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アークス王国、バカとクズと敗北者の町ヒルベリア。
「ここから、動いていきたい」
レフラクタ特技工房の一室で、大嶺ゆかりはそう切り出した。
覚醒と、ある人物から提示された真実に基づく言葉だが、それを知るのは彼女のみ。
激戦に飲み込まれたグァネシア群島から帰還した翌日の発言故、ライラとフリーダは即答せず疑問符を浮かべる。
只一人、少し離れた位置で壁に寄りかかって立つヒビキに少し目を遣り、ゆかりが紅華を抜き、床に切っ先を当てる。
雑然と工具が並ぶ空間に乾いた音が響き、ネックレスに光が灯る。何かの予兆かと三者三様の反応を見せた三人を他所に、光は紅華が叩いた箇所に着地。波紋のように広がって人の形を成した。
「……ハンス・ベルリネッタ・エンストルム」
フリーダの呟き通り、二千年前の勇者を象った光が室内に屹立していた。ただの立体映像相手とは思えぬ程に姿勢を正した四人を睥睨し、嘗ての英雄はゆっくりと指を立てた。
人差し指で東を示した男は、呼吸に伴う上下動を何度か見せる。
奇妙な生々しさを前に、呼吸は立体映像には不要と誰も指摘出来ぬまま、ただ言葉を待つ。
「カロンすら完全な制御が叶わないのが世界を繋ぐ行為だ。だから、君自身が掴むしかない。イルナクス連合王国に眠る秘宝を探せ。それに手掛かりはある」
「秘宝とは一体……何を指しているのですか?」
嘗ての勇者が放った、意味を解し難い宣告。
反射的に溢れたフリーダの問いに応じぬまま、ハンスの輪郭が崩壊。逆回しの映像のように、室内に日常が回帰する。
「ユカリちゃん、今の映像はどうやってネックレスに?」
「ファナント島の一番奥で、ハンスさんと話した時……だと思う」
沈黙を振り払う為と思しきライラの問いに対し、ゆかりの答えは歯切れが悪い。
荒唐無稽かつ根拠は薄弱だが、ゆかりにもそれ以上の説明が出来ないと分かっているのか、ライラも深く追求せずに続きを促す。
「手掛かりが何なのか。見つけ出して何を得られるのか。全部分からないけれど、彼が提示した道より説得力を持つ物は私にない。状況を前に動かすには、賭けるしかない」
「言いたいことは分かる。ただイルナクスは……」
着地点を濁したが、フリーダの懸念はゆかり以外の全員が持っていた。
イルナクス連合王国への入国自体は、ヒルベリア在住故の苦労は多少あってもどうにか出来るだろう。
問題はその先だ。
ハンスの形容が大袈裟な物であっても、膨大な力を内包した代物なら、容易に入手可能な場所に眠っていると考えるのは、楽観的を通り越して只の自殺行為。
発見が叶っても、国外持ち出しの難易度は入国の比ではなく、目的の達成は運に委ねられる。クレイトン・ヒンチクリフが何処かへ去り、実力者を欠いた現状で決断を下すのは容易ではない。
重い現実を目の当たりにし、室内に漂い始めた澱みを断ち切ったのは、一人離れた場所で沈黙していたヒビキだった。
「俺がユカリと行く。万が一を考えたら、ヒルベリアに纏まってるのは不味い。それに突破口や、ハンスが示した物より有望な情報が無いのは本当だからな」
復活を果たした少年が放った静かな声は、三人が僅かに押される圧を放っていた。
「私はともかく、フリーダをこっちに留めるのはどうしてさ?」
「マルク……さんとのツテがある。実際に所属してるフリーダなら、万が一の時すぐ関係者と連携出来る。けど、イルナクスにあの人の事務所はない。だったら、この配置が最善の筈だ」
彼の発した答えに、大きな穴は無い。
この中で突出した戦闘力を持つヒビキがゆかりに同道し、アークス王国内で上位に位置する民間組織を利用出来るフリーダがヒルベリアに留まる。戦力分散のリスクと、現地で探索する人員減を除けば、ヒビキが発した「最善」の形容に嘘はない。
もっとも、真実は選択の正当性を担保しない。ゆかりをこの世界に引き摺り込んだ誰かが分散した瞬間を突こうとしている。そんな推測も、絵空事では決してない。
「ヒビキちゃん、交渉とか苦手でしょ。それはどうすんのさ」
「……そこは努力するよ」
「いやそれじゃ不味いでしょ!」
悪い方向に転がり続けようとする思考を、引き留めにかかるゆかりの耳に、ライラの声が届く。
強い意志に満ちたヒビキの表情がそれを受けるなり崩れ、歯切れの悪い言葉が返される。そこに食いついたライラと繰り広げる戯けた会話を他所に、フリーダがゆかりに向き直る。
「クレイさんがいない今、あいつが負ける相手は僕達が束になっても勝てない。固まる意味は無いと思うし、動く決断も良いと思う。後は、ユカリちゃんがアイツと一緒で安心出来るか。だけだね」
「それはうん、大丈夫。ヒビキ君と行く事は、何も心配ないよ」
「ホント!? 夜は獣になったりするかもしれないんだよ!?」
「なるか! 俺を何だと思ってんだ!」
後方で始まった言い合いに苦笑を交わしながら、ゆかりは力強く頷いた。
元の世界へ戻る方法を、彼女は四人で最も強く求めている。居心地の良いヒルベリアを出て未踏の地へ向かうことに恐れはあるが、安寧を望む時間は既に過ぎた。
状況は彼女に動く事を求めている。そこにヒビキが同道する事は、ゆかりにとって最良の道と言えよう。
「離せー!」
「離したら話がややこしくなんだろ。……それで、ユカリはどうする?」
ライラを脇に抱え、歩み寄ってきたヒビキの目をしかと見据え、ゆかりは首を小さく縦に振る。
答えは、もう決まっていた。
「一緒にイルナクスに行ってくれるなら、嬉しい。違うかな、一緒に来て欲しい」
決然と放たれた言葉に、ヒビキは少しだけ頬を緩めた。
◆
そのようなやり取りが交わされたのが二日前。
同日中にヒルベリアに屯していた運び屋に金を掴ませ、ドラクル海峡に面したディアック湾に移動して定期船に乗り込んだ。
最後の最後でエデスタなる不審者の襲撃を受けたが、ひとまず無事にイルナクス連合王国に辿り着いた二人は手続きを終えるなり、賞金稼ぎ用の大型発動車に飛び込んだ。
先に乗り合わせていた、野心を抱えた同類からの無遠慮な視線を受けること三十分少々。ディル・ベイン・シェルター跡のアナウンスに反応して降車準備に移る。
「おいおい、デートにしちゃ陰気な場所を選ぶなぁ」
「もっとマシな場所に行った方が良いんじゃない?」
「宝探しごっこやるにしても、もうちょい場所選べよ」
ご親切な声に、一瞥を返すに留めたヒビキはゆかりの手を引いて発動車を降り、数分ほど歩いた先に屹立する巨大な円筒に目を向ける。
アルビオン号からも幽かに見えていた白磁の円筒は大きな口を開けて、地下深くに長く長く伸びている。地上から見えるのは黒一色。整備用と思しき階段の灰色が強い存在感を放っているが、それもやがて黒に吞まれていた。
「ここがディル・ベイン・シェルター跡。思ったより、整備されてるね」
「だな」
歴史に明るくない者同士の会話は、ここで途切れる。初めて訪れたゆかりが抱く感想はごく真っ当な物で、そしてイルナクス国民は皆答えを知っている。
他種族の攻撃を凌いで反撃の体制を整え、そして再興の足掛かりとする為に、この要塞は『エトランゼ』との大戦終結直後に建造されたと、歴史書には記されていた。
大戦で機械文明の多くが失われた事から、カラムロックスの攻撃で穿たれた穴を利用した急場凌ぎの要塞は、飛竜種が多く地竜種の少ない当地の生態系も影響したのか、年月の経過に比例して地下へ伸びていった。
ただの爆撃痕から簡易的な穴へ。穴から部屋へ。増えていった部屋から生物が侵入し、司令部へ侵入される事態を防ぐため、それぞれの部屋を繋ぐ道が入り組んでいったのは当然の帰結と言えよう。
生存競争が一段落した頃、要塞は旧文明時代に盛んだった行為。即ち同属間の戦争に用いられ始めた。
文明の再生に伴い、更なる改良が施された要塞は、イルナクスを飛び越えてヒルベリアの住民すら知っている伝説達の。そして誇り高き王国軍の拠点の役割を担い、四十年前の世界大戦終結を以てようやく役目を終えた。
現代では失われた魔術が基盤となり、時代毎の最新技術を注ぎ込んで拡張が行われた結果、要塞は政府が掻き集めた精鋭を以てしても全容解明が叶わない、屈指の迷宮に変容した。
当初計画されていた観光地化は頓挫し、賞金稼ぎ向けに開放されているが、その不確実性とあまりに全貌が見えないリスクから彼等も寄り付かない。
最初の第一歩には不適格と思える場所を選んだ理由は、やはりハンスの言葉にあった。
『大切な物は皆、見つけにくい場所に隠す。イルナクスで一番深く、安全な場所に秘宝はあるんじゃないかな』
出発準備の最中、再び現れた不鮮明な幻影はこう告げた。
彼のような余所者や、一般人の二人が得られる知識で行き当たる、イルナクスの「一番深い場所」となると、王族達が住まう城か当要塞の二択。そして、一国の首脳ですら訪問に苦慮する前者に土足で踏み込む力を二人は持たない。
不法侵入も一瞬脳裏を過ったが、嘗ての伝説の流れを受け継いだ王室警護隊に叩き潰される未来しか見えなかった。
消去法の気はやや強いが、当地から旧時代の遺物が出土した報は、それなりに出ている。繋がりを持つ人々に協力を依頼し、肯定的な答えは得られたが、彼等からの連絡を待つだけの道は当然不正解だ。
「武器と……服は大丈夫だな」
「うん、いつでも行けるよ」
装備を互いに確認し、二人は階段に足を掛ける。
呼吸を整えて、黒い穴の中へ踏み込む。
無限に続くと錯覚させる、延々と続く階段による降下の途中。容赦なく照りつけていた陽光が徐々に小さくなり、やがて見えなくなる。義眼を持つヒビキはともかく、ゆかりの視力では厳しい暗闇に差し掛かった頃。
ゆかりが懐から銃を取り出し、無造作に引き金を引く。消音器で減殺された発砲音と共に薬莢が排出されると同時、二人の周囲に淡い光が灯る。
視界の確保が成った事を確認し、一旦止まった足が再び動き出す。
魔術自体は単純な『
この世界に現れてから既に十ヶ月が経過しているが、環境への適応は魔術の使用可否と直結しない。先々代四天王ハルク・ファルケリアを始め、持たざる者は生涯変わらないのが定説。戦闘時を除き『船頭』の間接的な助力を減らす方向に舵を切ったゆかりが、魔術への適合を果たしているのは、怪奇現象と形容可能な状態だろう。
偶然でこの世界に訪れたのではないと、輪郭が見えていた想像はファナント島で確信に変わっている。その先を描けない為に、最後の一線を踏み越えられていないのがゆかりに対するヒビキの現状だ。
――俺だってユカリに隠してる。……何も言えないな。
小さく首を振り、視線を前方に戻して集中の糸を張り直す。
延々と続いていた階段が終わりを告げた時、二人の目前に広がるのは巨大な亀裂。幅は四十メクトル弱で、両者とも移動手段はあるが、第一候補は消耗を抑えるべく却下。
今度はヒビキが『
「落ちたら不味い。しっかり掴まってくれ」
首肯と共に、ゆかりがヒビキにしがみつく。伝わってくる感触に複雑な思いを抱きながら、ヒビキは助走を付けて崖から飛び降りる。全身を襲う浮遊感を他所に、急速に接近する眼前の壁をしかと見据える。
激突寸前まで壁が迫り、ゆかりの袖を握る力が一段と強まった時、ヒビキは壁を蹴って跳ねる。蒼の輝きを放つ柄が見えた刹那、それに手を掛け一気に体重を前方へ預ける。
鈍い音が伽藍の遺跡に広がり、やがて消える。
背で受け身を取る形で着地し、先んじて立ち上がったヒビキは、ゆかりの手を取り立たせる。少々強引な手法だが、スピカの投擲による瞬間移動や、飛翔魔術はこの方法より消耗が大きく、万が一の事態を考えるとこれが最善の手法だ。
周囲の光景を確認しながら、二人は前方の通路を進む。
通路といっても高さは十メクトル弱あり、幅もヒトが利用するには過大。学者や物好きの間で多様な推測が飛び交っているが、それも無理はないだろう。
そう考えながら、ヒビキは左眼の力を一段引き上げる。罠の有無を慎重に確認しながら、彼が先導する形で無為に広い要塞を進む。
前進、前進、時折右左折。緩やかな上に出鱈目な方向転換を繰り返しているが、徐々に下降している事は確か。
歩を進めるにつれ、やがて視界が明度を増していく。壁や天井に貼り付いている微生物の類が光を放っていると気付いたのか、ゆかりが『月燈火』を解除した。
消耗の抑制はありがたいが、定期的に整備されている事実を差し引いても、ここまで自然の力が残っているのは些か奇妙な話。
アークス王国最高峰、エルーテ・ピルス内部の迷宮も似たような物だと、ゆかりから語られた話からヒビキは思い出す。ただ、あの場所はまさに大自然そのもの。建造物の側面が強い当要塞に、同じ理由を単純に当て嵌める事は難しい。
「……広いね」
「迷宮になったのはヒトの力だけど、元はカラムロックスの一撃らしい。あくまで『らしい』だけどな」
ヒルベリアのマウンテンで対峙した『エトランゼ』の一柱。
牛頭の怪物の脅威は、二人の記憶に今も鮮明に焼き付いている。あの時の個体はあくまで力の残滓が描き出した残像であり、真の力は要塞に転用出来る大穴を穿つ程。
利害が衝突すれば戦う道を選ばざるを得ないが、出来るなら回避したい。そのような思いからか、交わされる言葉は更に減っていく。
コツコツと、靴底が地面を叩く硬い音が投げられる時間が暫し続く。世界には迷宮探索を生業にする者もいて、彼等の標準は単独潜行が基本。故に沈黙は正解の一つだが、彼等はこの括りに該当しない。
「マルクさんが着ている背広が、この国の職人が仕上げたって前に聞いた。イルナクスの技術は他の国より高いの?」
「俺もフリーダからの受け売りだけどな……」
沈黙を嫌った側面が半分。未踏の地への純粋な疑問が半分。
そんなゆかりの問いを受け、ヒビキは緊張を保ちながらも、友人から受けた指導の記憶を辿る。
「イルナクス連合王国の領土は、最初この島一帯だけだった。『エトランゼ』との大戦以前に成立して、現代も継続性がある珍しい国だ」
「通称にある女王が関係しているの?」
「そう。元は一人の男が有志と共に興したデイトリックスって王国。その孫ニヴィアが統治していた時に、大戦が勃発した。今でもそうだけど、為政者が戦場に出ることは少ない」
「討たれた時に国を制御出来なくなるから、かな?」
ゆかりの答えに首肯を返す。つい先日までのバディエイグや、ロザリス総統のように、戦場からの叩き上げで地位を獲得した者も、統治者に転じてからは前線に出る機会は著しく減少する。
絶対に消えない死への恐れ以上に、突然の退場で生じる国の混乱を避けたい意思。激しく心身を消耗する戦場と政治の両輪を回し続ける困難。
これらが為政者を最前線から身を引かせる大きな、そして真っ当な理由。
常識的判断を解しながらも、女王ニヴィアは彼女を慕う勇士と共に、危険を厭わず最前線へ身を投じた。
ハンスやシグナのような抜きん出た戦闘能力は無かったが、彼女の選択はそれ以上の物を齎した。
自身の命を顧みず、最大の危機に飛び込んでいく。その果敢な姿に心を打たれた国民は、戦の長期化による疲弊や大敵への恐怖で失われつつあった団結を取り戻し、メガセラウスとセマルヴェルグの侵攻から国を守り抜いた。
彼女以降の王族も、高潔な精神と弛まぬ鍛錬を欠かさず国民の範となり、強い求心力を保ち続けた。それを推進力に、王国は他国の一歩先を往く技術の獲得や機械文明への移行。新大陸の発見や他国の植民地化と多岐に渡る発展を遂げ、一時は「眠らずの国」と形容される超大国に登り詰めた。
最大の植民地だった北部アメイアント大陸の独立や、世界大戦の消耗に依る植民地の放棄。他国の技術革新による優位性の低下といった逆風に晒されているものの、現代でも多くの分野で最先端を走っているのは、女王の威光に依る所が大きい。
ニヴィアが愛した薔薇の花は、国の象徴に位置付けられて国中に咲き誇り、彼女を慕う勇士の命脈を継いだ騎士団が、現代でも軍部を統括している。
古の風景の尊重と、止まらぬ進化。相反する要素を両輪に突き進む国が、イルナクス連合王国の姿だ。
「近代的な銃火器はイルナクスの技術者が生み出した。もっと大規模な話だと、蒸気機関や揮発油で動く発動機もそうだ。技術を遡れば大半はこの国に始まりがある……らしい」
微妙に締まらない形で語りを締め括ると、ゆかりの感心した面持ちが目に入り、気恥ずかしさからヒビキは視線を逸らす。
「最低限は覚えておこうよ」
唯一中等教育まで進んだ友人、フリーダの苦言によって、渋々地理歴史の講義を受けた時は苦い物しか感じなかったが、こうして役に立てているなら受けた意味はあった。
友人への感謝と、小さな喜びを抱えつつヒビキは視点を前方に戻す。
仄暗い視界に広がる空間に、大きな変化は見受けられない。
軍事施設だった。その一言で全てを是とする事が難しい、精緻な装飾が刻まれた壁や床は、ヒビキとゆかりが動く度に舞うほど埃が堆積しているが、劣化は殆ど見受けられない。
乗り合いの発動車で受けた野次通り、この要塞に足を踏み入れる者が殆ど存在しないのは確か。しかし、自然の摂理に反する何かが働いているのもまた事実だ。
――何が出て来ても、おかしかないって訳だ。
確信を抱き、無意識に左手がスピカに伸びたヒビキは、ジャケットの裾が引かれる感触に振り返る。
「ヒビキ君、あそこ……何か変じゃない?」
ゆかりの指が示す先に映るのは、何の変哲もない壁だ。装飾の変化や風化度合いに差異はない。張り付いて何度か拳で打ち、左眼に神経を集中しても結果は同じ。
勘違いや空振りも当然あり得る。ただ、ゆかりの勘や予感はよく当たる。過去に対峙した様々な経験から知っているヒビキは、もう少し探る決断を下す。
手始めに『牽水弾』を撃ち込む。撃ち出された四発の水弾は、着弾するなり崩壊して壁を湿らせただけで終わる。続いて何発か殴打を加えるが結果は同じ。
「ネックレスは……反応ないか」
「うん。紅華も特に変わりないよ」
ゆかりが持つ『船頭』や異邦の力に無反応となれば、何らかの仕掛けがあってもこの世界の理屈で決着が付く。余計な選択肢を一つ潰せたと肯定的に捉え、ヒビキは一度手を止めて思考を回す。
次の指し手は、想像以上に早く出た。
玲瓏な光を放つ切っ先に目を眇めながら、鞘から引き抜いたスピカを構える。
要塞跡を纏めて破壊する、大罪を犯す意思はない。『蒼異刃スピカ』が有する特性に、一つの可能性を見出したのだ。
「違和感を覚えたのはどの辺りだ?」
「その……ライオンの装飾がある辺りかな」
問いに応じて、再びゆかりが指し示した地点。そこに、ヒビキは切っ先を突き立てた。
金属音も火花も、スピカで削られた壁の破片もない。しかし、水面に石を投じたような波紋が両者の接触地点に生じる。
蒼刃を引くと波紋は消え、もう一度押し込むと揺らぐ。
同じ現象が繰り返し生じるのならば、偶然や見間違いの目は消えた。視線を交えて互いに首肯した二人は。揃って壁に踏み込む。
壁に向かって前進する、滑稽な行動を取ったヒビキの視界が、波紋に飛び込むなり激しく揺らぐ。
「――ッ!」
瞬間、彼の脳に極彩色の閃光が奔る。
映像の輪郭は不鮮明な上に激しく移り変わる。その為、詳細を把握するまで至らない。だが、現れては消えていく激情は彼の心胆を震わせるに足る物だった。
苦痛で表情が歪み、後退を望むように微細な痙攣が足に生じる。従って得られる安堵と快楽は重々承知。ただ、遠路遙々イルナクス連合王国の地を踏んだ目的は、後退では絶対に生まれない。
砕けんばかりに歯を噛み締め、欲望を踏み躙って酷く重い足に鞭打ち前進。その間にも絶えず流れ込む映像に、脳を始め様々な感覚器官にダメージを受け、彼らの足取りは何度も乱れる。
永遠にも思える苦痛の時間は、不意に終わりを告げた。
「危ない!」
清浄な光が視界を包み、体の枷が外れる。突然の解放にバランスを崩したゆかりを横目で捉え、ヒビキは咄嗟に伸ばした右腕で彼女を受け止める。
ただ、彼も感覚の唐突な正常化に対応しきれていなかった。平時なら問題のない体勢にも関わらず、踏み留まれずに足がよたつき、結局二人揃って地面に落ちる。
「悪い……大丈夫か?」
「大丈夫。ヒビキ君こそ、怪我はない?」
腰を撫でながら立ち上がったゆかりから、ヒビキは一拍遅れて立ち上がる。動作で問題が無い事を示しつつ、進入を果たした新たな空間に目を向ける。
四方約五十メクトル程度。天井や壁に年月の経過を示す痕跡は何一つ見えない。
敵襲に備えた無粋な軍事的補強や、先刻までの妥協が見受けられる装飾と趣が百八十度異なる、王城や宗教施設のそれと同じ精緻な装飾が刻まれた床。空間を構成する全てに、要塞の単語から想像される無骨な印象は欠片も感じられなかった。
中央に鎮座するは赤竜。咆哮する彼の者の周囲を、薔薇が彩る。芸術を解さない二人にはっきり判別出来る意匠はその程度。だが、理解が及ばずとも、見る者に何かしらの感情を喚起させる美を放っていた。
ヒビキが抱いた感情は、疑問と恐怖だ。
軍事要塞の一角にこのような装飾が刻まれた部屋があり、原理は不明ながら隠蔽が施されていた。突破する為に用いたのは、厖大な魔力を行使するスピカ。
無言のまま緊張の糸を張るヒビキの視界が、不意に揺れる。次いで遠方から足音。震動を伴い接近する足音は、明らかに戦に慣れた者のそれだ。
ヒビキはスピカを。
ゆかりは紅華を。
各人の得物を掲げた二人を、強かに暴風が打ち付ける。
得物を強く握り込み、全身を強ばらせて耐える。やがて、衝撃が風ではなく魔力の奔流とヒビキが気付いた刹那、くぐもった声が彼の耳に届く。
「まやかしを破り、ここに来たか。幼いが良い貌をしている」
異様な輝きを放つ空間に蜃気楼が生じ、異常現象を引き起こした者の姿が忽然と顕現する。
「……おい、冗談だろ」
「何が冗談だ? 目が映し出し、
こちらを認識していると明朗に告げる声が響き、彼の者の揺らぎが失せ現実が固定される。
丸太の如く太い、一・九メクトル弱の体を包むのは、薔薇の装飾が施された白銀の鎧。胴部と正反対の無骨な兜は頭部を完全に覆い、視覚的な情報の流出を防いでいる。腕や脚部を隙間なく覆う装甲も、時代がかった構造をしていた。
奇妙な円筒状の物体を右手に。やはり旧世代の遺物と言える旧式の盾を左手に握った人影は、大仰な動作で両の手を広げて宣告する。
――よりにもよって、か。来て早々、最悪の相手だ。
「『祓光ノ騎士団』三席『戦曲の綴手』ジルヴァ。貴君の力を示せ、然すれば道を授けよう!」
長き時を経た闘士の叫びが、地下要塞跡に響き渡った頃。
ダート・メアを、アークス王国の紋章を刻んだ装甲発動車が疾走していた。
絶望的な燃費と引き換えに、竜の一撃にも耐え得る防御力と、完全武装のドラケルン人の戦士を二十五人押し込める広さを持つ発動車は、国同士が絡む有事にしか使用されない。
たった一台、しかも定員の半分以下で使用された事が知れれば、思想信条的な立ち位置を問わず全方位から集中砲火を浴びる。だが、そこに座している存在を見れば国民の大半は掲げた拳を降ろすだろう。
八名の軍人が計器や書類を確認しながら、頻繁に視線を飛ばす車両の右端に少女が二人。
片方は緩く波打った桃色の長髪に、戦に不向きなドレスを纏った四天王『無害なる殺戮者』デイジー・グレインキー。
十四歳という実年齢以上に幼さを感じさせる彼女の表情から、軍部や同僚がよく知る不遜なまでの自信は拭い取られていた。代わりに、強い不安と疑問を宿す隣に座す泳ぎ気味の視線を、隣に座す少女に向けている。
「私の顔に何か?」
「……なにもない、ごめんなさい」
「そうですか。失礼致しました」
シンプルな軍服を纏った長い白髪の少女、アルティ・レヴィナ・エスカリオは、『何もない』からかけ離れた感情を滲ませるデイジーを追及せずに、視線を流れる景色に戻す。
遠巻きに見つめる軍人が抱く感情や、書面上の肩書きでは対等な彼女達だが、その実情は大きく異なる。
四天王の一人、ユアン・シェーファーが姿を消して既に五か月が経過した。
欠員発生時に存在する選択肢の内、新規人材による穴埋めを選んだ国王サイモンが連れて来たのが、デイジーの隣に座すアルティだった。
出自や年齢、戦闘様式といった情報を彼女は一切語らない。パスカも知らない事実を踏まえると、誰にも開示する意思はなく、サイモンもそれを問題視していないのだろう。
現実と空想を混同している。
そう指摘したくなるような荒唐無稽な話を除いても、一個中隊を粉砕した棍角竜『パキリノス』を無傷で撃破した逸話を始め、アルティの凄まじい戦果はデイジーも伝え聞いている。当代四天王が推挙された段階で積み上げていた実績を、彼女が遥かに上回っているのは揺るがぬ事実。
口うるさい教師まで行かずとも、連携や協調を重視するサイモンが特別扱いする理由は分かる。ただ、その事実がデイジーの心を苛んでいた。
継続していると主張するものの、ユアンの捜索は打ち切られたも同然。サイモンにとって四天王の一席は既に彼ではなく、アルティなのだろう。
けれども、デイジーにその事実は受け入れ難かった。四天王はユアンを含めた四人であって、隣に座る得体の知れない少女が座すべき場所ではない。
アルティが現れてからずっと抱き続けている、組織人として最低の。しかし切実な思いを共有してくれる者は、周囲を見渡してもいない。
独自ルートで捜索を続けているパスカも、表面上はアルティを受け入れていて、ルチアに至ってはサイモンの意思に倣えで終わり。同僚が変容に否定的な意思を示さなかった事も、デイジーに影を落としている。
一方で、危うい形ながらも世界に繋がっている彼女は、どうすれば自説を貫徹させられるかを知っており、今日の出撃を怯えながらも好機と見ていた。
――強い人が許されるなら、私がコイツより強い所を見せれば良いじゃない。そうすれば、王様も皆も考え直す……筈!
客観的に見て稚拙だが、四天王の肩書きに求められる物を鑑みれば道理。加えて、結成当初から人員が減った状態で、代替わりまで職務を全うした四天王も存在する。
そのような歴史的事実と照合すれば、三人で不足が無いと示せば心変わりもあり得る。
十日前にダート・メアに降り立ち、挑んだ賞金首を骸に変えた『
おあつらえ向きにも、今日は証人と成り得る一般の軍人が複数同行している。第一歩としては完璧な条件が揃っていた。
「……」
俯いた状態ながら無意識に口角を吊り上げ、拳を硬く握り締めるデイジーは、無機質な目が自身に向けられている事に気付かなかった。
奇妙な沈黙に支配された時間は、唐突に響いた大地の震動で終わりを告げる。
断続的にそれが続く内、装甲車に影が差す。周囲に座す軍人達がどよめき、各々の役割を遂行せんと動く。
デイジー、そしてアルティも装甲車から飛び降り、影を生み出す存在を目撃する。
――これが……アクロカノス!
大まかな形状はギガノテュラスを筆頭とする、疾走に特化した肉食地竜に近い。全長は約十三メクトルといったところで、肉食地竜では大柄な部類だが『名有り』の中では平凡かつ、言語を解する知能も持たない。
アクロカノスの名も、同属が用いていた呼称を暫定的に適用する等、本来の規則から外れた形で認定が為された。異例ずくめのこの竜が何故特別なのか、その理由は背に屹立する波打った帆型の骨にある。
木々を打ち合わせるような、軽い音が連続して響く。この形態の地竜種では異常とも言える程発達した前肢が背に伸び、背から吐き出された鋭利な骨を掴む。
地面と平行になっていた上半身が起こされ、大気に晒されて硬化していく骨を構える姿は、異形の剣客と呼ぶに相応しい代物だった。
竜種の強靭な肉体と運動能力に、ヒトと交戦する過程で剣技を学習した知性。これらが掛け合わさった事で生まれる力は、まさしく災害に等しい。
アムネリス大森林を飛び出し、賞金首を粉砕しながら放浪を続けている理由も、四天王が駆り出される理由も。一目で解したデイジーは、轟と吠えたアクロカノスへ疾走する。
油断ならない。だが負ける理由は何処にもない。些事など放り捨てて、真っ向から叩き潰すだけ。
――チマチマは面倒ねぇ。……シャッタードールで一気に!
単純な腕力勝負ではヒュマかつ矮躯のデイジーは相性が悪い。生物として絶対に消せない死角から、パーセムの二刃で削り殺す形が最善と言えるが、軍人どもは精緻な技巧を解さない。
一四四センチメクトルの彼女を大きく上回る、解体専用の両刃剣で一刀両断の絵を見せる方が、実力を誇示するには得策だろう。
思考をそこで止め、デイジーは戦闘に没入する。真っ向から突進する阿呆を想定していなかったのか。黒一色の瞳に迷いが掠めたアクロカノスだったが、すぐさまそれを振り払い咆吼。迫るデイジーに視線を固定して、迎撃姿勢を執った。
少女と竜の真っ向勝負。
どこかお伽噺めいた光景から繋がれるであろう、極めて現実的な血肉舞う光景を、世界は幻視する。
しかし、それは肉が爆散する無粋な音で掻き消された。
「非効率に過ぎます」
遅れて届いた、アルティの短い宣告。
何が起こったのか悟ったデイジーの足が止まり、彼女は力なくその場に崩れ落ちた。
大気を裂いて、一本の黒槍が彼方へ消えていく。
その通り道となったアクロカノスの上半分が、綺麗に消失して挽肉と化した断面を晒していた。肉体が現実を把握するまでラグがあったのか。死した状態でドタドタと前進した地竜は、デイジーの目前で倒れ伏し、土煙を盛大に巻き上げて沈黙する。
決して油断ならない相手が、何も出来ないまま一撃で惨殺。
一撃退場は狙っていたが、ここまでの解体は自分に不可能と、デイジーは力量から理解に至ってしまう。対して、目前のアルティは成し遂げた。
事実を直視するだけで、彼我の実力差は明快に見えた。見えてしまった。
「任務完了。早急に帰還しましょう」
へたり込んだまま動けないデイジーに一瞥も暮れず、アルティは静かに宣告する。
戦闘など無かったかのように、揺らがぬ表情と足取りで装甲車に戻る彼女の姿を、有象無象と化していた軍人達は畏怖とも尊敬とも取れる眼差しで見つめる。
彼等の目に、アルティと同格である筈のデイジーは映っていない。非情な現実を否応なしに叩き付けられた彼女は、只々ダート・メアの乾いた大地を見つめる。
彼女の視界が、やがて歪んでいった事に気付く者は、場に一人としていなかった。
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