12:踏み躙られるだけの花
ゆかりの先導で、三人はイルディナからディアック湾やその周辺に存在する港湾都市へ向かう道を歩む。
「車を出そうか」
申し出を断り、徒歩を態々選択した理由は、まだゆかりは伏せたままだ。
推測に留まるが、それなりの自信を持った提案を出せたのは彼女だけの事実に二人は従い、発動車が抜けて行く傍らを進む。
宿から延々と歩き続け、汗が滲み始めた頃。不意にゆかりが幹線道路から外れる。
怪訝な顔を浮かべたヒビキと対称的に、半球を戴いて屹立する建造物を目の当たりにするなり、ジャックは感心したような息を吐く。
「あれは?」
「イルナクス国軍の旧・気候観測所。現在は化学植物園だ」
「化学の有無で何が変わるんだ?」
「一般的な植物園は、自然が生み出した物を来場者に観覧して貰う。又は失われつつある種の保存と展示を目的としている。だが、ここは軍事研究の流れを汲んで、遺伝子組み換えや後天的な改造を施された植物の展示が主だ」
「ヒルベリアに植物園は無かったから、分からないけどさ。面白いのか?」
「ヒトが惑星の大半を掌握し、環境すら作り替えた今、既存生物の『自然』が寧ろ傲慢。ヒトの手を介した存在を見る方が、時流に合っている。そのような意見もあるのだよ」
「はぁ……」
惑星の掌握者という視点には賛同しかねるが、自身もヒトの手を介して生き永らえた存在。故にその理屈を一概に否定出来ないヒビキは、間の抜けた声を溢す。
その様に苦笑しながら、皺の多い左手を掲げてジャックは言葉を重ねる。
「補足するなら、ヒトは分からないことを嫌う。技術革新の過程で、我が国は様々な悲劇を引き起こした。現行の法や倫理に従い当施設は運用されているが、そうであっても国民は研究内容を理解出来ずに恐れる。だからこそ、このように公開する施設も必要になる」
「一番不味い研究から、目を逸らさせることも出来ますしね」
「さて、どうだろうね」
流されたものの、あまり褒められたものではない仕掛けは、余裕が思いの外無い証左だろうか。僅かに唇を噛み、ゆかりは問題の施設を指さす。
「人の気配が無いのですが、今日は休園日ですか?」
「カレンダー上はその通りだ。だが休園していようと、整備や研究で人員が詰めている筈なのだが」
今度は明確な答えが返ってきて、ゆかりの脳裏に嫌な形の推測が急速に組み上がる。
重要度が低下しようと、警備は展開されていて然るべきだ。それが一人たりともいない事実は、悪い方向への想像を否が応にも煽る。
どのような結末が待っているのか。無意識に早足になっていくゆかりを気遣うように、彼女に続くヒビキが問うた。
「結局、なんでここだって思ったんだ? 痕跡が残ってた他の場所より、何というか……」
言葉を濁した先は、ゆかりも理解している。
食料などが運び込まれた痕跡が発見された中で、多数の人が行き交う場所を選ぶ理由は薄い。意表をついて混乱を引き起こす事が目的なら、中心部に位置する商業施設が最善手。郊外の当施設はピントがズレていると言わざるを得ない。
至極真っ当な疑問を受けながらも、ゆかりは足を止めない。目前で口を開けている恐怖から目を逸らし、立ち塞がるそれと対峙する精神を構築すべく思考の整理を試みる。
「エデスタさんの言っていた依頼人。実質的な答えをあの人は出していた。定額で依頼を受けた、だよね?」
「待て。そのような話は聞いていないぞ」
「言っていませんからね」
唖然とするジャックを視界から強引に締め出し、靴底に伝わる感触の変化を奇妙なほど鮮明に捉えながら、ゆかりは視線を前方に固定して進む。
疑問を呈したヒビキも、場所の指定理由はともかく、依頼者の見当はおおよそ付いているのか。それ以上の追及を行わずに続く。元・四天王だけが混乱する、やや奇妙な状態で一行は植物園の門を潜った。
入場券のやり取りを行うスペースも無人。日光こそ届いているが、照明の落ちた空間には形容し難い空気が満ちている。
「いつもこんな感じ……な訳ないか」
「当たり前だろう」
憩いの場にあるべき物が拭い去られた様に、ヒビキの軽口を受けたジャックの声は固い。何度も足を運んでいる筈の彼が見せた反応は、現状が日常から外れている何よりの証左。
最悪の予想が現実と化す時に、自ら接近する三者の目が案内板に向く。灯りが落とされ、状況と相俟って、不気味な空気を醸し出すそれを一瞥したゆかりは、迷うことなく歩き出す。
「研究棟じゃないのか?」
「うん。エデスタさんも依頼人も、興味が無いと思うから」
国営施設に乗り込んで機密情報を奪うのは王道と言えるが、一方は既に最重要機密を奪取済みで、もう一方は彼女達の殺害が第一目標。人道意識ではなく、各々の目的を考えると第三者を戦場に放り込む事は望まないだろう。
では、何処へ向かうというのか。
答え合わせを行うべく、ゆかりは人差し指を立てて口を開く。
「依頼者の条件を聞いた時、ヒビキ君は誰を想像した?」
「ハンヴィー・バージェス。ティナ・ヨミウチ・ファルケリア。後は……」
強ければ割増。年齢が若ければ割引く依頼金額設定。その中で本件は定価で受けたと、エデスタは語っていた。強いだけなら候補者の特定は困難だが、年齢が絡んでくると対象は絞られる。
ハンヴィーとティナは一歳年下。バディエイグの新たな統治者と極東御三家の直系が、暗殺依頼を行うなど考え難いが、筋が通る以上ヒビキの警戒は当然。
しかし、名前を挙げた二人が敵対するなら、彼もここまで口が重くならなかった。濁した最後の一人は、命のやり取り以外の面倒ごとを背負いかねない。
出来るなら外れていて欲しい。切実な願いを抱きながら、ゆかりの足は園内を進む。イルナクス固有の種が並ぶ区間を始め、多種多様な区分けに基づいて咲き誇る植物園は色彩豊かだが、緊張の緩和に何も貢献しなかった。
黙したまま進んだ一行は植物園の西端に到達。道中に漂っていた香りや色彩が、一気に人工的な物に代わる。
煉瓦を組み上げた舗装路に、絵本から切り出したような牧歌的な建造物。遠方では明るい色彩で纏められた小さな城が見え、回転木馬や観覧車。果てはローラーコースターまで並ぶ。
「一般開放が決まった時、当時の議員が言った。『植物だけでは飽きてしまう子供や、その家族の為に遊園地を作ろう。幸い我が国に類似の施設は少ない』とね」
老爺の語りに含まれる苦味と、どこか古さを感じさせる光景から察するに、前向きな理由で建造された物ではないのだろうが、彼が求めるのはここに来た理由だ。
万が一を想定して、説明は出来るだけ引っ張った。その結果、目的地に到達した。ならば、最早伏せる理由は無い。
足を止めて振り返り、組み上げた推測を音に変えようとした時。ゆかりの傍らをヒビキが抜ける。
聴覚を塗り潰す金属音が背後で弾けた。
「会いたくなかったが……やっぱお前か!」
強引に押し込んで距離を取り『
臨戦態勢に切り替わった彼の先には、回転木馬が並ぶ見世物小屋。極彩色の屋根の頂点に、小さな襲撃者が立っていた。
「デイジー・グレインキー……!」
『
道化の仮面を被る余裕は欠片すら見受けられない。仮にも軍人が他国に乗り込む暴挙すら、平然と犯せる程の狂乱状態に陥った彼女が現れたのは、ゆかりにとって想定内だった。
エデスタが示した依頼金額の条件に当て嵌り、自分達を殺害する理由を抱えるのは最年少の四天王のみ。数に任せた波状攻撃が今日まで無く、たった今も増援の気配が無い事から独断専行だろうが、それで状況の突破が容易になる筈もない。
増援が無いとは即ち、何もかもをかなぐり捨てて仕掛けてくる危険が高い。そして、デイジーを打倒しても『エルフィスの書』は得られない。
「ユカリはジャックと先に進め。アイツは俺がどうにかする」
静かだが、力強い宣言と共に、ヒビキが前に出る。
「デイジー相手に全員が消耗してたら、意味が無い。多属性を扱えるジャックがいる方が、対エデスタだと有利だ。それに俺はアイツに借りがある。だから行くんだ」
水属性が基盤になる点は同じ。近接戦闘では札が割れており、不審者相手に自分が突き崩す起点にされる危険性を、十全に把握しての言葉。
別れてしまえば共に来た意味が揺らぎ、強敵相手では今生の別れにも成り得る。それら全てを踏まえたヒビキの決断は重く、覆すだけの論理をゆかりは、そして静観するジャックも持たない。
「約束がある限り絶対に負けない。だから行けよ」
沈黙の間に何度か息を吸い、吐く。
紅華の柄を、掌が痛みを覚える程に握り締め、そして迷いなく走り出した。
「目的地は」
「地下の制御室です。そこなら人が隠れ住んだり、戦闘を行うスペースがある!」
決意を固めた背中を見ながら、ゆかり達は遊園地を駆けていく。
依頼人がこうして姿を現した以上、終着点は近い。ヒビキの意思を活かす為にも、この先に待ち受ける大敵を打倒する義務がある。
重責と先に待ち受ける恐怖まで。あらゆる感情を背負って、ゆかりは決戦場へと向かう。
彼女達の姿が消えたことを見届け、ヒビキは向き直る。
「結局、お前一人なのか。良いのか、四天王様が他所で遊んでて」
見世物小屋で立ち尽くすデイジーは、安い煽りにも無言を貫く。ただ、射抜かんばかりの殺意を湛えた眼で彼を睨むだけだ。
回答など端から期待していない。そもそもエデスタの依頼人である時点で、彼女の狙いなど語られずとも分かる。
そして、ヒビキにそれを酌む理由もない。
目前に立ち塞がる者は誰であろうと敵であり、排除する。シンプルな結論をを可能とする力量と精神を、彼は手にしていた。
「一度だけ言う。そこを退け」
個人の意思はどうであれ、四天王と刃を交えるのは今後に大きな影響を及ぼす。加えて、どんな相手であろうと、強敵との交戦はリスクを伴う。エデスタが控えている今、消耗はなるべく避けたい。
動きかけた足を、冷静な計算で押し留めて放った最後通牒は、ヒビキの意図と逆方向に。
即ち、乱れきったデイジーに更なる激情の火を灯した。
「ヒルベリアの薄汚い『
常人ならば意識を手放しかねない怒声が、古びた遊園地を震わせる。強烈な意思の発露は、デイジーの譲れない何かの集合体。決して軽んじてはならない物だ。
咆哮をしかと受け止め、相手の意思を解したヒビキは、それでも揺らぐことなくスピカの切っ先を向ける。
「お前の立つ場所は、お前が力を示して掴んだ物だろ? だったら、その主張は致命的だ。自惚れちゃいないが、この十か月で俺は死線を何度も越えてきた。お前と同じ領域に、俺は登って来たんだよ!」
「舐めるなぁッ!」
必要とされなかった存在が力を示して、誰かに必要とされるようになった。
立場が異なる両者の、根源はよく似ている。似ているからこそ、互いが決して退けないと知っている。退くとは即ち、掴み取った物を溝に捨てる事に等しいのだ。
登り詰めたが為に、喪失を恐れて揺らぐ者。
結末を知りながらも、最期を描く為に登り続けると決めた者。
絶対に相容れぬ似た者同士は、己の得物を掲げて異国の地で激突する。
「おまえなんか、ここで死ねッ!」
「だったら殺してみろよ。その前に、俺はお前を引きずり下ろす!」
二つの影が重なり、鋼の咆哮が轟いた。
◆
無駄に広大な園内の片隅。発見した地下空間への入り口に躊躇なく飛び込んだ二人を、噎せ返るほど強い血の臭気が出迎えた。
配管が縦横無尽に走り、発電機と思しき物体が奏でる重低音は、地上で描かれる夢の世界とは正反対の現実そのもの。だが、ここに血の臭気が満ちているのは現実だが、正しくい物ではない。
無関係な犠牲者が出たことに歯噛みしながら、前進を続けた二人はやがて開けた空間に辿り着く。
ヒトが崩れ落ちる重い音が、そこで生まれた。
「ハーヴィス!」
初めて聞いた、ジャックの切迫した声にハーヴィスと呼ばれた男は辛うじて右手を掲げるが、それ以上何も出来ず落ちる。傍らに転がる長大な剣も、独楽のように虚しく回った後、持ち主を追うように床に倒れた。
竜を模した赤銅色の鎧は各所が砕け、左脇腹には無惨な大穴が穿たれている。食い千切られたかのように有機的な傷を晒す両足から、血が間断なく流れ続ける。まだ息はあるが、治癒魔術を施して云々の領域は過ぎていた。
一刻も早く医療機関で治療しなければ、男は絶命する。
「陛下から出撃許可は出ていなかったのだろう。何故、お前がここにいる!?」
「個人的な義憤だろーよ。女王サマじゃない筋は、余所者にエルフィスの書を貸す意思は無かった。で、明らかな雑魚とは言え知人が殺されるのを黙って見る余裕が、コイツには無かったんだろ」
無駄に通る、軽薄な男の声。夥しい量の血で彩られた空間に屹立する、発動機の一つに座したエデスタ・ヘリコロクスは道化の仕草で両腕を掲げる。
片方にはエルフィスの書。もう片方には、驚愕で硬直した男の生首。その他の亡骸は見当たらないが、厖大な死を描き出したであろう男は、見たことも無い程に疲弊していた。
「『渉禽隊』を出したのか……!」
「特殊部隊ってなぁ真っ向からやり合う部隊とは違う。正面から当てれば死ぬだけなのに、政治家は阿呆だわ。雑魚はともかく、デカいのはなかなか強かったぜ。つーか、オメーら軍隊で何を教えてんだ」
血混じりの唾と、砕けた歯を声に乗せて吐き出したエデスタも、ハーヴィスと大差ない傷を負っていた。悪趣味な魚鱗柄のシャツは引き裂かれ、プロテクターも一部が損傷。『
満身創痍と言って差し支えない男は、生首を放り捨てながら跳躍。転倒寸前の着地の後、中指を立てて口の端を歪める。
「そこのデカいのは確かに強ェよ。奇襲食らったのもあるが、普通に押し切られてもおかしくなかった。マルクのとこもそうだが、どうして初手で殺しに来ないかねぇ。悠長なこと考えてっから、勝てる相手に負けるんだろうが」
どれだけ彼が強かろうと、現状で二対一となれば押し負ける。疲弊こそしているが、虚勢抜きに勝利を確信した姿は妙だ。
浮上する限りの可能性を検分する、ゆかりの脳裏にアルビオン号での一幕が蘇る。
あの時、エデスタは斬られた足をヒビキから奪った魔力で再生した。渉禽隊の規模は不明だが、集団であれば完全回復も容易だろう。
有無を言わさず動いたゆかりとジャックの足が、地面の揺れを察知して停止。大気が震え、周囲の計器類が警告音を轟かせるが、仕掛けの気配は無い。
「オールドマン連れて来たとは言え、ヒビキを切り捨ててここに来る度胸は褒めてやる。あのチビが言ってたより、よっぽど根性あるわ。そこに免じて質問だが、俺が近接戦闘しかしないなんて、誰が言った?」
地面が隆起し、地下空間を構成する床の輪郭が緩む。肉体を修復しながら歩むエデスタを中心に波濤が広がり、レウカソーが奏でる耳障りな音と共に黒が青に変わっていく。
不意に水飛沫が上がり、銀色の三角形が跳ねる。最大級の警戒を浮かべたジャックがゆかりを抱えて飛ぶ。
「カルス・セラリフは確かに近接戦闘の王だ。だが、その後継者も同じだって誰が言った? 俺の二つ名が『海のゴミ箱』だけだって、誰が言った!?」
爆裂した青が、エデスタの問い諸共ゆかり達を飲み込んだ。咄嗟に『
戦闘態勢を執ったエデスタの周囲を、無数の魚が回遊していた。十メクトル近い鮫から、不動の被捕食者たる小型魚まで。この場所にいてはならない生命が、確かにここに居る。
「『
「俺がカルス・セラリフの後継者って呼ばれたのはな、殺しの数を稼げるからだ。どんだけ偉ぶろうが、水中じゃ只のサンドバッグだ。まぁ、コイツをここで使うとは思わなかったぜ!」
大地の組成を変えて海を作り出し、魔力で生み出した魚類を放つ。地形を大きく作り替える大規模魔術を平然と放った男は、自由自在に海を泳いで距離を詰めてくる。
水中戦は空中と同様に三次元的な挙動を求められる。不慣れであろうが、いや不慣れだからこそ積極的に動いて早急に感覚を掴み、その道のプロたるエデスタを撃破せねばならないのだ。
決意と共にジャックの手から離れ、紅華を構えたゆかりに衝撃。太腿にダツを思わせる鋭利な魚が突き刺さり、肉を引き千切りながら抜ける。視界が紅く瞬き、思わず膝を折りかけるが、体勢を整える場など水中に無い。
ばら撒かれた肉片と血に引かれた、肉食魚との対決を余儀なくされるゆかりを見据え、エデスタが愉しそうに嗤う。
「下らねェモノ全部捨てて掛かってこい! またとねェテメエの命を燃やせ! 『大海の王』エデスタ・ヘリコロクスが全部藻屑に変えてやるよ!」
「ユカリ君、打ち合わせ通りに行くぞ!」
仮面を被ったジャックが五枚の札を展開。魔力の奔流はやがて巨大な戦槍に変化。穂先に半月状の刃が無数に絡められた槍で魚群を打ち払い、嘗ての四天王はエデスタに真っ向から突撃する。
――ヒビキ君やジャックさんも戦ってくれる。だったら……私もこんな所で折れてる場合じゃない!
原始的な痛みで萎えかけた心を奮い立たせ、紅華で傷口を焼く。
水中では魔術の展開速度が地上の五分の一に低下し、発動時の消耗は増加する。ノウハウが無い者が安易に飛び込めば数秒で狩られる最悪のフィールドであり、ノーティカ人はこの場所での戦闘に特化している。
勝てる道理は見当たらない。けれども、戦いとは得てしてそういうもので、この先に待つであろう戦いも似たような物。どれだけ強かろうが、エデスタ如きに立ち止まっている余裕は無いのだ。
魚群が踊り、三人が持つ殺意の牙が振るわれる。
◆
十か月前、ハレイドの図書館でヒビキ・セラリフはデイジー・グレインキーに何も出来ず敗北した。彼女が剣を出す兆候を見つけられず、一方的に殴打されて終わった事実が示す通り、当時の両者の間には残酷なまでの力量差があったのだ。
そして今、イルナクスの植物園で繰り広げられる戦いも一方的な展開が描き出されていた。
あの時とは、優劣が逆転しているのだが。
二刃の回転斬撃を右腕で抑え、動きが止まったデイジーの頭頂部にスピカが襲来。雑に跳ね上がった剣が蒼刃の軌道を斜めに逸らすが、持ち主たるヒビキは更に前進。擦れ違い様に急速反転。
赤を咲かせてたたらを踏むデイジーの背部を蹴りつけ、吹き飛んで軽食販売の屋台に突っ込んだ彼女を追走。蛇の如く地を這う一撃を、蒼の一閃で防御。弾かれた衝撃で無防備になった刹那、スピカを斜めに急速上昇。
頭部を引いて躱すが、その先が無い。連動して
額を割られたデイジーの武器『
只の奇行にも映る『跳ぶ・跳ねる』の動作は、敵の視覚と思考を混乱させ、体格の劣る彼女が敵に決定的な隙を与えない為。意図を見切ったヒビキは、デイジーとの距離を詰め、極限まで単純化した剣戟に持ち込んでいた。
「馬鹿に……してぇ!」
半狂乱で伸びたパーセムの軌道を見切り、滑るように側面へ回り込んだヒビキは猛然と刺突の雨を降らせる。辛うじて反応したデイジーだったが、左手だけで受けに掛かったのは悪手。
三手目で、一際甲高い音を奏でた剣と左手が離別。動揺しながら最善手を選ぶが、ヒビキが実行を許さない。即座にスピカの形態を変え『
飛翔魔術を持たないデイジーは、一度空中に浮いてしまうと方向転換が困難。足場が少ない位置での跳躍は最悪の選択。次の手を見失い、何も出来ず水槍に肉体を穿たれ、血霧を散らして無様に落ちる。
「……シャッタードールッ!」
咆哮に応えて鈍い赤の巨大剣が飛来し、デイジーの掌中に収まる。仕切り直しとも言わんばかりにシャッタードールを振り上げ、迫り来るヒビキへ打ち下ろした。
矮躯から全力を絞り出し、放たれた斬撃は大地に即席の地震を齎し、舗装路を微塵に砕いて蜘蛛の巣を描く。
ヒト数人を纏めて挽肉に変える、破城槌に等しい一撃を放ったデイジーは肩で呼吸を繰り返す。
そして、手応えが何もない現実に絶望した瞬間。死角から放たれた斬撃が左手を切り落とした。
「……どうして!」
絞り出された問いにヒビキは答えない。余計な情報を与えない為の策、以上の意味を持たない選択は、デイジーに更なるダメージを齎した。
付け加えるなら、ヒビキの左眼に蒼の輝きは無い。彼は『
阿呆同然に口を開閉させるデイジー。彼女の傷ついた左腕を無数の『
事実上勝利を掴んだヒビキは、デイジーの首にスピカを突き付け宣告する。
「命まで取るつもりはねぇよ。お前は俺には勝てない、降伏しろ」
絡め手を持たない剣士が、武器を失えば勝ち目はない。逆転の目が潰えた相手に、降伏勧告をするのは当然の振る舞い。
余計な殺しを好まないヒビキは、相手が誰であっても同じことを告げただろう。
そしてそれは、デイジーにとって全く別の意味を持っていた。
不意に、少女の体が細かく震え出す。気付いたヒビキがスピカを僅かに引くと、痙攣は更に激しくなり、下を向いたままの顔から涙や唾液と思しき液体が止めどなく落ちる。
看過できない変調に気圧されながらも、ヒビキはスピカを構えたまま、予定調和から外れた問いを投げた。
「おい、どうした?」
「……わたしがお前に勝てない? そんなのはありえない。だって、わたしはつよいもの。つよいひとは、弱い奴に負けるはずがない」
首を垂らしたままの声は、正気から遠い代物。
「現実を見ろ、ここからお前が逆転する筋はない。だから……」
「現実ぅ!? そんなもの、こうすればいいでしょう!」
背後から豪風。本能に蹴り飛ばされて横へ飛んだヒビキの傍らを、追放した筈のシャッタードールが通過。長大な剣はデイジーへ迷いなく突き進み、彼女の左腕を引き千切った。
骨肉が砕ける湿った音。同時に、虚空を割って噴き出した赤黒い粘液がデイジーの全身を包む。
自傷行為を選ぶなど正気の沙汰ではないが、粘液塊は不気味に蠢動し、魔力が殺到している現実が確かに在る。
「やりたくないが……仕方ないか」
徹底抗戦を選んだと判断し、ヒビキは颶風と化した。
瞬時に距離を詰め、最速の抜刀斬撃を放つべくスピカに手を掛ける。粘液塊は不動を守り、回避する気配は皆無。
やはり勝利は揺らがない。世界が抱いた確信を裏切るように、ヒビキの背に三つの剣が突き立つ。
体内に生まれた熱で足が止まり、自身を侵す物体の出所を探すようにヒビキの目が動く。彼を嘲笑するように剣は抜かれ、喜劇の如く遅々とした速度で引き戻された。
三本の剣が格納された先には、当然ながらデイジーがいる。だが、彼女の姿にヒビキは己の眼を疑った。
血涙の如き紋様が顔に浮かび上がり、シャッタードールと呼んだ両刃剣を握る右腕に異常な脈動。ここまでは常識の範疇で、問題はこの先だ。
「お前、その左腕は……!」
彼女自身が捨てた左腕。剣に依る蹂躙の痕跡が残る肩口から、酷く不恰好な金属の骨が伸び五本に分岐。先端部に五本の剣が接合され、各自が意思を持つかのようにユラユラと揺れる。
左側に一本と右側に二本。背部から伸びる三本の剣も含めると合計九本もの剣が、一様に殺意を向けていた。
二刀流も使用者は少数。大公海に点在する小さな島の武芸者に四刀流がいるらしいが、それでも短刀四本が限界。不揃いの剣を九本行使する者など、知識の何処を引っ繰り返しても存在しない。
異常な姿に転じたデイジーは戦意で満たされ、悠長に立ち止まっていては死ぬ。
危機感に押されたヒビキに剣が反応。速いが振り切れる程度と見切り、先鋒の役割を担った五本を回避。躱された剣が遊園地の何かを粉砕した事実を耳で受けながら、再びの接近を果たす。
長々と付き合っていては、ゆかりやジャックも危険だ。残る四本をも掻い潜り、脇から右腕を切断すべくスピカを滑らせるが、無音で引き戻された剣に止められる。
舌打ちする暇もなく、意趣返しとばかりに死角から襲来した七本に全身を穿たれる。激痛に身を灼かれながらも、鈍い輝きを放つシャッタードールが迫る様に、背に氷塊が滑り落ちたヒビキは全力で後退。
行き場を無くした両刃剣が明後日の方向へ進み、鉄柱を両断。珈琲カップを模した遊具の小屋が圧壊する様は常人なら恐怖を喚起する。
辛くも発狂を免れたヒビキは、恐怖以上に繰り出された仕掛けへの疑問に支配されていた。
――完全に躱した筈だ。なのになんで、攻撃が届く。追撃が出来るんだ!?
当たらない筈の攻撃が届き、防げない筈の攻撃が防がれる。射程や視野の問題を強引に押し流す剣など前代未聞だ。
対応策から種まで何も分からない。しかし、デイジーの剣から届いた叫びで、この姿が持つ願いをヒビキは凡そ理解していた。
恐らく、彼女は誰かに望まれる事を望んでいた。その選択の先に戦士としての道があり、戦士の理想は誰にも負けない強さを持つことだ。
目前の歪で醜悪な姿は、恐らく彼女の『出来損ないの理想』が顕現した姿。
後にも先にも模倣者のいない形態が繰りだす剣技は、ヒビキが受けきれなかったように、未知との対峙を受け手に強要し、安易に踏み込めば一瞬で九本の剣に刻まれる。
か細い蜘蛛の糸を歩むが如き繊細な立ち回りが求められるが、奇妙奇天烈な操演術は人体構造の限界を超越した攻撃すら実現可能。思索の果てに掴んだ対応策は、誰にとっても未知のリズムで踊る剣によって隠蔽されてきたのだろう。
持つもの全てで分の悪い賭けを敵に強要し、糸から落ちた瞬間に解体する。悪辣な方程式が、デイジーの矮躯に詰め込まれていた。
『出来損ないの理想』が描くは、逃れ難き絶対の殺戮領域。
最善の選択をした筈が、最悪の状況に叩き込まれた。歯噛みするヒビキを傲然と睨み、デイジーは吼える。
「お前なんて、わたしにとってただのエサ! ぶっ殺して、わたしはわたしの価値を証明するんだ!」
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