8

 ユカリがもやもやとした物を抱き始めた日から四日が過ぎた朝、ライラはいつも通りベッドから滑り落ちて目を覚ました、が、すぐにまた瞼が閉じられそうになる。


 ――ね、眠いんだよ。やっぱり家の本一気読みは辛い……。


 友人が提示した、異世界からの来訪者を元の世界へ還す為に必要な魔術式を求め、ライラは仕事が終わった後、ひたすらに家に置いてある資料を読み込んでいた。

 カルス・セラリフと自身の父、ノーランが編み出した方法ならば、必ず近くに残している。そんな推測に基づいた行動は、今のところ空振りと言わざるを得ない。

 当のヒビキはヒルベリアでこれ以上の狩りを重ねる事は無意味。との判断と、資料探しを兼ねて首都ハレイドに向かっている。血晶石もまだまだ足りないが、着実に貯まりつつある。つまり、彼女だけが何も進められていない。

 ――どうしようかなぁ……。

「ライラック、起きなさい! ご飯出来たわよ」

 ライラの名前を略さずに呼ぶ人物など、父と母ぐらいだ。

 そして父が部屋から出てこなくなってからは、実質的に一人だけ。

 思考を打ち切り、声に従って階下に降りるといつも通りの簡素な食事がテーブルに並べられ、母親、ジーナ・レフラクタは既に席に着いていた。

 もう一つの席は、これまたいつも通り空席だ。

 その日の主だった仕事の確認を行った後は、特段の会話もなく黙々と食事を進めていくのだが、珍しくジーナが口を開いた。

「お父さんから伝言よ」

 スプーンを持ち上げる腕が止まる。

 部屋から出なくなった父親が自分に言う事など非常に限られているし、近頃の自分の動向から考えるに、一つだけだろう。

「ヒビキちゃんとは付き合うな、でしょ? もう何千回も聞いたよ」

「なら……」

 物騒な音が生じ、ジーナは閉口する。毎度のやり取りだが、黙って流す事にもそろそろ限界が来ていた頃だ。

「ヒビキちゃんが『失敗作』である事と、カルスさんが七年前にいなくなった事は何にも関係ない事でしょ! 大体、ヒビキちゃんがそうなったのだって、別にあの人が偉そうに物言える立場じゃない! もう良い、いい加減頭に来た!」

 ツナギと鍛冶用のハンマーを引っ掴み、階段を登ってノーランの部屋へ殴り込もうとするがジーナに抑えられる。

「はなせーッ!」

「放せる訳ないでしょう!」

 逃れようともがくが、ライラと違って一・六七メクトルと、それなりの身体を持つジーナが相手では、どれだけもがこうが逃れられない。

 付け加えると、ライラは魔術の才能には完璧に見放されている。魔術を使ってどうこう、も不可能だ。

 矢折れ力尽きようとしている頃、来客者の存在を示す呼び鈴が鳴り、拘束が解かれる。この隙に殴り込んでやろうかと目論んでいたライラだったが、苦虫を噛み潰した表情のジーナに玄関を示され、首を傾げながら向かう。

「やぁ、朝早くに、しかも取り込み中に悪いね」

 殴りたくなる程に爽やかな笑みを浮かべて、幼馴染の茶髪の少年、フリーダ・ライツレが立っていた。

「何の用さフリーダ」

「いや、ヒビキが何処に行ったか知りたいんだ。ちょっと前から姿が見えなくて」

「それなら……」

 上がってくる様に手振りで示し、フリーダがそれに従った事を確認して、ライラは自室へ歩き出す。


 男女がどうたらの話は、フリーダやヒビキが相手の場合、彼女にとって無いも同じだ。


「相変わらずきたな……おっと」

 正直極まりない感想は枕を投げて黙らせ、作業用の椅子に座る。フリーダも別の椅子に腰を下ろした事を確認して、口を開く。

「ヒビキちゃんならハレイドに行ってるよ。割りの良い狩り探し兼息抜き兼あそこの図書館で魔術式の調べ物だって」

「多目的な理由だね。ハレイドか……」

 腕を組んでフリーダは言葉を濁すが、大体言いたいことは分かる。目的を達せられるか、だろう。

「上手く立ち回る事が出来たら大丈夫だけど、ヒビキちゃんだしねぇ……」

 過去ではなく、現在進行形としてヒルベリアの人間はゴミに頼った生活をしている者が多数存在している。そんな生活様式の存在を、差別しない者は恐らくいない。

「ドッグタグは?」

「捻くれてる癖して、変な所だけ律儀なヒビキちゃんが、置いていく訳ないでしょ」

「あぁ……」

 ヒルベリアの住人と示す盾型のドッグタグを、態々持って行く辺りにヒビキの人間性が出ている。短気を起こさずに進められれば良いのだが。ライラがそんな不安を抱いていると、再び呼び鈴が鳴り、何やら足音が部屋に近づいてくる。

「手入れかな?」

「なら母さんが入れないよ……って、ユカリちゃんか」

 扉のところには、ライラ達が動く理由となっている少女、ユカリが立っていた。椅子の空きが無いので、工具をどかして空いた空間に座るよう促すが、躊躇いの様子を見せてくる。

 ――これは何か訳アリだね、ここはじっくり……

「何かあったのかい? 僕達で構わないなら、幾らでも聞くよ」

 ――何で聞いちゃうのさ。

 目論見を崩されてズッコケるライラを他所に、ユカリはフリーダの言葉を受けて、尚躊躇いつつではあるが、口を開く。


「……私に、戦い方を教えて下さいっ!」


 言い切った後に、ユカリは頭を下げた。だが、このような物は想定してはいなかったのか、二人はすぐに答えを返せない。数分ほど沈黙が流れ、ようやくフリーダがユカリに言葉を発する。


「まずは理由を聞こうか。じゃないと、どちらの方向の返事も出来ない」


 ユカリが頷いた為に、彼女の発言を優先させるべく、フリーダは口を閉じた。


「ヒビキ君に何度かマウンテンに連れて行って貰った時、何故か追いかけられて逃げ回ることになってて……」

「あ~言ってたね。何でか狙わられるって」

「その時、いつもヒビキ君が私を守ってくれる。けれども、ずっとそれじゃ駄目だと思ったんです。それに、私を元の世界に還す為に皆が動いてくれているのに、肝心の私は何もしないのは、おかしいじゃないですか!」


 彼女の言葉に、致命的な間違いと言える点はない。だが、二人は躊躇する。


「未経験者をごく短期間で戦えるように仕上げろってのは、なかなか厳しい話だし……君を仕込んだ所で血晶石集めが捗るとは思えない」

「それにヒビキちゃん、多分凄く怒るよ。あの子、ユカリちゃんに危ない目に遭って欲しくないってオーラを全開で出してるし」

「ヒビキ君には自分で説明します。皆が私の為に動いてくれるなら、せめて私は皆の完全な足手まといになりたくないんです。お願いします!」


 再びユカリは頭を下げる。それを見る二人の頭の中は、どうやってユカリを説得すべきか。これ一つで埋め尽くされていたが、彼女が見せた目の色や振る舞いを見る限り、どのような言葉を弄しても止めるのは無理だと結論に至る。

 目配せをして、覚悟を決めた表情と共に、フリーダが口を開く。


「……なら、今日から少しずつ訓練を始めようか。ライラじゃどうしようもないし、とりあえず教官は僕で構わないかい? ヒビキが帰って来て、君が彼を説得出来たら彼も加わって貰うつもりだけれど」 

「はい! あ、ありがとうございます!」

「ただし、だ。僕とライラのやり方は甘くはない。今の覚悟をずっと忘れないつもりで、付いて来るようにね」

「ちっちゃい子達からのフリーダの仇名は童話とかで出てくる悪役の『獣人バノム』だからね~。覚悟しときなよ」

「は、はい!」

「その仇名は止めて欲しいんだけどね……」


 ライラの発言に顔を顰めつつ、フリーダは頭の中で訓練のプランを練り始める。

――ごめんよヒビキ、彼女の意思に流されてしまったよ。

 何も知らない友人に謝罪の念を浮かべながら。


                 ◆


 その頃のヒビキはと言うと、首都ハレイドの舗装路に転がされていた。

 無論、彼にそのような趣味がある訳ではなく、埃に塗れた顔だけ上げて怒声を張り上げる。

「何しやがるこの×××!」

「うるせぇ、ゴミ捨て場の輩がハレイドを歩くな!」

「上等だ! ゆ――」

 発動車の排気管から吐き出される排煙を浴び、盛大に咳き込む。

 その隙に、口汚いやり取りを交わしていた相手は去ってしまい、苛立ちの行き場が無くなったヒビキは道路を蹴る。

 大枚を叩いて乗り合いバスを捕まえて今朝ハレイドに到着したのだが、ヒルベリアの住民に向ける差別意識はなかなか素敵な物だった。

 とりあえず空腹を満たそうと、目に付いた店に行けば便所に案内され、我慢して注文をすると残飯が運ばれてきた。腹を立てるより呆れが上回って店を出ようとすれば、最も高価なメニューの倍額を請求された。


 無視して逃げた為、支払いはしなかったが。

 

 そこが一番酷い扱いだったが、全体的に視線が痛いし、何か聞こうと思っても避けられる。そして今、血晶石を得る為の狩りの情報を聞こうと業者に話しかけ、道路に転がされる落ちが付いた。


「……はぁ」


 とんだ無駄足か。そんな思いが湧き上がる。

 少なくとも、血晶石の獲得と、息抜きは諦めるべきなのだろうが、せめて情報を得る事だけは果たさねばならない。

――動かなきゃ、何も進まねぇんだ。行くぞ。

 叱咤して、中央図書館に向かう。

 王族が住むギアポリス城の目と鼻の先にある巨大な図書館は、正規の経路で出版された本は全て収蔵されている。そして、余程の物でない限りは閲覧、持ち出しが可能となっている。

 専門家であるライラの家に無いのなら、ここぐらいしか資料は無い。そう判断し、ヒビキは正門に辿り着く。非合法的手段を用いる最悪の可能性を想定しながら。

 散々な扱いを受けたせいで、ここでも門前払いを食らうのではと内心怯えながら入館手続きを行う。

 予想に反し、森林の住人を先祖に持つと言われる耳の尖った民族「シルギ人」の女性は、ヒビキの書いた入館希望書を流れ作業的に一瞥し、すぐに「入れ」と手振りで示す。

「……うわっ」

 入るなり目に飛び込んできた、立ち並ぶ無数の本棚に圧倒され、無意識の内に声が漏れる。これなら誰に対しても、謳い文句に真実味を感じさせられるだろう。

 気圧されつつも目的の本を探すべく歩き出したヒビキだったが、その足は一時間もしない内に止まる。広すぎて、何が何処にあるのかさっぱり分からない問題にぶち当たったのだ。

「広すぎる。こんなの一日じゃ無理だろ」

 眼前に並ぶ婦人向け雑誌の棚を見上げながら、呻き声に近いぼやきを発する。

 当然ながら、目的にはまったく無関係の代物だ。ヒビキは知る由もないが、目当ての学術書の配架場所からは遠く離れている。

 司書に話を聞ければ良いのだろう。だが、やはり受付の女性が奇特だっただけなのか、先程から彼の目に留まった司書は、彼を視認するや否やそそくさと去って行ってしまう。

 この際、誰かに頼る事は諦めようと、悪い方向で腹を括って一冊の雑誌を手に取り、再びヒビキは歩き出す。

 一度受付に引き返して地図を強引に借り、目当ての物がありそうな配架場所をひたすら探る。

 空振りが圧倒的に多かったが、とりあえず関係があるのでは? と思える本を幾つか発見し、脇に抱えて行く。

 無学なヒビキにはどれも中身はまるで理解出来ないが、それはライラに明かして貰えば良いだろう。

 解読して貰った結果空振りしたのなら、再訪の出費がかなり痛くなる。それは受け入れるしかないだろう。

 外部への持ち出し許可を求め、受付に戻ったヒビキは再び書類と対峙する。

 入館と貸し出しの手続を行うカウンターは一応別々に設けられているのだが、応対しているのは先程と同じシルギ人の女性だった。これには、持ち出した本についての罰則が大きい事に起因しているのだろう。


 ――軽い汚損で強制労働。紛失や完全に読めなくした場合は、物によっちゃ死刑だっけか。出来る限りここで読もうとするよな。


 淡々と必要事項を書き終え、受付の女性に手渡す。住所等の偽装をしておいた方が確実に持ち出せたのかもしれないが、伝手も無い上に万が一の事を考えた時、実行する気にはなれなかった。

 結局馬鹿正直にヒルベリアと書き、拒否の可能性が頭を過る。だがシルギ人の女性は特段咎めることもなく、許可の印を押した。

 少数人種の故に、ヒルベリア出身の人間にも寛大な反応をしてくれたのか。一瞬考えたが、それは単なる勘違いだったと、図書館を出た瞬間に理解することになる。


「持ち出しが出来てよかったの、セラリフ」

「……なるほど。一応国民皆平等のお題目を掲げてる連中がいるなら、そりゃ弾く訳無いよな。で、何で態々図書館に来てんだお姫様? 婚姻届けを渡しに来たなら、ゴミ箱に叩きこんでやる」

「ただの視察に決まっておろう。お前の不景気な顔など、好きで見たい奴などおらんよ」

 眼前に現われた三人の者達の内、ヒビキに声をかけてきたのは、次の王位継承者となる少女、アリア・アークスだった。

 妙な話し方をするこの少女とは、以前出稼ぎにハレイドに来た時、碌でもない奇縁が生まれていた。

「なら、何の――ッ!」

 剣呑な声で切り返したヒビキだったが、背後に控えていた二人の人物の正体に気づき、思わず言葉が途切れる。『エトランゼ』や『正義の味方』などと同程度に対峙したくない存在が、そこに立っていた。

「ねぇパスカ、あいつデイジーちゃんのこと睨んでるけどぉ、斬っちゃってい~い?」

「まだ何もしていない相手に変な気を起こすな」

「えぇ~」

 甘ったるいふざけた口調で話す、アリアより派手なドレスを身に纏った桃色の髪の少女は、王国が誇る最強の剣士、通称『無害なる殺戮者ハームレス』デイジー・グレインキ―。

 彼女に言葉を返した、公表された年齢と思えぬほどに気苦労を重ねた顔をしている、眼鏡の青年は『断罪者ドミナキューター』パスカ・バックホルツ。

 フリーダ達との会話で出てきた王国最強の魔術師で、デイジーに比べれば、まだ会話が通じそうな気はするが、こちらも出来る事なら関わりたくない。

 数代前の『失地王』ガストン・アークスの失政の数々によって、国王は象徴と成り下がった。だが、自らの護衛を始めとした様々な仕事を行わせる者を、自らの好みだけで編成する権限は未だ残されている。

 権力そのものだった時代から残る、この制度で集められる人材は、大体四人程度となっており、故に付いた俗称は『四天王』

 どの代の者も相当な強さを誇っており、この二人も、今のヒビキが幾百と挑もうと絶対に勝ち目は無い実力を有している筈だ。

 沈黙を強いられるヒビキに対し、アリアは悠然と問いかける。

「なら儂から問わせてもらおう。教養を磨くという観念が恐ろしく薄く、尚且つヒルベリアの人間でありハレイドを嫌うお主が何故ここに来たのか、教えて貰えぬか?」

 ここで目的を盛大に暴露してしまえば当然、不味い方向に事態が転がる。よって沈黙以外の選択を、ヒビキは選べない。

 黙り込んだ相手を眺める趣味の者はそういない。アリアも多数派に属する性分のようで、欠伸混じりに言葉を発する。

「当ててやろうか。先日、ヒルベリアにやってきたと話題の、異世界の人間を元の世界に還す手段の手掛かりを書に求めた。違うか?」

「――ッ!」


 反射で後ろに飛び退き、スピカをいつでも抜けるように身構える。

「あははぁ、お顔が真っ赤よぉ。あんた、隠し事はてんで駄目なのねぇ~」

 デイジーの嘲りにも反応する余裕がない。何処からバレた? それだけでヒビキの頭の中は埋め尽くされる。疑わしき存在が、頭の中に次々と浮かんでは消えて行く。

「俺達は国内のほぼ全ての街に、監視者を配備している。加えて、俺も毎日魔力の変動は見させてもらっている。それだけの話だ。あまり親しい者を疑うな」

「な~んで、パスカはネタバラシをしちゃうのぉ?」

「……他人が下らない事で苦しむのは見たくないだけだ」

「まぁ何であれ、イレギュラーな存在は儂らも認知している。この事はゆめゆめ忘れぬようにな」

「……どういうことだ?」


 パスカの言葉で一瞬和らいだヒビキの表情が、また険のあるものに変化する。

 押し殺した声で、アリアに問う。上に立つ者が特異な存在を見つけた時、どのような答えを出すのか、大方の見当は付いているが、聞かずにはいられなかった。一瞬の間を取って、アリアは彼にとって最悪の返答を行った。


「決まっとろうが、イレギュラーな存在が起点となって王国に害を生む何かが起きた場合、そいつを……」

「それ以上言うなぁッ!」


 完全に理性が吹き飛んだ。目の前の相手が誰であり、護衛が誰であるのか。万が一にも事を成した後、自分がどうなるかなどの思考も行わず、床を蹴ってスピカの柄に手を掛け、抜刀する。

 烈風の如き速度で放たれんとする斬撃は、狙い通りにアリアの首に届く、筈だった。


「あ、が、げぇ……」

「はぁいざ~んね~ん。ゴミ捨て場の人間の割りには悪くないけどぉ、こぉんな直線的な攻撃ぃ、猿でも止められるわよぉ?」

 

 アリアから遥かに離れた場所でデイジーの剣を腹に喰らい、鈍い音を響かせ、涎を吐き散らしながらヒビキは床に崩れ落ちた。


 幾ら頭に血が昇っていても、誰かが何か動きを見せていれば、それを察して軌道を変化させる事は経験上可能である。

 だが、目の前の少女は一切行動を起こす気配を見せなかった。

 いや、正確には身構えてはいたのだろう、ヒビキの目では捉えられぬ程に小さく、極限にまで無駄の無い動きであっただけの話だ。だが、『語るだけなら誰でも英雄になれる』の言葉通り、その領域に至るまで技術を習得する事は全く容易ではない。

 それを可能としている事、そして全く気付けなかった事が、デイジーと自らの間に立ちはだかる絶望的な差なのだ。


 歯噛みするヒビキだったが、次の瞬間、頭に強い衝撃を感じて呻き声をあげる。


 衝撃は断続的に続き、視界に星が飛ぶ。どうにか身体を動かそうと試みても、頑として彼の意には従ってくれない。

 パスカが何らかの魔術でも使っているのだろう。だがそれもまた、ヒビキには感じられなかった。

 この男も自分とは違う世界の人間だと言う事だ。ほんの僅かな片鱗ではあるが、四天王の恐るべき実力に触れ、ヒビキは戦慄を覚えた。


「そぉいうわけでぇ、王家の人間に武器を向けた罰を与えちゃいまぁす。王女さま、良いよねぇ?」

「構わんが、死なん程度にしておけよ」

「待ち……」

「ゴミに口を開く権利はありませ~ん」


 もう一度、鞘に収まった状態の剣が頭に振り下ろされ、身体が上下に跳ねる。眼前に奇怪な物体が舞い、頭頂部からは血が吹き出る。

 為す術の無いヒビキの意識は、やがて暗黒の中へと引き摺り込まれて行った。


                  ◆


「さ、どこからでもかかって来たまえ」


 緊張している様子を全く隠せていない眼前の少女とは対照的に、フリーダは悠然と言った。安全を考慮して、普段使用している『転生器ダスト・マキーナ』、『破物掌甲クレスト』は外して素手の状態である上に、あくまで確認目的の戦闘である為に、闘気や緊張感といった物は全く感じられない。

「フリーダ、やり過ぎは駄目だからね。……ユカリちゃん、このいけ好かないイケメンをケチョンケチョンにぶっ飛ばすつもりでやって良いからね」

「う、うん。……よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 フリーダは腰を落として臨戦体勢に入り、ユカリも訓練用の木剣を構える。すぐに切り込んでくるかと思っていたが、意外な事にユカリは仕掛けては来ず、距離を取ってフリーダを中心にぐるぐると周回を続ける。

 慎重さという良い素質を持っていると感心するが、今日は本気の手合わせでは無く彼女の能力の確認が主である為、視線で切り込んでくるように促す。


 ユカリは躊躇を見せたものの、腹を括ったか、床を蹴って突っ込んでくる。


 が、その速度はいつも見ているヒビキの物に比べて、いや見習いの人間と比しても圧倒的に遅く、フリーダは容易に見切る事が出来る。悠然と躱して側面に回り、掌底をユカリの脇腹に見舞う。

 かなり力を抑えた攻撃であるにも関わらず、息を詰まらせるユカリの様子を見て、フリーダは、そしてライラも彼女が思った以上に経験が無い事を悟り、心の中に暗雲がむくむくと湧き上がっていたが、事態はそうそう止まらない。

 よろめきながら何度もデタラメに木剣を振り回すユカリだったが、刀身をフリーダに掴まれて宙へと放り投げられる。

 ここから彼女が反撃を仕掛けてくる事は、最早有り得ないと判断を下して、フリーダは問い掛ける。


「もう良いかい、ライラ?」

「大体分かったから良いけれど……、怪我させたら駄目だよ」

「百も承知だよ、そんな事は」


 ゆっくりと落下してくるユカリの腹部に狙いを定め、利き手とは逆の左手に拳を作って構える。拳が届く距離まで落下してきた頃、フリーダは左の拳を振るった。力を遥かに抑えている為、怪我の心配はないものの、やはり絵面的にはよろしくないせいかユカリは固く目を閉ざした。

 拳が彼女に届こうとするまさにその時だった。


 雷鳴が轟きフリーダの拳を弾き返しただけでなく、彼の身体を吹き飛ばした。


 受け身を取ったフリーダが、痛みに顔を顰めながらではあるが、ユカリの方に目を向けると、淡い光を放つベールが彼女を包んでいる事に気付く。


「これは一体……?」

「『輝甲壁リグルド』が一番近いけど……」

「ユカリちゃんは魔術が使えない筈だったよね……」


 呟くが、いつも明朗に答えを返すライラも確たる答えを持たないようで、ひたすらに首を捻っている。

 ユカリが地面にゆっくりと降り立ち、ベールも消滅する。ライラがすぐに駆け寄ると、彼女の胸元にあるネックレスが発光している事に気付く。


「ユカリちゃん、これは一体何なのさ?」

「これは、父さんと母さんから貰ったネックレスだけど……、こんな事が起きるだなんて聞いてないよ」

「ふうむ……」


 一見すれば赤い宝石、ザクロ石に見えるが、当然今のような現象を引き起こすなどの事例の報告は無い。となると、魔力の注入が為された石か何かだろうか。

 しかし、彼女の世界に魔法は存在しないと聞いている。そこから考えると、当然彼女の両親だって魔術を扱える筈が無いだろう。考えを巡らせるライラの視界に、小さな、そして見慣れた人工の石が突き出された。


「これが誤作動したんじゃないかな?」

「あ、なるほど……」


 フリーダが突き出して来たのは、ライラが設計している製品だった。それは確かに『輝甲壁』に近い物を発動させられる物で、辻褄が合うと言えば合う。

 だが、ライラの中に疑問は止まない。


「あんなに出力高く出来たっけ? 汎用性の為に抑えてた筈なんだけど……」

 深い所へと潜り始めたライラの思考は、フリーダの言葉で打ち切られる。

「これが動かないようにして、もう一度やってみれば良い。ユカリちゃん、いけるかい?」

「は、はいっ!」


 二人は再び手合せを行い、それはユカリの体力が尽きるまで行われたが、最初に起きた現象を再度確認する事は出来ず、フリーダの推測が正解である可能性を高める結果に終わった。

 そして、ユカリが想定していた以上にこう言った物に対しての経験がない事に、二人は頭を抱えるのだった。


                ◆


 全身が痛いです……。自分の弱さが情けなくて仕方がありません。戦う行為が日常的に必要とされてなかったとは言っても、あそこまで自分が動けないとは思いませんでした……。フリーダ君とライラちゃんには凄く申し訳なさを感じています。これでは目標達成までは遠そうです。

 ……いえ、ここで落ち込んでいても仕方ないんです。現在の私自身の力をしっかりと把握出来たのだから、それを伸ばすように励めば良いのです。いえ、そうして少しでも足を引っ張らないようにしなければならないのです。

 ……後は、今ここにはいないヒビキ君にも、自分の考えをしっかりと話さなければいけません。誠意を持って、しっかりと言えば理解してくれる筈です。……彼には少し気になる事もありますし。それを知る為にも、頑張らないといけません。


                   ◆


 意識が覚醒したのは、二、三時間が経過した頃だった。頭の中で延々と発せられている鈍痛に顔を歪めながら、ヒビキは身体を起こして周囲を見渡す。


「起きたか。……すまなかったな」

「別に構いやしねぇよ。殺されなかっただけ感謝してるよ」


 冗句ではなく、王族の人間に対して斬りかかるなど問答無用で死罪に該当する。たった今生きていることが不思議なくらいだ。そんな事を考えていると


「ヒルベリアへの発動車は手配している。それに、本にも破損などを防ぐ障壁を貼らせてもらった。痛み止めの薬も積んでいるから、万が一ぶり返したら使ってくれ」


 随分と至れり尽くせりな対応をしてくれるようだ。アリアも、そしてデイジーもこのような対応をしそうな人間ではない。

 目の前の男、パスカ・バックホルツの独断だろう。

 当然ながら、ここまでの事をされる道理は無いので、ヒビキの内心には感謝と同程度の割合で疑問が生まれる。


「ありがたいが、ただ受け取るだけじゃ気持ち悪いし、アンタに利が無い。……何が目的だ?」

「君の身体についてだ」


 薄ら寒い風が背中を撫でた気がして、腕で自らの身体を抱き、少し距離をとる。 

 選んだ言葉の不味さに気付いたか、渋い顔になった四天王は、前言に訂正と補足を加える。


「言い方が悪かった。デイジーが君に対して疑問を呈してな。殴ってる時の感触が微妙に違う、肉の感触があまり感じられなかった、だそうだ。それに俺が治癒の魔術をかけたんだが、今までに無い抵抗が見られた。自慢ではないが、俺の魔術は他人に拒否反応を示された事が無い。だから余計に気になるんだ」

「なるほどなぁ……」

 相手の主張にも一理ある。だが、ヒビキには検討の余地など無かった。

「悪いが――」

 言葉を途中で止め、スピカを抜いて身構える。自分如きが気付くなら、四天王であるパスカも当然気付いているだろう。そんな感情を抱きながら、短い問いを投げる。


「……アンタも分かるか?」

「……分かるさ」


 警戒度を最大まで引き上げて、二人は道路に飛び出して空を見上げる。

 まだ点の様な大きさでしかなく、はっきりとした姿は確認出来ない。が、二人には既に存在が、表情が無意識の内に引き攣る程に迸る殺気を感知出来てしまった。

 何故なら、彼らは溢れる闘争心や殺気の類を、他者に気取られぬように隠す事を致命的なまでに不得手としている。

 何故不得手なのか? 答えは非常に単純だ。

 人類に戦争を仕掛けた「エトランゼ」を除けば、即ち真っ当な生物の中に彼ら以上の存在などいないのだ。

「――ッ!」

 一気に加速して突撃を仕掛けてくる彼を避けるべく、ヒビキとパスカは横に飛ぶ。前者は飛散した瓦礫を多少浴び、後者は見事に全て躱す。

 爆発したように膨れ上がっていく大衆の悲鳴を背景音楽として立ち昇る、粉塵の中からうっすらと見えてくる存在に、ヒビキの背に寒い物が走る。

 黄金に輝く瞳は、見る者全てを凍結させる氷点下の力を持ち、頭部から伸びる角は明らかに他の生物とは違う、非合理的理由による発達を見せている。鈍い灰色の鱗で包まれた肉体は十メクトルを優に超え、緩やかに振られる尾は、ただそれだけの動きでビルを完全に粉砕した。

 爬虫類が超特異的な進化、そして究極の強化を遂げた結果生まれた化け物が、そこにはいた。


「……竜、か」

「『名有り《エネミー》』では無いが、市街地まで態々来るとはかなり厄介な個体だ。……ここは俺が行く。だから――」

「そりゃ逆だ、四天王さんよ」

「何?」


 恐怖で冷や汗が止まらないし、死にたくはない。

 だが、これだけの大きさを誇る相手ならば、間違いなく大量の血晶石が手に入る。

 この好機を見過ごして帰る事は、ヒビキにとって絶対に許される事ではないし、もう一つの理由もある。

 転がっていた破片を竜に投げつけて、自分に注意を引き寄せつつ、ヒビキはパスカに向かって言葉を紡ぐ。

「このまま町中で殺り合えば、必ず民間人の死人が出る。それは俺としても寝覚めが悪い。でも考えてみろよ、ゴミ捨て場のクソガキの避難勧告なんざ、誰も信じないだろ?」

 意図を理解して重々しく頷き、パスカは背を向けた。


「……すぐに戻る」

「そうして貰えると有り難い。……竜と戦った経験は、無いからな」


 両者はそれぞれの方向に向かって走り出す。自殺志願者の方、つまりヒビキは疾走しながらナイフを投げ付け、竜の装甲の強度を測りにかかる。

「固いなッ!」

 鱗に傷一つ付けられずに、ナイフは無惨にひん曲がって地面に落下。

 怒りの咆哮と共に、竜は『鉄射槍ピアース』を発動。喰らえば即死の極太槍が三十本近く飛来する。

「なぁッ!?」

 驚愕したのはありふれた下級の魔術を選んだ事ではない、撃ち出された槍の数だ。

 ヒト型生物の平均値は精々六、七本程度。上等な魔術師でも十本を放てるかどうか。無理に本数を増やそうと思えば可能だが、そうなると速度や強度がガタ落ちする。

 眼前の竜は優に三倍の数と高い発射速度、そして余裕を保ったまま放ってみせたのだ。驚くなと言う方が無理だ。

 驚愕に意識の大半を持っていかれながらもヒビキは疾駆。

 圧倒的な攻撃をスピカで弾き飛ばし、それが出来なかった槍が身体を掠め、傷を作っても思考と疾走は止めない。

 ――展開出来る量は魔力の量、そして発動効率に左右される。……竜ってのは化け物だな。なら、どうする?

 尚も疾走を止めない相手に対し、距離を詰められる事を嫌ったのか、高層ビルばりの太い前肢が地面に振り下ろされ、舗装路が焼き菓子同然に易々と破砕される。

 転がりながら懐に入ったヒビキは、冷や汗を流しながらもスピカを構えて、激流と化した。

 ――動いてくれるなよッ!

 巨躯は間違いなく強みになるが、懐に潜り込んでしまえばこっちのものだ。


 スピカが振るわれ、流麗な蒼の刀身が世界に閃く。


 鋼鉄以上の硬度を誇る鱗をブチ抜き、赤い柱と見紛う分厚い筋肉をも貫いて、骨まで断ち切る。

 竜の絶叫と共に、それ一つで強力な武器になる爪が三つ並んだ巨大な左前脚が完全に切断され、噴き出した血液と共に宙を高々と舞い、巨体が傾ぐ。

 会心の一撃を与えた事に笑みを浮かべながら駆け抜け、ブーツの底から火花を散らして竜の方向へ向き直ったヒビキの顔が、一瞬にして凍り付く。


 敵は、こちらの行動を理解して仕掛けを整えていたのだ。


 竜の口から吐き出された、無数の『牽雷球ボルレット』がヒビキの身体に直撃。


「がァあぁァッ!」


 電撃の弾丸を浴びて、ヒビキは無様に地面を転げる。死ななかったのは、本当に只の幸運でしかない。

 黒煙を全身から上げながら、かなり無理のある足捌きで地面を蹴って噛み付きを躱しにかかるが、ほんの僅かに牙が脇腹を掠め、鮮血と肉が舞う。

 意識を手離したくなる衝動を殴り飛ばして抑えつけ、立ち上がって体勢を整える。


「……ランフォルスや、エリオバルタクス相手の時とは、考え方をまるで変える必要があるな」


 今までヒビキが対峙してきた生物は、自らの身体が負傷する事を恐れ、敵の攻撃を防ぐ為の行動にも意識を向けていた。

 だが、竜という存在は、ヒト相手にそのような事を気にする気配が無い。どれだけの傷を負ったとしても、捻り潰した後にゆっくりと治療に励めば良い、そんな思考に基づいて行動しているのだろう。

 身体能力も魔力の量も持久力も、ヒトが竜に対して勝っている点など無いのだから、その論法は間違いなく通用する。


「だったら、なんだって話だなッ!」


 血晶石を手に入れる目的を果たさずに、賢者を気取ってノコノコと尻尾を巻いて帰っては、皆に申し開きが出来ない。


 ヒビキに退く選択肢など、始めから一切無いのだ。


 残る右前肢による攻撃を際どい所で躱して、再びの突撃。

 今度は相手にも意図が割れているのか、竜は周りの建物を大量に破壊しながら旋回して尾を叩き付けてくる。

 速度と尾の太さから考えて、回避している時間など無い。スピカを盾替わりにして受けの体勢を執った。 

 数トンは確実にある重量を、受けきれる訳もなくヒビキは吹き飛ばされるが、致命傷の回避と、尾の軌道をズラす事には成功。身代わりとなったビルが、また一つ派手な音を立てて崩壊していく。

 身体から軋みの大合唱が聞こえてくるが、取り合わずに宙を舞う瓦礫を踏み台にして空中へ跳躍。魔術を組み始めた竜の上顎へスピカを捻じり込む。


 分厚い肉を貫いた蒼の異刃は、口腔内をも突き抜けて下顎まで届き、竜の口を縫い止めた。

 

 強制的に魔術の発動を止められ、暴れ狂う竜の上顎から振り落とされないように、柄を固く握りしめながら、このままスピカを脳まで走らせようと、全身の筋力をフル稼働させるが、頂点の存在の硬度は図抜けておりまるで刃は進まない。


 畜生、これ以上は厳し――


 頭部。厳密に言えば閉じられた両顎の隙間から、謎の輝きが発せられるのを視認して、抵抗を放棄してスピカ諸共地面へ飛び降りる。

 転瞬、粘性の液体が空中に撒き散らされ、地面に着弾するや否や舗装路が融解する。掠ってもいないのに、目がやけに痛む。

 ――『融界水スフィッド』かッ! クソッタレ、何でもありかよ!

 接近戦を封じられると、手札がこちらにはもうない。

 体内から呼び声が聞こえてくるが、一切無視してスピカを構え直す。


「すまない、遅れたな!」


 叫び声と共に崩壊した街並みがドーム状に展開された淡い光に包まれる。何事かとヒビキが周囲に目をやった瞬間、竜の両翼が消失していた。

 ――『輝甲壁リグルド』の巨大化と……、後は何だ、魔術なのか!?

 驚愕によって動きが止まったヒビキと、そして自らの身体を大きく削られた痛みで絶叫する竜の間に、身長およそ一・八メクトルの男が立っていた。

 男、いやパスカ・バックホルツは、ヒビキに向けて無骨なリヴォルバーの躊躇なく引き金を引いた。


「ちょ――」

「安心してくれ、『癒光ルーティオ』だ。……しかし、君一人でここまでやったのか」


 眼鏡越しのパスカの目には、ヒビキが彼に対して向けているであろう物と同種の色が宿っていた。

 何故ヒルベリアの者が、王国軍小隊でも練度次第で手こずる竜相手にここまでやれているのか、当然の疑問ではあるだろうが、今はそれに答えている余裕はない。


「……取り敢えず、スピカじゃ心臓や脳にまで届かせられなかった」

「分かった……」


 『擬竜殻ミルドゥラコ』を発動させてくれたのか、ヒビキは自らの肉体が一回り大きくなった感覚を覚える。何故かパスカが驚いているが、無視して三度突貫を開始する。

 先刻の一撃が断じてまぐれではないと強者特有の直感で察したのか、竜は明らかにパスカへの警戒を強めている。

 彼が図抜けた実力者であっても、相手は竜だ。隙を与えれば、何らかの反応を返されて対策を講じられる可能性が高い。


 ――やるべき事は一つ、だな。


 実力の底はもう割れているだろうが、もう一度跳躍して背に飛び乗る。不安定な竜の背を駆け、再び頭頂部へと向かう。先刻付けた傷は、まだ完治していない。狙うなら、ここしかない。

 当然、竜の側もヒビキの狙いなど分かっている。巨体を大きく揺さぶり、背部から一斉に『鉄射槍』による処刑用の杭が発射され、両者を完璧に対処など出来る筈もなく、ヒビキは地面へと落ちて行く。


 転瞬、竜の頭部が爆発した。


 下顎以外が消し飛ばされた事で発生した、血の噴水を浴びながら首をパスカの方へと向けると、眼鏡をかけた四天王は、右手に魔術発動の余韻を残していた。

 ――いや、魔術への抵抗力が高いんじゃなかったのか? 何で一撃で頭が吹き飛ばせるんだよ?

 同じヒト型の生物であるのに、この実力差。最早笑うしかないが、ヒビキには笑うだけの体力も残されていない。


「大丈夫か?」

「まあ何とか。……変に役割を振らずに、さっさとアンタに一発撃たせた方が良かったな」

「君の作った頭部の傷があったからこそ、竜相手にこれほどの早期決着が可能となったんだ。そう卑下するな」


 誠実な人間性からの言葉だろうが、今はフォローされるだけで胸が痛い。パスカがいなければ、自分は徒に事態を悪化させる結果だけを、首都に齎していただろう。 

 苦い物を感じながら立ち上がり、先程パスカが言っていた帰りの足の場所へと歩き始める。


「フォローの言葉をくれるなら、竜の体内にある血晶石をヒルベリアに送ってくれ。

ヒビキ・セラリフ宛で頼む。……どうしても必要だからな」

「それは、異世界からの来訪者の為に使うのか?」

「そいつは肯定も否定もしない。……それと、だ」


 ヒビキは足を止めて向き直り、皮肉な笑みを浮かべる。


「アンタにも、言いたくない秘密ってのが一つや二つはあるだろ? 身体について、ってのは俺の中でそういう物なんだよ。質問の答えはこれで良いか?」


 吐き捨てるようにして先程の問いへの答えを残し、ヒビキは再び歩き始める。フラつき、時には血を吐きながらではあったが、決して振り返る事はしなかった。

 少年の背中を見るパスカの脳内には、疑問が巡り始めていた。

 彼は竜との戦闘経験はないと語っていた。しかし、パスカが辿り着くまで持ち堪えてみせた。そして、常人なら即死の攻撃を何度か浴びていたのにも関わらず、『癒光ルーティオ』だけで済む負傷に留まっていた。

 彼の防御能力か再生能力がヒトという種族の限界を超えて、異常に高くなければ不可能な事だ。一体、彼は何者なのだろうか。


「……?」


 ふと、地面に目をやると小さく光る物質が目に飛び込む。手に取って見てみると、それはヒトの第一関節より先の小指の形をしたものだった。

 しかし、それは少年の持っていた『転生器ダスト・マキーナ』と同じ色をした血晶石で形成されていた。当然ながら、ヒトの手はそんな物では形成されていない。

 あの少年が落としていった物と判断出来るだろうが、パスカの中で彼についての謎は深まるばかりだった。


「終わったようだね」


 パスカの気付かない内に、ヒビキの姿が完全に消えたその時、背後から聞き慣れた声を聞き、パスカは思考を打ち切って慌てて振り向く。


 視線の先には、彼の雇用主である男が立っていた。


 白い物が混ざり始めた黒髪を丁寧に纏め、飾り気のまるで無い修行者のような灰色の衣装を纏った中肉中背の男を前にして、パスカは敬礼する。


「堅苦しい事は止めにしようじゃないか。私の君の仲だろう、パスカ君?」

 威厳の感じられない、柔和な笑みを浮かべるこの中年男性こそが、パスカの雇用主にして現在のアークス国王、サイモン・アークスである。

「陛下、確かノーティカに向かわれていたのでは……」

「それはエンリコ君に替わってもらったよ」


 替え玉役であるエンリコ・ベルノーシアが、他国との会談に出向く事は度々ある。だが、交流がほとんど途絶し、二年に一度程度の訪問だけが情報を得る手段となっているノーティカ行きを任せるのは、理解し難い事だ。


「文字通り、世界を揺るがすかもしれない事態を前にして、たかが国同士のお話を重視するのは愚かだよ、パスカ君」


 異世界からの来訪者についてを指しているのだろうが、来訪者は大した能力を持っていない、との報告が既に上がっている。立場上、自分は警戒を続けるべきだが、国王たるサイモンがそこまで関心を持つ事なのだろうか。

 首を捻るパスカに対し、サイモンは悠然と微笑む。


「単純な力の有無で全ては決まらない。竜族が完全に世界を掌握出来なかった事が、一つの証明となる。今回の来訪者についてもそうだ。特別な力を持っているか否かは重要じゃない。やってきた事、それ自体が既に重視されるべき事なんだよ。……そうだパスカ君、耳を貸してくれ」


 是非もなく、パスカはサイモンからの耳打ちを受けるが、その内容に目を見開く。


「公平性を欠いてはいませんか?」

「私と王族の存在が、既に公平性を失している証拠だとは思わないかい? 恐らく、そのような展開になる事は有り得ないけれど、念の為だ」

「はぁ……」


 何から何まで意図が理解出来ず、らしかぬ間抜けな返事しか返せないパスカを置いて、サイモンはヒビキが消えて行った方向を見つめながら、呟く。


「生命ある者は皆、何らかの役割を押し付けられて踊る傀儡に過ぎない。……この世界の者ではない異邦人の役割とは、一体何なのだろうね」


 誰に聞かせるでもない言葉への答えは、当然ながら帰って来る事はなかった。


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