7

 翌朝、夜明け前に目覚めたヒビキは、まだユカリが眠っている事を確認した後、自らが何処へ向かうのかを記した書き置きを残し、装備を整えて家を出る。

 最悪の場合、街の外で狩りを行う必要が出てくるだろうが、まずは昨日ゴミの投棄があったばかりの第一マウンテンに向かう事を、ヒビキは選択した。

 必要なのは血晶石である為、魔力を有していないバスカラートを狩ってもまるで意味がない。出来ればディメナドン辺りが大量発生している事を願いながら、走るヒビキに聞き慣れた声がかけられた。

「やぁヒビキ、僕を置いてけぼりにするのは少し悲しいよ」

 視線を上げると、声の持ち主である茶髪の少年、フリーダが立っていた。もう少し後になってから話そうとしていたのだが、彼を見るに既に知っている様子。


「ライラに『転生器』のメンテナンスを頼んでいたのを思い出して、あの後工房に戻ったんだ。そうしたら何やら慌ただしく動いてたから、色々と聞いてみたって訳だよ。……カルスさんの遺した奴を試すんだって?」

「あぁ、そうだ」

「だったら、僕も混ぜてくれないか?」

 単純に人手が増える、以上にフリーダの申し出はありがたい。しかし何故協力を申し出てくれたのか。疑問を素直にぶつけると、友人からは苦笑いが返って来る。

「まだあまり信頼はしていないよ、色々とね。でも、友人が困っているなら、助けるのは当たり前だろう? ……君と違って、多少寄り道をしても困らないだけの蓄えもあるからね」

「一番最後の部分は要らねぇだろ、色々と台無しだ。でも、よろしく頼む」

 ヒビキも苦笑いを返しながら、左拳を固めて突き出す。フリーダもそれに応じ、両者は拳をぶつけ合い、二人は並んでマウンテンに歩き出す。

 どのように動くかのやり取りが一段落し、沈黙が降りようとしていた時、フリーダがある問いかけを投げかけてきた。

「ヒビキ、君はどうしてこうもユカリちゃんに執着しているんだ?」

「執着って酷ぇ言い回しだな。……単純に助けたいから、じゃ駄目なのか?」

「君の性格上、それは少し納得の行かない返しだね」

 

 付き合いが長いだけに、思い付きの発言はあっさりと切り捨てられる。


 確かに、自分は力が及ぶ範囲内なら協力するし、枠を超えてしまう事象に対しては深入りはしない。一般的なヒトのそれからは、大きく外れていない感性の持ち主の筈。

 出会って一週間程度の存在に何故ここまでのめり込むのか、疑問に持たれても仕方のないことだろう。相手の抱える物が途轍もなく大きいなら尚更だ。

「どうしてなんだろうなぁ……」

 このような状況でよく持ち出される感情は、彼も多少の読書と観劇の経験から知識として知っている。だが、自分を動かした理屈付けには不十分な気がして、選択肢から消えていく。

 歩きながら延々と唸り声を上げ続けた挙句

「今のところは、絶対に放っておいたら駄目な気がしたから、としか言えねぇよ」

 百人中百人が納得してくれない、曖昧な解答しか言えなかった。想定はしていたのか、フリーダが特に反発を抱くことなく、頷いてくれたのは幸いなのだろうか。

「……そうか、またハッキリと分かったら話してくれよ。なかなか気になるからね」

「分かったよ。いつかな」

 いつの間にやら市街地を抜け、目的地であるゴミの山へと辿り着いていた。マウンテンと市街部にある詰所も、まだ朝が早いせいか、止められる事なく抜けていたようである。

 どれだけ意識を持って行かれているんだと、苦笑したのは一瞬の事。ヒビキは緊張の糸を張り直して、己の武器を再確認。フリーダの方も、両の手に身に付けた手甲型の『転生器ダスト・マキーナ』、『破物掌甲はぶつしょうこうクレスト』を改めて付け直した。

「バスカラートは無視、ディメナドンを始めとした、魔術を扱える生物だけを狩って行く。……それが最短ルートだ」

「目標は遠いけれど、ね。適度に焦りつつ、頑張っていこう」


 二人は事態の早期進展を図るべく、ゴミの山に踏み出した。


                 ◆


「……っ」

 丁度その頃、ユカリは目を覚ました。起きたら元の世界に戻っているといった、絶望的に安く、有り得ない希望を彼女は少しだけ抱いていた。

 当たり前の話だが、そんな物が実現している筈も無かった。

 泣き続けている内に、何時の間にか眠ってしまっていたようで、頭と目がやけに痛い。ふらつく足で部屋を出ると、家の中に誰もいない事が理解出来た。

 傷や汚れで本来の色が分からなくなった机の上に視線をやると、乱雑な字で「マウンテンに向かっている」との内容が書かれているメモを発見する。書いたのは無論ヒビキに決まっている。そこで昨日の自らの醜態が蘇り、ユカリは頭を抱える。

 事態が現実であった事を真っ向から突きつけられ、普段見た事もない形相の母親が画面に映っていた事で、色々な感情が制御出来なくなっていたとは言え、異物である自分を受け入れてくれている人達に対し、拒絶の言葉を発してしまった。

 文句の付けようが無い最低の行為に、昨日の自分を殴り飛ばしたくなる感情が湧き上がるが、生憎時間は前にしか進まない。となると今やるべき事は一つだけだ。


「……謝りに行かないとね」


 ヒビキとフリーダが夕刻まで戻ってこない以上、まずはライラの所に行くべきだと判断し、最低限の身だしなみを整え、十分近くかけて鍵を探した後に家を出ると、朝の日差しが身体に届き、その眩さに目を少し眇めた。

 ずっと曇天だったから、ヒルベリアで太陽の光を強く浴びるのは始めてのことかな、などと思いながら、記憶を頼りにライラの家へ向かう。

 道中、自分への視線が鋭いことに気付き、普段歩く時には気にもしない方向への警戒心を強めながら歩く。慣れない事をしている時は、普段は絶対にやらないミスがぽろぽろと出てくる。

「どこ見てんだゴラァッ!」

「す、すみません……」

「邪魔だよ!」

「どいてくれ!」

「端を歩け愚図!」

 何度か荷物を担いだ通行人と接触してしまい、その度に顔を顰められ、或いは怒鳴られ、身を竦め最終的に閉口してどうにかこうにか前へと進む。

 中央部の通りは露店は、元いた世界にある商店街といった風情で、設備こそ汚れなどが目立つが、賑わいを見せている。

 だが客では無いと雰囲気で主張しているからか、ユカリに話しかける人間はおらず、人混みや警戒を続ける事に慣れてからは、スムーズに歩く事が出来るようになってきた。

 悪い事とはそうやって気が緩んだ時に起こる物だと、ユカリは次の瞬間思い知らされる事になるのだが。


「おねえちゃん、これ食べていいよ!」


 進路に飛び出てきた少年が突き出してきた物体を、ユカリはまじまじと見つめた後、問い掛ける。

「……これは、何かな?」

「ウチの店で売ってるケーキだよ! これは試食用だってお母さんが!」

 元気な声で少年は答え、手に持ったスプーンを更にユカリの鼻先に近付けてくる。食欲をそそる甘い匂いが、ユカリの鼻孔に届く。

「……本当に良いの?」

「うん!」

 ここまで言われたなら食べても大丈夫なのだろう。断り続けるのも申し訳なさを感じて始めていたユカリは、少年からスプーンを受け取って口に運ぶ。

 匂いに違わず味も良い。ただただ甘いだけでは無く、恐らくは果実による程良い酸味がある事で、沢山食べたくなる衝動に――


「ちょっとアンタ、何勝手にウチの商品食べてんだい!」

「――っ!」


 突如入った怒鳴り声で激しく咳き込む。視線を前に戻すと、顔を赤く染めた恰幅の良い女性が立っていた。恐らくは少年の母親だろう。動きが止まったユカリに対し、女性は弾丸の如き勢いで言葉を撃ち出していく。


「食べたんだから、金払いな!」

「でも試食だって……」

「アンタそんな事言ったのかい!?」

「言ってないよ!」


 してやったり、の表情で少年が自らの方を見ている事に気付き、ようやくユカリは悟り、自らの阿呆さに内心で頭を抱える。

 端からこういう手筈だったのだろう。食べさせてしまえば、相手の立場は非常に悪くなり、大人しく金を払うしか選択肢が無くなる。更に言えば、どれだけ食べたかについても、売り手側が良い様に言えてしまうのだ。

 助けを求めようと周囲に視線を向けるが、囃したてる人間や馬鹿を見る目で見てくる人間が大半を占め、同情の目を向けてくれる数少ない者も、積極的に助けには来てくれなさそうだ。

「で、アンタ――」

「そこまでだ」

 首筋に派手な長剣の切っ先が突き付けられ、威勢よく怒鳴っていたが女の顔が凍り付く。女の後方に、少年と共に視線を向けると、昨日自分に得物は違えど同じ行為を行っていた者の姿が見えた。

「あなたは……」

「ヒンチクリフ、何のつもりだい!?」

「何のつもりって、お前が阿呆な真似してるから止めてるんだろうが」

 整った顔に呆れた表情を浮かべながら、クレイトン・ヒンチクリフは身の丈ほどもある長剣を女の首筋から離し、自らの肩に乗せた。

 相手が普通のチンピラだったならば、一連のやり取りで撤収していただろう。ただ、商売人とはこの程度で黙るような人種では無く、女の言葉は止まらない。

「このガキがウチの商品を食ったのは事実なんだよ。アンタの出る幕はないよ!」

「コイツはあくまで試食しただけなんだろ、なぁ?」


 問いかけに迷いなく首肯する。女はユカリの方を睨みながら、言葉を続けて行く。


「ガキに聞いたってどうしようも無いだろう、アンタら! ウチの子供は試食って言ったのかい!?」

「周りの連中に聞いても、それはそれでどうしようも無いと思うんだがな」


 しばらくの間、言葉の殴り合いが展開されていく。平行線のやり取りが延々続く事に飽きを覚えてきたのか、クレイの目に妙な光が宿る。

 それを唯一視認出来たユカリは、今まで感じた事の無い恐ろしさを内包した目に、無意識に数歩後ずさった。


「話を変えるぞ、リドリー。お前の所は酒を作っているそうだな。……結構な実入りも得ているらしいな。羨ましい話だ」

「一体何の話を……」


 女の言葉が止まり、顔色があっという間に不味い物へと染まる。不気味な目の輝きはそのままにカラカラと笑いながら、クレイは言葉を紡ぐ。

「確かにヒルベリアは馬鹿とクズと敗北者が集う街で、ハレイドの連中も興味を示さない。軍属の連中も黙認してくれている。だが、匿名で物的な証拠をハレイドに提示すればどうなるだろうな? ……酒、煙草の密造は、単なる税の徴収だけじゃすまないぜ。バレたイアンゴがどうなってるか、知らない筈は無いよな?」

 ジョークとは受け止めなかったのであろう観衆のどよめきとは対称的に、沈黙が両者の間に降りるが、それも一瞬。先程までの勢いは失い、身体を震わせながら女が口を開く。

「……何が望みだい?」

「望みなんて大層なモンじゃない、単純な話だ。その子が食った菓子の正確な量を教えろ。代わりに俺が払う」

 苦虫を潰した表情で、女は金額を告げ、クレイは涼しい顔でその通りの額の硬貨を手渡す。

 恐らくは、ユカリからふんだくるつもりだった額からはかなり少額なのだろう。

「本当に言わないんだね!?」

「言う訳ないだろ。俺だってヒルベリアの住人だ。住んでる場所の人間を破滅に導く決断なんざそうしないさ」

「……アンタが言うと、何でもマジに聞こえるからやだねぇ。早く首都に戻っておくれよ!」

「あそこに、もう俺の居場所は無いんだよ」

 肩を落として、親子は自分の割り当て場所に戻っていく。視線を一巡りさせて、観衆も強引に平穏へと回帰させた事を確認してから、クレイは溜息を吐いて長剣を鞘に収め、ユカリに微妙な笑みを向けてきた。

「ここはそこまで悪い場所じゃあない。だが、お人好しだけで構成されてる訳でもない。次から気を付けな。自己責任、とか言う全知全能の言葉を皆乱用するからなかなか助けて貰えないぞ」

「は、はい。……でも、どうしてですか?」

「ん? どうしてかって? ……ああ」


 自分の記憶が著しい混濁現象に見舞われていない限り、眼前の男は自分に対して好意的な感情を抱いておらず、何かあろうものならば見捨てるすると公言した筈である。たった今だって、適当な理由を付けて放置する事だって出来た筈だ。

 疑問が表情に出ていたのか、クレイは頭を掻いて、躊躇いながらも口を開いた。

「あの後な、ヒビキがやってきたんだよ。君を元の世界に戻せる可能性のある方法が書かれた物を持ってな」

「……?」

「魔術を使用出来る生物の体内には『血晶石』っていう大量の魔力が籠められてて、武器を始めとして色々な用途に使えるブツが存在していてだな、そいつを掻き集めて、お前さんを元の世界に返してやろうって腹積もりらしい」

「!」

「で、一度家に戻った後、しばらくしてまたアイツはやってきてな。俺に頭を下げに来たんだ。「俺達がいない時は、出来る限り守ってくださいってな」こうまで言われたら、見捨てる訳にもいかねぇだろ?」

 クレイの一言一句で、ユカリは自らの頭を思いっきり揺さぶられたような衝撃を感じていた。自分が悲嘆に暮れている頃、ヒビキは、いや彼ら三人は、ほんの僅かな時間しか共有していない自分をどうにかすべく、準備を進めていたのだ。

 足を引っ張る上に、助けたところで何の益も齎さない存在だから、見捨てる事だってこの世界の流儀から考えれば非難される訳ではない。それでも、彼らは別の選択をした。

 気付かぬ内に嗚咽が漏れ始めていた。すると、緩い笑い声と共に、クレイから一切れの布が差し出されていた。


「泣く場所としちゃここは騒がしいし、俺の前で泣くのは間違ってるだろ。それに、アイツ等は辛気臭いのが嫌いだから、謝って泣くよりも笑ってる方が喜ぶと思うぞ」

「……はい!」


 今自分が可能な限り声を張り、クレイに答える。彼らの前でも、この位で振る舞おうと、ユカリは心に決めた。


「そういや聞き忘れてたが、お前さん何しに外に出たんだ? ヒビキから何か頼み事でもされてるのか?」

「あ、それはですね……」


 外出理由を説明すると、クレイは何度も頷いた。


「ライラならこの時間帯は確実にいる筈だから行っても大丈夫だと思うぞ。あぁそうだ、アイツの事だから確実にお前さんをメシに誘ってくるだろうが、全力で断れよ」

「……?」 


 普通、友人から誘いを受けたら快諾するものだ。との自身の常識とは外れた言葉が飛んできた事に首を捻っていると、クレイが暗い声でボヤき始めた。


「アイツは来客にやたらと飯を振る舞いたがるんだがな、色々と絶望的なんだ」

「絶望的、ですか」

「ああ。前に食べに行ったヒビキとフリーダが、口にしてから五分で医者送りになっていた。アイツと飯を共にする時は気を付けろよ、色々とな……」

「……」

 自分も被害を被った経験があるのかクレイがやたらと遠い目をする。

 まだ本人に会っていないのに、ライラの一面を知る事が出来て嬉しさ半分、それがよろしくない面であった事による不安半分と、見事に等分された心理状態で、ユカリはライラの家へと歩を進めるのであった。


                  ◆


 日が沈み始めた頃に、ヒビキは自分の家へと辿り着こうとしていた。顔に大きな青あざを作っている彼は、何やら呪詛を延々と吐き続けている。


「あの野郎、人の邪魔しやがって。次会った時は……」


 物騒な中身の言葉を、何の理由もなしに吐いている訳では無い。マウンテンでの狩りの際、例の迷いドラゴモロクにまた遭遇し、戦いを挑んだヒビキとフリーダは、想定していたよりも順調に事を進め、もう少しで殺れる所まで追い込む事が出来た。

 そして、最後の一撃を別の『塵喰いスカベンジャー』が持って行った事で揉め事が起きた。

 『先行特権』がどちらに適用されるか互いに譲らず、挙句の果てに殴り合いに突入する羽目になったのだ。

 フリーダが妥協案として、二人がドラゴモロクの体内にある血晶石を、相手が骨や肉の類を持って行く案を出した頃には、既にヒビキは相手をボコボコにし、またボコボコにされていた。

 身体の痛みもなかなかの物だが、それ以上に痛いのは手に入った血晶石が、握り拳程度と想定していた以上に小さかった事だ。

 ドラゴモロクは草食の生物の中では上位のカーストに位置する生物であり、それがこの程度ならば、マウンテンに大量に生息しているディメナドンは更に小さな物となるだろう。


「時間と量が足りるか、微妙な所だな……」


 乱獲はご法度と一応なっている為に、ここでひたすらに狩り続ける事は、間違いなく不可能である。 

マウンテン以外、即ちヒルベリア以外の所での狩りを行う事も覚悟しておく必要がある。そう結論付けて鍵を回してドアを開く。


「あれ?」


 短い疑問の言葉が漏れる。家の中に人の気配が感じられない。何かあったのか、瞬時に精神を戦闘時の物に切り換えるが、机の上に置かれていた書き置きでそれは氷解した。


「……川に行ってるのか。時期も過ぎてるし、大丈夫か」


 ヒビキの家には洗体設備の類が存在しない。ついでに言えば、下水道は引かれていても上水道は引かれていない。壊れてからほったらかしにしていて修理をしていないせいだが。

 よって、水を得るにはすぐ近くの川へ汲みに行くか、店でビン詰めの物を買うしかないが、今は十分な量の貯蓄がある。ならば、体なり服なりを洗いに行っているのだろう。


「毎日身体を洗うって、異世界のヒトは潔癖なんだな。……ヒルベリアがおかしいだけか?」


 只時間を浪費していても意味が無いので、スピカの整備をしながら時間を潰す。大方整備を終えた所で、川の方角から悲鳴が聞こえ、ヒビキに緊張が走る。


「――!」


 時期が外れていても、やはり何か出たのか。いや、世界を跨ぐという途轍もない不運を経験しているユカリならば、その程度の不運など楽に引き当てる物だと考えておくべきだったか。己の見通しの甘さに舌打ちをして家を飛び出し、川へと向かう。

 案の定、川では巨大な生物がユカリに対して牙を剝いている光景が展開されていた。蛙のような面構えだが、サイズはヒビキを遥かに凌駕する両生類エリオバトラクスは、大きく口を開いて魔術発動の構えを執っている。


「させるかぁッ!」


 二者の間に割り込んだヒビキは、スピカを敵の頭部に叩き込む。強引に口を閉ざされ、正しい放出先を失った魔力が粘液と共に明後日の方向へと飛散し、ヒビキに襲い掛かるが構わずに刃を返し、身体の深い所まで刃を侵入させる。

 そのまま『器ノ再転化』マキーナ・リボルネイションを行ってスピカの形態を変化させ、『牽火球フィレット』を発動。体の内部を焼かれたエリオバトラクスは、断末魔さえも上げられずに巨体を川の底に横たえた。


「ヒ、ヒビキ君……」

「ちょっと待ってくれ! すぐに終わるから」


 何故か恐怖以外に困惑も混じった声を発しているユカリを置いて、ヒビキは巨大両生類の背中をスピカで裂き、汚れる事も厭わずに肉の中をまさぐり、すぐに手応えを感じて突っ込んだ左手を引き上げた。

 手中には血に塗れても尚独特の紅を放つ物体、血晶石が握られていた。巨体に違わずかなりの大きさで、思わぬ形で目的にまた一歩近づいたヒビキの感情は高揚する。


「悪かったな。怪我、な……」


 気分良くユカリの方を向いたヒビキは絶句して固まる。急展開と幸運が過ぎて、大事な、途轍もなく大事な事を忘れていた。手に持った血晶石で自分の頭を小突く。ゴツン、と言う音と共にかなりの痛みを感じる。痛みを感じると言う事は即ち、これは現実なのだろう。

 家の中に適当に放置されていたのであろうタオルで前を隠しているが、水浴びをしていたのだからユカリは当然何も着ていない。華奢な、しかしヒビキとは違い貧弱さは感じないバランスの良い身体が露わになっていた。

 自分と同じ色だが、手入れの有無の違いがはっきりと分かる綺麗な黒髪は、水に濡れて肌に貼り付いてやたらと艶めかしさを感じさせる。

 そして髪と同色の目は驚愕と混乱で見開かれ、顔は真っ赤に染まっている。

 健全な十七歳としては喜ぶ場面なのかもしれないが、予想外が過ぎて思考も全て吹っ飛び、何もリアクションが出来ない。そしてその状態はユカリの側からすればどのように映るのか、考える必要は無いだろう。

 半ばパニック状態と言った様子で赤い顔のユカリは腕を振り上げる。そこでようやくマトモな思考を取り戻したヒビキは、彼女の次の動きと、それを避ける術が自分には無い事を悟った。


 ――エリオバトラクスから助けたんだし、それでチャラにしてくれないかなぁ。それとこれとは話が別って事かぁ……。 


 ヒルベリアの隅で、景気の良いビンタの音が響き渡った。


                ◆


「また助けてくれたのに……。ごめんなさい」

「いや、俺の方こそ申し訳なかった……」

「ううん、私の方が……」

「いやいや……」


 向かい合って互いに頭を下げ合う奇妙な絵面が、ヒビキの家で展開されていた。もう何分この繰り返しをしているか、そろそろ分からなくなってきている。ヒビキの頬には赤い手形が出来上がり、ユカリの顔も先程までとは別の感情で真っ赤に染まっている。

 互いに失策を犯した自覚があるからこのような事になるのだ。ヒビキとしては今回の件の教訓を活かして、出来る限り早く安全な洗体設備を整えようと、心に決めるのだった。

「……とりあえず、飯食おう。せっかく作ってくれたんだし、冷めたら不味い」

「……うん」

 延々と続く謝罪合戦の展開は不毛だと、混乱しながらも判断したヒビキは、肉又を手に取って皿に盛られた野菜炒めを口に放り込む。

 自分で作ると、大体塩加減がおかしくなって微妙な事になるのだが、ユカリが作った物は違う。本人は有り物で適当に作ったと言うが、非常に美味だった。

 話を終わらせる目的で食べ始めたが、それを完全に忘れた調子で食事を進めているヒビキをじっと見つめていたユカリは、やがて意を決したように口を開く。

「ヒビキ君、昨日はごめんなさい」

「昨日? ……あぁ」

 別に謝られるような事でも無いよな、とヒビキは内心で思う。世界を跨いだ事が現実で、肉親が悲嘆に暮れている姿を見てしまえば、あの程度は当たり前な気がする。経験が無い人間の勝手な感想だと言われればそれまでだが。


「あんな態度取っちゃったり、何も役に立たないけれど出来る事はするから、これからも……」

「そんな事言うなよ。ユカリも別の奴の所に行けてりゃ、さっさと帰れるかもしれなかったし、こんな汚い所で生活せずに済んだ。それに、無力なのは俺も同じだだ」

 謙遜でも何でもなく本心だ。不確実な方法に縋るしか手がなく、それさえもいつ実行出来るか分からないのは、紛れもなく自分の実力が足りないせいだ。

 無力さから生じる苦味を噛み潰し、ヒビキはパシン、と両の手を打ち鳴らしてから口を開いた。

「でもま、一応お前を元の世界に還せるかもしれない、っていう方法は見つかった。説明するから聞いてくれ」


 元の世界、という単語を聞いた時点で目の色が変わったユカリに対し、自分達が今理解している事を全て説明する。一通り終えた所で、質問が飛んでくる。

「……血晶石ってそんなに凄いの?」

「魔力を貯めこんで、放出後も自動的に貯め直すっていう流れが凄い速い物体で、用途が幅広いし、大規模な魔術の展開の時に使われた例も結構あるからな」

「そっか。……これからずっと、ヒビキ君はその血晶石を集めに行くの?」

「日銭を稼ぐ為に細かい仕事を受けるかもしれないが、基本的にはそうなる。ま、出来る限り早く済ませるから、ユカリは待っててくれ」

「うん……」

 良い事を伝えている筈なのに、眼前の少女の表情は固い。少し疑問を抱くが、こんな奴が試みて本当に上手く行くのか、辺りの事を考えているのだろう。

 ――立場が逆なら、俺だって不安になるだろうし仕方ないか。……出来る限り早くしないとな。

 改めてヒビキは決意を固める。ユカリの表情の理由には気付かないままで。


                 ◆


 醜態を晒した次の日に可能性が見えたのは、驚きではありますが、同時に凄く嬉しい事でもあります。何の義務も無いのに、ここまで動いてくれている皆には感謝してもしきれません。

 でも、このまま只受け取るだけで良いのでしょうか?

 ……勿論、この世界で生きる術を学んでいない私が無理に付いて行っても、足を引く結果しか出ない事は重々分かっています。無駄に動かない事が最良である、という判断もあるとも分かっています。

 ちゃんと理解していても消えない、この手前勝手な不満の解消の仕方を、今は知りたいです。父さんと母さんなら、何か分かるのでしょうか?

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