13:僕らの夢、願い、そして呪いが
ハーヴィス・クロムウェルの敗北。
衝撃的な報は即座にイルナクス上層部に届き、それは女王ベアトリスにも例外ではなかった。そして、彼女は最も静かで激しい怒りを見せた。
「……阿呆共が」
異邦人の推測は正鵠を射ていたが、ジャックが二人に開示した場所以外にも、エデスタは拠点を築こうとしていた。
『草』から報告を受けたベアトリスは、一般人が多く行き交う地点の警備増強による誘導を指示した。
最終目的の異邦人殺害に決定的な妨害が入らなければ、多少の誘導も無視する。そのような読みは的中し、相対的に一般人が少ない植物園をエデスタは拠点に選んだ。
後は異邦人に倒させるだけ。そんな青写真を彼女と相対する側、即ち軍は拒んだ。
何処の馬の骨とも知れぬ者に、国宝の奪還を担わせる訳にはいかない。ある意味真っ当な論理に基づいて、居場所が割れるなり
ここで問題になるのは、渉禽隊が特殊部隊である事実だ。
特殊部隊の主たる任務は工作活動で、真っ向からの戦闘は専門外。軍同士の戦闘でも前線から外される彼等が、まさしくプロと当たった結果がこの惨状。
不運な偶然で惨劇を知り、義憤に駆られたハーヴィスは独断で戦場に飛び込んだ。彼なりの勝算に基づいた行動は、エデスタには天恵に等しかっただろう。
まず捕縛を試みる軍人の性は、簡単に拭えない。『赤竜王』の称号を戴く男は早々に思考を切り替えただろうが、実力者の戦いで初動の遅れは致命傷。ハーヴィスは押し切られて敗北し、彼から奪った魔力で回復したエデスタは万全の状態で、ジャックと異邦人に牙を剥いた。
数の暴力を行使する道は、水中戦に持ち込まれると損害が上回り、初動で情報開示を抑えたことが仇となり、国民の理解を得るのは困難。
魔剣継承者やイルナクスが抱える『白光ノ騎士』級ならともかく、エデスタ程度の役者では強硬策が悪手になる。誰もが傷を負う状況では、誰も次の手を提案しようとしないのは、議場の静寂が証明していた。
――嵐はいずれ去る。だがそれでは、エルフィスの書は失われる。このような時に動けないのはもどかしいな。
ジャックを異邦人に付け、ハーヴィスが倒れた事でベアトリスに暴力を行使出来る札は尽きた。理由や内在する感情は異なれど、無策なのは場の全員が同じ。
終幕の先にどのような手を打つか。実に後ろ向きな理由から先を見据えるイルナクス女王は、戦いの推移を見守る他なかった。
◆
暴風が遊園地を駆け、無惨に刻まれた遊具や計器類の破片が散る。
視界を遮る暴風へ真っ向から飛び込み、ヒビキは前進。蒼の半月を描く斬撃を前に、デイジーが舗装路を削りながら急停止。ヒトの関節構造を全力で無視した挙動で右腕が動き、シャッタードールが落ちる。
金属音が弾けた刹那、ヒビキが滑るように右へ回避。地面に八の剣が突き刺さる光景に背が粟立つ。最悪の想像を振り払うように放った突きを防がれ、舌打ちと共に組み立てを放棄。手首を強引に返してスピカを投擲。
破砕音、そして瞬の浮遊感。
スピカに引き寄せられたヒビキは電柱に着地。足を撓め、渾身の力で蹴りつける。迫り来る刃が掠め、血の尾を曳く蒼刃。速度差を考えれば、電柱を砕いた剣が戻る前に首を取れる。
ありえない姿を目の当たりにしながらも、敵の実力を測ったヒビキは結論を下す。思考はまだ機能している為、前代未聞の仕掛けに呑まれることなく踏み込める。
振り抜かれたスピカが銀の花に食い止められたのは、理解の範疇を超えていたのだが。
「死んじゃえ!」
虫を捥ぐ幼子の叫びで、銀の花弁が散る。
吹き荒れた剣風に刻まれ、更に増えた傷から血を噴き出したヒビキの足が地面から離れる。そのまま後方へ吹き飛び、壁を爆砕してある建物へ突っ込んだヒビキは、降り注ぐ悪趣味な人形と生温い液体に顔を顰める。
「これは……」
牙を剥く人狼や、礼装を纏ったカボチャ頭といった、奇怪な造形の蝋人形はいずれも血化粧を纏っている。おどろおどろしい内装から、以前ゆかりが語っていた「お化け屋敷」に近い施設と推測可能。
平時なら背筋が寒くなっていただろうが、今は目前に何十倍も恐ろしい奇剣士がいる。そして、彼女は既に次の手を放っているのだ。
「あぁあああああああああああいっ!」
調子外れの叫びと、四本の剣が館に滑り込む。蝋人形の首を切断し、照明を微塵に粉砕して迫る剣の先にデイジーの姿は無い。自由自在に軌道を変えて迫る剣をスピカを繰って迎撃。紡がれた鋼の歌を強制中断させ、施設を飛び出す。
掠めた剣で脇腹が削がれ、桃色の肉が落ちる。重傷だが今の彼には些事だ。
原理不明・伸縮自在の剣舞が齎す脅威は見ての通り。デイジーはヒビキを視認していないにも関わらず、精緻な斬撃を仕掛けてくる。
一箇所に引き篭もっていれば死ぬ。隠れていても猛攻に晒されるならば、正面から挑む他ないのだ。
腹を括って飛び出し、傍らの遊戯用電動車を蹴りつける。砲丸の如く飛んでいく物体と別方向から距離を詰めるが、シャッタードールと称する両刃剣に電動車が刻まれ、残る八本で斬撃を止められる。
ここで止まれば先刻の焼き直し。激突で生じた一瞬の停滞を衝いてヒビキは前進。どれだけ滑らかな操演が可能でも、間合いの内側に入れば一拍の隙が生じる。至近距離で放たれ、激流と化して上昇するスピカを、後退で躱したデイジーに悪鬼の笑み。
五本の左腕を地面に突き刺し、低位置からの水平回転。スピカで迎撃に掛かったヒビキは、背部から迫る剣が分裂する様に目を剥く。正面のシャッタードールは辛うじて流すがその先が無い。
赤の飛沫が弾け、スピカが宙を踊った。
「畜生!」
骨肉纏めて左腕を砕かれ、無様に転倒しながら後退。右腕でスピカを引き寄せ、左腕も即座に再生が成されるが、敵の奇術への衝撃はダメージを上回る。
――派手な見た目に騙された。……アイツの仕掛けは『
金属の構造に直接干渉して刃を伸縮させる『錬変成』は、鎧の強化にも用いられる汎用性の高い魔術。ヒビキのように魔術が不得手な者や、そもそも不要とする存在以外は習得するが、九刀流に活用するなど前代未聞だ。
恐らく魔術発動を『錬変成』に絞り、極限まで思考を単純化する事で実現させているのだろう。
単純な理屈だが、二刀流を使いこなす素養と、極端なバランスの変化を許容する柔軟性を持つデイジーにのみ可能な超技術で、模倣は不可能。先の攻撃で判明した通り、個々の剣に対する発動度を変えられるなら、手筋を探るのは無意味だ。
近接戦闘の鉄則を悉く無視する歪な奇跡を目の当たりにし、デイジーに与えられた『
正攻法も絡め手も、九の剣が描く殺戮領域の前に等しく解体される。故に、どのような仕掛けも彼女には無害。
勝利という結果だけが、場に残るのだ。
目前を穿つ刃に急制動を掛けるが体勢が崩れる。そこから何が来るかはヒビキも当然分かる。反転しながら追撃の刃を弾き、純粋な膂力で雪崩れ込んで来たシャッタードールを受けに掛かり、そして急激に引き戻されて空振った。
「すごいじゃない。二秒で死ぬと思ったのにぃ」
「二秒で死ぬ方が間抜けだ。計算も出来ないのか」
安い煽りに等価で返すが、デイジーには微風すら届かない。
戦況の優劣を考えれば当然の反応で、ヒビキにはその現実が重い。
速度や剣の技巧で勝負するなら、大抵の相手から勝機を掴む自信はある。だが、根底から異なる仕掛けを出されると、積み上げた経験が逆に枷となる。舐めた口を叩くデイジーに過剰な自信こそあれど油断は無い。
それを示すように、彼女の周囲で剣が放射状に広がる。
ようやく全貌を目撃した今、九本全てが異なる形状を持っている事に気付く。等しく殺意を内包した剣は、九頭の竜が如く有機的に蠢動する。
辛うじて致命傷を免れているだけで、翻弄され続けている現状は最悪そのもの。突破口を見出だせなければ、何れ解体されて終わる。
「ばっらばらにしてあげるぅ!」
デイジーの宣告に、ヒビキはスピカを固く握り締める。
◆
回遊していた一匹の鮫が、無機質な目でゆかりに照準を合わせる。
『
猛然と突進する鮫に紅華の切っ先を向けるが、斬りかかるまではしない。
盛大に開かれた口腔へ刃を送り込む。
紅き刃は鮫の体内に侵入を果たし、敵の突進速度を転化して脊髄や臓器を蹂躙。痙攣しながら血を撒き散らす鮫から、紅華を跳ね上げ離脱。血の臭いに引かれた魚群が死骸を瞬く間に消滅させるが、全ての腹を満たすには足りない。灰色の無機質な目がゆかりを捉え、一斉に牙を剥く。
襲来する魚群に背を向け、ゆかりは一心不乱に上を目指す。大半の魚は一撃で死んでくれるが、仕留め損ねたり例外がいれば痛打を貰いかねない。
誘導されていると分かっていても、魚群の攻撃が減少する水上に出るのが最善。加えて、そろそろ肺に酸素が尽きつつある。
――こんな所で、教えて貰った泳ぎ方が役に立つなんて。
自嘲しながら上昇し、水面が近付くなり『
刀身に灯った炎が竜と成り、持ち主の辿った道を逆回しするように水中へ突入。
濛々と煙を撒き散らして突き進む火竜は、地上での発動時と比較すると遥かに遅い。魚群の大半に旋回して回避されるが、大型の鈍重な個体を捉えて炎上。
エサの叛逆に僅かな停滞を見せた魚群を睨み、ゆかりは何度か深呼吸して水球に飛び込む。
水中戦のプロなら、呼吸が続く限り水中に引き篭もる筈だ。ヒビキから聞いた、ノーティカ人の水中戦闘の最低ラインは一時間。『カルス・セラリフの後継者』と称された男ならば、軽く超えてくる筈。
ならば、待つだけこちらが不利だ。
覚悟を抱いて青の牢獄へ再び挑むゆかりの目に、数倍に肥大化した丸鋸状の刃を繰るエデスタと、見覚えがあり過ぎる紅槍を振るうジャックが映る。
巻き上げた周囲の水を刃とし、驚異的なリーチと破壊力を獲得した男の猛打。
常識外れの拳を、年齢を感じさせない精緻な槍捌きで迎え撃つジャックには無数の傷が刻まれており、それは増え続けている。
全て凌げない以上、一定の負傷は割り切ったのだろう。驚異的な判断力と胆力だが、傷口から流れる血は周囲の魚達を刺激する。
生み出された魚は二人を標的にしているが、捕食者の本能に基づけば、出血に比例して魚達の意識は片方に傾く。
四方八方から無機質な殺意が迫る中、老いた元四天王は長槍を放った。陸上ならともかく、水中では抵抗で速度が出ない。槍を容易に回避したエデスタは何故か後退を選択。
直後、顕現した巨大な鋼鉄の壁が密集する魚群へ突進。回避の暇すら与えず挟み込み、完膚なきまでに圧殺した。不快感を齎す赤や、それに集る魚群を無視して距離を詰め、ジャックは三枚の札を切る。
黄金が瞬き、不審者の遮光眼鏡が粉砕。文字通り目と鼻の先に死が見えた状況でも、暴かれた鮫の目には高揚。
「面白ぇ使い方するモンだ! しかも『螺雷蛇ラディーカ』とは、年食ってるだけあってレアモン出してくるな!」
「お前と戦う為にデッキを組み直した。代金として退場願いたい」
「ソイツぁお断りだなぁ!」
蛇の如く有機的に蠢く雷の鞭と、不可思議な音を奏でて旋る水鋸が何度も絡み合い、加速度的に両者の体に傷が刻まれる。
「戦いは上下左右全て使うもの」と、ヒルベリア在住の元・四天王はゆかりに指導していたが、この光景を彼は想像していただろうか。
足場や天井が無い空間を存分に活用し、不可視領域となる角度から魔術を放ち、それに対する敵の反応を起点に『次』を描く。機動力と高速の魔術構築という『当たり前』が存在しない分、手札の取捨選択の重みが増す。
水中戦の王たる男に、拮抗状態に持ち込んでいるジャックの力量は凄まじい。開戦時の侮りを捨てて、エデスタの挙動が洗練されていく光景が技量を雄弁に語っている。彼でなければ、数分で決着は付いていた筈だ。
老化の緩和を選ばなかった以上、彼の根本は七十三歳の老人。様々な要素が四天王時代から低下している筈で、形成した武器をすぐに消滅させているのも、交戦に耐えうる武器の維持に不安を抱えている証左。
敵のフィールドで積極的に前進する、一般論に於いて自殺行為を選択したのは、時間切れの回避という後ろ向きな理由も強い。
逃げ続ければ勝てる状況で、喜色満面で応戦するエデスタの異常性に、自分達は救われている。敵の気分が変わる前に、何としても勝利を捥ぎ取らねば死ぬ。
目に灯った紅を更に深くして『
数匹の魚を串刺しにするも、エデスタは首を振って回避。
格闘の只中にありながら、死角からの攻撃を躱された事実に眩暈を覚える暇もなく、飛んできた拳を紅華で受けるが体が流れる。
水球から追放され、背中を壁に打ちつけ息が詰まる。明後日の方向に曲がった左手から生まれる激痛は、水塊が鮫に変形する光景に叩き潰された。
「突っ込んでくるのは良いハートだ! だが、コイツはどうだ!?」
純粋な殺意を宿し、鮫が大顎を開いて突進。回避を選択したゆかりの視界に再び現れた時、彼女の左半分は消え失せていた。
半ば崩壊した絶叫と、無惨に攪拌された肉を溢しながら床に墜ちる。即座に『
一撃でゆかりを死の寸前まで追い込んだ鮫は、地下空間の壁を削りながら反転。恐怖を煽る遅々とした挙動で向き直った巨体の口が、強引に閉ざされる。
「させるかっ!」
水球から伸びた無数の『
コンクリの床に背から着地した老爺は即座に立ち上がるが、足に奇妙な揺らぎが生じる。仮面の大半が砕け、暴かれた顔には無数の血。
「ありがとうございます」
「礼には及ばない。……水中戦は堪えるな」
「貴方でも、ですか」
「空中や陸上と勝手が異なり、経験も積みにくい。海竜や大魚ならまだしも、ノーティカ人の上澄み相手は厳しい」
軍属の四天王なら、軍艦を始めとした兵器の助力も得られていた筈。自身が不利になる領域へ、積極的に飛び込む非合理性も排除出来ているだろう。
誰であろうと出て来た相手は迎え撃つ。そのような姿勢を執らされている自分達が異常なだけで、ジャックのスタンスが正しい。ただ、その正しさによって窮地に追い込まれつつある。
嫌な現実に歯噛みするゆかりの隣で、老爺が砕けた仮面を降ろす。垣間見えた眼には凄絶な意思の光。
「水中に於ける魔術発動の負荷増大は、ノーティカ人も同じ。渉禽隊やハーヴィスの魔力を奪って完全回復を果たしても、開戦後の奴は回復が出来ていない。我等が生きている事が証明だ」
両手のレウカソーで『直接』他者を削ることが、回復のトリガーになる。
恐るべき単純さと高効率だが、二人は開戦してから接触を回避している。超大規模魔術の展開・維持に依る消耗も踏まえると、敵も決して余裕はなく、そこに付け入る隙があるとジャックは見たのだ。
「生ある者は必ず綻びが生じる。そう信じたからこそ、私にデッキの再構築を指示したのだろう? ここを墓場とする意思が無いのならば、戦いにだけ集中するんだ」
大振りの鉈を引き出した老爺の言葉に、下降しつつあったゆかりの頭が止まる。彼の指摘に誤りは何一つなく、下準備を行っていた時の彼女は確かに勝利を信じていた。
揺らぐにはまだ、早過ぎるのだ。
「幾ら不得手であろうと、対応策も準備している。少々高く付くがな」
「待てやゴルァああああ!」
小物染みた叫びが場に生まれ、水球が霧散。
有利なフィールドを放棄し、エデスタがゆかり達の正面に降り立つ。何をどう捉えているのか著しく分かりにくい男だが、この瞬間は心なしか顔が引きつっていた。
「圧倒的タフさがあるから良いが! 『
「気狂いはお互い様だろう。なに、魚達の組成を変えただけだ。その程度なら触れずとも可能だ」
元の世界でも青酸カリは著名な毒物で、致死性は非常に高い。
経口摂取のみならず、一説では皮膚からの吸収でも危険が及ぶとされる。回遊する魚が全て毒塊となり内部が毒水で満たされたならば、エデスタと言えど致命傷になりかねない。
制御出来ない魚達を利用して水中戦を強制終了させ、再構築も難しい状況に持ち込んだ事で、戦いの盤面はまた切り替えられた。
ここからはいつもと同じ地上戦。つまり、純粋な戦闘能力の優劣で雌雄が決する。鍛錬の成果と、己の覚悟が改めて試される状況に、ゆかりは内心で激を飛ばす。
「おっもしれェ! 『狂王大紅蓮海闢』をぶっ壊す奴は久しぶりだ! 心行くまで楽しもうぜェ!」
レウカソーを打ち鳴らし、エデスタが改めて戦意を示す。
気の弱い者なら、それだけで失神しかねない圧を振り切るように二人は加速していく。
◆
場内のあらゆる設備が刻まれ、砕け、爆散する遊園地をヒビキは駆ける。
彼を目掛けて飛来する、鈍い輝きを放つ銀の一撃をスピカで弾く。逸らされた剣は小屋のガラスを切り刻んで引き戻され、ヒビキを追走する。
前方からも剣は迫っていて、このままでは挟撃されるが目に映る剣は六本と、振り切るには難しい数。事実を組み合わせると、選択肢は自然と絞られる。
――そろそろ近付かないと不味い。……行くか!
迫り来る剣の隙間から一点を見据えて、スピカを投擲。剣の茨が後退する程の衝撃波を纏う蒼刃の後を追い、ヒビキの体が急上昇。
原理はともかく、スピカを用いた移動の形は単純な代物。軌道上に攻撃が来れば当然直撃する。蠢く剣が掠め、高速で押し流される視界が明滅。
軽視出来ない傷を負ったヒビキは、痛みと背後で奏でられる金属の合唱を受けながらコースターのレールに着地。高所を取った事で敵に正確な位置を知られるが、それは彼も同じこと。
前進するデイジーに狙いを定め、スピカの引き金を引く。
「キュゥオオオオオオオオオオッ!」
甲高い咆哮と共に現れた、高圧噴流で形成された潜水鯨が牙を打ち鳴らし、あらゆる設備を飲み込みながら猛然と突進。大質量の水塊の直撃は、大抵の者に看過出来ないダメージを齎す。
威力を知るデイジーの動きが止まり、防御を選択。その様を視認するなり、スピカを鞘に納めてレールから飛び降りる。
右から捕食に移行した水塊の逆を取り、最適な位置を確保。持ち主の迷いを写すように停滞した銀の茨を他所に、柄を握りしめて踏み込んだ。
鞘鳴りの音から始まる、場に生み出された膨大なエネルギーは、潜水鯨の大瀑布で隠される。遊園地に生まれた大津波は、場内の設備を根こそぎ押し流していく。
原型を殆ど失った場の、数少ない生存者たるヒビキは、スピカを抜き放った姿勢で硬直。花弁の如く広げられた八剣の盾に、渾身の抜刀斬撃は食い止められていた。
シャッタードールを除く八つの防壁をへし折り、デイジーの胸元に僅かな赤を滲ませるが、相手が立っているなら何の慰めにもならない。寧ろ、最大火力を絞り出す両刃剣の自由が利く状態は危険だ。
惑ったヒビキの目前で、損傷した剣が蠢いて再生。地面に突き立てたスピカに刺突の雨が降り注ぎ、金属の悲鳴と火花が散る。
先は読めているが、この体勢で逆転に繋げる事は困難。刃から『
剣の再生と同時に跳躍したデイジーを追い、空中で刃を絡め合う。飛翔魔術を持たない者の道理として重力に従い両者は落ちて行く。その中でも刃を絡め合い、火花を散らしながら一塊となってレストランの屋根に降り立つ。
ほんの数秒、着地からの立て直しに差が出た。理由探しを放棄し、好機を逃すまいとヒビキが前に出る。
出鱈目に伸びてくる剣を、今回は躱さない。
直進するヒビキの肩・胸・脇腹・脚を剣が掠めて血霧が舞う。骨や義肢の破片が散り、顔を歪めながらも挑戦者たる少年は止まらない。
遅れて堕ちたシャッタードールはヒビキが負傷した地点、即ち遥か後方の屋根を砕く。可能性を或る確信に変え、血染めのヒビキはデイジーに肉薄。蒼刃が華美な衣装と胸部装甲を破壊。その下にある骨や肉を蹂躙した所で固い手応え。
防御反応で自動的に紡がれた、何らかの魔術で停止を強いられたと判断。背後からの襲撃を警戒して下がったヒビキは、激しく咳き込みながらも、スピカを突き立て踏み止まる。
対するデイジーは胸に悲惨な傷を刻み、口腔から血塊を吐いて右膝を付く。この戦いで始めて重傷を負った少女の目には、疑問と微量の恐怖。
「どうして、見切れるわけ?」
心からの疑問に、ヒビキは凄絶な笑みで答える。
「九本の剣を等しく扱うなんざ、ヒトの脳じゃ無理だ。大昔の『解体技師』は他者の脳を補助演算装置に使ったらしいが、そうじゃないお前の剣は、どれか一つ当たれば全部がそこに向かう」
「……」
「出力が上がっていようが、大半はデカブツに回っていて他の八本はどうにかなる範疇だ。なら、八本のどれかを当てて誘導すれば致命傷は防げる」
ヒビキの答えに、デイジーの身が小さく震えた。
奥の手が持つ穴など、語られるまでもなく彼女は理解している。
だが、シャッタードールの一撃に比べれば格段に劣ると言えど、八本の剣はヒトを殺害可能な破壊力を持つ。少しでも立ち回りを誤れば即死する上、痛みや九刀流の視覚的効果が齎す怯懦を完全には拭えない。
同僚達ですら避けた正面突破をヒビキは選択した挙句、成功させた。
ヒルベリアの『
「分かってても、なんでそれができるの?」
「もう他に手がない」
凄絶な答えを投げつけ、スピカを構え直す様にデイジーが息を呑む。
互いに引けない理由を持つならば、通す為には命を賭けるしかない。しかし、あまりに分の悪い賭けに対して、生物の本能は無意識にブレーキをかける。
生存本能を捻じ伏せて賭けに出られる気質は、間違いなく稀有な物。これこそが、ヒビキ・セラリフが勝利を重ねて来た最大の理由なのだろう。
桃色の瞳を眇めたデイジーは、無造作に剣を降ろす。傍から見れば意味不明な選択に虚を衝かれ、ヒビキの動きが鈍る。
絶好機に彼女が選んだのは、懐から取り出した注射器を首に突き立てる事だった。
「お前がなにをしようと関係ない。わたしはかたなきゃ、お前を殺さなきゃ駄目なの!」
「
戦いの只中で取り出す薬品など、何であれロクでもない代物。流れを変える為に取り出したのなら効果は、そして副作用は激烈だろう。
相手が敵である事すら忘れてヒビキが放った制止を振り切り、針が少女の肌に食い込む。薬液は即座に体内へ入り込み、血流に乗って全身を巡る。
完全に行き渡った時、デイジーが二つに裂けた。
「なっ……!」
嫌悪と怖気を喚び起こす、毒々しい桃色の液体が撒き散らされ、目前の光景に絶句するヒビキはマトモに浴びた。
液体を乱雑に拭い取る、僅かな時間にも延々と繰り返された分裂による増殖と並行し、本来の彼女と同程度まで肥大化した肉塊は、彼の視界を埋め尽くすまでに達した。
『
何を使ったか定かでなくとも、明らかに非合法な代物か、デイジーの肉体が過剰反応を起こしている。有り得ない、あってはならない光景への思考が許されたのは、ここまでだった。
飛散した液体と同色の、不気味な肉人形が揃って蠢き剣を形成。無数の切っ先が向けられる光景を、歴史書に記された異教徒の処刑と重ね合わせてしまい、背に氷塊が滑り落ちたヒビキへ肉人形が襲い掛かる。
個々が独立し、不規則に放たれる重い攻撃を、全ては捌けない。旋回斬撃で押し寄せて来た数体を斬り飛ばすが、死角からの刺突に太腿を穿たれる。
激痛で動きが止まった所で、別個体が振り下ろした剣が生身の腕と足を襲う。異常に重い剣に依る打撃の雨に、左腕が異音を発して砕ける。足に鞭を入れて逃げを打ち、スピカを拾い上げたヒビキの歯が、勝手に異音を奏で始める。
辛くも見出した九刀流の突破法も、敗北と死を天秤に掛けた末の賭け。気安く何度も仕掛けられる類ではない。
「他に手がない」とは虚飾無き真実で、先の一撃で決着を付ける目論見が外れたのは重い。ここで正体不明の奥の手を出されると、流れは一気に傾く。
――やるしかない。無いんだが……。
正気の向こう側を踏み越えた哄笑に思考を中断。際限なく湧き上がる恐怖を捻じ伏せ、殺到する肉人形を睨む。
敵が始動を認識した時、間合いに飛び込んでスピカを振るう。光流を纏った蒼刃は十数体の人形を両断。撒き散らされる粘液を裂いて地面に突き立つと同時、亀裂から迸った水流が人形を押し流す。
視界が開けるなり、破砕音を背景に難を逃れた個体が急接近。本体の膂力を考慮すると、この状況で力比べは分が悪い。即断から低い斬撃に繋ぐが、蒼刃に手応えは皆無。
「なん――」
必中の攻撃が躱された現実に面食らい、四方八方から殺到する剣に目を剥く。逃げ場は無いが、呑気に絶望していては殺されて終わりだ。
半ば自棄気味に右腕の出力を増大。接合部と関節に走る暴力的な熱と痛みを無視してスピカを投擲。大気が爆発したような轟音を引き連れ、突進するスピカは目前の人形を貫通するが、その背後にいた人形に突き立ち停止。
激しく震えるスピカの柄を、桃色の粘液と己の血で汚したヒビキはしかと掴み、頽れる個体を蹴り付け上昇。追いすがる人形達をしかと見据え、スピカを鞘走らせる。
「邪魔だ! 『
抜き放たれたスピカが目前の敵を纏めて引き裂き、斬撃に追従して宙を駆けた光刃が実体なき個体をも強制退場させる。荒れ狂う蒼光は空中で跳ね回り、背後に迫っていた個体も蹂躙して観覧車に突き刺さる。
後退する一体の頭部が消し飛び、苦悶の声を発しながら溶けていく。本体が群れにいる証明を得たが、剣技の反動でその先を描けず終わる。
崩落していく観覧車が発する轟音に包まれながら、着地したヒビキは口内の血を吐き捨てる。
『
直撃すれば倒せただろうが、肌を突く殺意は敵の健在を示し、瓦礫が散乱した一帯には隠れ場所が無数に存在している。
視界の端で蠢動。反射的に短剣を投擲。地面に落ちる虚しい音が空振りを示した時、周囲の瓦礫が一斉に弾け飛ぶ。
砂糖菓子の如く甘ったるいが、殺意に基づいて発せられる声が遊園地を包む。消滅させた肉人形が再生を果たし、吐き気を催す有機的な挙動で剣を掲げる光景に、ヒビキの喉から呻き。
解放状態での戦闘が長引き、体内で激痛が間断なく生じている。痛みは耐えられるが、時間切れまで行けば死ぬ。醜悪な人形は九刀流状態のデイジーより強く、未解放で勝てる相手ではない。
本体のデイジーを叩かねば結末は確定し、このままでは辿り着いてしまう。
極大の焦燥に包まれたヒビキを嘲笑い、人形達が始動。挟み撃ちの形で飛んできた剣をスピカで逸らし、右掌から『
咄嗟に左足で受け、体が宙を浮いたヒビキへ刺突が降り注ぐ。立て直せないと判断して跳躍からの旋回斬撃に繋げるが、蒼の軌跡はあまりに遅い。ただの悪足掻きに等しい行動は、何の意味も持たなかった。
鋼を搔く不快な音を引き連れ、地面を転がった果てにヒビキはプールに墜ち、敷かれたレールに激突してようやく止まった。
転がる過程でも斬撃を受けた上、戦闘続行に必要な部分以外の再生を捨てた為に出血が止まらず、折れた骨が肺に刺さり呼吸が詰まる。
赤く染まっていく水に顔を歪め、激しく喘ぎ、激痛に圧し負け無様に転倒。水浸しになりながらも立ち上がったヒビキは、予想外の物を聞いた。
園内に響き続けていた哄笑の隙間。確かにデイジーの声がする。
耳朶を叩くのは、圧倒的優勢からは考えられない筈の苦しみに満ちた声。時折激しく咳き込み、ネバついた呼吸も混じるそれは、発動者の状況を克明に伝えていた。
人体を捻じ曲げ、再生や消滅すら自由自在の奇術を引き起こす薬物は言うまでもなく危険。端から限界を超えて駆動していたであろう、デイジーもまた自壊のリスクを抱えていたのだ。
声を無視して肉塊が蠢動を続けている点から、下手をすれば解除が自分の意思では不可能。推測が的中していた場合、決着が付いても彼女は元の姿には戻れない。
未来に対する問答は、すぐに終わった。
――本体に当てないと無意味だ。で、俺は一応その手段は持ってる。チャンスは一回だが、正直怖いな。
真の意味での全力攻撃はリターン以上にリスクが大きい上、本物のデイジーを見つけ出す過程が必要な今は封印せざるを得ない。
次善策に必要な過程と、その為に編み出した剣技は体に叩き込んでいるが、実戦初投入となれば失敗の可能性がある。
失敗すれば無論死ぬが、現状維持でもそれは同じ。
デイジーの抱えた闇が重いのは、剣を交えて感じ取っている。だが、彼女に感情移入して立ち止まって得られるのは敗北と死だ。
「美しい敗者」の冠が仮に存在していても、報酬は当人の死後に支払われる。
その中身も後世の教科書辺りに載せられ、おざなりな解説文を戴くのが精々。そんな物を受け取っても何の意味もない。
求めるのは勝利。実現に必要な物は、危険な賭けを打つ覚悟と実現させる力量。
全てを掬い取れないのは分かっている。ならば、己の掲げた物を手にする為の足掻きだけでも貫徹させるのが、舞台に登った者の義務だ。
――なら、やろうか。
にじり寄る肉人形の群れを一瞥した後、両腕をだらりと垂らして瞑目する。
色を失った世界で、不可視の希望を探る。狂ったように主張していた痛みや怯懦が息を潜め、訪れた静寂の世界でヒビキは力を整える。
不要な部位への流入を止め、必要な部位へ集中させる。変化に伴う恐れは最早なく、不思議な程に心は整っていた。
スピカを砲台に変形。火力が劣る形態への切り替えに惑う敵を他所にヒビキは飛ぶ。コンクリの地面に爆撃痕を刻んだ跳躍は、限界を迎えて重い体を高空へ導く。
敵の全貌を見渡せる位置に到達し、スピカの砲身が激しく回転を始めた時、ヒビキの眼が再び開かれる。
両の目に蒼光を灯した少年は、魂の静寂を切り裂いて終幕を告げた。
「『
撃ち出された無数の水槍が、音の壁を打破して人形に対峙する。
回避行動への移行すら許されず、人形は穿たれた瞬間に例外なく凍結。
不可視速度の水槍は過冷却状態に在る。僅かな接触で人形が凍結に至るのは必然だが、実態を持たぬ物まで同じ道を辿るのは『魔血人形』の持つ特性に起因する。
大気中の素粒を変換して魔力を生成し、体内の魔力回路で魔術の形に変える。
『魔血人形』の機能は、この道理を捻じ曲げて力を対象に供給する。この特性を現象にまで適用すれば、魔力で形成されている存在は実体の有無を問わず効果が及ぶ。
過冷却状態の水槍の形を与えているが、実態は魔力の破壊。デイジーの仕掛けも世界の道理に縛られた物である以上、たった今遊園地で起こっている光景は必然なのだ。
凍結と退場が繰り返される中で、一体の人形に水槍が突き刺さる、瞬時に凍結するが、他の個体と異なり落下や消滅に至らず空中に留まる。複数の槍の追撃を受けても尚踏み留まった個体に、蒼く染まったヒビキの眼が固定。
ヒトの魔力流、いや世界の事象をも見通す眼が肉の内部を透過。他の個体のような虚無ではなく驚愕に目を見開いたデイジーを視認したヒビキは、彼女の魔力が収束する地点を捉える。
――右肩の付け根。……そこがお前の根源かッ!
スピカを刀に回帰させ、不可視の足場を蹴って始動。
義眼から火花が散り、全身が沸騰する加速で亜光速に到達したヒビキは、異常な遅くなった世界で蒼刀を構え、デイジーに接近を果たす。
驚愕で真円を描いた少女の瞳に、果たしてどのように映っているのか。
答え合わせが永劫に来ない問いを他所に、右肩へスピカが食らい付く。
全ての抵抗を無効化した蒼刃がデイジーの右肩と、彼女の体内を巡っていた歪な力を消滅させる。奔った斬撃の余波は周囲の人形や遊園地の瓦礫までも切り刻み、空に満ちていた雲を吹き払い、ようやっと消滅する。
まさに一撃必殺。
圧倒的な蹂躙を世界に刻み、ヒビキは
◆
「まだだろ!? お前らの魂は、戦う意味は、こんなつまんねェモンじゃねェよなァ!」
新しい遊びに興奮する幼子の声に乗せて振るわれる、巨大な水刃を受ける度ゆかり達の体が激しく揺れる。
刀剣同然の切れ味を持ちながらも、拳打同様の滑らかな挙動で迫る刃は未知の代物。最善の対処法を掴めていない状態で、接触の回避を強いられる戦闘で生じる負荷は桁違い。
水中戦の疲労が上乗せされた状態では、特異な戦闘様式を持つエデスタの脅威は何倍にも膨れ上がっているのだ。
年齢を鑑みれば驚異的な速度で、ジャックが長剣を振りかぶる。膨張した両腕による振り下ろしは、エデスタの右手で軽く払われる。
懐に潜り込んだゆかりも紅華を放つが、左手で阻止された挙句、地面に叩きつけられた。
床材の灰色で視界が染まる。砕けた歯と血を吐き出し、無様に転がるゆかりへブーツの底が落ちてくる。直撃すれば顔が半分になる一撃を辛くも躱すと同時。
「つまんねェなぁ!『
「躱すんだ!」
レウカソーが啼き、無数の水刃が顕現。水飛沫と床や壁を掘削する異音と共に進撃する円形の水刃は、回避を選んだ二人を執拗に追跡。
振りきれないと判断したゆかりは相殺狙いの『
視力に頼らない戦闘様式を確立した男が、ここで止まる筈が無い。
敵が前進してくると踏んで、ゆかりは一度目を閉じる。自身の呼吸や拍動の音。大気の動きを掻き分けて届く、地面を踏みしめる僅かな音。徐々に接近してくるそれに向け紅華を掲げ、首を狙っていたレウカソーの軌道を逸らす。
笑声と共に旋った水刃を払い除け、胸部へ血刃を撃発。対するエデスタは紅華を踏みつけ跳躍。空しく床を爆散、炎上させたゆかりに視線を固定して拳に水を纏う。
長方形の頂点に設けられた噴気孔。下顎にのみ並ぶ牙が見えた段階で見知った魔術が、未知の形で来ると理解に至るが遅い。
「死ねや」
「行かせるか!」
打ち下ろされた拳は、白銀の盾に食い止められていた。洪水を圧縮したかのような激流は、精緻な装飾が施された盾に吸収されて失われる。何かを察したようにエデスタが腕を交差させた瞬間、暴騰する白銀の光が彼を飲み込む。
新たな傷を刻んだ白の波濤はやがて止み、束の間の静寂が訪れる。ケリを付けに来た仕掛けを吸収・反射した大盾は、滝のような汗が流れる腕をジャックが降ろすなり、光の粒子と化して消えた。
「『
「勝敗こそ付かなかったが、ジルヴァと一度戦った時にな」
静かな声には、強い疲労と焦燥が滲む。
伝説の武具は再構築したデッキの中でも大札。ここまで温存していたのは消耗の大きさと、扱いの困難さに起因しているのは疑いようがなく、幕引きの為に温存していた筈だ。
敵が健在のタイミングでの使用は想定外で、恐らく敵が死んでいない事実もまた然り。
文字通り持ち札が尽きかけている上、ジャックの体力も限界が近い。一人でエデスタと交戦して勝利を捥ぎ取れる筈も無く、現状は限りなく詰みに近い均衡状態と言える。
「打ち合わせた技は、まだ使う余力があります」
「だが、使った先は恐らくないな」
大量の業物を使い捨て、時にゆかりを守るべく無理やり魔術の増幅を行う。かなり乱暴な運用しながらの近接戦闘は、想像を絶する消耗を強いる。ジャックが戦闘不能に陥る未来は一寸先にも垣間見えており、そうなれば敗北が確定する。
ここに来てようやく、二人は敵の真価を理解した。
低位魔術も含めて、エデスタが水属性以外の術技を使用記録は皆無。本来なら弱点と成り得る特徴故、実質的な弟弟子のヒビキではなくジャックを核に据える事で一致した。
結論を下す為に彼女達は記録と定石を材料に使った。
翻ってエデスタには型が存在しない。『
多少耐久力に自信がある敵は、レウカソーの特性や『
ふざけきった容貌や言動とかけ離れた、堅実な戦闘様式は完成度が非常に高い。時間の枷を嵌められている上、ヒビキのように鬼札を持たないゆかり達は、最悪の相性なのだ。
死ぬ為の道筋を組み立てていた愚かさと、相性面の不利。怒涛の如く押し寄せる負の事象に苛まれながら、エデスタが吹き飛んだ方向を睨む。
濛々と立ち込める白煙の中に、猛烈な生の息吹を感じる。無言のままシャッフルが行われたアビートンの山札も、開戦時の四分の一程度まで減少した。『白夜ノ盾』による反射すら耐えた男への対抗策は残りわずかで、それすらも届くか分からない。
――元の世界のゲームとかなら、もう少し楽になるんだろうけどね。
多少強くなって世界が広がっても、その先を求めるなら更なる強者との戦いを強いられる。嫌な真理に直面したゆかりは自嘲気味に笑う。
水中戦の消耗は予想の上を行き、倦怠感が全身を包む。術技の乱発による負荷で思考が霞み、負傷した部位は治療後も悲鳴を上げ続けている。
満身創痍の単語すら生温い状態だが、勝利への渇望は残っている。それこそが己に正気が残されている証と、無理な思考で迷いを払う。
機先を制すべく前に出た刹那、白煙が突如霧散。晴れ渡った視界に映る光景にゆかりは息を呑む。
「使うたぁ思わなかったぜェ。けどよぉ、コイツでオメーらは終いだッ!」
「ユカリ君、下がるんだッ!」
空中から降り注ぐエデスタの声は、巨大な鮫の口腔から発せられていた。
蒼の陽炎を纏っているが、灰と白で構成された流線形の巨躯と、鮫の弱点である腹部に骨の装甲が施された姿は『エトランゼ』一柱、メガセラウスと同一の特徴。
『縛鎖獅魂憑化』と同系列の肉体に作用する魔術だろう。だが、伝承の怪物を再現してみせた以上、危険度は段違いの筈。委細問わず動いたゆかりの足を、放射された水の奔流が絡め取る。
悪足掻きすら出来ずに波に囚われ、実質的に退場を強いられた少女に目を向ける余裕は最早ない。アビートンに残された十枚の内、八枚を切ったジャックの周囲に砲門が顕現。
臆さず突進する大鮫に、艦砲に匹敵する巨大兵器が照準を固定。厖大な汗を流しながら、ジャックは宣告する。
「退場の時間だ。借りるぞクレイ。『
右手が降ろされ、無数の雷鳴が地下空間に生まれた。
軋り、高速で回転する大砲から放たれる雷は狙い過たず頭頂部に殺到。水の装甲を穿ち、その下にある大鮫が赤と白の飛沫を散らす様は、エデスタにダメージが届いている証左。
消耗の過大さから連射出来ない『
「オメーマジで……七十三のジジイかよ」
「お前を殺す為なら、どれだけでも絞り出す」
曇りなき殺意を表出させたジャックの口の端から、血の筋が刻まれる。
消耗状態での超高位魔術発動は、鞭を通り越して爆撃を叩きつけるような暴挙。
腕から血が飛沫く。苦痛の皺が顔を奔り、全身から蒸気が立ち昇る。殺しきれなかった先が明白故、ジャックは魔術発動を止めない。
壁や床、そして天井に亀裂が刻まれ、難を逃れていた機器が異音と共に砕ける。地下空間そのものを破壊しにかかる雷の暴虐は、唐突に止んだ。
何の前触れもなく、仕込み杖が横に振られる。
疲労と年齢を鑑みれば驚愕すべき速度の斬撃に、甲高い金属音が散り、ジャックの右腕が仕込み杖ごと宙を舞う。
「何故、お前はそこにいる……?」
右腕が泣き別れた危機的事態すら些事なのか。信じ難い現実に思わず問うたジャックの体が、『
「オメーは正義の味方なんてガラじゃねーわ。どっちかっつーと殺人鬼だろ」
右腕一本では再生に足りないのか、今にも倒れそうな程に揺らぎながらも己の足で立つ男は、レウカソーを掲げながら言葉を絞り出す。
「相性で有利なガールはともかく、オメーならアレを破る力がある。途中でハリボテに変えて潜航ってのは賭けだが、十分やる価値はあんだよ」
「失敗の目が高くとも、か」
「軍人ならそうだろうな。だから、こうして俺は勝つんだけどな」
堅実に勝利を掴む軍人と、看板と生存が全ての犯罪者では思考回路が異なる。そこに勝機は確かにあるのだが、正しい理論に基づいて鍛える軍人を野良の戦士が破る例は少数。故に覆す存在は特異点なのだ。
勝利への渇望が上回ったからこそ、勝者の椅子を奪い取った。単なる事実故、戯けた仮面を外したエデスタの冷徹な宣告を、ジャックは黙したまま聞いていた。
投げたとするには目に活力が宿っている。大逆転の手を持つには動きが無さ過ぎる。実に中途半端な姿に疑問を抱いたエデスタは、答え合わせが成される前に殺害せんとレウカソーを振り下ろす。
「グッバイ」
別れの挨拶と共に踏み込んだエデスタの足元で、不意に水が跳ねる。
転瞬、男の肉体が赤く染まった。
「なん、がああああああああああ!」
炎上したエデスタの絶叫が、不自然に途切れる。悠長に叫び続ければ体内も発火すると気付き、苦痛を強引に捻じ伏せた男は、ジャックから距離を取って視線を巡らせ、自身を染め上げる物を纏った影を目撃する。
炎に包まれたままエデスタが跳ね、疾走を開始。踏み込むごとに新たな火種が生まれ、加速度的に火勢が強まる状況の男を、退場した筈の大嶺ゆかりが静かに見つめていた。
紅華から紡がれた『
有機物との接触で即座に爆発し、肉体器官に腐食作用を齎す焼夷剤に依る炎上は、単なる水属性魔術では消火困難。『焦延留炎』と異なり気体を射出する特性上、予め読んでいなければ対応不可能。
発動範囲の異常な狭さと過大な消耗で使用者が少なく、対策どころか実戦投入を想定しない。故に直撃を許したエデスタのリカバリーは速く、発動者を叩き潰すべく動いた。
炭化した肉体の欠片をばら撒き、レウカソーを駆動させて迫る男を、ゆかりは静かに見つめていた。
追い込んだが、ここで止めてしまえばまた戦いを強いられる。
成すべきは、ここで勝利を掴むことだ。
紅華を正眼に構え、エデスタの接近を待つ。水中戦から高位魔術発動に至るまでの一連の流れで、ゆかりも激しく消耗している。ジャックが最後の二枚で紡いでいる『
敗北への恐怖を捻じ伏せ、紅の刀を引き絞る。
持ち主の狂乱を乗せたレウカソーと、静かに打ち出された紅華が交錯。涼やかな音を奏でて大気が引き裂かれる。
酷く乾いた音が、それに続いた。
「……ハハっ、いや、おめー。チンケな餓鬼だと思ってたが」
黒焦げになったエデスタの背から、紅華の切っ先が顔を覗かせていた。
最後の悪足掻きで心臓への直撃こそ免れたが、鎖骨を砕いた一撃は致命傷。もう何も出来ず、死を受容するだけとなった男は、それでも頬を上昇させる。
「なかなかアツくて、イカしてて、ロックじゃねェの。畜生、オレの……」
絶望的な状況でも虚勢を張り続けるエデスタが、不意に脱力。背から床に叩きつけられるが、何の反応も示さず床に転がる。
全身が炭化した男から生命の息吹は感じられず、再生の気配も無い。
つまり、決着はここで着いたのだ。
最後の最後まで、ふざけた姿勢を貫こうとした男の姿に複雑な思いを抱きながらも、ゆかりは紅華を納刀。成すべき事を成す為に、倒れ伏した男に背を向けて歩き出す。
◆
「勝っ……た」
半ば倒れ込むように着地したヒビキは、スピカを引き摺りながら前進する。
鈍痛が延々と巡って視界が霞み、義肢との接合部からは汚液と死を肯定する激痛が間断なく垂れ流される。『魔血人形』解放状態での長時間戦闘と、未完成の剣技使用の代償が想像の遥か上を行く現実の前には、勝利の喜びも薄くなる。
復旧が不可能なまでに破壊された遊園地をノロノロと歩み、ゆかりがいる場所へ向かう。その途中で、倒れ伏したデイジーとの対面をヒビキは否応なしに強いられる。
左眼が見抜いた通り、力の根源が存在していた右肩の破壊で、少女は戦闘能力を失った。戦闘はおろか、適切な処置を受けなければ立ち上がれもしないだろう。
黙したまま彼女の傍らを通過した瞬間、右脚を痛みが襲う。
「……どこ、いくの」
左手に握られた短剣が、彼の足に突き立っていた。最後の力を振り絞った攻撃は痛みを齎すが、致命傷には程遠い。彼女を踏み潰す、無視して通り過ぎる選択も容易な代物だった。
にも関わらず、ヒビキは動けなかった。
手の持ち主、デイジー・グレインキーの憎悪と絶望が煮凝った貌に縛められたのだ。動けない彼を他所に、敗者の声が荒廃した場に響く。
「おまえが勝つなんて、わたしは許さない。わたしが勝つ、勝たなきゃいけないの」
「もうお前の勝ち目は無い。元々、殺すつもりもなかった。だから……」
拙いが道理と良心に基づく『説得』に、デイジーは阿呆のように硬直。桃色の瞳に毒が広がり、唇を震わせた少女は、短剣を更に深く捻じ込んだ。
「――っ!」
「わたしに、わたしに次なんかないの!」
絶望に満ちた叫びは、ヒビキから抗弁する力を奪い去った。
「チビだから馬鹿だから、あいそがないから何にも出来ないから。わたしの価値なんか何処にもなかった! パパはわたしを出来損ないって、お姉ちゃん達はわたしなんかいないって言った! 不愉快だからしゃべるなって殴られて、お誕生日の為に作ったプレゼントも、時間の無駄だってこわされた! そんなの、おまえは持ってないでしょう!
かぞくからもいらないって言われた出来損ないに、学校で居場所があるはずもなかった。不細工だからって犬のクソを塗られたり、教科書全部捨てられたり、溝に沈められて石を投げられた経験も、おまえは持ってない! のうのうと幸せに生きて来たおまえに、わたしの気持ちなんてわからない!」
地獄の底すら生温い独白が、世界に響いていく。
「周りの人も、先生だってたすけてくれなかった! しょうがないもんね、わたしみたいな出来損ないを助けたって、なんにも価値がうまれない。ちゃんと価値のある子をささえる方が、皆にほめられるもんね! わたしなんて死んだ方が良かったなんて、そんなの知ってる! それが『正しい』答えだって、わたしが一番分かってる!
……それでも、それでもパパに認めてほしかった。作るんじゃなかったって、言って欲しくなかった。他の子みたいに、手を繋いでほしかったの!」
デイジーの声は、次第に涙混じりの曖昧な物に変わっていた。だが、そこに刻まれた喩えようのない激情が、彼女の抱く全てを克明に伝えていた。
「でも、そんなのどこにもなかった! パパは最後にわたしを粗大ゴミっていった! わたしのくびを絞めた。醜い? できなかった私が悪い? それも知ってる! だから、わたしは四天王であるしかなかった、初めての場所を、わたしは守りたかった。それをおまえが壊したんだ!」
足に短剣を突き立てられる痛みすら忘れ、ヒビキは叫びを受け止めるしか出来なかった。
デイジーの苦しみは泥濘の如く深く重いが、所詮無価値な者の喚きだ。
価値を持つ者の「価値ある」苦しみなら。例えば親しき者の死や病。芸術作品を生み出す過程での葛藤。強敵との戦いに於ける敗北なら他者は共感し、手を伸ばしてくれる。
だが、能力が足りないせいで世界と繋がれずに蹂躙され、必要とされなかったデイジーの苦しみなど、誰もが嘲笑する醜い代物だ。
唯一掴んでいた「強者」の看板も、敗北で無惨に砕け散った。敗北して価値を失った彼女を誰も救わない。寧ろ、世間は落ちた強者を好き放題に殴る『権利』に酔う筈で、現状より更に酷い仕打ちが待っている。
ここで帰還すれば、ありとあらゆる方向から彼女は攻撃を受ける。自我を確立した後の逃げ場無き攻撃は、アイデンティティを持つ者でも自死を選びかねない。
たった今の敗北で全てを失ったデイジーには、耐えられる筈もない。理解出来てしまったヒビキは、それでも彼女を救う手を持たなかった。
「……皆苦しいんだ。俺だって」
「おまえの言葉なんて聞きたくもない! おまえが持ってる苦しみなんて、全部価値があるじゃない! かわってみる? みんな苦しいって言うなら、わたしっていうみんなが目を背ける粗大ゴミの苦しみと交換してよ! 踏み潰されたわたしのゆめも願いも、押し付けられた呪いもぜんぶ変えてみろよ!」
絞り出そうとした「常識的」で空虚な言葉は、デイジーの叫びに叩き潰された。
周囲から肯定されるようになったのは、強者の盤面に乗って勝利を積み重ねて来たからだと、ヒビキも自覚している。
朝から晩までマウンテンを駆けずり回り、搔き集めた廃材を買い叩かれた時。空腹で倒れそうだった時。予想外の生物と戦って死にかけた時。
時折都市部に出かけた時に、散々吐きかけられた侮蔑の言葉。誰も救ってくれなかった現実は、呪いのようにヒビキの魂に刻み込まれている。忌まわしい記憶を、彼女を救う為に引き摺り出す事など、出来やしなかった。
誰だって苦しく、救いが欲しい。
けれども、救われるのはいつだって価値ある苦しみで、価値のないそれは踏み潰されることが正しい形だ。
震える手でスピカを掲げ、泣き叫ぶデイジーの首に狙いを付ける。
最悪の選択であると百も承知だが、内側で完結してしいる彼女を救う術も持たない以上、対話を重ねる意味はもはや無い。
やり取りを続けた末にゆかり達が死ぬ本末転倒の決着や、今後の戦いに乱入されるリスクを無くすにはこれが最善手。
冷徹な思考が導き出した結論に従い、首を刎ねるべく構えたヒビキの本能は、彼女を殺すべきでないと訴えている。
相反する物で荒れ狂う感情を他所に、数多の闘争を超えて来た体は最善の形を滑らかに形作っていく。
後は、振り下ろせば首を飛ばせる。
「俺は……」
「もう、良いだろう」
呻きを零したヒビキは、唐突に届いた声に振り返り――
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