15:勝利の先にあるもの

 白銀龍との戦いから、早く一か月弱の時が流れた。

 人類の救世主。そんな形容が為される存在の一部となったゆかりは喪服に身を包み、胡乱な目で泣き続ける空を仰ぎ見る。

 アークス王国首都ハレイド郊外に位置するフェナウス墓地には、多種多様な人々が集っていた。

 勝利を喧伝する華々しい式典ではなく、形式的かつ宗教的信条を無視してでも全員を平等に弔う儀式が先に執り行われたのは、詰め腹を切る役目のルチアの働きが大きいのだろう。

 関係者以外立ち入り禁止とされた墓地の周囲には、コメントや映像を得ようと報道機関が。そして刺激的な何かを求める私人が集っている。勝利によって生存が確定した今、事態に無関係な人々にとって、戦いに纏わる事象は単なる娯楽に過ぎず、そこに死者への敬意は見えない。

 万単位の死者が出て、生存者の何割かは精神に深い傷を負って社会復帰の可否が問われる状況は、まるで良いとは言えない。にも関わらず、娯楽として消費する人々の無神経さにゆかりは苛立ちを覚える。

 同時に、無関係な事象に過去どのように接していたかを思い出し、彼等を賢しらに断罪出来ないと己に嫌悪感を抱く。

「待たせたね、入ろうか」

 ゆかり同様、喪服に身を包んだフリーダの言葉に小さく首肯を返す。

 共に参戦した二人の友人は、この場にいない。

 ライラは参列を拒み、ヒビキは白銀龍の攻撃で損傷した義肢を修復すべく、帰還してからファビアの元で治療を受けている。亀裂が生じ、未だ埋められていない二人がいない事実に不安と、そして僅かばかりの安堵を抱きながら歩き出した二人の前に、通信機器が不躾に突きつけられた。

「君達も迎撃戦に参加したんでしょ? 話聞かせてくれない?」

 報道許可の腕章がなく、ラフに過ぎる服装から承認欲求を求める私人と思しき青年の傍らを、ゆかり達は無言のまま抜ける。

 無関係な第三者に語る意味を見出せず、何よりあの戦いは軽く語って良いものではない。

 沈黙に徹するゆかりの姿を、恐らく自分を無視したと捉えたのだろう、青年は表情を歪めて彼女の腕を掴む。

「なんかあったでしょ? これだけ死なせた無能な指揮官だから、君も嫌な目に遭った筈だろ。無理やり巻き込まれた民間人なんだし、遠慮なく話せよ」

「あなた――」

「話なら、お前達が好きな負け犬の俺がしてやろう。面白おかしく編集すれば、お前はもっと承認されるだろうな」

 ルチアや、彼女の元で死力を尽くした者を、軽々に無能と揶揄され暴発しかけたゆかりの目に、半透明の流麗な切っ先が映る。

 硬直する若者の背後に立つのは、鋼の髪に深海の瞳を持った男だった。美しいが生気に欠ける顔立ちと、戦闘服に夥しい勲章を身に付けた悪趣味極まる装いの男は、片刃剣の切っ先を向けたまま淡々と告げる。

「但し条件がある。お前が俺を倒せたらの話だ。お前とお前の信奉者が大好きな、負け犬を合法的に痛めつけることが出来る、ビッグチャンスじゃないか?」

 表情を一切変えずに問うた男は、助けられている側のゆかり達も恐怖を覚える程の殺気を放っていた。冗句の類ではなく、本気で殺し合いをする意思を示す姿は、端的に言って異常者のそれでしかない。

 集っていた者達が、蜘蛛の子を散らすように去っていく。その様を振り向きもせずに進む青年が、小さく指を打ち鳴らす。

「彼女達を撮影する権利を、お前は持たないな」

「ひっ!」

 気の抜ける音を奏でて、不躾な青年の持っていた通信機が爆発した。

 奇術染みた行為に腰を抜かしながら、全員が完全に消え去った頃。男は二人の肩を叩いて脇を擦り抜ける。

 急展開に追いつけず、呆けたように立ち尽くしていたゆかりは、そこでようやく我に返って頭を下げた。

「あの、ありがとうございました。……カル・サージェントさん」

「覚えていてくれたのか」

「勿論。あの、レミーさんは……」

 賑やかだが、どこかそれを演じているように映る青年レミーは、役割を放棄する人間とは思えない。最年長ながら、一段落ちる立ち位置のカルが出てくるのは不自然に映る。

 皆まで言わなかったが、疑問は伝わったのか。無機質な貌の男は目を細めて問いに応じる。

「エミリア……いや、隊長は先に帰国した。ジェイクの埋葬を優先したいと希望し、社長から許可も下りたからな。この手の儀式に俺は慣れている、だから代役として来たんだ」

 服装規定を全力で無視した装い故、説得力に多少欠けるが、国が絡む式典に営利企業が不適切な人物を派遣するとは思えない。

 思考をそこで止め、カルの後ろに続いたゆかり達は、何故か会場の裏手に辿り着く。時間はまだあるが、人気のない場所に態々向かう選択に首を捻る二人を他所に、奇行の目立つ男は騒々しいパッケージから煙草を取り出して火を灯す。

「隊長からアフターケアを指示されてな。残り二人も対象だったんだが、仕方ない。さて、正義の味方になった気分はどうだい?」

 急所を突かれ、息が詰まる。

 横槍を入れられる直前まで抱いていたが誰にも、隣に立つフリーダにさえ伏せていた物へ切り込んでくるのは、経験の深さによるものだろう。

 引き摺り出されたなら、殊更に隠す必要もない。それに、経験者なら何かしらの答えを得られるかもしれない。

「あれだけ人が死んでも、世間が単純な視点であれるのか分からないのです。ちゃんと状況を、そしてエトランゼが相手であることを見ていれば、単純な批評など出来る筈がないでしょう」

「どれだけ賢しらに振る舞おうが、大衆は思考停止して多数派に立つ事を欲する。エトランゼが退いた今は、勝利した事実に陶酔しながら、戦死者を大量に出した指導者側を罵倒することが、大衆にとっての正義というだけだ。兵の苦しみや死、そこに乗った想いは、どこにも存在しないよ」

「そんなことを、正義とは言えません」

「さてね。民族浄化で数十万人を虐殺しても、それを正義と称揚する時もある。体制が変わり正義が変化した時、大衆は極悪非道の振る舞いと非難したけれどね。

 その時々に応じた都合の良い正義を求める。ヒトの営みはその繰り返しだ。ここで君が直面している事象も、ありきたりなものに過ぎない」


 強い後悔と困惑の滲む言葉を吐いた、カルの眼は酷く遠いところを見ていた。


 比喩ではなく、彼の実体験に基づいていると思しき概念は、あまりに非情な代物。

 命を賭して戦った報酬が娯楽のダシにされることなど、ここまでの戦いではなかった上、想像もしていなかった。

 強い失望が巡るゆかりを、静かに見つめる男は二本目の煙草に火を点け、溜息に載せて吐き出した紫煙を目で追いながら言葉を継いでいく。

「事象の全てを紐解いて考え始めると、動けなくなる。だから思考停止もするし、当事者でない事象には酷く冷淡になれる。皆やっていて、何ら非難される事でもない。君が理不尽に抱いている人々の認識も、その延長線上にある」

 思い当たる節は、過去の人生に於いて無数に転がっていた。

 軽蔑すべき振る舞いを、自分もしていた事に気付かされたゆかりは唇を噛み、フリーダも思うところがあるのか、沈黙したまま目を伏せる。

 若さ故の高潔さと、既に社会への適応を始めたが故の割り切りが悪い方向に噛み合い、二人の間に酷く沈鬱な空気が漂う始める。その様を見かねたカルは、視線を暫し彷徨わせた後、幾分表情を和らげる。

「君がこの戦いへの捉え方を理不尽に思うなら……いや違う、生きていく中で正しさに迷うのなら。選択を時々自問すると良い。何度も問うていけば、異なる答えを出す時もあるだろう。そこで逃げなければいつか正解が見える、かもしれない」

「そこは弱腰なのですね」

「決して答えが出ない問いも、出した答えが間違っていたこともある。俺の選択も、間違っているのかもしれない。……人権や平等、自由に誰かを愛することといった、今はあって当然の物でさえ、嘗ては正しくない物だった。だからこそ、俺達は悩んで選び続ける以外に道はないんだ」


 カルの口から、もう一度吐き出された紫煙が無軌道な線を描き、空へ吸い込まれていく。


 世界を揺蕩う正しさの定義も、これと同等に頼りなく曖昧な代物なのだろうと、ゆかりは再認識させられる。

 此度の戦いのみならず、終着点に至るまでの道で何度も異なる「正しさ」と対峙する。言動から推測するに、ヒビキ・セラリフともそうなる筈だ。

 迷いを抱えている猶予はないが、その時々の決断はこれまで以上に重くなる。胸中で温めている論理では届かないのかもしれないが、迷っていられる時期はとっくに過ぎている。

 やるべきことは更に増えたが、身に余る願いを抱いたのなら、このくらいは代償として受け入れるべきだ。結論付けて黙礼したゆかりに、カルは薄い笑みを返して火を揉み消す。

「そろそろ入ろう。遅刻する訳にもいかない」

 背を向けた男に続く形で、ゆかり達は会場の入り口へと向かった。


                ◆


 同時刻、とある雑居ビルの一室。

 寝台の上で、ヒビキは俗に言う「正座」をさせられていた。

「貴様は人の話を聞かない阿呆か、聞く気のない愚図か。どちらのつもりだ?」

 外見は童女でも、中身は無数の修羅場を超えて来た傑物ファビアの問いに、ヒビキは無言で目を逸らすしか出来ない。

 沈黙を逃げと打ったのか、彼の頭を軽く叩いたファビアは溜息を吐いてメスを器械台に置き、小さな指を打ち鳴らす。

「代替臓器に幾つか亀裂が見える。伝手を当たったが、付け焼刃の延命策しか発見できなかった。新造には基盤となった者、即ちカルス・セラリフが生存している状態で魔力供給を行いながらの移植が必須だ。

 義眼や義肢を新造しようにも、もう一揃えしか材料の備蓄がない。今回生存出来たのは只の幸運に過ぎない。このまま行けば、辿り着くのは死だ」

 虚空に描き出された体内画像を指し示しながらの言葉は、ヒビキの痛いところを的確に突いていく。

 養父が既にこの世を去っている以上、致命的な破損を回避する必要があると理解していたが、臓器にまで損傷が及んでいることに気付いていなかった。

 一般的な義肢では軍用品を用いても出力に耐えられない上、既に十年以上が経過している現状の物を取り外した場合、何が起きるか分からないと以前ファビアから説明を受けている。

 無茶な戦いを続けて義肢を失った時、もしくは臓器に致命的な損傷を受けた時、己の身に何が起きるのか。無限大に膨らむ最悪の予想に身を震わせたヒビキを、静かに見つめるファビアは画像の展開を止める。

「対『エトランゼ』以上を想定する者は惑星に存在しない。カルス・セラリフとてそうだった筈だ。だが、貴様が望む領域への到達を目指すなら、どのような想定外をも覚悟しておくべきだろう。……そして」

 ともすれば無神経と捉えられる、直截な物言いを信条とするファビアが言い淀む。珍しい姿への何かしらの感情を喚起する余裕もなく、ヒビキは相手の言葉を待った。

 部屋の隅に置かれていた砂時計の砂が全て落ち、吸い殻の残り火が失せる程の沈黙。そして、ようやっとファビアが言葉を絞り出す。

「私が制止しようと、貴様は終わりなき戦いに身を投じ続けるのだろう。その精神を人は勇者と呼ぶのだろうが、私からすれば人から外れた怪物の精神だ。……完全に至れば、貴様の帰る場所が無くなるぞ。手を伸ばしてくれる者がいるのならば、それを払いのけることがないようにな」

「……覚えとくよ」

 胸中に鈍痛を齎す指摘に、ヒビキはおざなりな返事を飛ばして寝台を降り、診療所の扉を潜る。背に届く、ファビアの眼差しに痛みを覚えながらビルを出て、久方ぶりの陽光に目を眇めた。

 戦死者の追悼式典当日に退院が叶ったことは、偶然にしては出来過ぎているように思える。ライラと顔を合わせる事に抵抗はあるが、参戦した者の欠席は道理に悖ると考えたヒビキは、足早に路地を進む。

 ――この服で出るのは流石に不味い。……表通りに出れば何かあるよな、多分。

 未だハレイドに不慣れであるが故、安直な思考で路地を往く。時間を浪費していると式典に間に合わなくなるという焦りから、若干早足になったヒビキの目に、雑然とした風景が流れては消えて行く。

 需要の分からない広告。道路に転がるゴミ。そして、正面から歩んでくるフードを目深に被ったやや細身の人影。

 スピカを帯刀している都合上、接触を避ける為ヒビキは左へ大きく避ける。すると、人影は彼に追従するように動く。

 不審に思い向き直ろうとした瞬間、脇腹に衝撃。一歩遅れて場違いな熱が生まれた。

「……は?」

 間抜けな声が毀れ落ち、ヒビキの動きが一拍止まる。それを好機と見たか、トドメを刺すべく相手はもう一歩踏み込む。

 刃に意思が伝達される寸前、我に返ったヒビキは左手で凶器を抑え込み、相手の顔面に拳を撃ち込む。金属が砕ける感触が僅かに届き、吹き飛んだ人影はビルの壁に激突して呻く。

 右脇腹に伸ばした手は赤一色に塗れ、口内に血の味が広がる。

 軽んじられる傷ではないが、治癒能力を踏まえるとまだ動けると判じて顔を上げたヒビキは、仮面を砕かれた人影が立ち上がる様を目の当たりにする。

 露わになった、褐色の肌を持つ青年の顔は憤怒で歪み、本来の形から大きく乖離しているのは明らか。しかし、記憶の何処を探しても出て来ない顔であり、ヒビキの内心に怒りと同等の困惑が生じる。

「アンタ……一体、何者だ?」

「お前が無能だったから、姉さんは死んだ。お前にも責任を取ってもらう!」

 純粋な憎悪に満ちた咆哮は、意味不明な逆恨みのようにしか思えない。

 だが、『姉さん』の単語である事実が記憶を掠め、そこから芋づる式に思考が組み上げられていく。別の短剣を取り出し、構えた男を警戒しながらも、ヒビキは問うた。

「ダン・トーレスだな、エルケ・トーレスの弟……」

 問答無用で突き出された剣を手刀で落とし、相手の胸倉を掴む。強引に空中に吊り上げた勢いで地面に叩き付け、呻く青年の両腕を抑え込む。

 記録装置での情報と違わず、ダンは暴力とは縁遠い世界の住民。何故このような凶行に出て、自分を狙ったのか。混乱しながらも、ヒビキは制止を試みる。

「アンタの姉は俺と別部隊だった。あいつは俺なんざ歯牙にもかけていなかったし、俺は立場が低いから配置変更の具申なんか出来ない。残念に思うが、戦いでは起こり得ることだったんだ」

「そんなことはどうでもいい! 遺品を整理している時、お前が姉さんの仕事を邪魔した記録があった! だから、お前にも死んで貰うだけの話だ!」

 唯一の肉親を喪った者なら、その喪失に原因を求めるのは理解が出来る。過去にトラブルを起こした相手が同じ地にいたのなら、関連付けて考えるのもまた然り。

 全ての理解に至ったヒビキの内心が、急激に冷めていく。

 ここで何をすべきか。何を語ればダン・トーレスの心を折って、自身の前から排除出来るか。

 両腕を更に強く抑えて青年を黙らせ、結論に至ったヒビキは冷酷な思考に基づいた言葉を絞り出す。

「アンタのやっていることは、只の自己満足だ」

「理解していないと思っているのか? その程度は……」

「いいや違うね。俺を狙った事実が、本当の狙いが別にあるって証明してるんだよ」

「な……に……?」

「無念を晴らしたいなら、今日の式典に出てくるルチアを狙えばいい。もっと言うなら、この戦いを承認した議会の連中を皆殺しにすりゃ良かった。だが、アンタは過去の因縁を理由に俺を狙った、卑怯者に過ぎない」

 滑稽なまでに跳ねるが、目には強い殺意を滲ませる青年を見下ろしながら、ヒビキは更に言葉を絞り出す。

「何故俺を狙ったか、そりゃ単純だ。俺はヒルベリア出身で、面倒な後ろ盾もいない。殺しても後ろ指を差される可能性が低いのは確かだ。結局、アンタは自分が非難されることを恐れて弱い奴を狙った、姑息な輩なんだよ」

 己の卑劣さを糾弾され、男の横顔が悲嘆に塗れる。世間が嘲笑する惨めな姿を晒す男を見るヒビキの視界は、徐々に歪み始めていた。


 真っ向勝負を避け弱い部分を狙う。或いは、己の出来る形で一矢報いる。


 『弱者』が『強者』を相手取る際に多用される戦略であり、世界はそれを正しく美しい物と定義し、肯定と賛美の言葉を投げかける。スケールを縮小させずとも、先の大戦でアルベティートに人類が行ったことは、まさしくその集合体だ。

 戦いを正しい選択と位置付けた者が、ダンの選択を非難する道理がどこにあるのか。行為自体を糾弾出来たとしても、弱者の看板を掲げ、卑劣な手口を用いて強者に立ち向かった過去を持つ自分が、他者を糾弾する資格があるのか。

 硬直したヒビキを跳ね除け、ダンがもう一度切り込んでくるが素人の攻撃に過ぎない。機械的に捌いて、持ち主に呼応する形で流れた刃を右手で握り潰す。

 刃が砕ける乾いた音は、息を飲む音で搔き消される。

 暴力を生の基盤とするヒビキの姿は、正しい世界で生きるダンの目には理解不能の化け物に映る。憎悪と恐怖を天秤に掛けた青年は、何かを言おうとして、そして言えぬまま背を向けた。

 その様を見つめるヒビキを他所に、ダンは走り去っていく。完全に気配が消えた頃、壁に凭れ掛かる形でへたり込むヒビキの口から、空虚な笑声が零れ落ちる。

 追撃も通報もする気力が起こらない。一時の迷いに憑かれただけなら、彼はまだ常人の世界に戻れる。もう一度があれば殺さねばならないだろうが、恐らくそうならない確信はあった。

 だが、そんなことは些事に過ぎなかった。

「キツいな、やっぱ」

 完全な勝利など、世界に存在しない。何の犠牲も払わず勝てるのは物語の主人公か、そう思い込んで現実から目を逸らす異常者だけだ。故に人はリスクを最小化せんと試み、脱落者が出ても必要以上の責任追及を行わない。

 しかし『仕方のない犠牲』は、誰かにとって大切な人であり、無責任な外野が振りかざす数字では断じてない筈なのだ。

 社会を回す為に計量化され、切り捨てられた悲しみや苦しみの行き場はない。経済的な補償をどれだけ積み上げようと、それらが失われることがなく、時にはこうして勝ち残った人間に向けられる。

 フリーダやライラ。ゆかりやここまで同道した人々が当て嵌められた時、賢しらに「仕方がない」と言える筈もない。己の身勝手さを自覚し、相手の選択に多少なりとも共感を覚えたが故に、追撃を行わなかった。

 理性で割り切れても、勝利の報酬がこれでは虚しいと思ってしまう程度に、ヒビキはまだ真っ当な感性を残していた。


 傷口は塞がり、痛みはもう消えた。


 もうすぐ、立ち上がって式典に向かうのだろう。そして、この出来事も記憶から消える。エルケ・トーレスの死は、養父や親しき者のそれとでは、ヒビキの中で絶対に同等の物に成り得ない。

 計量化する世界を嫌悪しようと、割り切らねば生きていけない己の姿は酷く醜いのかもしれない。

 他者を蹂躙し、確かに存在した苦しみを忘却するのが人生で、人類社会の本質だ。

 そう結論付けてしまうなら、アルベティートの糾弾が正しかったと証明されかねないが、彼の者の論理を否定する強さをヒビキは持たない。

 それでも今、ヒビキ・セラリフには大切な人がいて、辿り着きたい場所がある。パスカ・バックホルツが示したように、どんな糾弾や憎しみも背負って、歩き続けるしかないのだ。 

「……行くか」

 完治した脇腹を軽く叩いて、ヒビキは再び歩き出す。

 そう遠くない場所に待つ最後の時まで、生きて勝ち続ける。

 改めて決意し、思考を純化させた彼の背を、心悲しい路地だけが静かに見つめていた。

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