7 軋み回る歯車

「あれで良かったのでしょうか?」

「上々だよ。あまり細かく指示を出すと、彼らのプライドを傷つける」

 飛行島から数十キロメクトル離れた高空。雲海に没する形で飛翔する黄金の竜に、後天的な改造で付与された建造物が在った。

 民家の食卓を二つ繋げた程度の面積を持つ内部で、王族と名乗るにはあまりに貧相な身なりのサイモン・アークスと、『証明者』ルチア・K・バウティスタが並んで空を眺めていた。

 多忙な身の彼らが、戯れで命の危険が跳ね上がる領域に向かう筈もなく、アークス国王のとある発案でこの旅は組まれていた。

 多数の替え玉を用意する必要に駆られ、手続きと根回しを行うパスカ・バックホルツが悲惨な状況に陥った以外は順調に進んだ道程は、しかし、ルチアからすると解せない点に満ちていた。

「穏健派の飛竜達に、『エトランゼ』や『船頭』の再始動を伝え、更に境界の場所を伝えた。彼らによる破壊が生み出す効果は極めて怪しい。もう一つについても、信じるか五分と言った所でしょう」

「即効性を求めてはいけない。最後の札も未完成である以上、まだ存在しないと同じ。……ここまで長かったんだ、あと少しの詰めを誤ってはならない」

 穏やかな言葉に潜む、狂的に硬い意思を受けたルチアは、雇い主と目を合わせることなく前方に広がる白を見つめる。

 スズハ・カザギリを筆頭に、ヒトの領域を飛び越えた化け物と対峙した経験が豊富な彼女でも、異なる世界とこの世界を分かつ境界を目にした経験はなく、それに対する恐れが未だ残っていたのだ。

 境界を破壊するなり、黄金の球体が飛行島へ降り注いだ。だがそれ以上の、例えば異世界の化け物が飛び出す等の事態は生じず、実行者達は拍子抜けしていたが、境界を破壊して世界を強引に繋げるなど、神をも畏れぬ蛮行だろう。


 最もルチアは、そしてサイモンも神の存在を信じてはいないが。


「異邦人の流入はあの子の強化に繋がる。この調子なら完成と変革は近い」

 アークス王国がインファリス大陸西部の多くを支配していても、彼個人は所詮ヒトの括りに留まる。更に、魔術適性や戦闘力を鑑みれば変革を引き起こす存在に、彼は到底なれる筈もない。


 噴飯物の妄想を真顔で吐く初老の男。


 笑い飛ばすべき滑稽な絵面と至近距離で見つめる四天王は、真剣な面持ちでサイモンの言葉を受け止め、戦士とは思えぬ細い指を無意味に曲げ伸ばしする。

「我々が踏み込める境界は全て破壊しました。しかし、未だ多数の境界が世界には残されている。外交等の理由付けを行っても、向かうのは不可能な場所ばかりです」

「そこは問題ない。彼女はもう翼を手に入れたからね」

 雇用主の言葉に、紫色の瞳が僅かに細められる。

 サイモン・アークスの悲願を成し遂げる切り札にして、ルチアの同僚だったユアン・シェーファーを殺害した人形。それが「彼女」と理解出来るのは、現状この二人のみで、それを増やすつもりもない。

 意味を読み取ってしまった者がいれば、確実に全身の体温が失われる内容の会話は、異様に淡々と進む。

「『正義の味方』とユアン君の力を得た今、単独で戦っても大抵の相手に後れを取る事はない。あの島の力を吸い上げた後に、領土の設定が為されていない場所から取り組んでもらう」

「妙に弱気な始動ですね」

「バックアップがもう無いからね。それに強い者には、強くなってから挑むのが王道と思わないかい?」

「私はそのような物語を好まないので」

 熱の弱い部下の返しに、アークス国王は肩を竦めて雲海に顔を戻す。年齢相応に活力が失せつつある瞳は、眼前の白を見ているようで、別の場所に思いを馳せているかのように焦点が合っていなかった。

「全てを世界が描く演目と定義するならば、私は人形の身でそれを脱してみせよう。……それだけが、私の生きる意味だ」

 隣に立つルチアすら解せない、自身の中で完結する言葉を吐いて、サイモンは右手の中にある何かを強く握りしめる。

 彼らを乗せた飛竜は、雲海を脱してアークスへ向かう。


                  ◆

 

 アークス王国の最重要人物が飛行島にいた。

 あくまで状況証拠を見た形だが、この事実を知る唯一の潜入者クレイトン・ヒンチクリフは、カロンや死した元同僚と衝撃の対面を終え、彼らと別れて――

「……ここは一体どこなんだ」

「んなこた聞いても無駄だろが。ほらとっとと歩け」


 絶賛迷子状態に陥っていた。


 真実は頂点にある。『船頭』が残した言葉に従い、彼は上を目指して歩み続けていた筈。それは腰に差した妖刀も同じ認識だった。

 にも関わらず、とある階段に足を踏み入れるなり、クレイは木々が鬱蒼と茂る、蒸し暑い空気で満たされた場所に放り込まれていた。

 立っているだけで衣服が発火しかねない、グラルス火山内部よりマシと言い聞かせてみる。今までの区画が全て完璧な気温調整が行われていた反動の前には何の意味も無く、クレイの肌に汗の粒が滲み出す。

 戦闘時の露出を嫌う性分と、高高度領域は地上よりも低温になる常識。二つが合わさった結果、纏っていた無駄に留め具の多いジャケットの袖を捲り上げ、額の汗を乱雑に拭うが、またすぐに別の汗が滲み出す。

 早期脱出が最善と見て、クレイは蛇のようにのたくる金属管の隙間を縫って歩む。感知する熱の流れで、金属管がこの瞬間も活動中と認識し、彼の美貌は時間に比例して険しさを増していく。

「オー・ルージュを捨ててけば歩きやすくなるぜ」

「寝言は寝て言え」

 秒の速さで会話を打ち切り、警戒と前進に意識を戻してクレイは無言で進み続ける。が、いつまでも脱出口が見えない現実を前に、無意識の内に首が傾き始める。

「魔干渉を受けてる気はしないんだが……」

「それについては正解だ」

「答えるだけじゃなくて、有意義な情報を喋れよ」

「人殺しの道具に求めるな阿呆」

「はいはいすみませんでし……っと」

 学術的知識が少ない部類に入る彼も、島を外側から見た時に弾き出した大よその広さと、この瞬間歩んでいる場所の広さにズレがあると勘づき始めていた。

 弾き出した数字が誤りの可能性はかなり高いが、生態系や現代に於いて複製不可能な人工物が空中に存在する空間で、常識的判断に拘泥する必要もない。

 緊張からか、徐々に魔力流を速めるクレイの右手が不意に動く。

 

 鈍い打突音。続いて破砕音。


 侵入者が紛れ込んでも保たれていた一定の調和を、不意に現れた存在と元四天王が破壊し、後者は拳に伝わる感触を受け加速する。

「おいおい、戦わないのか?」

「答え合わせが先だ」

 声を置き去りに、有機無機の物質が組み合わされた樹海を、金の弾丸が疾駆する。

 長躯に背負った槍と、入り組んだ場所にとことん相性の悪い要素を持ち合わせていながら、クレイは障害物の隙間を巧みに潜り抜け、時に『蜻雷球』で道を切り開いて進む。

 森剣虎クーガーと見紛う速力と判断力で疾駆する中、一切の予備動作を見せずにクレイが跳ねる。

 飛翔魔術を用いずに届く限界が来る前に構造物を蹴って距離を稼ぎ、想像以上に低かった天井が見える領域に達し、クレイは気配の発信源を感じ取って針路を執る。

 だが彼の視線の先には、鬱蒼と生い茂る緑と灰色の樹海が広がる。真っ向から突っ込めば、骨折では済まない惨事が引き起こされるだろう。

「おい、上からじゃ入れねーぞ」

「何のために魔術がある? 『虐雷神極輝光刃ユーピード・キャリバー』!」

 

 咆哮と同時に、発動者の視界も含めた階層の全てが紅く染まる。


 収束した時、クレイの両手に自律回転する紅光が握られていた。この場に戦士がいたならば、彼が発動させた魔術を前に戦意喪失していただろう。

 発生させた雷を強引に捻じ曲げて円環へと形状を変化させ、飛来去器のように用いる『虐雷神極輝光刃』は、近しい挙動や攻撃方法を持つ魔術の中で抜きんでた威力と難易度を持つ。

 雷の速度で宙を駆け、厖大なエネルギーを発動者の任意の時間敵に叩き込んで使用者の手元に戻る。最後には相手を消し炭か肉の賽子に変える大技は、制御に失敗した代償は死や再起不能と、類似の物に比して圧倒的に重い。

 大半が習得を諦め、習得者も絶対に負けられない局面の使用に絞る技を、「小技を何度も使うより効率が良い」と道を開く為に用い、消耗や制御に苦労する様子は皆無。


 全盛期はとうに過ぎ、自分は只の雑魚。

 

 日頃彼が頻繁に口する文句は大嘘と世界に確信させる動きを披露し、落下を始めたクレイの蒼眼に、破壊された構造物の下で眠っていた物が映る。

「あれは、一体なんだ?」

「転移装置か何かじゃねーか?」


 零れた声も、それに反応を示した声も、等しく困惑の色があった。


 落下に伴い近付いてくる地面に、形容し難い感情を喚起させる水溜まりが一つ。

 この階層が持つ熱で消失しそうな面積のそれは、上述の懸念を霧散させる確かな活力を持ち、拍動に似た動きを繰り返す。

 曇天の夜を思わせる表面は、クレイの優れた視力を以てしても奥底を見通す事を拒まれ、ただ一点の事実を除いて、何も触れさせようとしない。

 一点の事実は、世界に爪痕を残した一人と一本に、己の正気を疑わせるに足る奇怪な物だったが。

 物体同士が擦れ合う音や、何かを弾けさせる湿った音。多種多様な音が混ざり合った結果、聞く者の感情を著しく負に傾ける音が噴き上がるなり水溜まりが泡立つ。

 小さな泡は瞬く間に海底火山を想起させる烈しさに変わり、着地位置を強引に変えて降り立った、クレイの身丈を優に超える高さまで伸びていく。

 現象の発生に至るまで何の予兆もなく、怪奇に過ぎる現象を前に唯々立ち尽くす男の眼前で、始まりと同じく唐突に噴出は終わる。


 静寂を取り戻しにかかった水溜まりから、金属塊が遅々とした動きで這い出してきた。


 度が過ぎる異常な光景に沈黙する他ないクレイを放って、金属塊は地面と擦れる不快な音を発しながら露出する面積を広げていく。

 七本に分かれた細い棒状の物体が飛び出すなり、それは地面を撫でるように這い回り、やがて地面に小さな亀裂を走らせながら物体はしかと顕現する。

 動く度に心を乱す軋み音を響かせる、両脚の代わりに気体の噴射機構で浮遊しているそれは、全身を金属と思しき物質で構成されたヒトだった。

 ――『後期型特別攻撃兵』か? いや、アレでもここまでの置換は出来なかった筈だ。なら『鉄人』。駄目だ、アレはそもそも破棄されていた……

 既存の知識に括りつけて非現実を消し去ろうとするも、全て破棄せざるを得ず固まったクレイに、現れた存在はやはり軋み音を発して接近。

 先刻飛来した何かと異なり、現時点で敵意は無いと混乱の中でも感じ取ったクレイは、逃走準備を影で整えつつ、三つの瞳をしかと見据える。

 互いの指先が僅かに届かない距離で動きを止め、両者は暫し沈黙。

「×××××。×××××?」

 ヒトなら口があるべき場所が不意に発光し、音が階層に放り投げられる。

「……あ?」

「私の名は×××××。あなたは誰だ? そして、ここは何処だ? だと」

「分かんのか?」

「ニュアンスだけな。相手さんの固有名詞とかは分かんねーよ」

 知っている言語のどれにも当て嵌まらなかった為、間抜けな返答を繰り返すクレイに、腰元から助け舟が出される。それでも不完全な理解に留まる事実に得も言われぬ不安もあったが、黙したままでいる利点も彼には無かった。

「俺はクレイトン・ヒンチクリフ。ここは……インファリス大陸の上空、としか言いようがない」

 最低限の情報に留めて相手の出方を伺う、牽制に近い返答を投げる。問いが「ここは何処だ」だった段階で、この形以外の選択肢は捨てていた。

 敵対的な行動を相手が選択するなら、自分もそれに乗ればいい。元四天王が腹の底で練っていた思考。

「×××××? ×××××?」

「インファリスとは一体何だ? あなたのそれは本当の名前なのか? だと。本当の、ってのは本名云々じゃねーな」


 結果、それは相手の答えで微塵に粉砕された。

 

 高度な技術で作られて自我を持ち、全く異なる外見を持つ不審者に冷静に問える。そのような存在が、自分の名前はともかくインファリス大陸を知らないのは不自然極まりない。

「なら、お前は何処で生まれた? 何処でその体を作り、何処で育ち、そしてここに来た?」

「×××××××、×××××××!」

「私は×××××の生まれで、××××××をしていた。この身体を後天的に変えた事などない。ここへ望んできた訳じゃない、起きて×××××にいつも通り向かっていたら、突然目の前が光り、引き摺り込まれてここに来たんだ! だと」

 周囲の木々が本来ある場所で生じる雲の如く、急速に不安を増大させながらも、可能な限り情報を得るべく問いの形を変えた結果、予想の斜め上を行く答えを受け、クレイは特大のアタリクジを引いたと理解する。

 後天的に改造したとしか見えない身体は生まれつき、言葉を信じるなら文明的な生活を送っていた。

 トドメとばかりに、一切の前振りなしで謎の力に引き摺り込まれてここに来た。

 外見的特徴を脇に置いても、眼前の存在が置かれた状況はヒルベリアにやって来た少女と完璧な合致を見せていた。

「……お前も異邦――」

「××××××、××××××!」

 呟く前に、静かな始動と異様な速力で異邦人がクレイに肉薄。彼の肩をしかと掴んで激しく揺さぶる。

 叫びに内包された感情は、ムラマサの助力を得ずとも理解出来、そして叶えられない現実もまた、クレイは痛い程に理解していた。

「お前と同じ奴を一人、極めて可能性が高い奴を一人知っている。付き合いが長い彼らに何もしてやれていない俺が、お前の救世主にはなれない。でも、一緒に行く事は出来る」

 前半部分で項垂れたヒトの顔が、後半部分で上げられる。その様を見て、クレイは出来損ないの笑みを浮かべて上を指さす。

「取り敢えずこの階層を抜けて、ここのどっかにあるらしい真実とやらを捕まえに行こうぜ。俺はそのためにここに来たしな」

 臭い台詞は、問題を先送りしているだけという自覚は十分以上にしている。しかし、絶望に囚われている相手を放置することを是とせず、そのために彼が切れる札は現状これだけだった。

 提示した以上、後は相手の答えを待つのみ。

 何らかの思考の動きを示しているのか、頭頂部で赤緑光が明滅を繰り返し、四本の指が忙しなく曲げ伸ばしを繰り返す。

 「信用出来ない」と言われた場合放置して去るか、戦うか。二つの負の選択しか無く、相手がどれだけの戦闘能力を持つのか現状全く読めない。

 誘いの言葉は、賭けの成分を含んでいる。固唾を飲んで待っていたクレイの目を、不意に上げられた三つの光がしかと見据える。

「××××××。×××××」

「私もあなたと同じく選択肢は少ない。だがそれ以上に、一切の敵対行動を取らなかった、あなたなら多少なりとも信頼出来るとさ。」

「なら行こう……」

「どした?」 


 最善の回答を受け、伸ばしかけた手を不意にクレイは止める。


 眼前の存在が現れる前、自分が何故ここへ向かったのか。明確な敵意を持っていた気配の襲撃を受け、それと同じだけの強い気配をここから感じ取って向かった筈だ。

 常識的な考えを採択するなら、襲撃者もこの金属人となるが、クレイが持つ歴戦の戦士の勘がそれは違うと告げていた。

 ならば、答えは単純かつ最悪のものが導き出される。

「最初に感じた敵はまだ、ここにいるのか」

「……だな」

「×××××?」

 一人と一本が滲ませた警戒心と敵意を前に、彼らがそれを抱くきっかけとなった事象を見ていない金属人は、当然困惑を色濃く表出させる。

 説明を求める為か、一歩踏み出した彼の全身が不正な介入が明白な挙動で、突如上に動いた。

「クソッ!」

「あそこだ、クレイ!」

 ムラマサの指示に即応して、オー・ルージュが躊躇なく投げられる。銃弾に比肩する速力に達して空中の金属人を抜き、力の発生源と思しき地点に雷槍が突進。

 再発動した『虐雷神極輝光刃』の円環刃も追従し、ヒト属の肉体を数万度破壊しても釣りの来る攻撃が一点に迫る。


 不正な介入者の撃破と金属人の解放。二つの達成を確信したクレイの表情は、策の全てが不可視の壁に食い止められ、消滅した事実を前に大きく歪む。


「な、んだと?」

「ちょっとばかしヤバい相手だな。おい、面ァ見せろや」

「いや、見せるような相手じゃ……」


 ムラマサの直截に過ぎる言葉に呼応する形で、空間が割れた。


 蜃気楼の如く現れたのは、元四天王の攻撃を無効化する力を持っているとは思えぬ、長い髪を持つ少女で、クレイは彼女の姿に見覚えがあった。

「お前さっきの……!」

 橙色だった髪が深海色に変わっているものの、この島に辿り着く切欠となった、空中戦の相手が眼前に浮いている。

 平穏な感情を保つなど不可能な現実を前に、クレイは戻ってきた紅槍を握り、犬歯を剥き出しに全身から魔力を弾けさせる。

「あなたに用はない」

「事情なんぞ知るか! 『紅雷崩撃・第一階位ミストラル』ッ!」

 

 咆哮と共に、クレイの姿が消失。


 顕現した紅の雷は、発動者の感情に呼応して荒れ狂い、弾け零れた小さな雷の華が構造物を炭化させていく。

 圧倒的な殺意と力を知らしめ、敵の破壊に舵を切った紅雷は、一切狙いを過たず光の速さで少女に向かう。最早未来は決定づけられた、筈だった。

「がッ!」

 変化を強引に解かれ、クレイは少女から最も離れた壁に叩きつけられる。

 切り札の一つをあっさり破壊された事実より、何故ここまで飛ばされたのかに対する理解、そしてそれが齎す最悪の結末を阻止すべく、『竜翼孔ドリュース』を発動して全速力で距離を詰める。

『×××××!』

「あなたも私の糧になる。……安心しなさい、独りではないから」

 全身が触れ合う至近距離で、必死で逃げようと足掻く金属人に、少女は一切の感情が含まれていない声を投げる。

 猿でも描ける未来図を回避すべく、死に物狂いで飛翔するクレイ。だが、彼我の距離を開けられ過ぎた上、『蜻雷球リンダール』で意識を逸らさせる策も、少女に無効化されてしまう。

「止めろッ!」


 短い叫びを掻き消すように、非情な粉砕音が場に響く。


 少女の身体から誰かを想起させるおぞましい触手が伸び、金属人の頭部を一口大に切り分ける。

 不格好な痙攣を繰り返した身体が放り捨てられ、地面に叩きつけられると同時に、少女は人の頭部だった物を口に放り込んだ。

 大抵のヒト属なら、毎日一度は発するであろう咀嚼音だけが、空中で放心状態に陥ったクレイの耳に届く。


 ヒトがヒトに喰われた。


 許容し難いが光景と、それが導く現実が五臓六腑に染み渡った時、高度を上げて去ろうとする少女の姿を見た、クレイの血が沸騰する。

 瞬時に敵と同じ領域に辿り着き、ダメージを感じさせない冴えの突きを放つ。軽い動きでそれが回避されるなり、柄の部分から編み出された『鋼縛糸カリューシ』が少女を襲う。

「鬱陶しい」

「だろうな」

 少女の持つ理不尽な力からすれば当然の帰結として、鋼の糸は役目を果たせず消失。だが、元四天王も端から拘束を期待していない。

 構え直したオー・ルージュの先端部から『雷獄突ラ・ソース』が発動。数億ボルトの牙が少女の肉体を捉え、衣服を完全に消し飛ばす。

「……!」

 四天王時代、幾百の敵を纏めて刈り取った技の成果がその程度に留まり、それすら修復によって無に帰した事実を受け、クレイの顔から色が失せる。

 確定した死を前にしても尚、敵の打倒法を無意識に探す元四天王。相対する少女は、彼に一瞥も暮れず背を向け、『紅雷崩撃・第一階位ミストラル』の余波で穿たれた壁へ進む。

「奴に戦意は無かった。……敵意無き存在を、異なる世界の連中を何故喰らう!?」

「世界変革の為。私の存在意義はそれ以上でもそれ以下でもない」

 知る由もない事だが、最悪の終幕を迎えたユアン・シェーファーに投げられた言葉と同じ物を受け、クレイの表情は図らずも彼と一致を見た。

 嘲笑すべき世迷言も、少女の力を見た今では不吉な予言にも聞こえる。深く掘り下げて裏に居る誰かを仕留める事が最善だろうが、ソイツを探している時間、体力、状況の余裕はない。

 故に、クレイが導き出した結論は直球の代物だった。


 ――命を投げ捨てても、ここでコイツは殺す!


「『紅雷崩――」

「あなたを殺す舞台は別にある。そして、今のあなたに私を殺す力はない」

「何ッ!?」

 最後の札を切りかけた元四天王を嘲笑するように、感情の変化を見せなかった少女の姿が、気配ごと消え失せた。

 使用可能な魔術を総動員し、感覚器官を限界まで向上させた結果、この場に現れた事自体が夢と思わせる完全な消失を確認。クレイは力なく地面に降り立ち、数分前に共に行こうと告げたモノの胴部を見つめる。

 少女が求めた事実を抜きに、この者は異邦人だったのだろう。

 元いた世界から引き摺り込まれ、勝手に完結してしまっている存在に喰われて落命する。彼の救いが何処にもない結果を、現実は提示した。

「クレイ、分かってると思うが……」

「ああ。……先に行こう」

 水溜まりに手を突っ込もうとするが、そこには硬い大地があるばかりで、異世界に飛び込むことは不可能という事実だけが提示され、その現実に打ちひしがれている間に、水溜まりは蒸発するように失せた。

 彼の世界へは絶対に向かえず、地上に降りる事は探索の放棄に直結する現状で、異邦人を弔ってやれる余裕はない。

 『希灰超壁』ウォルファルドの半球で亡骸を覆い、無粋な生物共に眠りを邪魔されないようにする、精一杯の配慮をしたクレイは、オー・ルージュを背負い直して前に進む。

「世界変革にこの場所に眠る真実。……両方共、全方位に於いてクソッタレだ」

 自棄気味に投げられた言葉は、崩落した階層に溶けて消えた。



                ◆


「そろそろ帰ろうやルーカス。いい加減寒過ぎて限界が……」

『なこと言ったってさぁ、俺雪見るの初めてだし?』

「……」

『寒さには甘い物っていうから、リュックから好きなの取って良いよ』

「あんまり言う奴いねぇよそんなの。後、俺は甘い物が嫌いだ」

 大地も、転がる岩や逞しく育つ樹木も、全てが白に染められた場所で、全身を防寒具で覆った中年男が、環境を舐めた装いの青年が掲げる、スケッチブックを横目に見ながらウンザリとした様子で首を振る。

 時折現れるひと際背の高い樹木を除くと、誰かと彼らが通行の為に掻き分けて出来た溝以外、乱す物がない白の平原は、二人の視界の限界を遥かに超えた所まで続いていた。

「お前もルーチェとかカルラみたいな反応すんだな。育ての親と一緒に来たりしなかったのか?」

『白角馬にも微妙な個体差があるからね。父さんは雪国に縁がない種だったよ』

 元々肥満気味の身体を、防寒着で更に膨らませている中年男の名をドノバン・バルベルデ。

 遮光眼鏡や手袋を除き、防刃・防火処理を施してはいるが、町に放り込んでも違和感のない装いをした白髪の青年の名を、ルーカス・アトキンソン。

 この瞬間歩んでいるサータイ山脈ピッゲンス山麓が含まれる、インファリス大陸北部ロズア諸国連合と二人に、特段深い関係はない。

 彼らの雇用主のマルク・ペレルヴォ・ベイリスの出身地が、連合成立の道程で消滅した小国ノルプランであり、一週間前から所員全員で休暇旅行に訪れて居なければ、首輪付きの二人がここに来る事は無かった。

『ドノバンは軍に居た訳だから、こういう景色を見慣れてるんだろ? 良いよなぁ』

「使い捨ての下級兵士が、呑気に雪景色を楽しむ余裕はねぇよ。それに、俺が所属してた頃はこっちに行く事はなかったから、雪景色はアークスで見れる物から二十センチぐらい上乗せしたぐらいだ」

『へぇ』

 片手で筆記をこなしながら、防護布を外すことなくチョコレートを口に滑り込ませる同僚とそのラベルを見て、ドノバンは小さく首を振る。

 かさばらず簡単に口に出来、そして熱量の高いチョコレートなら、軍隊で散々口にしていたので食べられる。だが、ルーカスが食するのは当たり前だが民間用の、しかも甘味を異様に強めた代物で、ドノバンの好みからは大幅に外れている。

 分けて貰おうか。そんな気持ちは秒速で萎み、小型水筒を取り出して元々湯だった水を流し込む。

 雪原行脚は既に数時間が経過している。幾らこれだけの積雪がアークスで拝む事が困難とは言え、それ以外何もない場所を延々歩く行為を楽しみ続ける事は常人には難しい。

 ――俺とこいつらの才能の差か? いや、単に経験の違いか。……ああでも、副所長の方に付いて行けば良かったかぁ?

 普段の任務に於いて、一番相性の良いルーカスとの自由行動を選んだ結果を現在進行形で体験し、今更どうしようもない後悔をドノバンが抱いていると、当のルーカスが彼に向けて向き直った。

 雪に対しての感情も多分に含まれている中、別の感情を確かに宿した灰の目に、ドノバンの顔も自然と引き締まる。

「なんだ?」

『いや、最近ルーチェがアリカの写真集とか×××××を見てないなぁって思って』


 雪原に発砲音が盛大に響き、放たれた鉛玉が弾かれる音が、一分ほど雪原に撒き散らされる。やがて、撃ち過ぎて銃身から湯気を放つ機関銃を背部に戻し、ドノバンは盛大に溜息を吐く。

「マジな顔して、んな馬鹿な事考えてたのかよ」

『だってアイツ、同じ黒髪の子のそういうの見るのすげぇ好きだったでしょ? それがいきなり見なくなるって不思議じゃない?』

「あのユカリって子を間近で見たから、邪な妄想がしづらくなっちまったんじゃねぇの」

 「不殺の戦士」並みに高い信用度の宣伝文句を掲げ、一年前登場したアリカ・カサギは、ルーチェや彼らが少しだけ絡んだ異邦人と同じ黒髪と黒目を持っており、確かに彼女は気に入っていた。

 色々と適当な考察擬きは出来るが、思考を回したくない寒さ故、ドノバンはこのまま一気に走り抜けると決めた。

「お前が雪を見てハシャギ倒してるみたいに、ヒトはなかなか触れられない遠い物や出来事に憧憬を抱き、過剰に期待を膨らませる。で、ルーチェにとってそうだった物は、あの異邦人が現れて大分満ちたってか、ありがたがるって遠い感情を抱く対象じゃなくなったんだよ。多分な」

 ユカリ・オオミネという存在はこの世界に居る理由以外、即ち彼女の振る舞いや嗜好は極めて真っ当だ。

 遠く離れていたからこそ過剰に好いていた何かは、接近して現実感を持つと有する感情が変わる。同僚の変化は異常でも何でもない。そう締め括られた語りに、ルーカスは遠くを見つめて頷く。

『なるほど、そういうことか』

「腹の底にある物の変化は、遠い奴の方が分かるのと似たようなモンだ。ルーチェが変になった訳じゃないから安心しろ。てぇかそろそろマジで寒いから帰ろうや」

『…………了解。帰ったら何食べるよ?』

「甘い物以外で行こうぜ」

『冷たいなぁ』

 会話をしながら、宿へ針路を執った二人。平穏そのものだった空気は、しかしルーカスがスケッチブックを放り捨て、人工声帯を起動させた事実を前に打ち砕かれる。

 警戒に留まらず、この休暇で一度も抜いていなかった『純麗のユニコルス』を構えた。この時点で、同僚が尋常ならざる何かを感じ取ったと理解し、ドノバンは問いを投げた。

「何が来た?」

『不明。でも、とんでもない何かを感じる』

「何かって何が」

 オウム返しを、陽光の消失が断ち切る。


 そして、黒に退色していく空が砕けた。

 

 地殻変動で大地に刻まれる亀裂が黒の空に断続的に広がり、隙間から怖気を喚起する白の破片が散り落ちる。地上に降り注ぐ一つが鼻に当たり、思わず差し出した手に収まった物を見たドノバンの目が真円を描く。

「龍の、鱗……?」

 物体が落ちる音を横から受け、そちらに首を回す。

 そこには当然ルーカスの姿。

 見慣れた彼が普段命の次に大切にしていると豪語して憚らない。ユニコルスが手から滑り落ち、それに気を向ける余裕を完全に奪われ、極限の恐怖を表出させて硬直する姿を前にドノバンも彼の視線を追う。


 そして、相方と全く同じ反応を見せた。


 呼吸すら剥奪されて硬直する二人、いやサータイ山脈の生者全てを他所に、亀裂から巨大な白の流線形が滑り降りる。

 輪郭が幽かに揺れ動くだけで、携行する使い捨ての魔術発動機器が砕け、遠方からは断末魔と思しき咆哮が響く。

 流線形は何もしていない。ただ、空を割ってその姿を下界に晒しただけだ。

 それだけで、下界の住人は呼吸すら忘れて怯え、脆弱な魔力で形成された存在は消滅する。

 あまりに脆弱、あまりに退屈な光景に飽いたのか、流線形は沈黙を守ったまま、光の残滓を振り撒きながら何処かへ消えた。

 流線形が去り、そこから数十秒遅れて陽光が戻り、世界が平常運転へ戻ろうとした時、ようやく呪縛から解かれた二人は、四つん這いになって激しく咳き込む。

 竜と、魔力形成生物と、そして時には異邦人と。

 常人が一生の内に経験する事すら難しい戦いを、五十年にも満たない期間で経験している二人の精神は、謎の流線形によって恐怖だけで塗り潰されていた。

「あれは……一体何だってんだ?」

『分からない。……いや、分かりたくもない』

「あぁそうだな。俺達が、分かっていいものじゃない。寧ろ、分かっちゃ駄目な領域のヤツだ」

 音を垂れ流して、自我が崩壊していない事を二人は確かめ続ける。

 二人が正気を取り戻すまで、相当の時間と千を超える言葉が消費されたが、その中で意味を持っていたのは


「俺達は、何も気付けていなかったんだ」


 たったの一つだけだった。

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