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エルーテ・ピルスを含むコーノス山脈付近の町、ザルバドから南下した地点にあるトーントーンの森に、巨大な湖が広がっていた。
小規模な村が三つほど入りそうな湖は、陽光を反射して宝石のような輝きを放っているが、ザルバドと同様に周辺環境の悪さから訪れる者は少ない。
何処かの富豪が遊技場の建設計画をぶち上げ、実際に建設着手までは辿り着いたが、生息する脅威を一個人が使えるツテで治める事は叶わず頓挫。それ以降は放置された場所に人影が一つ。
工事の足場と思しき、湖畔からせり出した金属の骨組みの上に、黒髪の異邦人ユカリが立っていた。緊張で引き締まった表情の彼女の手には、日頃用いる物より二回り大きい銃が握られていた。
グリップを握る手には汗が滲み、引き金に引っかけた指は微細な震動を見せている。かなりの長時間この姿勢を保持している様子の彼女の目に、不意に水面に波紋と黒い影が映り、水中から発せられる激しい音が耳を叩く。
波紋と影は急激に巨大化し、一・六メクトルのユカリよりも大きくなった頃、湖面が割れる。
白い飛沫を裂き、牙を持つ緑色の円柱が姿を現した。粘液を纏った円柱の先端に小さな目と湾曲が少ない歯の列、そして彩を加える異様に長く赤い舌の持ち主は、十メクトルを超える海蛇の変種体だった。
――場所を考えたら、淡水蛇って言った方が良いのかな?
緑色の長躯に刻まれた、無数の刀傷から絶えず血を垂れ流す大蛇を見て、場違いに過ぎる疑問を抱いたユカリを大蛇の真円の目がしかと捉え、本来なら感情が伺い難い爬虫類の目に、明確な殺意が宿る。
水滴を散らしながら口を開き、幾重にも重なった白の歯を露わに淡水蛇はユカリへ接近。使用可能な魔術が未だに少ない彼女が、マトモに歯を受ければ当然挽肉に転生する。
頬から一筋の汗を落としながら、ユカリは迷いなく引き金を引いた。
乾いた音を上げて銃口から蹴り出された弾丸が空気を裂いて直進。淡水蛇の回避を上回る速度で口内に潜り込み、そして爆ぜる。
数倍の大きさに一瞬膨れ上がった後、淡水蛇の頭部から右半分が消失し、長躯が暴れ回って湖面が荒れ狂って足場が揺れ、赤い物体とどす黒い液体がボトボトと落ちてくる。
それを浴びて身体を汚しながらも、ユカリは敵が生命と敵愾心を保っていると認識し、弾倉を叩き付けるように入れ替える。
体中を覆う粘液による防御を無視出来る箇所として、事前の打ち合わせ通り口内を攻撃したが、相手の生命力は一撃で沈まない程に強靭だった。
二発目を放つが、同じ轍は踏むまいと水中から跳ねて回避した淡水蛇は、単純な質量でユカリを圧殺せんと落下を開始。この場に留まっていては相手の目論見通りの事態に陥る。
即断したユカリは、湖に飛び込む決意を下して手摺に足をかける。その時だった。
「かかったな、馬鹿が」
若い声と共に、陽光を反射して輝く蒼が在った。
まさしく生物が疾駆するかの如き有機的な軌跡が、数秒で淡水蛇の長躯を駆け巡った。
軌跡が全て消えると同時に、淡水蛇の身体に描かれた斬線から黒の血が噴出し、結合を解かれたかのように、身体が細分化された肉の塊に姿を変わる。
足をかけた姿勢で硬直していたユカリの隣に、右腕が人工物で構成され、無数の斬り傷の痕が刻まれた華奢な上半身を晒した、黒髪の少年が降り立つ。水を滴らせた少年は、ユカリの方を黒の双眼で見つめ、そして軽く頭を下げる。
「悪い、水中で仕留められなかった」
「怪我もしなかったし、最後は倒してくれたから謝らなくていいよ。それに、私の方も一発で仕留められなかったからね……」
「蛇とやり合うのは初めてだったから仕方ない。……それに、このくらいの奴が体内にブチ込まれて死なないのは予想してなかった」
今回の旅を発案した『
「私も謝らないといけない事はあるから、ご飯を食べながら話そうか。……そのままだと、ヒビキ君も風邪を引いちゃうしね」
元々、淡水蛇は二人が狙っていた存在ではなかった。とある偶然の結果で捕捉され対峙する羽目になったのだが、陸上で戦っていては敵が増える事に繋がりかねず、相手の領域で戦う事を決めた。
ヒルベリアでは実践機会が無かった為にほぼ素人だが、ある程度養父から水中戦を仕込まれていたヒビキは、痛めつけて水中から引き摺り出すまでを引き受け、そして現れた敵をユカリが撃ち抜く。
こう組み立てていたので、上半身に纏っていた衣服を脱いだ状態でヒビキは戦いに挑んでいた。「どうせ長期戦は張れないなら、若干の防御は捨てても良い」と教わったそうだが、ユカリから見れば防御を完全に捨てる事は恐怖でしかない。
危険とも取れる選択を、それが最良なら選ぶ。
出会ってから今に至るまでの戦いを見てきたユカリは、ヒビキにそのような傾向が強いと薄々理解していた。だが、この旅の中で更にそれが強まっていることもまた、彼女は感じ取っていた。
確実に強くはなっているが、同時に危険も増し続けている。
別の世界から来た。だけの存在でしかない自分の為に、危険を冒させ続けていいのだろうか。そのような疑問と、それを振り切る実力を持たない自分への歯がゆさを抱いて、ユカリは野営場所に向かう。
簡素なテントと、焚火だけが置かれた簡易的な野営場所で二人は反省会と、この近辺で得た物についてのやり取りを交わすが、あまり成果が無かった為、中身もそれに則った物になり、表情もまた然りだった。
「この森に眠る宝物が云々ってのもハズレか。あの情報屋擬き、次会った時は……」
「他の情報は結構当たってたから、もしかしたらって思ったんだけどね……」
溜息を溢しながら、ユカリは手製の地図にバツ印を付けていく。彼女の手に握られた地図には、たった今刻んだ物と全く同じ印が、無数に刻まれていた。
この三か月と少しの間、二人はインファリス大陸の東に向かう形で旅を行っていた。目的は、ユカリが元の世界に戻る為の手段を見つける事。
人々の世間話から聞いた噂や、情報屋から購入した話で浮かんできた怪しい場所を、目的を達成する為に探索してきたが、結果は判を押したように空振りばかり。
多彩な敵と戦闘を行う機会が増加した為、経験を積んだ二人の技量が上昇する副産物はあるものの、本題が空振り続きではそれに対する喜びも薄い。
辛うじて可能性がありそうな物も幾つか回収し、それらの解析を行う為にヒルベリアに戻る。そう結論付けた二人は反省会を終えた後、どう動くかを検討し合い、そしてユカリがザルバドへ向かう事を提案した。
「ウラグブリッツを返したいんだ。沢山助けてもらったけれど、断りもなくずっと持ち続けるのもおかしいし、近くまできたからハルクさんやティナに、一度話しておきたいなって」
ユカリの左腰にかけられた、薄緑色の刀身を持つ剣『颶風剣ウラグブリッツ』についての事情を知っている。加えて、ザルバドに向かうならヒルベリアに近づくこととなり、余計な危険の増大も抑えられる為に、ヒビキもその意見に賛意を示した。
「命を救ってくれた恩人だし、俺も一度会っておきたかった。ザルバドに行こう」
「なら……っ」
「どうした!?」
「大丈夫。ちょっと髪が目に入っただけだよ」
よくよく考えると、出発前に整えてはいたが三か月以上も何もしていなければ、当然髪の毛は伸びる。後ろで縛っておこうとユカリがした時、ヒビキが思わぬ提案を投げてきた。
「短くして整えるぐらいなら出来るから、俺が切ろうか?」
「えっ?」
「……あーなんだ。別に上手くないし、そもそも俺が触るってのもアレだよな」
驚いていると、失言をしてしまったと判断したのか、少し申し訳なさそうに立ち上がったヒビキを、ユカリは慌てて呼び止める。
「嫌とかそういうのじゃなくってね。ヒビキ君がそんなことを言ってくれるのが凄く意外だなって思っただけだよ。……お願いしていいかな?」
「ノークレームで頼む」
自分で切るよりは間違いなく良い物になるだろうし、何よりヒビキの人間性を考えると変な事はしない筈だ。
そう考えた上で返答すると、ヒビキは苦笑しながら微妙な言葉を吐いて、旅の中で未使用だったハサミを取り出し、暫し沈黙した後ユカリの髪に当てる。
手探り状態で行うのだと勝手に思っていたのだが、ヒビキの技量はユカリの想像以上に高く、流れるような動きで髪の毛を切っていく。
元の世界で父親がぼやいていた、千円カットに行ったら髪型が悲惨な事になった。といった類の事態に陥る心配はなさそうだ。
とりとめもないことを考えていると、不意に背後から感じていたヒビキの集中が乱れ、何かが地面に落ちる音が耳に届く。恐らくハサミが落ちたのだろうと判断したユカリの首筋に、彼の指先がほんの僅かに触れた。
「――っ!」
それだけで、顔を見てもいないユカリにも伝わる程にヒビキは動揺し、両者の距離が一気に開く。流石に不審に思った彼女が振り返ると、そこには当然ながらヒビキがいる。
奇妙だとユカリが感じる程、顔を赤くして。
「ヒビキ君?」
「いや、その……何でもない! 何でもないぞ!」
どう見ても「何でもない」から遠い精神状態に見えるヒビキは、ハサミを拾い上げて『牽水球』の水で刃を洗浄。散髪を再開する。
深堀りの選択も脳を掠めたが、ヒビキに対して言えていない事がある自分が一方的に追及するのも良くないと思い直し、再びハサミが髪を切っていく音に身を委ねる。
落とす前と比して速度は落ちたものの、音は断続的に続き、やがてそれが止まると同時にヒビキの声が届く。
「出来たぞ。感想は……見てから言ってくれ」
言葉を受けてユカリは川に身を乗り出し、そして「あっ」と短い感嘆の叫びを上げる。
美容師が行うような特別な手法は用いられていないが、音だけでも伝わっていた丁寧な動作で、肩に届くか微妙な長さの、この世界に来た頃に極めて近い髪型となった自分が、水面に映り込んでいた。
「ヒビキ君、凄いね……!」
「喜んでくれるなら嬉しいけど、その長さで良かったか? もう少し短くも出来るけど」
「元の世界でも、このくらいの長さにしてる事が一番多かったから大丈夫! どうしてこんなに上手く切れるようになったの?」
「それはユカリが……」
「?」
「すまん、今のはナシで頼む。……ヒルベリアにも髪を整えられる奴は偶にいるけど、頼めば金を取られる。毎回頼んでたら生活がヤバくなるし、そもそも切りたい時にそういう奴らがずっといるかってなるとそうでもないだろ?」
「そう、だよね……」
「別に見せる奴もいないから、多少変になっても別に構いやしないし、俺の顔や髪型を気にする奴なんていないしな。失敗は成功の何とやらで、出来るようになった訳だ」
「何故技術を身に付けているのか?」の問いに対し、ズレた解釈に基づいて答えを返そうとしたヒビキだったが、無理矢理軌道を変えて説明を締め括る。
大方納得したように、彼の視点では伺えるユカリと共に野営場を片付け、荷を背負ってザルバドに向け出発する。
四か月近い旅路で、大量の血晶石や強大な生物と対峙する経験、そして人の痕跡が限りなく薄い場所に踏み込む経験を得たが、目的に近づけたかと問われれば答えは否。
以前試行し、そして失敗した方法を再試行出来るだけの材料が手に入れられた以外は、進展はないに等しい。時間を使えば使うほど、彼女の世界にいる両親や友人、そしてユカリ自身の精神的な消耗は長引く。
常に抱き続けるその焦りに加え、近頃のヒビキには「自分は何者か」といった疑問が立ち込め始めていた。
インファリス大陸へ帰還する船旅で、海に沈みかけていた、奇妙な形状の廃材から幻視した、謎の光景。失われやすい幼少時の記憶、という常識だけでは説明しきれない、完全に失われた肉体の再生が成される以前の記憶。
そして養父と彼に拾われた頃のヒビキ、両方を知る男ノーラン・レフラクタから告げられた「運命の外にいる」という言葉。
只の『塵喰い』だった筈少年には、誰も知らない何かがある。
達成すべき目的と、確信めいた予感に背を蹴られ、ヒビキの足は知らず知らず速まっていく。
「ヒビキ君、ちょっと速い、かな」
「あ、あぁ。悪かった」
背後から声をかけ、足を止めて振り返ったヒビキを見て、ユカリの顔に少しだけ影が差したが、彼には、そして表情を曇らせたユカリにも、その原因を掴む事が出来なかった。
◆
馬や高速移動を可能とする機械の類が道や資金の問題で使えず、徒歩で向かう事を決め、北上を続けていた二人はやがてザルバドに辿り着き、ユカリの記憶を頼りにハルク達の家に向かう。
そこで二人を待ち受けていたのは、無惨に炭化した家の骨組みと思しき物体だった。心地良さを感じさせる筈の森林を駆ける風も、亡骸と掛け合わせれば亡者の囁きに変わり、二人に薄ら寒さを与えていた。
ユカリが場所を間違えた可能性を、彼女の硬直した表情を見て打ち消したヒビキは、いつでも武器を抜けるように精神を整え、建物の亡骸に足を踏み入れた。
手早く検分していく内に、ヒビキはこの家の焼失が火災による物ではなく、ヒトの手で火を放って引き起こされた物と気付く。
――これだけ多く火を点けるのは、ここにあった物を完全に消滅させるつもりだったのか。けど、元四天王がいたってだけでここまでする意味はあるのか?
骨組みの炭化は嵐が来れば、砂塵と同様に吹き飛びかねない領域に達しており、居住者の遺物発見は絶望的。それほど徹底的に火を放った意味が、ヒビキには解せない。
彼にとって最も近い四天王経験者、クレイトン・ヒンチクリフは一般人の手に届く資料から抹消されているが、そこまでだ。アークスに脱落者を追走して狩る意思はない。
では、一体何が。
疑問を抱きながら、ヒビキが『魔血人形』の力を感覚器官に発動させ、周囲を睥睨すると、彼の目に不可解な物が映る。
業火に晒され生気を失った土の大地に、複数の魔力で構成された七色の点描画が在った。無論、何らかの意図に基づいて描かれた物ではないと、点描画が形成している物が戦場で多数目撃可能な血溜まりという点で気付ける。
血溜まりは地面の至る所に付着しており、ハルクと魔力形成生物による激戦がここで展開された事を容易に推測させるが、ヒビキの脳には戦闘自体とはまた別の疑問が浮上していた。
この家の主、ハルク・ファルケリアは魔力を有しない。即ちこの血溜まりは彼以外の物。
相棒ルーゲルダは、クレイの家に転がっていた断片的な資料から判断するに、このような色を描けるような多彩な力を持っていない筈。
残るはハルクの妻たるアイネと娘のティナだが、彼女達もまた複数の魔力、しかも七種を同時に扱えるなど聞いた事がなかった。
そもそも、ヒトが持って生まれた物以外の魔力を扱う事は極めて難しい。
世界最強に手をかけたヴェネーノさえ、奪い取った武器を実力が遺憾なく発揮可能な本来の姿ではなく、自分の魔力で歪めて使用していた事実からも、それが伺える。
一種の魔力を扱うだけでも、外部からの移植となればヒビキや、ベイリスの部下ルーチェ・イャンノーネの様な、死と隣り合わせの特異な改造でようやく手に入れられるのだ。
常識やヒトの限界を嘲笑う現実を提示する、異常な敵は一体何者なのか。
無意識の内に緊張の糸を張り、右腰のスピカに手を掛けていた彼の耳に、草むらの揺らぎ。
ハルクを死に至らしめた化け物がいる可能性に突き動かされ、ヒビキはスピカを鞘走らせた。
「――シッ!」
噛み締めた歯の間から漏れる音を掻き消す暴風を引き連れ、蒼の閃光がスピカから放たれる。
焦げた地面を抉り、即席の川を生み出しながら音の発信源に突進する剣閃は、やがてヒト族二人分の太さを持つ大木に激突。歳月を積み重ね、並みの金属を凌駕する頑強さを誇っていたそれを砕き斬って蒼は消えた。
「両手を上げて出てこい。次は当てるぞ」
大木の崩壊で生じた震動や破砕音の中で、やけに鮮明に響いたヒビキの簡潔な意思表明を受け、草むらが音を立てて揺れ、そこから金色のボロ雑巾が力なく転がり出てきた。
「……!」
現れた少女の身体や顔に傷は一切見えない。まるで戦闘に相応しくない白のワンピースも、新品同然の状態だ。
だからこそ、最初ボロ雑巾と錯覚するまでに、少女の蒼眼が虚ろで足取りは危うく、全身から生気が失せている事実に驚きと疑問が隠せないヒビキを他所に、ユカリが駆け出していた。
「ルルさん!?」
「……?」
遅々とした動きで首を傾げた、ユカリがルルと呼んだ少女は、自身に駆け寄ってくる存在を捉えて瞳を揺らし、相手がユカリだと認識するなり、消えていた感情を爆発させた。
「ユカリさん……うわあああああああああぁっ!」
「ルルさん! 一体何が……」
「ティナちゃんが、ティナちゃんが私を……」
後は言葉の形を成していない嗚咽を吐き出し、ルルと呼ばれた少女はユカリの胸に顔を押し付けて泣き続ける。
ティナという単語と、ユカリがルルと呼んだ事実から、この少女がハルクの相棒ルーゲルダ・ファルケリアとヒビキは理解し、そして彼女がたった一人で彷徨していた事実と掛け合わせ、背筋に冷水を流し込まれたような感覚を抱く。
――最悪の予想が、どうにも当たったっぽいな。どうす……!
不安に連動して揺れた目が、ユカリの首元のネックレスに紅い光が宿る光景を捉え、ヒビキの感情が大きく負の方向へ跳ねる。
あのネックレスが光る時、必ず大きな出来事が発生している。そして、それはユカリと出会ったという一点を除けば、彼に災いしか齎していない。
ルルの哭き声を聴きながら、この先に起こるであろう何かへの恐れを抱いて、ヒビキはスピカの柄を固く握り締めた。
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