回想:手に入れたかった輝きは。

 掌に滲む汗ごと木剣の柄を握り締め、デイジーは一点を睨む。

「緊張すんな。でも、気は抜くなよ……っと!」

 良くも悪くも力の抜けた、ユアンの美しい声に乗って三本の短剣が飛来。全て刃を潰された訓練用だが、直撃すればダメージは大きい。

 加減はしているだろうが、そもそも彼の身体能力は常人から逸脱している。呑気に構えていれば大怪我は必至。

 ――魔術が介入しない武器攻撃は、基本的に軌道を変えられない。到達点もまた然りだ。しっかり見極めれば、必ず対応可能だ。

 もう一人の教導者、パスカの教えを脳内で復唱。失敗の先にある痛みを押し除け、デイジーは木剣で迎え撃つ。

 掌に衝撃と鈍痛が走り、全身が激しくブレる。

 どうにか踏み留まり、木剣を握り直した時。短剣が舗装路へ乾いた音を立てて落ちた。まずは第一関門突破だが、相手はユアンだ。

 阿呆と煙は何とやらを体現するように、見目麗しい少年は電柱から飛び降りる。落下中に捻った体を引き戻す速力を乗せ、放たれる回し蹴りはシンプルだが、彼の身体能力に掛かれば致命傷に成り得る。

 咄嗟に木剣を水平に掲げて応じるが、これは防ぎきれない。

「痛っ!」

 強制的に離別を強いられた木剣は、明後日の方向へ舗装路を滑っていく。反射的に伸びた指先に、冷たい感触。

 極限まで磨き抜かれた、黄金の切っ先がそこにあった。微細な震動で接触しかねない程に接近している刃は、デイジーが武器と魔術どちらの反撃を起こしても、始動前に潰せると明朗に語っていた。

 勝敗は、ここで着いた。

「今日は……いや試験前はこれで終わりだな。悪くないっつーか、良くなってるぞ」

「本当!?」

 良くも悪くも無遠慮な青年の言葉に、デイジーは桃色の瞳を輝かせながら、発条人形もかくやの機敏さで立ち上がる。

「どの辺りが良くなってた? 剣の使い方!? 体の動かし方!? それとうにゅにゅにゅ……」

「近い、説明するから離れろ」

 飛び跳ね、鼻先が触れそうになるまで接近したデイジー。彼女の頬をユアンは両手で挟み込み、パン生地を捏ねるように弄ぶ。

 予想外の対応に目を回すデイジーから、熱が十全に引くまでそれを続け、やがて彼女を地面に降ろしたユアンは小さく咳払い。期待の眼差しに気恥ずかしさを覚えたのか、頬を雑に掻きながらも真剣な面持ちで口を開く。

「実戦じゃともかく、模擬戦なら迎撃のが評価が高い。俺を落とせるなら、試験官相手の奴は楽勝だろ。剣で流しにかかったのも悪くない。回避するよか、次の攻撃に移る姿勢を見せた方が良い。けど真正面で受けるのは止めろ。お前の体格なら――」

 言葉こそ雑だが、動作の一つ一つを解剖したユアンの語りに、デイジーは食い入るように耳を傾ける。

 初等教育での成績は下から数えた方が早く、頭の回転も遅い自覚はある。故に排斥されていた彼女にとって、一定程度理解するまで根気強く話を続けてくれるのは、パスカやユアンが始めて与えてくれた事象だった。

 彼等の言葉を、取り溢してはならない。

 強い意思に基づいて一言一句を必死で聞き取り、どうにか取り入れられる範疇まで咀嚼し、ノートに書き留める。すぐには活用出来ないだろうが、いつかの未来に備えた記録が一段落した所で、デイジーは大きな息を吐く。

 その様を見つめるユアンは、地面に散らばった武器類を背嚢に仕舞い込んでいく。

「試験、明日だっけか。パスカさんはまだだけど、今日はここまでにしとくか」

「えっ? でも……」

「お前はちゃんと成長してる。けど、戦いで一番デカいのは体格差だ。試験の相手は確実にお前よりデカい。疲れを残した状態じゃ、絶対に負ける」 

 一通りの基礎練習が完了した後も、二人に鍛錬を頼んでいた理由がユアンが口にした「試験」だった。


 四天王のように国王直々に登用されるか、士官学校の類を卒業するか。


 アークスに於いて軍人となる道は、概ねこの二つ。何れも八歳のデイジーには縁遠く思えるが、軍の影響が強い教育機関への転籍という形で、後者に至る可能性を高める方法が存在している。

 デイジーは、そして彼女の父はこれを狙っていた。

 転籍ならば模擬戦が合否に大きな比重を占める。これは四天王や強力な傭兵と成り得る余所者を引き入れる例外規定で、彼女のような正規の試験で不合格となった者を除けば、アークス国民でこれを利用する者は皆無に等しい。

 仮に合格しても茨の道が待っていて、ユアンやパスカは揃って懸念を示していた。

「親父の期待に応えたいってのは分かる。パスカさんも言ってたろ、軍人なんてロクなモンじゃないって。それにお前なら別の道もある、もうちょっと考えても良いんじゃねぇの」

「……パパは、お家がもう一度復活して欲しいって言ってる。わたしは馬鹿だから、軍人さんになる以外に出来ないもん」

 学力や体格、他者を惹きつける人間的な魅力も無い以上、単純な暴力で名を上げる事が許される軍人だけが、成り上がる為の道。

 年の離れた姉は、グレインキーより体面を保っている貴族に嫁いでおらず、母は自分を産んだ時に亡くなった。父の期待に応える事は、自分にしか出来ない。


「明日、わたしは合格する。そうすれば、みんな幸せになれる」


 両者を分かつように風が吹き荒れ、デイジーの髪やユアンの服を弄ぶ。

 幼い少女の抱えた想いは、他者の介入を許さぬ程に固い。何らかの形で決着せねば、良くも悪くも変わることはない。

 短い問答で理解に至り、僅かな時間天を仰いだユアンは、徐に右腕から精緻な装飾が施された腕輪を外す。意図を解せず身構えたデイジーに歩み寄って、左腕にそれを巻き付けた。

「昔パスカさんに貰った奴だ。只の飾りだから、試験中も身に付けられる。どんな目が出てもお前はお前だ、今までの練習を全部出しきる事だけ考えろ」

「……ありがとう。明日は、頑張る」

 腕輪の重みを感じながら、頭を下げたデイジーは家路を目指して歩む。遠ざかっていく彼女を見る青年の瞳には、期待と不安が等分に宿っていた。

 彼の不安を他所に帰宅し、早々に食事と明日の準備を済ませたデイジーは、少し早いものの就寝に移ろうとしていた。

「休息が不足していると、どんな良い準備も無駄になる。不安になるだろうが、最後は休息の有無が成否を分ける。眠れなくても、横になって目を閉じるんだ」

 もう一人の教官役からの言葉に従い、寝具に手を掛けた時。

「デイジー。少し良いかな」

 この時間と状況で、部屋の扉を開けるのは一人だけだ。唐突に現れた父は、しっかりとした足取りで歩み、彼女の目前で腰を下ろす。

 酒精の類に囚われている気配は無い。珍しい事態だが、それは「指導」の有無を左右しない。身を硬くするデイジーを他所に、父は彼女の手を取る。

「試験は明日だな」

「……はい」

 直接伝えずとも、行動や学校の教師の口から情報は漏れるし、ユアン達との鍛錬を続ける理由は語らずとも割れる。

 また何か言われるのか。無意識で身構えるデイジーに、父は苦笑を浮かべる。何年も目にしていなかった柔らかい姿で、中年男の声が部屋に響く。

「まだ観に行けるか分からないが、明日の試験が良い物になることを願っている。……お前は、お前のやれることをやりなさい」

 それだけ言い残して、日頃の負い目を感じたのか父は足早に部屋を出て行く。

 素っ気ない言葉だが、父から励ましを受け取れるなどまるで予想しておらず、デイジーの目は真円を描く。

 やがて、一つの結論に辿り着いたデイジーは拳を固く握り込む。

 自身のみならず、周囲からの期待を背負っている。ならば、必ずこの結果には答えなければならない。

「がんばる! 私は、必ず勝つんだ!」

 小さく突き上げ、力強い宣言を放り投げる。

 そして、急に恥ずかしくなったように、デイジーはそそくさとベッドに潜り込んだ。


                    ◆


「おいっす」

「……どうやって入った?」

「あの程度なら楽勝ですよ」

 戦闘能力もさることながら、ユアンは隠密行動の技能が異常に高い。アークス国軍と言えど、平均的な警備体制なら何もせずとも突破出来る。

 危険を冒して、彼がここに来た理由はパスカにも痛いほど分かる。苦い顔を浮かべるに留め、下方の試験会場に視線を戻す。

 今月の編入希望者は四人。ここまでの三人は試験官に敗北し、最後となるデイジーの試合が始まろうとしていた。

「試験官はどんな奴ですか?」

「ダンティーンさんだ。お前の心配するような事は起きないだろう」

 適材適所が出来ない程、アークスは困窮していない。最悪の事態が回避され、年齢相応の感情を表出させたユアンを一瞥したパスカの目には、強い懸念。

 ――人格面は問題ない。試験である以上、戦闘術も制約が掛けられる。だが……。

 二人の抱く感情を他所に、緊張に満ちたデイジーは名前を呼ばれて進み出る。

「君が最後か。歳は?」

「は……九歳です」

「九歳かぁ。その歳で軍人になろうなんて思ってなかったよ。真面目だねぇ」

 エクトル・ダンティーンと名乗った、特徴の無い痩身の男はデイジーの答えにへらりと笑う。長い時間接していた軍人が年齢不相応な堅物だった為か、少しだけ肩透かしを食った感覚を抱く。

 ただ、実際の光景を見ることは許されなかったが、目前の男が先の三人を撃破したのは事実。体格が遥かに整っている彼等が全員負けた以上、楽な戦いはさせて貰えないだろう。


 ――でも、ここで勝てば私は軍人になれる。パパの期待にも……応えられる!


「折角だから、良い試合をしよう。仮に……」

 エクトルの声が遠ざかり、観覧席に父へ目を向ける。明らかにデイジーよりも緊張している風情の父は、彼女が視線を向けている事すら気付いていない。

 口の悪いユアン辺りなら、普段の勢いは何処に行ったと嘲笑いそうな姿だが、デイジーにとっては決意を更に強固にさせる物。スタッフから刃を潰した曲剣を受け取り、態勢を低くする。

 相対するエクトルも自前の模擬剣を構えた時、開戦の鐘が打ち鳴らされる。

 前進を選択したデイジーは、音が大気に溶ける前に距離を詰め、曲剣を振るう。直線的な攻撃を難なく捌き、エクトルが踏み込んだ刹那。

「おわっ!」

 間抜けな声を上げて、痩身の男が後退。彼の左眼があった場所をもう一本の剣が駆け抜け、どよめきが空間を包む。

 息をつかせまいと淀みなく体勢を整え、デイジーは更に斬撃を重ねる。体格故のぎこちなさはあれど、年齢からすると驚異的な完成度の二刀流は、ユアンの発案した代物だった。

「アイツは皆が思うより器用だ。持って生まれた体の柔軟性を組み合わせれば、攻撃に特化した二刀流を習得出来る。読みは当たりましたね」

「重心の偏った曲剣は、剣の挙動を少しでも読み辛くさせる為か。お前の意図が分かったのは良いが……あの父親が嫌いそうな邪道だな」

 片方に攻・もう片方に防の剣を持つ二刀流なら、軍にも習得者がいる。

 対して、攻撃一辺倒の二刀流は在野の戦士でも殆どいない。防御を蔑ろにする危険なスタンスから教育機関でも取り上げられず、邪道扱いされているのは事実だ。

 パスカの指摘通り、薬物や酒に侵されて顔が土気色と化した、デイジーの父に朱が差している。体面に拘る小物らしい姿を、ユアンは鼻で笑う。

「勝利以上の王道は無いし、アイツの性分に噛み合う形だ。何も問題ありません。そもそも、あの歳で試験を受けさせることが邪道でしょうが」

「それはそうなんだが……」


 ――理屈が通る相手なら良いのだが。


 取り巻く奇異と懸念など露知らず、デイジーは死に物狂い前に出る。

 道理として、軍人に九歳の童女が勝てる筈も無い。ユアンが二刀流を彼女に伝授したのは、適性と勝利を掴む為の奇策という二つの側面があり、慣れられてしまえば終わりだ。

 ――ぜったい、ぜったいに勝たなきゃ!

 苛烈な意思を示すように放たれる連続斬撃が、エクトルに襲い掛かる。経験に基づく技巧で直撃こそ免れているが、武器が奏でる乱れた音は、攻撃を適切な位置で捌けていない証左。

 上下左右、ありとあらゆる方向から斬撃は放たれ続ける。無理な応戦による武器破損を恐れたか、戯けた色を消した軍人は双剣を蹴りつけ、剣戟を強制中断。仕切り直しの意図を解したデイジーは、驚くべき行動に出た。

「――っ!」

 徐に左腕を振り上げ、剣を投擲。

 虚を衝かれた軍人は判断に迷った末、長剣を以て叩き落とすが不意打ち故に挙動が甘い。撃墜によって開いた懐に潜り込んだデイジーは、脇腹に向け曲剣を放つ。

 鈍い音が生じて、エクトルの体が揺らぐ。決して大きくないが確かな、そして戦闘に於いて致命的な隙を幼い少女が生み出した事実に、会場がどよめく。

「よしっ!」

 無数の声を背景音楽に、デイジーは距離を詰める。武器は右手の曲剣だけとなったが、決定打を与えるには十分。彼我の要素を鑑みれば好機を見逃す訳にはいかない。

 ここで終わらせる決断を下したデイジーは曲剣を振りかぶり、非力な体で絞り出した全力で打ち下ろす。エクトルの立て直しには数秒が必要で、それだけあればトドメを刺せる。

 使い手の勝利への確信も乗せ、曲剣は加速する。首筋を強かに打ち据える未来が必定と化した中で、衝撃で下を向いた軍人の表情は見えない。

「いやぁこれで負けたら、俺クビになっちゃうよ」

 やはり緊張感のない声が生まれ、デイジーの背に衝撃が走る。

 動きの止まった彼女の世界が回り、硬質な床に叩きつけられた。

 訳も分からぬまま立ち上がった彼女の目に、声と同じく締まらない顔の軍人。そして、彼の周囲を浮遊する四つの剣が映る。魔力に依る操演だろうが、兆しを見せぬまま展開するなど、生半可な力量で成せることではない。

 恐らくは、これが彼の本来の戦闘様式なのだろう。刃は潰されていて殺傷力は低いが、ここで攻撃の形が増えてしまえば、引き寄せていた流れが崩壊する。

「……っ!」

「おっ、まだやる気か。良いね、そういう根性は嫌いじゃないよ」

 混乱はある。エクトル・ダンティーンという男の真髄への恐れもある。それでも、床に落ちた二剣を拾い上げ、デイジーは愚直な突進を選んだ。心底感服したような声を溢したエクトルも剣を指揮棒のように構え、迎撃態勢を執る。

 握られた剣が振るわれる度、滞空する剣がデイジーに降り注ぐ。三次元軌道で迫る攻撃を凌ぐ術は引き出しに無く、直撃を許して何度も体がブレる。それでも走り続けるデイジーだったが、足首付近を一本の剣に痛打されたまらず転倒。

「い――」

「ここまでだよ」

 床を這う彼女の首に固い感触。長剣の切っ先が当てられていると気付いた時、終了を告げる鐘の音が鳴り響いた。

 我が事のように悔しがるユアンと、彼を抑え込みながらも沈鬱な面持ちのパスカを気配で察したのか。上階を一瞥したエクトルは、開戦時と変わらぬ立ち振る舞いでデイジーを引き起こした。

「良い出来だった。その歳で二刀流を使いこなせるのは凄いよ。お父さん……ではなさそうだけど、良い先生に恵まれたね」

「……はい」

 褒められようと、負けは負けだ。

 期待に応えられなかった事実に俯くデイジーの肩を、軍人の無骨な手が何度か触れる。

「九歳でここまで身に付ける熱意があるなら、三年後の正規試験に必ず合格する。こんな横道を使わず、君が正面から俺達の仲間に加わることを願っている。頑張れよ!」

 親指を立てて去っていくエクトルの背を、デイジーは暫し忘我したように見つめていた。彼が残した言葉をゆっくりと咀嚼し、意味を解した所で胸中に熱い物が込み上げる。

 届かずとも積み上げた物を肯定され、進むことを許容された。ここまでの道が決して誤りではなく、まだ先を見ていられる。

 観衆やスタッフが早々に退出し静寂に包まれた空間で、何度も拳を強く握り締めた。


                  ◆


 夕刻に差し掛かった頃。

 マッセンネの閑静な住宅街を、頬を上気させたデイジーが駆ける。およそ場所に相応しい振る舞いではないと自覚しているが、エクトルから与えられた言葉を、一刻も早く父へ伝えたかったのだ。

 何度も転びそうになりながらも、決して止まることなく走り続けたデイジーは自宅の扉を開いて、父の部屋に飛び込む。

「パパ、見に来てくれてありがとう!」

 壁に向かって座し、テーブルに肘をついている父の顔はデイジーから見えない。そのような状況で、人生に於いて最も輝いた笑顔で彼女は語り掛ける。

「負けちゃったけど、あの軍人さんに褒めて貰えたの! もっと練習したら、三年後の試験で絶対に合格出来るって!」

 弾んだ声を浴びる父は俯いたまま動かない。普段の反応から考えれば、何らかの違和感を覚えても不思議ではない。けれども、今日の彼女はそれすら気付けない程に高揚していた。

「二刀流もね、良く出来てるって! 仲間になって欲しいって! だからね――」


 視界に飛び込んで来たのは、父の拳だった。


 避けることすら出来ず、顔面でそれを受けて床に落ちる。鼻から血を噴き出したデイジーに、雨のように拳が打ち付けられる。

「負けて、不合格になって、何故へらへら笑っている!?」

「……え」

「負け犬には優しい言葉を掛けるに決まっているだろう! 敵にもならない愚図に、忠告する必要など無いからだ! その程度も分からない程に愚鈍だったか!」

 血走った眼と朱に染まった顔。父が激怒している事は明白で、デイジーの貌から数秒前まで宿っていた生気が急激に失せて行く。

「ご、ごめ――」

 容赦なく打ち下ろされた拳が口に直撃し、折れた歯が何本か弾ける。口内の血が喉に絡んで滑稽な音を立てる彼女に、父の罵声と言葉は止まらない。

「あの餓鬼の事も調べた! 我が国に背いた愚かなグナイ族の末裔、同じ空気を吸う事すら汚らわしい××××××だ! ××××××な二刀流も、あの餓鬼に仕込まれた物だろう! 誰も使わないクソを得意げに振り回して、挙句負けた? お前の存在全てが、私は恥ずかしい!」

 髪を掴まれて顔面を壁に打ち付けられ、よろけた所で背中を蹴られてまた床に落ちる。

 馬乗りの状態で何度も殴られ、デイジーの顔は腫れ上がっていく。日常と切り捨てるのは簡単だが、今日に限っては全く違う物を彼女に齎した。

「わたしは……」

 ――パパに褒めて欲しかったの。でも、私は馬鹿だから、他の人みたいに、パパが教えてくれたみたいに出来なかった。だから、皆が考えてくれたことをしたの。

 打撃音に覆い隠されて、声は隠される。醜く変形していくデイジーの顔に苛立ちを覚えたのか、父の攻撃は苛烈さを増していく。

 悲鳴すら上げられず、バウンドするだけの物体と化した中で、彼女の頬に一筋の涙が伝う。

 ――ごめんなさい。何も出来なくてごめんなさい。全部、私がわるいの。

 届かない謝罪を繰り返す彼女の首に手が伸ばされ、力が籠められる。

 気道の圧迫で滑稽な音が毀れ、無様な痙攣が繰り返される。

「私の血を引きながらも何も出来ない。何の役にも立たない粗大ゴミ。もうウンザリだ! お前などヒトとも言えない××××××だ。作らなければ良かった!」

 全てを破壊する声と共に、更に力が入る。呼吸困難に陥ったデイジーの目に赤が走り、流れ続けていた涙が不自然に止まった。

 やがて、グレインキー邸から悲鳴が生まれた。男の低い絶叫は長く響いたが、誰にも気にも留められることなく消えた。


                   ◆


「駄目だ、鍵がかかっている」

「法律なんか気にしてる場合か!」

 問答無用でユアンが左腕に纏った『不視凶刃スティージュ』で鍵を破壊し、分厚い扉を乱雑に押し開く。言うまでもなく犯罪だが、それすら押し流す緊張と切迫感を二人は纏っていた。

 デイジーの試験を見届けた後、次回の指導内容の打ち合わせを行っていた二人。凡そ議論が終結した頃、ユアンの左腕を喧しく彩る腕輪の一つが強烈な光を放った。

 対となる腕輪が持つ、魔力を感知して変色する特性が唐突に現れた時、弛緩した空気は霧散した。

 元々の成長の悪さと、過剰な薬物投与が原因でデイジーの魔力回路は常人より劣る。鍛錬の中でそれを理解したからこそ、二刀流を仕込んだ側面も強かった為に、いきなり魔力が感知可能な領域まで引き上げられるのは怪奇現象に他ならない。

 『竜翼孔ドリュース』を発動して空を駆け、マッセンネに降り立つと同時に響いた長い悲鳴で、予感は確信に変わった。

 法を全力で無視し、グレインキー邸に踏み込むなり、鼻腔を侵す噎せ返る臭気に顔を歪める。

 無言のまま武器を構え、臭気の発信源へ慎重に歩を進める。やがて辿り着いた扉の前で、両者は視線を行き交わせて頷き合う。

 強烈な蹴りで扉を吹き飛ばし、部屋へ飛び込んだ二人を赤が出迎えた。

 恐らく白だったのであろう壁を塗り潰す赤は、戦場で散々触れている。だが、心の安寧を守る為の場所で、これだけの量が撒き散らされている事実で、最悪の結末は確定したに等しい。

 周囲に忙しなく目を走らせたパスカが、赤の海に沈んだ物体を見つけて駆け寄る。あどけない顔から桃色の髪まで。満遍なく血で穢されたデイジーの姿を見た時、青年は自分達の致命的な失敗を悟った。

「ユアン、医者を呼べ!」

「医者なんて信用出来るか! 先にこいつを連れ出すぞ! ……聞こえるか? 聞こえるなら返事をしろ!」

 右手に握られた異様な形状の刃と、背部から突き出た金属の突起は、どう見てもヒトの道理から外れた代物。一般的な医者に放り込めば、確実にデイジーの人生が終わる。

 誤りと知りながらも、軍医へ連れて行く事を選ぶしかなかった。

 搬送の手配を済ませ到着を待つ間に、パスカは現場の検分を行う。デイジーが握り締めていた肉塊が、ヒトとしての尊厳を踏みにじる形で切り刻まれた彼女の父と気付き、無意識に全身が強張る。

 デイジーの顔から爪先まで、余すことなく刻まれた真新しい傷で、彼が何をしたのかも凡そ分かってしまった。しかし、それでも一定の同情を禁じ得なかった。

 死臭漂う部屋に、突如として壮絶な打撃音が響く。

「……なんで、娘を害する!? 魂も未来も壊せる!? どう考えたって、おかしいだろッ!」

 感情を爆発させたユアンに、パスカは何も声を掛けられなかった。

 理不尽な形で奪われたが、語りから推測するに、ユアンにとって家族は幸福の象徴だった。現在では断絶が生じたものの、パスカも取り立てて語ることのない凡庸な家庭で育った。

 親や家族が子供を守り尊重する思想は、環境が構築する形の一つに過ぎない。デイジーの父のように子を平然と害する思想や行動もまた、その一つだ。

 生物が環境によって形態を変える事と同様に、人間の思想など簡単に変わる。

 厳然と存在する事実を見落とし、内在する常識と理想論に基づいた結果、贖いきれない最低の結末をデイジーに齎した。だが、理解出来なかった彼等を責めるのも酷だ。

 彼等の世界はデイジーと大きく異なり、ヒトは自身の枠組みから外れ過ぎた事象を認識出来ない。出発点が異なる以上、苦しみや待ち受ける事態を真の意味で予測・理解する事など不可能なのだ。

「一人で背負い込むな。俺も、この可能性を予測出来なかった」

 今回こそ失敗したが、デイジーはまだ九歳。再挑戦の機会は幾らでもあり、時間が掛かっても何れ辿り着き、父親も彼女を理解する筈。

 そのような甘い理想論に縋っていた以上、これは二人が負うべき責任だ。

 半端に意思を尊重して、デイジーを父から引き離す試みを行わなかったことが、そもそもの判断ミスだ。初手で誤った以上、途中でどう足掻こうと結末は変わらなかった。

「今は、この先をどうするかを考えろ。そうしないと……」

 デイジーも救われないだろう。とは、口に出来なかった。

 殺人者という強烈な看板に基づき、今後世間はデイジーを判断する。内包する事情に目も暮れず、社会は彼女を軽蔑し、罵倒し、排除するだろう。

 父親が死した今、血縁者は二人の姉しかいない。彼女達にしても現在の幸せを優先し、デイジーを切り捨てることが最善手と成り得る。聞いていた話から推測するに、学校関係は全く頼れず、福祉施設の類は論外だ。


 デイジー・グレインキーの居場所など、何処にも無かった。


「どうすれば、良かったんだろうな」

 絞り出した問いは、誰にも答えられることなく世界に消えた。

 その後、軍の医療施設に運び込まれたデイジーは、数週間眠り続けた。

 生涯意識が戻らないと判定されながらも、奇跡的に目を覚ました彼女は、目覚めるなり周囲の医官を虐殺した。

「わたしが一番つよいのぉ! だからぁ、邪魔するやつはぁ、み~んな死んでもらいまぁす!」

 光を失った目と、音程の狂った哄笑を撒き散らした彼女から、気弱な姿は拭い取られた。そこにいたのは、自身の強さを誇るだけの気狂いでしかなかった。

 全てを肉親から踏み潰されたショックで人格が崩壊し、再構築が為されたと主治医は語った。

 だが、理屈など何の救いにもならない。ヒトとして大切な何かを失った彼女は、皮肉にも図抜けた戦闘力を示して軍に登用される運びとなった。

 彼女が手に入れたかった物は、結果的に転がり込んで来た。


 それが彼女の幸せなのか。彼女すら分からないまま。


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