11
「情報は掴んだ。あくまで絞れる範囲で、だが」
城に戻るなり、ジャックはそのような言葉で二人を出迎えた。
問う前に手が振られ、精緻な装飾が施された壁に燐光が灯る。
壁面に描き出された、首都イルディナの地図に多数の黒点。ようやっと当地の道を覚え始めた二人に詳細な名前まで分からないが、特段の規則は見受けられない。
「エデスタ自身を追跡可能な人材は出せない。だが、別の方向から辿ることは出来た」
「……食糧、ですか」
ゆかりの言葉に、ハッとしたようにヒビキが目を見開く。
ヒトである以上、エデスタも食事を摂る。二人と同じく海を渡ってきた以上、当地で確保する必要があるものの、そこからのゲームの破綻は避けたい筈。適当な破落戸を暴力で制御下に置き、彼等に食糧を運び込ませる程度の策は打つだろう。
ただ、前衛職が数日保たせる食糧はかなりの量で、力量の低い破落戸に完璧な隠蔽を施しての移送は困難。どこかで確実に出すボロを拾っていけば、兆しは見える。
表立って軍が動けず、当人を直接抑える事が難しい状況でジャックは最善手を打った。ただ、これで一件落着となるような甘い展開は無論ない。
「食料調達で足が出るリスクは、多分エデスタも分かってる。無駄に多いけど、この中には外れも必ずある」
「外れで済めば僥倖。恐らく罠を仕込んでいるだろう」
黒点の数は十六。捕捉や漏洩対策に拠点を複数準備するのは妥当だが、この数は多過ぎる。気付かれる事も織り込み済みで、ジャックの懸念は恐らく的中している。
外れを引けば罠が。当たりを引いてもエデスタや依頼人との激突は必至で、命のやり取りになる。前者の底は未だ見えず、後者は輪郭すら曖昧だ。賭けとしては、あまり賢いとは言えないのが実情だろう。
「一つ確認しときたい。エデスタを潰せば、本当にエルフィスの書を借りられるんだよな」
「貸与の許可を陛下から得ている。成すべきことを果たせば、約束は履行しよう」
当地に訪れたのは、ハンスが示した『世界を繋ぐ手掛かり』を得る為。空振りは最早許される状況ではなく、ここで濁されれば即時撤退も視野に入れていた。
美しさに欠けると自覚する問いに、確かな答えが返された事で、思考を対エデスタに一本化したヒビキは壁に視線を戻す。
最も確実な総当たりを行う人的資源は無い。実行出来ても、時間が掛かる策は敵に猶予を与える。こちらを封殺する仕込みならまだマシで、国外逃亡を許せば全てが水泡に帰す。
実際に乗り込めるのは、多く見積もっても三・四ヶ所。確実性を求めるなら、初手で正解を掴みたいところだ。
「この場所に、歴史的な意味があったりするのか?」
「幾つか該当しそうな場所はあるが……結びつけることは難しいな」
船舶に関連する施設群から、空港が建設される大商業地帯に変貌した再開発地区『ブリックランズ』に残る廃倉庫や、王立博物館の収蔵物整備場に刻まれた黒点は説明が付くが、その他の大半は意味を見出すことが難しい。
大型商業施設の商品貯蔵庫のような、あからさまに外れと思しき場所も幾つか見受けられる。そのような場所も、敵の気質を知った今は無意識に深読みしてしまい、ヒビキに迷いが生じる。
――相手もイルナクスと縁が薄い。あまり深く考える意味は無いんだが……。
「ヒビキ君、ちょっと良いかな?」
袋小路に陥りつつあった思考を中断して向き直る。真剣な面持ちのゆかりは、ヒビキの視線をしかと受け止めながら、人差し指を地図に走らせる。
「考えても、私達の事情だけじゃ分からない。だったら、エデスタさんの言葉を信じるしかない」
「頭の回る男だが、根底は快楽殺人者に近い。奴の言葉を信じるのは、難しいと思うがね」
直接エデスタと対峙していない、元・四天王の言葉は道理に照らし合わせれば真っ当。だが、ゆかりはその言葉に首を横に振り、ヒビキも否定を示さざるを得ない。
数時間前の邂逅時もそうだが、宣言から今日までの間に、二人を殺す機会は幾らでもあった。その状況下で、実際に彼が仕掛けたのはドラクル海峡の一度きり。
悪趣味な遊戯の開幕後も、乱戦に紛れた不意打ちは可能だったにも関わらず、破落戸を煽る以上の動きを見せなかった。
エルフィスの書をエサに、ヒビキ達を殺害させる。
成し遂げた者に、自身の場所を開示する。
掲げた二つの規則をエデスタは遵守し、絶対優位な状況でも動かなかった。波のように不規則で鮫のように残酷な男は、自身が示したルールを遵守する。
嘘で回るこの世界で、不適合者として退場を選んだ人物が嘘を吐かない。皮肉な事実に思う所があるのか、少しばかり表情を曇らせたゆかりが言葉を紡ぐ。
「私達を知る人物で、依頼金が定価で済む人は絞られる。その人物を想起させる場所も、この中に数か所しかない。そこから先を現時点で特定は出来ませんが、十六より遥かに少なく済みます」
言葉の推移と共に、淀みなく五つの黒点を指していく。個々の関連性はなく、ヒビキも目星を付けた理由を解せないが、彼女が断言する時は必ず何らかの確信が存在していた。
信用を置くに足る結果を積み上げて来た、ゆかりの提案なら乗る意味は十分にある。多少見当が外れていた時、力を行使して道を変えるのは自分の役割だ。
「分かった。今からでも向かえるけど、どうする?」
「ちょっとだけ、ジャックさんと打ち合わせがしたいかな。多分、ヒビキ君と分かれて戦わないといけないから」
言葉に首肯を残し、ヒビキは部屋を出て行く。洗練されていると言い難いが、二人の連携は問題ない領域まで達している。ただ、今回はそれを活かせないとなれば、ヒビキは己の役割を言わずとも理解したのだろう。
最終調整に向かったヒビキを見送ったゆかりに、ジャックの声が飛ぶ。
「別の相手と戦うのは有り得る話だが、私と組むのは得策ではない。鍛錬と模擬戦は欠かしていないが、実戦は違う。エデスタや奴と同格が相手となると、足手纏いになりかねない」
ヒトの身である限り、元・四天王であろうと能力の低下は不可避。加えて、闘争に身を委ねる為の非現実的な精神構造は、前線に身を置かねば維持出来ない。
既に第一線を退いてから久しいジャックは、盤面にいる者の中ではそこから最も遠い。前線への出撃を強いるのは、拷問に等しい蛮行。しかし、それがゆかりにとっては必要なのだ。
「推測が正しければ、ヒビキ君は一人で依頼主と戦うことになる。エデスタさんが相手では……私は只の鴨です」
ファナント島で顕現した『紅華』の力は炎。
対するエデスタは、ノーティカ人らしく水を軸に戦う。
長々と語るまでもなく、両者の相性は最悪。紅の異刃の顕現で術技発動の難易度は低下したが、ワードナを媒介にしていた頃より拡張性は失われた。
魔術に対する真の理解と習得はここからで、鍛錬を重ねれば取り戻せると周囲の者達から励まされたが、すぐそこに迫っている戦いには間に合わない。
「ヒビキ君がいない状況で、エデスタさんから勝利を得るには。ジャックさん、あなたの力が不可欠なのです」
カード型の武器『選択者アビートン』が常人に困難な形の魔術行使を可能にすると、ジャック自身のデモンストレーションで把握している。ブランクと加齢に依る衰えは隠せずとも、突破口を開くには絶対に欠かせない存在と成り得るのだ。
無論、雑に運用すれば死体が二つに増えて終わる。故に、ゆかりは打ち合わせの時間を事態が切迫している状況下で求めた。
「今の私では、戦闘用のデッキ構築は三つが限界。戦闘中の切り替えも難しい」
「構いません。矢面に立つのは私ですから」
一人でエデスタと戦うのは無理だ。
そんな意思が暗に籠められたジャックの指摘に対し、ゆかりは強気に切り返す。
勝算も、意思を裏打ちするだけの根拠がない事は、今までと何一つ変わっていない。多少力を得たところで、エデスタの積み重ねた時間を覆せるとは思えない。心の片隅でも掠めていたなら、それは只の愚者だ。
瀟洒な装飾に彩られた城内に不釣り合いなほど、重苦しい沈黙が場に降りる。協力を得られなければ、脳内で組み上げていた戦略は無惨に砕け散る。
固く握り締めた手に汗が滲み始めた頃、不意にジャックが頬を緩める。
「君の覚悟はよく分かった。型遅れで良ければ、幾らでも力を貸そう」
参戦の意思表示を受け、ゆかりの胸にカッと熱が灯る。
目前の男は、場の誰よりも体力の類では劣るが、踏んで来た修羅場の数は群を抜いている。致命的に不足している経験を埋め、そして勝利への道筋を形成する為に必要な手札は、ここで揃った。
昂る鼓動を抑えつつ、ゆかりはジャックとのやり取りに没頭する。
自身の行く先に未知の地獄が待ち受けている事など、この時の彼女は知る由も無かった。
◆
「話がある。陳腐な惹句だが、君から言われると新鮮だね」
ギアポリス城の一角に設けられた王の間で、パスカ・バックホルツが彼の雇用主と対峙していた。
私情で他者の時間を浪費させるのは信条に反するが、今日この時に限ってはそれを捻じ曲げるに足る物が彼にあった。
破裂しそうな程に鼓動が加速し、背筋を嫌な汗が伝う。『船頭』と対峙した時ですら生じなかった現象に、パスカは己が抱える恐れの大きさを痛感する。
一昨日、デイジーは唐突に姿を消した。部屋に残されていた多くの物証で、彼女の行先と目的もすぐに掴めた。
根元を断ち切らぬ限り、連れ戻してもデイジーを救うことが叶わない。
聳え立つ残酷な現実を反芻し、後を追いたい感情を押し殺して調査を続けた結果、パスカは一つの答えに辿り着いた。直接の関係が無かろうと、雇用主に対する不信が残れば、巡り廻って新たな爆発を招く。
理屈は通したが、正誤がどうであれ関係性の崩壊は不可避。どう転んでも何かを失う状況で湧き上がる、抗いがたい恐怖を感じながらも、パスカは右手を掲げる。
「陛下。貴方はこの計画に関わっていましたね?」
握られていた書面には『救済者創造計画』なる、物騒な題が刻まれていた。
「君の階級では閲覧不可能な資料を手にしている。つまり、君は重大な軍規違反を犯したということだね」
自白同然の台詞を発したにも関わらず、笑顔の仮面は微動だにしない。
膨れ上がる畏れで折れそうな心を鼓舞し、パスカは続ける。
「どのような罰も甘んじて受け入れましょう。ですが、俺の話を聞いて頂けると幸いです。記載されていた兵器『救済者』の基盤は『魔血人形』の発展型。廃棄されたこの計画の継続を最後まで望んでいたのは、貴方でした」
「『
「同意します。これだけの代償がなければ。そして『救済者』が大戦の切欠となった、人造兵と同等の存在で無ければの話ですが」
文書の記述を信じるなら『救済者』を一人生み出す為に必要な物は、純粋な血晶石が十数キロガルムと、同等量の希少功績。そして、付与を望む能力を持つ者の純粋な魔力。
サイモンの指摘通り、入手難度に起因するコストに目を瞑れば、前者二つの入手は適者を見出すより遥かに安上がりで、安定供給も可能になる。問題は、最後の一つだ。
「固有能力は個々の魔力が根源になる。得るためには、他者を害する以外にない。それでは旧文明時代の人造兵と何一つ……他の選択肢が増えた今敢えて復活させる分、嘗ての時代より遥かに性質が悪い!」
数多の死者と、文明の大幅な後退という代償を支払った『エトランゼ』との大戦。
最終的に引き金を引いた禁忌の人造兵は、一体を生み出す為に五十以上の生命が代償として失われた。『救済者』の開発計画を掴むまで、現代に於いてそれが可能な領域に至っていた事は知らなかったが、生命の創造などあってはならない。
凡庸な感性と誹りを浴びそうだが、四天王として『正しさ』の旗を掲げて命を踏み躙ってきた分、重みをパスカは十全に知っている。
我欲を捨てられないヒトは、現実に神秘を引き摺り出して災厄を招いた前例を無数に持っている。学者が議論する高次領域まで行かずとも、誕生と喪失の円環は神秘に留め置くべきで、ヒトが立ち入るべきではない。
安定期に入った現代、数こそ減ったが戦を目の当たりにしてきたサイモンも、それは理解していると、節々の言動からパスカはそう判断していた。
現実は、己の愚かさを叩きつけるだけの代物だったのだが。
「悪趣味な代物を、今も私的な費用をつぎ込んで研究を続けさせていた。イザイア・ヴァンスライクを使ったあの騒動も、貴方が糸を引いていた。ユアンが回収した鉱石は、貴方と極めて近しい、この文書に記載されている研究者の手に転がり込んだ。何故、そこまで執着するのですか!?」
「一つ訂正すると、件の密輸人と私は無関係だ。本題に入ろう、執着の理由は君やデイジー君なら、よく分かる筈だよ」
サイモン・アークスは生まれつき魔術適性が低く、若かりし頃の従軍時代でも目立った成果を残していない。争いになれば、目前の男が何をしようと絶対に殺せる。
畏れる理由など何一つないにも関わらず、気圧されたように言葉が途切れたパスカを他所に、アークス国王の語りは王の間へ静かに拡散していく。
「君とデイジー君、そしてユアン君の価値は同じではない。彼は何処までも奪う側に立ち、君達は奪われる側だ」
「あいつはそんな真似をしない。自分の力が及ぼす影響力を分かっている」
「そうだろうね。けれども、それは個々の自制心に委ねられる上、彼も結局復讐から逃れられず『許されない』殺人を犯した。力が無ければ、彼もそのような軽挙には及ばなかった。つまり、暴力の優劣でヒトの行動は大きく変動する」
「何が言いたいのですか」
「暴力の伴わない知性は、世界に吹き荒れる嵐に飲まれるだけだ。反面、知性無き暴力は嵐を増幅させるだけの作用しか持たない。これは私見のみならず、歴史が証明している」
名君や革命者と謳われた政治家や学者。比肩する者なき圧倒的な力を持つ戦士。
彼等の末路が才覚と裏腹に陰惨な代物であるのは、サイモンの指摘通り。
先代四天王スズハ・カザギリなど、あまりに分かりやすい例と言えるだろう。
「成すべき時に成すべき事を選べず、余計な躊躇で初動が遅れる。力が無いが為に、無理解な者に退場を強いられる。全体の構造を知らぬが故、秀でた力を振るう時勢を誤る。彼等は凡そこうして失敗した。大戦を挟んでも、何一つ変わらない道理だね」
「『救済者』の開発を続けたのは、そのような停滞を打破する為でしょう。では何故、貴方はご自身が選んだデイジーを、ユアンを追い詰めるような真似をするのですか? 『少数の犠牲が必要』という三文役者の論理ならば、俺は貴方を切らねばならない」
「少数の犠牲は私一人で十分だ。君の疑問に答えるなら、私は彼等を追い詰めてなどいない。内在する論理に従うよう促したが、結果は全て彼等が招いたもの。もっとも、それは君もそうだったのだが」
敢えて放り投げた陳腐な論理の方が、幾らかマシだった答えにパスカは絶句する。言葉を信じるなら、目前の男はユアン達を「何もしない」ことで自滅の道に導いた。
手を下した証拠は何もなく、彼等の暴走と処理される。パスカが告発を試みても、只の妄言と処理されて終わりだ。
敗北感に打ちのめされるが、それに伴う停滞は無意味と奮い立たせ、閉じかけた口を開いて声を絞り出す。
「何故、ここで開示を? 俺が何も出来ずとも、知る者の数と危険度は比例する。無意味な危険を背負うことは、貴方の流儀に反する」
「君だからだよ。力が足りず、成すべきことを成せずにここまで来た。今だって、正解を知りながら踏み出せずにいる。非常に買っているからこそ、迷いを惜しく思う」
クレイやルチアからの推薦こそあれど、サイモンからの評価が低ければ、四天王の座に就くことはなかった。だが、評価云々をここで持ち出す意味が解せず、言葉の継ぎ目をパスカは失う。
沈黙した部下の姿に何を見たのか。薄っすらと微笑を湛えた王は、典雅な所作で右手を掲げて告げた。
「真の意味で共に行こう。そうすれば君の望みは叶えられる」
悪い冗談なのかと、心底から疑問が生じる。
だが、情報の隠蔽や見出しがたい領域に沈める事こそあれど、核心部分に嘘を置かないとパスカも知っていた。
本心からの言葉に、揺らがなかったと言うのは嘘になる。
美しい外殻に包んで強弁しようと、他者からの承認を拒む者はいない。いてもいなくても、皆気にも留めない背景として生きるなど、誰もが拒む生の形だ。
知識に加え、自身も「望みを叶える最短経路」を辿る為に軍人の道を志した事実。
そして手腕を知るが故に、描く理想を見届けたい欲もある。
目前へ手を伸ばす。が、相手に届かせることなく引いた。意味を読めなかったのか、幽かに眉が動いたサイモンの静かな目を睨み、パスカは小さく息を吸う。
「俺の父を、陛下はご存知でしょう」
「無論。選定時に身辺調査はしているからね。彼がどうかしたかな?」
「貴方がこの計画を進める時、多くの犠牲者や後ろ暗い事態が生じたことでしょう。俺も同様の振る舞いをしてきた以上、その事実を非難しません。……ですが、貴方の求める道は、恐らく貴方の理想を解さない者を切り捨てる道だ」
脳裏に映ったのは、同僚二人の姿だった。
天賦の才を持ちながらも、復讐にその身を焼いた青年。そして、取り零した物を求めて藻掻き続ける少女。
目前の王が描いた理想に、二人は入っていない。パスカが手を取るとは即ち、彼等との繋がりを切り捨てる事に他ならない。
どれだけ後ろ暗い真似を重ねても。真っ当なヒトと呼ばれる事を、諦めなければならないと自覚していても。それだけは捨てる事は出来なかった。
「理想論と分かっている。拘泥して栄光を掴めなかった敗者が俺の父だ。けれども、己が信ずる正しさに殉じて、政治屋には決してならなかった。父の選択を、俺は誇りに思う。だから、貴方と同じ道を歩む訳にはいかないのです」
実質的な決別宣言が、ギアポリス城へ静かに響き渡る。
雇用主の意思を真っ向から否定するなど、絶対にあってはならない。一般的な感性を持つ為政者ならば、パスカに罷免を言い渡す。そして、たった今のやり取りで露見した通り、サイモンは逸脱気味の感性を持っている。
単なる暴力では、絶対に負けない。肩書を取り払って見れば、サイモン・アークスは非力な中年男性に過ぎず、パスカならば素手でも一秒で殺せる。
にも関わらず、パスカは動けない。目前の男が放つ静かな意志の奔流に、完全に飲まれた彼の視界は勝手に震え始める。
この現象に覚えはある。クレイに連れられ、初めて『名有り』に分類される竜の討伐任務に出向いた時、彼の者の力に圧倒されて動けなかった。
あの時はクレイがいたから危機を脱せられたが、今は誰もいない。動きを止めた愚者は、人型の怪物に粉々に噛み砕かれて死ぬ未来が待っている。
「君の意思は分かった。残念だが」
「失礼致します」
聞き慣れた、玲瓏な声が場に割って入る。
腰元まで伸びた紫髪に、猛禽を想起させる吊り気味の鋭い眼。一部の隙もなく整えられた軍服に、使い込まれた無銘の長剣。
四天王の最後の同僚にしてサイモン・アークスの腹心、ルチア・C・バウティスタは静かに乱入を果たす。二人の丁度中間地点で足を止めた彼女の、鋭い眼差しを受け、パスカの背筋が反射的に伸びる。
通常なら第三者の介入は喜ばしいが、サイモン側の人物では状況改善の糸口に成り得ない。死が更に近づいただけでなく、戦いが成立する彼女が現れたなら、戦闘突入は城内全体に被害が及ぶ可能性が上昇する。
如何に被害を軽減させつつ、彼等と刺し違えるか。恐怖に囚われた脳内の片隅で、未来の無い不毛な思考を加速させたパスカに、ルチアが歩み寄る。
「ここは私が収めます。パスカ君、あなたは成したい事を成しなさい」
迷わずに伸びた手は、首ではなく肩に優しく届いた。
予想外の動きに戸惑い、理解が一拍遅れた言葉も、パスカの予想を大きく裏切る物だった。
「ですが……」
混乱から、その先を言えず口を間抜けに開閉させたパスカ。四天王にあるまじき滑稽な姿を見せた彼の胸を軽く小突き、ルチアは柔らかい微笑を浮かべた。
「覚悟は聞かせて貰った。掲げたのなら、ちゃんと貫きなさい。お膳立ては、年長者の仕事だから。あなたより弱いけれど、そういう仕事は私の方が得意よ」
ルチアが一歩離れた位置にいるのは、平時の活動だけでなく近頃の彼等への接し方で明白。ここで甘い顔を見せるのは、油断を誘う罠。
ルチアを疑おうと思えば、幾らでも材料は転がっている。しかし、今この瞬間のパスカにとって、彼女の登場は天啓にも等しかった。
「ありがとう……ございます!」
「お礼なら仕事で返しなさい。あなたが成し遂げる事を期待しています」
その言葉を、縛めから解き放たれたパスカは背で受けた。
目的地は、デイジーの部屋に残されていた記録で分かっている。運を味方に付けても最善の着地点は既に失われている。最悪の一歩手前に間に合うかが争点になり、そこに救いが在るのかも不明瞭だ。
――再起不能になれば、何も出来なくなる。……間に合ってくれよ。
厳しい現実を知りながらも、僅かな可能性に賭けてパスカは走る。
これ以上、仲間を失いたくないという願いに支配されて消えた彼の背を、サイモンは静かに見つめ、気配すら完全に消えた頃ぽつりと呟く。
「予想はしていた。ただ、実行に移すのは想定外といったところかな」
「何れ崩壊するなら、私達の代にも美しい物語は残しておきたい。エゴをお許しください。どのような処罰も謹んでお受け致します」
「気持ちは分かるよ。彼はクレイ君の愛弟子であるだけでなく、君にとっての理想だ。……いや、私にとってもだね」
後世に名を残す綺羅星のような才能や、誰かの感情を震わせる過去。
そして、強烈な個性と形容されそうな特異な思考も。
それらを何一つ持っていないパスカ・バックホルツは、まさしく凡庸な存在で、四天王まで登り詰めたのは奇跡に等しい事象。
致命的な欠落を持つ彼等にとって、パスカは理想の体現者。故にサイモンは自らの理想へ誘い、ルチアは彼に自身の道を貫徹するよう促した。
去って行った部下の背を幻視するサイモンは、僅かに頭を垂れる。
すぐ先に訪れる未来で、自身の手で彼に残酷な結末を与え、それを目の当たりにした、彼の大切な存在に大きな傷を刻む。
知るが故、酷く身勝手で矛盾した願いと十全に理解し、そうする資格が無い事もまた然りだった。
それでも、サイモンの唇から真摯な言葉が漏れる。
「迷いながらも、君はあるべき道を選んだ。時代が異なれば、間違いなく英雄になった。その選択を尊く思う。この先で私と道を交えぬことを、心から願っている」
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