9

 闇の中に浮遊しているような感覚を覚えた。

 目の前に広がっているのが、精神が悲鳴を上げそうなほど、平坦で終わりのない暗闇だから浮遊感を覚えるのだろうか。

 そんな空間に放り込まれては、自分が一体何であるかも定かでなくなってくる。

 自己の喪失への恐怖からか、本能が変化を求めて感覚を勝手に研ぎ澄ませ始める。すると、変化は唐突にやってきた。


「……聞こえてるか? いや聞こえていないのが当たり前だし、聞こえてても返事は出来ないだろうけどさ。奇跡を期待して少しだけ話しとく。大事な事だ、聞き漏らすなよ?」

 声が聞こえてきた。少なくとも、今まで耳にしたことのない声だった。顔を見てみようとしたが身体が一切動かせない。ただ、声からの推測だが、怒っている様子が想像する事が難しく感じる、適度に力の抜けた男性のようだと感じた。

 ぼんやりと考えていると、今度は別の声が耳に届く。こちらの声は、とにかく真面目な性分を感じさせる人で、何となく聞いたことがあるような声だった。

「……本当にやるのか? もう何年も施術を行っていないんだ。成功の保証は無いんだぞ? あまりにも危険……」

「いざとなったら俺が責任を取る。それに、イエスかノーかを決めるのはこの子だ。やるかどうかは、これからだ。さてと、いいかい?」

 声が少しだけ真剣味を帯びた。自分にとって非常に重要な事がこの後告げられると察し、声をハッキリと捉えようと、欠落を感じる中でも感覚を更に研ぎ澄ます。

「単刀直入に言おう、このままだと君は死ぬ。これは必定の事実だ。失礼ながら君の身体を調べさせて貰ったけれど、たった今、鼓動と呼吸が続いているのが不思議だよ。……そして、俺達は君を救う手立てを持っている」


 分かり切っていた事実と、想定していなかった希望を同時に提示されて、感情が正の方向へと揺らぐ。この転換を想定していたかのように、声は調子を落とした。


「……ただし、だ。その手立ては、俺達にとっても未知の行為だ。実行したからといっても、必ず成功するんだ! とは言えたモンじゃない。更に、行為に使用するブツの特性が正しく働いてくれるかも分からない。機能不全を引き起こし、今以上に悲惨な状況に君を追いやってしまうかもしれない。全てが理想通りに機能したとしても、君は最早道理から外れた存在に成り果てる。

 それはある意味で、このまま死ぬよりも辛いかもしれん。勿論、俺達は出来る限り、君が真っ当に歩けるように手助けをするつもりだ。でも、今ここで勝手にどうこうする権利は当然無い。君がどうしたいのか、俺達に教えてくれないか?」


 道理から外れた存在、との言葉をはじめとして、声の言っている内容は殆ど理解出来なかった。ただ理解出来たのは、声の主達は自分をこの絶望的に不自由、かつ終わりが刻一刻と近付いてくる状況を打開する手段を持っているのだという事だけだった。

 そうであるならば、何も迷う必要など無かった。

 考えることも、悩むことも、後悔することも、生きていなければ出来ないのだ。そして、生きていれば何か良いことに出会う可能性だって生まれる。選択肢が有るならば、少しでもページが続く方を選びたい。

 結論を出して、声の主達に向けて、伝わるかどうかは不明だが、自らの意識を問いの答えだけに染め上げた。

 実際には短時間、しかし状況からか永遠と紛うばかりの時間が流れた後、少しだけ喜びの混じった声が届いた。


「なるほどね、君はそちらを選ぶか。……いや、良い覚悟だ。将来大物になるかもな」

「……決まったのなら早く始めよう。これは時間との勝負だ。……お前も準備は出来ているか?」

「バッチリだ。今日は力を殆ど使ってないから、幾らでも手助けが出来るぜ」


 周囲が騒がしくなり、比例するかのように、感覚が強烈な倦怠感を訴え始め、再び暗闇へと引き摺り込まれていく。声がこのままでは死ぬ、と言っていた事から考えるに、自分の身体には恐らく致命的な事態が生じており、それが眠りへと引き摺り込んでいるのだろう。

 最後に聞いた声は、自分を勇気付ける為なのか、やけに明るかった。

「目覚めたら会おうぜ。大丈夫だ、生き方は俺達がしっかり教えてやる。……違いに戸惑うかもしれないが、この世界もなかなか楽しいぞ」


                   ◆


「――きろ、起きろ!」

 怒鳴り声で、意識が強引にではあるが覚醒を果たし、ヒビキは全身に回る鈍痛を堪えながら周囲を見渡す。

 見慣れた物ではなく妙に豪奢な、だがその割には狭苦しい空間内に自分がいる事に一瞬悩むが、すぐに答えに辿り着く。

 ――そうだった、俺発動車に乗って帰って来たんだったな。

 ひと眠りしている内に着く筈だと、一人で納得していると、運転席の方から更なる怒鳴り声が飛んでくる。

「ったく、三日間ずっと悠長に寝やがって。運転手に対しての心遣いってものが、ゴミ捨て場の人間は出来ないのか?」

「三日間!?」

「一日でここまで来られる訳ないだろうがボケ!」

 三日間、自分は眠りこけていたのか。愕然としていると、荷物と共に蹴りだされ、発動車は去って行く。

 良心的だったのは手配してくれたパスカだけであって、運転手は平均的な国民であったと言うだけの話だ。そう割り切って歩き出した時


「ヒビキか、えらく早いお帰りだな」


 年齢を不自然な程に感じさせない男、クレイトン・ヒンチクリフに声をかけられる。


「発動車に乗って帰って来るとはなー。お前、ハレイドで一発当てたのか?」

「四天王にボコボコにされて竜を倒した対価として提供して貰えた」

「?」


 酷く端折った説明のせいで首を捻るクレイに対し、ちゃんとした説明を行うと、得心が行ったように頷かれる。


「ま、アイツならそんくらいはやってくれるだろ。……しかし竜を殺ったのか、流石というか何と言うか、だな」

「俺はただ振り回されてただけだよ。あちらさんの温情で血晶石は貰えるけど」

「なんだ貰えるのか。なら俺が集めた分は……」

「いやそれはいるからな」

「ちゃっかりしてんなお前……」


 緊張感の欠けた会話を展開していくが、今一番聞くべき事を思い出し、クレイに問いを投げる。

「その辺は安心しろ。お前がヒルベリアにいない間、ユカリ君に関しては異常ナシ、だったぞ」

 安堵の溜め息が無意識に漏れるが、すぐに気を引き締める。平穏な時間が流れたのは過去の話だ。未来は不確定であり、最悪の結末はすぐそこにあるかもしれない。

 早急に、ライラの所に持ち帰った資料を渡すべきだ。

 工房に行く旨を伝えて話を切り上げ、歩き出すと背中から言葉が投げられる。


「この時間なら、多分面白い物が見られるぞ。……ま、怪我しないように心構えだけはしとけよ」

 バサリ、と羽音を轟かせ、クレイの気配が遠ざかっていく。

 肉体を変質させて背中に翼を形成する『竜翼孔ドリュース』でも使ったのだろうが、これもそこそこ高度な魔術に分類される。

 既存の魔術に勝手な独自名を振ったりと真剣さには欠けているが、実力や知識にはケチの付けようのない、クレイの正体にも興味を抱きつつ、工房へと駆けて行った。


                 ◆


「……なるほど、こういう事だったんだな」


 呟いたヒビキは矢によって包囲されていた。


 視線の先には、頭を抱えているライラと、パニックが過ぎて目を回しているユカリがいる。

 後者の両の手に、機械式の弓矢が握られている事から何があったかは容易に推測可能だが、どうして現状に至ったのかが理解出来ず、ヒビキは首を捻っていると、幾分冷静さを取り戻したユカリが、目の前に進み出てきた。


「これは私が言い出したの。二人にお願いして、今こうして教えて貰っているの」

「二人とも、無理矢理どうこうするような人間じゃないからな。で、どうしてなんだ? そんなに俺は頼りなく……。いやまあ確かに頼りないな」

「どうしてそこで折れちゃうのさヒビキちゃん」


 ハレイドで四天王にボコボコにされたからだよ。とは言えないので、ヒビキは口を閉じたまま次の言葉を待った。


「私は、ヒビキ君達の足手纏いにはなりたくないの。皆と互角に戦ったり出来るようになりたいなんて言わないし、言えないよ。でも、せめて自分の身を自分で守れるようにしたいの。それくらいしか、私には出来ないから……」

「いや、誰も足手纏いだなんて……」


 そこでヒビキはある記憶にぶつかって閉口する。自分が幼い頃、厳密に言えばカルス・セラリフに拾われてしばらくの頃、彼に守られ続けていた自分がどのような感情を抱いていたのか。

 そして、彼から戦う事を教えて貰えた時の自身の感情の動きから考えれば、ユカリも戦えるようになりたい、と思うのは当然の事なのではないだろうか、との思いが膨らむ。

 無論、彼女は自分達と違い、ずっと戦いに身を投じる必要がある訳ではなく、いずれは戦いとは無縁の生活への帰還を果たす。だから戦うことを学ぶのは無駄なのかもしれない。 

 そうであっても、今この瞬間の、彼女の意思を否定するのは間違っているのではないか。 

 小さく嘆息し、緊張を解いて、ヒビキはユカリに告げる。


「俺も微力ながら協力させて貰うよ、フリーダの方が教導官としては優秀だから、あんまり貢献出来んとは思うけどね」

「そんなことないよ。……ヒビキ君、ありがとう!」

「まだ何にもしてないぞ。だから泣きそうな目でこっちを見るのはやめてくれ」

「あっ、ご、ごめんね! つい……」

「いや別に良いんだけどな」

「一瞬で主張を矛盾させるって、ヒビキちゃんなかなかのスキルを持ってるね」 


 潤んだ目でこちらを見つめ、手を握られるという状況は色々と毒であるのだが、離されると何か勿体ないことをした感があるのは何故だろうか、などと馬鹿な事を考えていたが、ライラの手を打ち鳴らす音で我に返る。


「じゃ、丁度良いタイミングだし、ユカリちゃんはもう上がろうか。一日二日であまり無理してもしょうがないしね。私の部屋で着替えて、ヒビキちゃん家に帰ってなよ」

「ありがとう。ヒビキ君、また後でね」

「おう」


 ユカリが部屋から出て行くのを確認してから、ライラはこちらに向き直った。


「実際、ユカリの筋はどうなんだ?」

「絶望的に酷いよ。百人いようと、ヒビキちゃん一人で蹴散らせるくらいに。……ヒビキちゃんの顔を見て推測出来る期限までには、護身術を仕込めるかどうかも怪しいよ」

「……何で俺の顔で判断するんだ?」

「分かり易いからね! で、実際の所ハレイドで何があったのさ?」


 ニっと笑う友人に、ハレイドで王族の人間から告げられた事について吐いて行くと、あっという間に表情は曇っていく。


「……次、がいつなのかこっちは分からないからキツいね」

「竜を倒したお零れで血晶石がそれなりには入って来るとは思うが、もう少しここでも集める。それと、一応関係ありそうな資料は借りてきた」


 厳重に梱包が為された十数冊の本を手渡す。一応ライラの家の本棚に無い物を選んだつもりだが、彼女が確認を終えるまでは心臓が止まりそうな程の緊張を覚える。


「……うん、全部ウチには無い奴だね。今日明日で有りそうかどうか確認するから、今日はもう休みなよ」

「すまん、よろしく頼む」


 そう言い残してヒビキは部屋を辞し、残ったライラは彼の残した本を見つめて、頬を叩く。友人がやる事をやっているのだから、自分だってやらねばならない。そんな決意を抱いて。

「よっし、やっちゃいますか!」

 気合いの声と共に、ライラは拳を突き上げた。


                 ◆


 ユカリは家を抜け出してライラの工房へと向かい、許可を得て屋上に登って木剣を構えて、一思いに振り下ろした。

 木製とは言っても、重量は彼女が振るったあらゆる物より重く、一振りするだけで身体が激しく振られる。一度振り下ろせばまた振り上げるのも一苦労な物体と、彼女は格闘を始める。

 このような事は未経験な上に、開始してからとても日が浅いとは言っても、今のところ進歩の兆しは全く見えていないと自己評価出来てしまう現状には、忸怩たる物を抱いてしまう。


「そこまで焦る必要は無いと思うんだけれどね。……おっと、お邪魔しても構わないかい?」


 声と共に、フリーダがこちらに向けて歩いて来た。断る理由など無いので頷くと、微笑を浮かべながら瓶を放って来た。落としたら不味いとの心理が働き、お手玉をしつつも落とさずに受け取った。


「なかなか上手いね。それ、開けて飲むと良いよ。味の方はよろしくないけれど、運動した後に飲む物としては一番良いからね」


促されて封を切り、液体を口に含むと塩の味が舌に突く。ある程度喉を潤した所で、ユカリはフリーダに問いかけた。


「フリーダ君はどうしてここに?」

「『転生器』の可能性がある物を幾つか掘り出してね、精製してみて僕にも使えそうな物が無いかの確認をしてたんだ。まあ外れだったけれども。そしたら君の姿が見えたからね」


彼の言葉にユカリは少し首を捻り、率直な疑問を呈した。


「『転生器』って一人で何個も扱えたるの?」

「出来るよ、他人の魔力が刷り込まれた物以外、だけどね。無論人によるけれど。僕はただ単に使うだけなら、この『破物掌甲クレスト』を装備したままヒビキの『蒼異刃スピカ』を振るうって事だって可能さ。……手札が増えないからしないけれどね」

「なるほど……」


 世界、そして用いる手段が違えど、手札の多さが物事の有利不利を生み出すのは変わらないのだと改めて認識し、ユカリは何度も頷く。その様子を見ながらフリーダはゆっくりと口を開いた。


「ところでユカリちゃん、少し聞きたい事が有るんだけれども、良いかな?」

「答える事が可能な事なら……」

「なら遠慮なく。……君は、どうしてこのような行為をしているんだい?」


 言葉に詰まる。その間に、フリーダは着々と言葉を積み上げて行く。


「君はこの世界の人間じゃない。だからこの世界で生きる為の流儀を身に付ける必要などないんだ。言いたくは無いけれど、一週間やそこらでどうにか出来ると思っているのなら、ムシが良すぎる。君がそんな人間では無いとは知っている、だからこそ僕は気になるんだ」

「……前に言った理由では、不十分かな?」

「社交辞令としては問題無いけれど、僕個人の感覚では不十分だと思ったね」


 納得されていないのならば、答えねばならないだろう。暫しの沈黙を経て、ゆっくりと口を開いた。


「足手纏いにはなりたく無い、との気持ちは今でも変わらないよ。皆がどうにかしてくれている中で、私だけ何もしていない、なんて状況は辛くなるだし。それに……」


 声が止まった。ここから先は、ごく短期間の付き合いでしかない自分が語っても許されるのだろうか? との思いが逡巡を産んだのだ。


「好きに言ってくれて構わないよ。人の抱いた感情に、接した時間や相手の立場によって禁じられる物なんて無いんだからね」


 逡巡を続けていると、フリーダに背中を押された。感謝の意を抱きつつ、ユカリは再び口を開く。


「彼の事が気になるんだ」

「ヒビキの事かい? あいつは確かに色々とある男だけれど、そこまで特異な奴では無いと思うけれどね。何かあいつに引っ掛かる所でもあったかな?」

「常識的には絶対に有り得ない事だと分かってはいるよ。……でも私は、彼と何処かで会った気がするんだ」 


 この回答は予想していなかった為に、表情が大きく変化したフリーダを横目で見ながら、ユカリは言葉を紡ぎ続ける。


「どうして会った事がある気がするのか。その疑問を、私はどうしても解き明かしたい。それには、彼に対して直接疑問をぶつける必要もある。でも、与えられているだけの状況を享受し続けているままでは、資格さえも与えられないと思うんだ。だから……、私はこうして悪足掻きに過ぎない事をやっているの」

「……なるほどね。並び立って初めて、自らの疑問を解く資格を得られると考えたのか。君が言うとなかなか説得力を感じるね。ただ、申し訳ないが僕達にも早く終わらせないと行けない事情がある。その辺りは受け入れてくれると嬉しいよ」

「分かってる。そうなった時は、委細構わずヒビキ君に直接聞くよ」

「君はなかなか太い精神を持っているね。長くこちらに居れば、優秀な戦士になれるよ。……それでは精進したまえ。明日また、今日とは違う事を教えるよ」


 笑いながら、フリーダは茶色の髪を揺らして地面へ飛び降りて去った。

 再び一人になったユカリは自らの希望を叶えるべく、木剣を振るい始めた。


                ◆


「気合いでどうにかなれば、世の中もっと上手く行くんだよ……」

 そしてその頃、ライラは轟沈していた。ヒビキが持ってきた本の中に、望んだ物が見つかりそうにないのだ。

 彼の本の選択は悪い物ではなく、寧ろ素人の割りに良い選択をしている。だが、使えそうな記述までは見当たらない。


「ハレイドの図書館でこれなら、ホント何処にあるんだか……。いや私が行け

ば……」


 恐らくそれがベストなのだが、完全に仕事を放棄して稼ぎを止めるのはライラには出来ない。ノーランが部屋から出てこなくなった以上、生活の糧を得る仕事は彼女の領分なのだから。


「ライラちゃん、屋上を貸してくれてありがとう」


 頭を抱えていると、件の異世界の少女、ユカリが声をかけてきた。疲労の色は濃いが、何かあったのか目には決意が宿っている。


「お疲れー。それじゃまた……」


 皆まで言うより先に、ユカリは机の上にあった書物を手に取り、瞬く間に顔を渋い物に変えた。この世界の、いやこの国の人間でさえも苦戦する代物なのだから無理もないだろうと思っていると


「私のせいで、しなくて良い事をさせちゃってごめんね」


 謝罪の言葉が飛んできた。

 何も出来ない自身に対する苛立ちは理解出来る。だが、少々彼女はそれを背負い過ぎている。そう考えたライラは机の上に乗り、傲然と胸を張って両の手を広げる。

 ヒビキやフリーダなら「ちっさいから微塵も迫力がない」と失礼な言葉が浴びせられるのだが、目の前の少女は目論み通り動きを止めてくれた。ビシリと指差し、声を張り上げる。


「そんなに私が悪いって、言わなくて良いんだよ!」

「!」

「大体、ヒトは生きている時には皆何かしら迷惑をかける物なんだよ! 私もヒビキちゃんもフリーダもクソ親父も母さんも! だから気にしない! もっとドーンと構える! 私のように!」


 冷静に、迷惑かけずに動こうよ、などと言われてしまえば話が終わってしまうのだが、ユカリの心に何らかの作用を齎したのか、思考を巡らせる体勢に入っている。

 無駄に重い雰囲気など、纏うだけ損だとの考えに基づいた発言が、思ったより効果が有った事に悦びを感じながら、ライラは机から降りようとして――

「あ」

 盛大に足を滑らせ、ユカリの方へと突撃を仕掛ける形になった。突然であったので、受けとめる姿勢など出来ていなかったユカリと縺れ合いながら床に崩れ落ち、「ビリッ」という音を耳に捉えた。


「……」


 気まずい沈黙が場を支配する。ユカリの手の中にあった書物から、二人共不自然な程に目を逸らす。

 ――嫌な予感がするんだよ。

 正直な所このまま寝てしまいたかったが、逃避しても現実は変わらないと、たっぷりと時間をかけて決意し、視線を向けた先には案の定の結果があった。


「や、破れてる……」


 ユカリが手にしている、ノーランの著書の一部ページが、無惨な姿を晒していた。

 図書館蔵書をこのザマにしてしまった場合科される罰に、ライラは顔を青くする。


「ねぇライラちゃん……」

「大丈夫だよ。何とかして誤魔化せばバレずに……」

「そこじゃなくて……、変な文字が浮かび上がって来たんだけど……」

「!?」


 視線を向けると、彼女の言葉通り先程まであった文字が掻き消え、代わりに蛇がのたくっている様にしか見えない文字が並んでいる。幸いな事に、父親からこの文字「アスピラーダ文字」についての教育を受けていた為、ライラは読む事が出来た。

 そして章題と序文を読み終えた時、その内容に溜め息を吐く。


「上手い事ばらしたと言うべきか何と言うか……」

「何か分かったの?」

「カルスさんの本の補強だよ。つまり、ユカリちゃんを元の世界に還せるかもしれない方法が完成する!」

「!」


 驚愕に目を見開くユカリに向け、ライラは親指を立てる。


「ユカリちゃん、今日はもう帰って良いよ。明日か明後日に来る、朗報を待ってて!」

「でも……」

「良いから良いから!」


 全容解明を見たいのであろうユカリを強引にヒビキの家へと帰し、ライラは猛然と本を読み進め、他の三人にも読めるように噛み砕いて行き、本に書かれた図面を改めて描き起こしていく。

 ――これなら、何とかなりそうだね!

 意気が上がり、作業を進めていくライラだったが、一つだけ見落としていた事があった。

 ヒビキがカルスの部屋で見つけた本は、『牽水球ウォルレット』によって水のエネルギーをぶつける事で真実が見えた。この本に対しても、ページを破り取った後同じ事をしていれば、筆者による絶望に塗れた記述を目に出来ただろう。

 ――嘗て『エトランゼ』との戦場となった事が、現時点で既に確定している場所。ヒルベリア、エル―テ・ピルス、大公海、ファナント島、サータイ山脈では絶対に行うな。地獄を見るぞ、と。

 

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