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 イルディナ北部に存在する赤い長方形。鳥瞰では内側に緑の長方形が伺える建造物は、本国で親しまれる競技『グレイバー』の為に建造された競技場だった。

 本日も満員御礼の場内で、チームのサポーターが熱狂的な歓声を発し、彼等に応えるように、選手はゴールポストにボールを放り込まんと、磨かれた技巧を用いて激突する。

 闘争本能や暴力的衝動を発散する役割もスポーツにはあると聞くが、そのような効果は実在すると、この光景を目撃した者は確信を抱く筈だ。

「規則で魔術禁止らしいが、上手いモンだよなぁ。しかも、手ぇ使うの禁止なんだろ? 足だけでよく制御出来るよな。ヒビキ、おめーは出来るのか?」

「やれるなら、ここにいないだろ」

「そりゃそうだ。悪い悪い」

 そんな熱狂に包まれた競技場の一角に、周囲とは少し異なる趣の者が三人。

 逆立てた青髪に飴色の遮光眼鏡。裸に魚鱗柄のシャツの圧倒的な悪趣味さが目を引く不審者。エデスタ・ヘリコロクスはヒビキの返答に大笑し、カレーパイを口に放り込んだ。

 当スタジアム、通称レッドロックレーンの名物らしいが、大人の顔面ほどの大きさを誇るパイを、男は既に八個ほど腹に収めている。

 殺害対象と呑気にグレイバーを観戦し、食事も摂れる。

 男の精神状態を皆目理解出来ずにヒビキは、そして彼の隣に座すゆかりも大きな溜息を吐く。

「おおおおおおおお! すげぇぞ! 四十メクトルも離れてんのに届いたわ!」

 均衡を破るゴールと、それによって不審者と観客が放った歓声にそれは搔き消された。

 殺意を明確に示す相手と、何故グレイバー観戦をしているのか。

 答えは、四時間ほど前に遡る。


                  ◆


「邪魔だ!」

 シンプルな罵倒と共に、目前に迫る少年の顔面に蹴りを放つ。『錬変成』に依って形成された頭部装甲が微塵に砕け、自身よりも年下の敵は鼻血を噴きながら転がっていく。

 未解放状態の蹴りが、装甲を突破して顔面に到達する事実が少年の未熟さを示し、被害者である筈のヒビキに痛みを走らせる。

 呻く少年の腹を踏んで動きを封じ、スピカを喉元に突きつける。進退窮まった事実を相手に提示しながら、ヒビキは静かに問うた。

「殺しに来た理由を答えろ。黙秘すれば斬るし、お前の家族か大事な奴も殺す」

 悪い意味で覚悟の決まった者を除き、そしてこの年齢なら確実に揺らぎを齎す最悪の問いに、汚れた金髪の少年は露骨に苦悩する。内心で『卑劣な××××××野郎』と憎悪の炎を燃やしている筈で、その自覚はヒビキにもある。


 ただ、ゆかりも標的となった以上、加減する慈悲は彼にない。


 切っ先を徐々に近づけ、彼の技巧が無ければ皮が破れる位置まで接近した頃、観念したように少年が喚いた。

「変な放送を見た。ボロい本の価値なんて分からないけれど、売れば金になる。それなら家族を食わせられるだろ!」

「赤竜王みたいな、分かりやすく強そうな奴は無理。でも、俺やユカリみたく年の近い奴なら殺せる。だから仕掛けたのか」


 沈黙は、推測を明朗に肯定していた。


 敗北と死を望む者は誰もいない。確実に勝てる相手に戦いを挑むことは鉄則であり、ヒビキとてそこから逸脱する現状は、成り行きから始まった物だ。

 とは言え、強者に糸を張られた弱者が別の弱者に牙を剥く光景は、滑稽かつ痛みを覚える代物。踊らされている自身もまた、弱者の軛を逃れているとは言い難い。

「事情は分かった。けど、生憎俺は性格が悪いんでな」

「は?」

 暗澹たる気持ちを振り払うと同時。手首の旋回でスピカを一回転。

「取り敢えず捕まっとけ。人殺しの勉強代だ」

 鞘に収まった刃を掴んで打ち下ろし、頭部を痛烈に殴打する。

 何が起こったのか分からないまま、白目を剥いた少年は意識を手放す。念の為に両手を縄で縛り、警察への通報を済ませたヒビキは溜息を吐いた。

 標的にされてから既に六日が経過した。対峙した相手は警察に引き渡しており、まず再戦は無い。

 しかし、殺意を持った者が連日現れる状況は精神に大きな負担を齎し、辿り着くべき終着点への手掛かりはごく僅か。一人ならまだしも、ゆかりも標的にされている事実は許容し難いが、抜け出す術も見当たらない。

 ――このままだと不味い。不味いんだが……。

 我関せずとばかりに目を逸らし、足早に去って行く人々に若干の憤りを感じつつも、ヒビキはスピカを腰に戻す。

 動かねば何も得られないが、動けば戦いを強いられる。八方塞がりが適切な現状でどう動くべきか。そして、この事態の終着点を見出す糸口は何処にあるのか。

 少年に背を向け歩き始めたヒビキの足は、ものの数歩も進まない内に止まった。

「おーう。そこにいるのは我が標的、ヒビキ・セラリフか。アレだな、カルスとは全然似てねぇなおめー」

 このような状況に放り込んだ張本人、エデスタ・ヘリコロクスの呑気な言葉に、思わず振り返る。起動こそしていないが、レウカソーなる不審な武器は両腕に装備されており、奇襲への対抗策は整っている。

「何しにきた……!」

「何ってほらアレだ。顔見せって奴」

 色々と舐め腐った言葉だが、全身から漂う強烈な死の匂いは、数時間内にエデスタが誰かを殺めた揺るがぬ証。

 戦闘様式を把握されている以上、本来ここで戦うべきでないのは確かだが、最終的に激突するのであれば、万全に近い状態で出くわした事を幸運とすべきだ。

 全てをここで、数分以内にケリを付ける必要がある。厳しいのは十全に解しながらも、ヒビキは『魔血人形アンリミテッド・ドール』の力を微量に解放。

 地上より視力の重要性が低い、水中を主戦場とするノーティカ人は、魔力流を読み取る術に長けている。ヒビキの変化も感知しているのは確実で、先手を取ってこないのは余裕の表れか。

 警戒態勢を執るヒビキを他所に、エデスタはカーゴパンツのポケットを探る。魔力を持つ物体ではないと左眼で視えたが、相手はどんな物でも武器に変えられる。

「ちょうど良いや、試合見に行くぞ。あのガールの分もチケット持ってるからな」

「……は?」

 間延びしきった声と共に、エデスタが取り出したのは長方形の紙きれ三枚。悪い冗談としか思えないが、記載内容は確かにグレイバープロリーグのチケット。しかも、人気を二分する強豪同士のマッチアップだ。

 スポーツに縁遠かったヒビキに知識は殆どないが、耳に届く市民の話から、それが入手困難な代物と知っている。だが、殺しを生業にする相手が、そんな物を持っている上に観戦を提案してくるなど、流石に予想外が過ぎた。

「どうやって手に入れた、それ?」

「適当な東方系の餓鬼ぶっ殺して、おめーらの首って持って来た間抜けが持ってた。インチキってなぁバレちゃいけねぇ。だから死んで貰って、チケットも頂いた」

 ふざけきった発言だが、無関係な犠牲者が出ていると突きつけられ、ヒビキの顔に陰が差す。彼の苦悩など知る由もないまま、エデスタは調子外れの口笛を吹きながら歩き出していた。

「今日はオフだ。仕事はこなすが、今日戦うつもりはねぇよ」

 発言を信用する根拠は何もない。問答無用で仕掛けるべきだ。

 妥当な結論は出ているが、返事を待たず歩き出した不審者に闘争心は皆無。

 その上、ここは市街地のど真ん中。同格相手に本気の殺し合いを繰り広げれば、無辜の犠牲者は確実に出てしまう。

「何してんだ。置いてくぞ」

「……分かったよ」

 不審な動きを見せた時に動く。それまでは、敵を観察する好機と考えるべきだ。

 落としどころを見つけたヒビキは、通信機を耳に押し当てながら不審者の後を追う。事情を聴いて絶句したゆかりをどうにか説得し、二人はレッドロックレーンに降り立った。

 

                  ◆


「いやぁアレだな! 俺も人生で初めて観たんだが、スポーツってのは良いな!」

 スタジアムに隣接するパブの片隅で、盛大に酒を煽るエデスタは、試合結果に一喜一憂するファンそのもの。数多の虐殺を繰り広げた男とは、到底思えない呑気な姿だった。

 後半十八分の得点を守りきったホームチームの勝利に終わり、彼等の周囲には灰色のユニフォームを纏うファン達が、試合展開を熱く語り合う。ヒビキもまた、人生初となるプロスポーツの試合に心を動かされなかったと言えば嘘になる。

 魔術の使用が禁じられ、肉体の限界を突き詰めて競うスポーツは、戦士達からの評判は今一つ。

 一部層のように頭ごなしに軽んじる訳でも無いが、それほど興味を持ってもいなかったが、足と胴の一部だけでボールを自在に繰る術に、心を動かされなかったと言うのは嘘になる。

「あのロングシュート、凄かったですよね。ディフェンスが固かったから浮かせたのでしょうけど、あれだけの距離で完璧に決められるのはなかなか無いですよ」

「おぉ! おめーグレイバー分かるのか!?」

「元の世界では『サッカー』の名前ですが、同じようなスポーツはあります。授業でやった事もありますよ」

「進んでんなぁ異世界」

 あくまで授業の範疇、ながら競技を知るゆかりの言葉に、エデスタは興味津々に食いつく。良い意味で気の抜けた光景に緩みかけた緊張の糸を、張り直したヒビキはグラスを卓に置くと同時、目前の相手を睨む。

「で、本当の目的はなんだ? グレイバー観戦のお誘いだけです、なんざ信じる訳ないだろ?」

「信じてくれい! つっても無理だろうな。まっその通りよ、オフなのは確かだが、殺し合う前に一度おめーらと話をしてみたかった。これが理由だな」

「あっさり認めてどうすんだ」

「ふざけはしても嘘は言わん。それがロックンローラーだからな」

「アンタ楽器弾けないだろ……」

 初手で想定を崩され、意味不明な言説が打ち返される。やはり苦手な相手と再認識させられた、ヒビキは呻く以外何も出来ない

 とは言え、これで余計な問答の手間が省けた。気を取り直し、息を吸い込んだヒビキが口を開いた刹那。

「お! ホットドックあんじゃねーか! 三人だから五十四個、ビールは一杯な!」

「喧嘩売ってんのか!」

 素晴らしいタイミングで放られた、戯けた注文に思わず椅子を蹴倒して立ち上がる。物騒な行為だが、酔客同士の殴り合いなどよくある話なのか、周囲の人々はすぐに各々の会話に戻っていく。

「落ち着いて。ここで戦ったら、我慢した意味が無くなっちゃうから」

 ゆかりの真っ当な説得で、上った血が少し引いたのか。渋々ながら、ヒビキは立て直した椅子に身を戻す。

 誰しも内在する論理に基づいて動くが、エデスタは予測不能に過ぎる。ただ、相手は只の傾奇者ではなく百戦錬磨の殺人者。精神を乱した状態で挑めば返り討ちにされる。

 相手が動かない限り、ここでは戦わない。

 そう何度も繰り返し、暴発を捻じ伏せる試みを見透かしているのか。遮光眼鏡越しでもハッキリと分かる、愉快そうな面持ちのエデスタは、給仕が持って来た皿からホットドックを毟り取って齧り付く。

「そうか。イルナクスだとタマネギなのか。まぁ良いや。俺がノコノコ現れた理由はシンプルよ。同じ『後継者』への情報開示。後、ゲームを公平にすんの忘れてた」

「無関係な人を巻き込む、悪趣味な仕掛けは止めて欲しい。それが私達の意思です」

「ガールはアレだな。常識的過ぎてつまらん。俺ぁ異世界に行ったこたないが、大体おめーみたいな感じなのか?」

「積極的に他者を害する事を好む人は、何処の世界でもそうはいないでしょう」

「そうしなきゃ生きられない阿呆が残念ながら、俺みたくいるんだよ。いや、ノーティカ人は大体そうなんだが」

 軽く放られた言葉に衝撃を受け、ゆかりの思考が僅かに停滞。選手交代とばかりに、ホットドッグが堆く積まれた皿を押し除け、ヒビキはエデスタに対峙する。

「ご存知の通り、俺ぁノーティカの出身だ。バブバブな頃から『ガレオセード』にブチ込まれ、カルス・セラリフから人殺しの指導を受けた」

「……何が言いたい?」

「情報提供つったろ。正義を問いたい訳じゃねぇ」

 兵器が大きく発展し、戦況に対する個の影響力が低下した現代でも、ノーティカの主要産業は傭兵の輸出。インファリス西側諸国の民なら当たり前の事実だが、その養成機関に養父が在籍していたのは、彼も聞いたことはなかった。

 幼少期に聞かされても、意味を理解出来なかったのは確かで、隠しごとは誰にだってある。理解しながらも、表情を強張らせるヒビキを他所にエデスタは言葉を繋ぐ。

「ノーティカは、名前こそ売れてるが中身はガタガタだ。海産物以外にロクな資源も無けりゃ、工業化も遅れた。傭兵の出荷は唯一のマトモな産業だから御上も力入れたし、カルスもそこの出身よ」

「……」

「産まれた時に魔力量を測られて、高けりゃ強制的に施設行き。反抗した場合は親がぶっ殺される。俺の親もそうなったらしい。で、それをしたのがカルスって訳だ」

「褒められない奴だ」と生前語っていたが、一般人の殺害は問答無用の大罪であり、養父がそのような真似をしていた事実を、すぐに受け止められない。

 相手が呑気にホットドッグを食らって生じる停滞で、動揺を押し留めたヒビキは、手振りで続きを促す。

「偶然か必然か、俺はカルスから教導を受けた。セラリフ式戦闘術は担当した餓鬼に仕込んだが、俺以外全員死んだ。当人が死んだ以上、継承したのは俺とおめーだけって話だ」

「死んだって……」

「訓練の中身が戦い・戦い・また戦いだからな。勢い余ってぶっ殺される奴もいたし、環境が嫌で脱走する奴もいた。例外なくカルスや奴と同じ立場の奴に殺されたけどな」

「そのやり方は、人道的な観点を排除してもおかしいでしょう。一度の失敗が死に直結する環境は、人材を浪費するだけです」

「ガールの考え方は間違いなく正しい。でもな、ヒトはデカい成功体験に縋る。カルスだけじゃねぇ、ノーティカ分裂の危機を抑えた男、スクアラ・クレトラクスもガレオセードで育った」

 ゆかりは納得しかねたように首を捻るが、ヒビキは辛うじて理解出来た。

 真偽を問いたくなる『ヤナール三百人斬り』なる、凄惨な虐殺劇の主役となった男は、敵性生物討伐でも勇名を轟かせた。

 効率の側面で存在意義が薄らいでも、絶大な力を持つ『個』の存在は未だに大きい。その中で、図抜けた『成果』は体制墨守に多大な貢献を果たし、ノーティカが倫理と道徳を置き去りにした方法で突き進む原動力になったのは確かだろう。

 ならば、成功作たるカルスは何故出奔したのか。そのような疑問が露骨に出たのか、エデスタは我が意を得たりとばかりに指を打ち鳴す。

「ある日、カルスは全てを放り出してノーティカから逃げた。戦闘マシンに過ぎねぇ奴さんが、どうしてそうなったのか。なんで家族ごっこに励んだのか。ここら辺知りたくて俺も抜けた訳よ。まっ、つまんねぇ殺しばかりで飽きたってのもあるけどな」

「だから俺に興味を持ったのか。悪かったな、期待に沿えなくて」

「んなこたねぇや。奴さんも随分丸くなったというか、良い方向に育てたって感心してるわ。滅茶苦茶フツーの餓鬼だもんな、おめー」

「……そりゃどうも」

 推測の域を出ないが、カルスの後ろ暗い話を相当に削ったのは、エデスタなりの配慮だろう。彼の経歴や経験から推測すれば、カルスも似たような物だろうが、目の当たりにした者からの明言はダメージを何倍にも増幅する。

 但し、目前の男がそもそも敵なのは変わらない。どのように応えるべきか迷うヒビキを他所に、沈黙を守っていたゆかりが口を開いた。

「嫌になってノーティカを出たなら、何故今も人殺しを続けるのですか?」

「金稼ぎ。これじゃダメか?」

「商隊の護衛や、賞金首の討伐でも。あなたの力量なら何だって出来る。後ろ暗い道に進む必要は、何処にもありませんでした」

 何十本目かのホットドッグに伸びていた、エデスタの手が止まる。

 見ているようで、微妙に定まっていなかった男の視線が初めて固定され、ゆかりを見据える。戯けた発言を飛ばす道化の趣が消え、代わりに浮上した凪いだ海を思わせる静かな眼差しは、男の確かな理性とゆかりの問いが届いた証左。

 黙したまま杯を傾けてビールを流し込み、エデスタは口元を雑に拭う。

「結局、俺は人をぶっ殺すのが好きなんだろうよ。指示された殺しで得られない高揚を掴む為、適当な殺しで稼ぐ。このサイクルで生きて行く事を選んだのは俺だ」

「人はやり直せる生き物です。あなたも戻れる道はあった筈でしょう」

「そりゃ無理だ。他人と違う感性とやらを振りかざして、多数派からの逸脱を選んだ以上、責任は取らなきゃいけねぇ。逸脱の利益を得たんだったら、凡人が持つ社会的な繋がりは、捨てるのが筋だ」


 男の語りは暴論のように思えるが、一定の筋はある。


 闘争に喜びを見出し、抑え込まず解放した者は共同体からの排除を強いられる。勝利を積み重ねても、そのような者が得るのは畏怖であり、受容ではない。

 社会に求められる鋳型に自己を当て嵌められた者だけが、暴力性の発露を社会から許容され、大半は繋がりの喪失を強いられる。

 良し悪しの議論はあるが、そのような現実は確かに在る。剥き身の刃に恐怖する事が正常であるように、他者を害する事を是とする者が、恐怖を以て排除されるのもまた然り。

 許容と保護を求めない分、エデスタには一貫性がある。だが、彼の論理はあまりにも荒涼とした、白と黒以外を許さないまさしく鮫の論理だ。

 故に、ヒビキは口を出さずにはいられなかった。

「それは……ちょっと違うんじゃねぇかな」

「ん?」

「アンタの主張は基本的に正しいよ。でも、アンタにとって殺しの教導者だったおやっさんは、俺にとって家族だった。だから別の道を歩くことは出来るんじゃないかな。別の道へ移る事を許せるかは、人それぞれだけどな」

 在り方の貫徹は美しく、そうある事を望む者は多い。しかし社会構造的な意味のみならず、幸せの形という意味でも灰色の決着点は在り、そこに行く者が存在すら許されないのは、あまりにも救いが無い。

 定められた道からの脱出を望んだ、自身を肯定する為のエゴと自覚している。それでも、エデスタへぶつけた言葉は紛れもなくヒビキの本心だ。

 貫徹と社会からの離脱を選んだ男と、別の道を求めた少年。

 同じ師を持ちながら異なる選択をした両者に、相互理解の時は恐らく来ない。選択を共有しても、邂逅の理由を踏まえれば激突は不可避。そうであっても、意思の明示は盤面に降りて来た相手への最低限の礼儀と、ヒビキは判断したのだ。

「青いなぁ。でも、そういうのは俺も嫌いじゃねェよ」

 ヒビキの意思を受けたエデスタは椅子にだらしなく身を預け、静かに笑う。鮫のような男が見せた人間性の発露は、相対する二人以外に観測されることなく、パブの一角で風景として消費されていった。


                   ◆


 ホットドッグを片付け、三人がパブを出た頃には日が若干傾いていた。

「そんじゃ、ここでお別れだ。次会う時はオンの日なんで、そこんとこ覚悟してくれ」

 遊びの予定を告げる気安さで、殺害予告をされるのは得も言えぬ感情を喚起される。ヒビキ達は揃って渋面を浮かべるが、相手の異常性は理解している上、何から何まで金を出して貰った身である故に強くは言えない。

「金は気にすんな。年上が金出すのは当たり前だからな」

 字面だけなら年長者の余裕を感じさせる言葉を放り投げ、エデスタは二人に背を向ける。迷うことなく一歩踏み出し、雑踏に――

「いけねぇ、情報を教えてなかった。悪い悪い!」

 在るべきものが欠落した謝罪を投げて、戻ってくる。

 命のやり取りをゲームと形容する精神性は相容れないが、殺人遊戯の張本人から情報を得られるのは、生存率の上昇に直結する。

 一言一句を聞き逃すまいと身構えた二人を睥睨し、鮫の笑みを浮かべたエデスタは指を立てる。

「まずはゲームの最終地点だ。理屈を捏ね繰り回しても、結局俺達は殺し合う。だったら狭ぇ場所は駄目だろうよ。俺もそこで陣取ってるんで、分かったならいつでも来い。全力で殺し合おうぜ」

「それは現代でも利用されている場でしょうか?」

「さてな。ただ、俺に憂国騎士団的な趣味は無い。までは教えられるぜ。で、もう片方。こっちは依頼者のヒントだ。コイツを先んじてぶっ殺してしまえば、俺と当たる必要は消える。『エルフィスの書』もくれてやるよ」

 依頼主の情報を漏らすのは、重大な契約違反だ。後ろ暗い世界にしか生きられない者でも、決して背こうとはしない道理で、犯せば居場所を確実に失う。

 誰もが躊躇する暴挙を易々と行うエデスタの異常性と、仕事へのスタンスを再認識させられた二人は、やり取りの中で芽生えつつあった物が急速に醒めていくのを実感しながら、男の次を待った。

「男だろうと女だろうと戦える奴からの依頼は割増で、餓鬼からの依頼は割引いて受ける。増額は依頼主の戦闘能力で、減額はパーソナルで率を決める。今回の依頼主は、額面通りの金額で受けた。これがヒントだ」

「……俺達の知っている、年の近い奴ってことか」

「蓋を開けてのお楽しみだ。つっても、繋がりのねェ奴が遠路はるばるってなぁ妙な話だわな。ここまで教えたんだ、精々生き延びて俺の所にこい。役者が揃わないゲームなんざ、只のゴミだからな」

 言い残した事はないとばかりに、エデスタは再び踵を返す。

 自己完結した論理に殉じる男は、今度こそ振り返ることなく雑踏に没し、やがて気配の残滓すら残さず消えた。

 置いて行かれた二人は、通行を阻害せぬようパブの壁に凭れ掛かり、暫し黙したまま相手の言葉を咀嚼する。

 相手が敵である以上、全てを真と捉えるのは危険。あくまで参考程度に留めるべきだろうが、何もないより遥かにマシだ。

 敵は単なる気狂いではない。不審者と、他者の助力を乞える知恵を持つ人間。エサに釣られたロクデナシより危険だが、最低限の思考を挟む余地は生まれる。

 加えて、敵が推測通り既知の人物ならば、激突した時に初手から全力で踏み込める。誰なのかという疑問が齎す不安は消えないが、メリットも確かにあるのだ。

 カードを手にしたのならば、後は動くだけ。溜まっていたジャックからの通知を一瞥し、ヒビキは壁から身を離す。

「一旦戻ってこい、だってさ。行こうぜ、何か分かったかもしれない」

「うん。……ヒビキ君、どこか具合でも悪い?」

「どうした?」

「最近食事の量が凄く減ってる。ホットドッグだって、殆ど食べなかったよね。具合が悪いなら、お医者さんに行った方が良いよ」

 

 純然たる善意に基づいた言葉に、内側から何かが軋む音をヒビキは聞いた。


 術技使用が無くとも、消耗が激しい前衛職には休息と大量の食事が必須。『塵喰いスカベンジャー』の仕事で糊口を凌いでいた頃ならともかく、歌姫事件の辺りからヒビキも食事の量は増えている。体格的や肉体構造の絡みで平均よりは少ないが、食べられる時には成人男性の平均以上は食べていた。

 敵が目前にいた事実はあっても、供された食事に毒は無かった。その事実を解しながらも五本程度しか食べなかったのは、変化を知るゆかりの目には懸念と不安を抱かせて当然の現象だろう。

 失策を悔やみながら、仮面を改めて被ったヒビキは小さく息を吸う。

「おやっさんの知り合いが目の前にいて、食べる気分になれなかっただけだ。それに、俺の知ってるホットドッグと違ったからさ。大丈夫、戦えなくなるヘマはしない」

「……分かった。でも、危なくなったら言ってね。私も戦えるし、体調がおかしい状態で戦っても、良い事はないから」

「ありがとう。でも大丈夫だ」


 ゆかりの「分かった」は嘘で、間違いなく納得などしていない。


 そして、自身の「大丈夫」も嘘であり、言わなければ彼女が嘘を言う必要などない。この先も彼女に嘘を吐き続ける事と合わせて、確かな事実をヒビキは見ていた。

 許されない背信と、理解はしている。贖いの時は必ず訪れ、代償は相当の痛みを伴うことになるだろう。

 ――けど、今は止まれない。……止まるのは、全部終わった時で良い。

 全てを強引に押し込めた風情のゆかりと共に、ヒビキは歩き出す。


 手を伸ばせば届く距離にありながら、並んで歩む二人はどこまでも遠かった。

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