか刻まれていた『五柱図録』と原型と修復手段がまるで見えない未知の武器の残骸、そしてとうに滅んだ国で用いられていた通貨といった所だ。

 一つ目は『エトランゼ』の関連性を多少補強し、残り二つは学術的意義を持ち、今すぐ帰還してもこれを持ち込めばそれなりの金と名誉が得られる。

 ――でも、それじゃ意味無いんだよな。

 富と名誉を得るならもっと割の良い方法があり、そもそもヒビキの名誉は先日の騒動で毀損された上、彼自身に殊更回復させようという意思は薄い。

 蓮華の方は更に顕著で、ヒビキが感じた限りで両方を既に一定以上有しており、今更この二つで動く必要性は再度検討してみてもやはり薄い。

「結局、アンタは何でここを選んだ?」

 以前聞いた時は逃げられたが、再度問うのもアリだと判断してヒビキは問い、蓮華は虚を衝かれたように目を丸くする。それも数秒で、すぐに元の軽薄な笑みを貼り直したのだが。

「愛の為、でよくないか?」

「真面目に答えろ、斬るぞ」

「それはマジで困るなー」

 口調と離れた表情を浮かべ、似非侍は腕を組んで身体を揺らす。不快感を齎す臭気が徐々に強まっていく空間での沈黙はかなり苦しいが、辛抱強く待ったヒビキの耳に、ようやく継がれた蓮華の言葉が届く。

「ま、俺達の地位を回復させるには、ここでデカい成果が必要って訳だ」

「アンタの腕前なら、もう大手を振って帰れるだろ」

 『水彩』と呼ぶ刀が生み出す液体金属による防御と、流水の如き柔軟さで敵の攻撃を捌き、好機を叩く蓮華の刀技は、それだけで百の雑兵を蹴散らせる完成度を持っている。

 遠距離の敵を確実に潰す魔術と、相手に気取られる前に首を取る操糸術も習得しており、派手さに欠けるが隙はない。

 彼を軽んじて見られるのは、派手な動きだけで強弱を図る馬鹿か、規格外の力を持つ化け物に絞られる。

 確実に上回っている速力と馬力を活用した短期決戦か、真っ向勝負なら勝算は高いが、それ以外の局面だとこれまでの敵と異なる形の苦戦を強いられる。

 水無月蓮華の戦闘力を検分して出た結果はこうであり、彼は何処に行っても強者に括られる存在とヒビキは結論付けていた。

 装飾を排してその旨を告げると、蓮華の顔に少しだけ力が入る。

「ヴェネーノを倒したヒビキにそう評していただけるのは光栄だ」

「だからそれは止めろって」

「俺だけじゃ意味が無いんだよ」

 寂寥が滲む声に、ヒビキの背が伸びる。

「過去の栄光があるかもしれない俺は戻れるとしよう。でも、下級の侍だった頼三やアイツの家族、侍より先に淘汰された『忍』の血と技術を引く千歳、そんで何の血も特別な技術を持たない団員は、俺一人の威光だけじゃどうもならん。鎖国は解いても、あの国の閉鎖性と同調圧力は変わっていないだろうしな」

 「社会の空気」が持つ残酷さと無責任さを思い知ったヒビキに、蓮華の言葉は重い。

 敗者に何処までも残酷になれるヒトの性からすれば、蓮華の言葉通り、彼に対して媚び諂い、その陰で団員に陰湿な「正しさ」をぶつけるのは容易に想像可能な光景だ。

 財を成した父親からの援助は頼三だけ。ここから独自の商売を確率させ、強大な生物も多数討伐して、アメイアント大陸に流れていた同類を集めて纏め上げた。

 一介の『塵喰い』であるヒビキには到底届かぬ眩しい実績だが、これでも蓮華は足りないと話す。集団の力が活き、ヒノモトでも説得力を発揮する実績となると、選択肢は自然と絞られる。

「『エトランゼ』打倒か?」

「出来れば良いねぇ。けど、それはちょいと厳しい。もう少しだけスケールは小さいさ」

「なら、正解を教えてくれよ」

「横取りされると困るだろ?」

「しねぇよ、身に余る物をこれ以上持っても困る」

「ヒビキが言うと説得力がヤバいな」

 背を少し曲げて笑う蓮華は、軽薄なチンピラのようにも見えたが、これ以上の追及を拒む気配も在った。一応存在する暴力で口を割らせる選択を早々に放棄し、缶詰を放り捨ててヒビキは立ち上がる。

「現在進行形の俺が言えたモンじゃないけど、デカ過ぎる願いを抱くと大体辛い目に遭うぞ」

「覚悟はしてるさ。俺もあいつ等もな」

「……なら、じき分かる正解を楽しみにしとくよ」

 使い捨ての石を柄に叩き込み、刀身を夕焼けに染めたデネブを構え、ヒビキは会話を打ち切って前方を見据える。隣に立つ男も、同様に己の得物を抜いてヒビキと同じ方向に黒瞳を向けていた。

 闘争心を充填させる二人の前で、不意に地面が砕け散る。破片や轟音を裂き、視界に白の紡錘形物体が出現。着地で床の亀裂を広げながら、二人に相対する形で停止。


「蛹か?」


 蓮華が零した呟きを肯定する形で、紡錘形から感情の失せた複眼が飛び出し、それが二人をねめつける。変化は止まらず、破城槍もかくやの鋭さを持つ六肢が這い出して、穿ち抜く相手を求めるように蠢く。

 忙しなく、生理的嫌悪を催す動きで鋏状の口が露わになると同時に、先刻彼らが目撃した色ガラスと見紛う豊かな色彩の翅が顕現を果たす。

 大まかな生物的特徴は蝶に近い物を感じさせるが、小さく見積もっても四メクトルを超えている巨体と、断続的に蠢く口や脚が目に代わり二人に殺意を向けている事実で、この貴重な生物を二人は敵と判じた。

 火花が散る時に聞こえる物と同質の音を響かせ、翅を大きく上下させるなり、暴風が吹き荒れ舞い上がった破片がヒト属を襲うが、ヒビキはその先を行く。

 翅が動き出した瞬間、地面に亀裂を入れる踏み込みで始動し、数秒でトップスピードに達して間合いを詰めたヒビキは、左腕共々引き絞っていたデネブを撃発させる。

 強みとなりうる予備動作無き飛翔と、それを活用して実現する軽業師の挙動も、実行できなければ、無意味な目録性能自慢に変わる。

 夕焼け色の刀身は、狙いを過たず巨大蝶の首を目指し、最早外れようがない。勝利を確信したヒビキの視界が、白く切り替わる。

「なん――」


 甲高い音と煙が盛大に噴き上がる中、デネブの突進が突如停止させられる。


 狙いがズレた訳でも、相手が急激に動いた訳でもない。にも関わらず、異刃は白い糸で織られた壁を焦がすだけの戦果に終わり、持ち主と仲良く進退窮まる状況に陥っていた。

「手を離して飛べ!」

 叫びと、前後から迫る気配を受けたヒビキは白の壁を蹴り付け、スピカを放り投げて距離を取る。引っ張られた先で、蓮華が発動した『活封射ラズィンガー』と白の紡錘形から放たれた六つの槍が激突し、火花が散る。

 落ち行くデネブを拾い、そして再度攻撃を加えるべく走り出したヒビキ。彼を串刺しにせんと、無数の糸が紡錘形から吐き出されて地面を穿っていく。

 ――『鋼縛糸』に近いか? にしても……。

 外敵から柔らかい体を守る為の蛹は、あくまで成長過程の一つであり、自由な行動が可能となる成体には不要な物。最終的には作り出す為の機能も喪失する筈だ。

 成体の機能を有しながら、堅牢な防御を実現させる為に自在に形成、解除を可能とする蝶など、完全に知識の外にある存在だ。

 蓮華の認識もヒビキと同様で、取り出した糸で伸ばされた脚を絡め取り、進撃を食い止めながら叫ぶ。

「投げるぞ!」

「分かった!」

 糸を掴むなり『魔血人形アンリミテッド・ドール』の力を解放したヒビキの細い左腕が膨れ上がり、『怪鬼乃鎧オルガイル』を発動した蓮華共々獅子吼を上げる。

 技巧も何もないごり押しによって持ち上げられた蛹は宙に浮く。この時点になってようやく蝶も蛹を解除すべく動いたが、ヒトの動きが先を行き、放物線を描いて壁に叩きつけられた。

 階層全体を包む震動と轟音、そして視界を阻む塵芥が盛大に舞う中、デネブと水彩の切っ先は発信源へ固定される。

「蛹を自在に出し入れ出来る蝶、か。初めて見た」

「古代生物じゃないのかね。こんなの熱帯でも見た事ないぞ」

「ならあの船で学会に持って行けよ」

「そんなチンケな名誉の為に、船を汚したくない。……さっさと倒して次行くぞ」

 獰猛な笑みを湛え、二人の異刃使いが疾駆。対する巨蝶は塵芥を振り払い、殺意と魔力で翅を瞬かせる。

 巨体の激突によって生じた先の物とは比較にならない衝撃が建造物全体を揺るがし、異常者共の戦いが開幕した事を飛行島全域に告げた。 


 異刃使い二人が響かせた音を、この瞬間島内にいる者は全員捉えていた。

 二手に分かれた者達やクレイトン・ヒンチクリフ。ヒトならざる存在だがカロン・ベルセプトにオズワルド・ルメイユも確かに聞き取り、命のやり取りが何処かで始まった事を感知していた。

 そして、もう一人の潜行者もまた同じだった。


「……」


 灰の瞳に茶色の髪。東西折衷の装いを纏う華奢な体の腰元には『滅竜刀・紫電』と『緋譚剣コーデリア』の、衣服と同じ思想を感じさせる二本の業物。

 四天王と御三家の血を継ぎ、自身も高い技量を持つ少女、ティナ・黄泉討・ファルケリアは、剣呑な光を宿した目で音のした方向を見つめる。

 だが、そこにあるのはこの階層を埋め尽くす赤茶色の大地と、つい数分前までに彼女自身が蹴散らした異貌の生物の亡骸があるばかりで、何も変化は生じない。

「階層が違う。なら、探しても無意味か」

 分かり切っているのに反応した自身に向けてか、嘲笑の色をうっすらと表出させてやがて少女の歩みが再開される。

 偶然邂逅を果たした『蝕輝竜』ザルカリアスを「説得」し、ヒビキ達から一日遅れで乗り込んだ彼女は対峙した敵と戦う、または逃げるを繰り返してここまで生き延びていた。

 脱出手段を一応用意している彼女も、目的を達成するまで探索を継続する腹積もりで、食事や武器整備の資源等の準備も整えていた。

 ザルカリアスから吐かせた情報で、『人形』と称される存在がヒルベリアにいて、ソイツはここにいる事は掴んでいる。

 何処にいるのか皆目見当が付かない事と、同じ場所にいることは難易度が大きく異なる。急く必要はあるが、時間を注ぎ込めば捕捉出来る可能性が極めて高い状況は、ティナにとって好都合と言えた。

「後は見つけて、叩き斬れば良い」

 憎悪と決意が出鱈目に混ざった言葉を放り投げて、少女は赤茶色の土煙が舞う階層を歩み、その姿はやがて陽炎に溶けて消えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る