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「ユカリちゃん、そのハンマー取ってくれないかな? そうそれ!」
「はい。ライラちゃん、これ何に使うの?」
「んー? このエンジンのオイルパンに穴空いてるからさ、交換したいんだよ」
「乱暴じゃない、それ?」
「本当はネジ留めだから、ネジを外せば行けるんだけどねー。マウンテンに転がってたのを強引に魔術でくっ付けたみたいだから、衝撃与えて引っぺがすくらいしか出来ないんだよ」
工房内で、ライラとユカリは発動車のエンジンと対峙していた。
と言っても、専門知識がまるで無いユカリは、ライラの要望を受けて道具を手渡したり、外された部品を磨いたりする程度の事しか出来ないが。
「しっかしエンジン無しとは言え、一世代落ち程度のフレームを持ってこれるクレイさんって、やっぱ凄いよねー。ユカリちゃんがこれ乗り回してたら、子供達のヒーローになれるよ!」
「ヒーローにはなりたくない、かな。やっぱり自動……発動車は珍しいの?」
元の世界に於ける自動車は、ユカリ自身が実際に所持しているか云々を抜きにして、掃いて捨てる程に拝める存在だった。
だが振り返ってみると、ヒルベリアでの目撃例はほんの僅かだ。
更に、その中の一つがライラの家が有している壊れかけのトラックで、もう一つは、ここ数日は見ていないが廃棄業者の乗って来る投棄用車両だ。
この二つ以外だと、両手で数えられる程度。人々の文化の類から推測して、別段拒むような物ではないのに、これは少なすぎやしないだろうか。
問われたライラは首肯と共に言葉を返す。
「買える程の所得が得られる人がそういないし、整備のノウハウも少ない。オマケに想定している悪路の範疇を超えてる道が多過ぎるからね。ハイウェイ使える人がいるならともかく、ヒルベリアにそんな権限持った人いないから、メリットがあまりないんだ。買えるぐらいお金持ちになった人は、ここから出て行くしね。だから、ラープとかハレイドには持ち主がいっぱいいるよ」
「……それはどうして?」
「お金持ちになっても何も変わらない場所より、多少差別を受けてもお金があれば何とかなる所の方が良い、だったかな。私の元・友達も出て行く時の絶交宣言で、そんなこと言ってたよ」
厳しい現実が、ヒルベリアの住民には存在しているようだ。自分の元いた世界とは大きな違いをまた一つ、何気ない話から知ってしまった。暗い顔になったユカリを見て、ライラは慌てたように取り成す。
「あーいや、ユカリちゃんがそんな顔しなくて良いんだよ! お金持ってる人は普通そうするモンだろうし! 私は適応力無いし駄目人間だからしないけど! それに、ユカリちゃんはこの世界の人じゃないし……」
そこまで言って、自分が言葉のチョイスに失敗したと気付き、顔を青くするライラに対してぎこちない笑みを浮かべ、ユカリは別室へと辞して息を吐く。
「……駄目だなぁ、私」
ライラに悪気があって「この世界の人ではない」と言った訳では無いと、当然頭では理解している。自分の最終的な目的が、この世界に完全に溶け込んで暮らす、ではなく元の世界への帰還を果たす事だと、口には出さずとも雰囲気で主張していては尚更だ。
元々大して益を齎しておらず、それどころか彼らにとんでもない混乱を持ち込んでいる自分など、問答無用で斬り捨てられてもおかしくないのだ。それをこうして生き永らえているのは、彼らの優しさによる物であるのも分かっている。
ヒルベリアに関する色々な事情も、恐らくは欠片に触れているだけに過ぎず、尚且つそれを変革するだけの力を持たない自分が賢し気にどうこう言える話でも無いのだ。
理屈で抑え込もうとしても、感情は殺しきれない。少しだけ涙が滲ませながら、床にへたりこむがそれも一瞬の事。
悲劇のヒロインを気取っていても、何も変わりはしない。変えたくば、前に進む他ないのだ。
「……よし」
滲んだ涙を拭い、ライラのいる場所へ戻ろうと踏み出す。
ドガバキグシャン。元いた世界に於いて、凡庸な現代文の成績の持ち主であったユカリにはそうとしか表現出来ない破砕音が、一歩目を踏み出した足が地面に着くのと同時に耳に刺さる。
発信源はさっきまでライラと居た部屋では無い。恐らくは、あのイザイアとかいう男が放り込まれている部屋だ。ある種の確信を抱き、ユカリは走り出す。
「……何、これ」
「またウチが壊れてるよ……」
土煙の中、壁と天井には大穴が空いている事だけは辛うじて確認出来る。どうして壁と天井が口を開けているのか。クエスチョンが駆けつけた二人の脳内を巡る。
煙が晴れる。爆心地に、一人の男が立っているのが視認出来た。一・八メクトルは恐らく超えている長身に、あちこちが損傷しているスーツを纏う髭面の男は、周囲を見渡すなり吼えた。
「マジか、生きてるのか。しかもヘルメロイも完璧なコンディションと来てる! こいつぁツイてるぜ!」
法定違反の労働で脳がイカれた小市民の様な、ネジが飛んでる高笑いを数分間続く。
その後、ヴァンスライクなる男は二人の方へ向き直り、傷だらけの顔に思惑がたっぷりの笑みを貼り付ける。
「俺は絶望的にツイている。これまでの二十八年間の人生の中で一番に、だ。何もかもが俺に都合の良い方に向いている。素敵過ぎる――ッ!」
「えっ!」
一瞬の浮遊感、そして側頭部に衝撃。
「ユカリちゃん!」
ライラの呼び声で、まともな思考が戻って来たユカリは、自分が発動車の助手席に転がっている事に気付く。
「おいおい、人質兼下働き兼捨て駒が降りちゃ駄目だろうが」
脱出を試みる前に、安全ベルトで身体を縛り付けられて身動きが取れなくなる。抗議の言葉をぶつけてやろうと思考を巡らせるが、何度かのクラッチを繋ぐ事の失敗を示す音の後、身体に再び衝撃が走って黙らされる。
「いざ! 自由と職務達成の轍へ出発だ!」
「いやそっちは壁なんだけど!」
家主の抗議を完全に無視したイザイアによって、遠慮も容赦も無く
「……は?」
「ヒビキ君!?」
常識に基づいて、正面のドアから工房に入ろうと歩いていた、ヒビキの眼前に躍り出たツインボウは、減速の素振りを一切見せない運転手の意を忠実に汲み取り、そのまま彼を宙高く吹っ飛ばした。
「悪かったな、不景気ツラのクソガキ! ツキが無かったと思って諦めてくれよ!」
「あぁぁぁ……」
人体から聞こえてはいけない鈍い音を背後に聞きながら、異なる世界からの来訪者と法の網を一切の躊躇なくぶち破る男の乗った発動車は、ヒルベリアからの脱出を果たすべく疾走していく。
「どどどどーしよう! ユカリちゃんが攫われた! てヒビキちゃん、何でそんな所で伸びてんの……骨が折れてる!? え? なんでなのさ!?」
事態の変化から完全に置いて行かれたライラの叫び声に、答えてくれる者は当然ながら誰もいない。
◆
アークス王国の主要都市とを結ぶハイウェイの一つを、パスカ・バックホルツとサイモン・アークスの乗った発動車が疾走している。
ロザリスに最も近い街、コロミティまでのハイウェイは魔物の発生が活発化している為に通行止めとされ、強引に許可を取り付けたこの車の独壇場となっている。
「四天王と国の象徴が乗っているのに、『死んでも一切の賠償は求めない』旨の誓約書を書かせるとは、この国の役人は優秀だね」
「一つ例外を作れば、二つ三つと更なる例外が生まれ、やがて規則は形骸化への道を歩む。そうなってしまえば、他の規則や秩序にも乱れを及ぼす危険が出てきます。その辺りの徹底が為されているか、今度調査をしても良いかもしれませんね」
「君の提言ならば、職員達も飲まざるを得ないだろう。ところで、近頃面白い事はあったかい?」
「面白い、の定義次第です」
「デイジー君が好むような方向で、だよ。彼女の最近の態度を見ると、何か見つけたようだ」
この男の事だ、自分がわざわざ語らずともある程度の情報は握っているだろう。
内に引いた妥協点に順じた上で、パスカは雇用主の要望に答える。
「破棄された計画『魔血人形』の完成品と言える少年と、異なる世界からやってきた少女が『エトランゼ』カラムロックスを撃破したのは、なかなかに興味深い事かと」
「余計な兵を出さずに済んだと、軍が安堵していたね。そのカラムロックスはあくまで影だったそうだが、確かに興味深い」
ゴミ捨て場であるヒルベリアの一件を、対象が何であるのかという所まで知っている辺り、やはり言う必要などなかったのではと思いながらもパスカは続けていく。
「付け加えると……ヒンチクリフ氏が現在はヒルベリアに拠点を置いており、彼らに対して稽古を付け始めたようです」
「クレイトン君か、また懐かしい名前だね。彼が教官の様な事をしているのなら、その子達の牙が実戦に耐え得る物となるのも早いだろう。無視し続けるのは得策では無いね。普段遊ばないユアン君が、今回突飛な行動をしたのも納得が行く話だ。彼はクレイトン君の事を知らない筈だけれど、ね」
パスカから一度視線を外し、サイモンは前方に広がる無機質なハイウェイを見つめる。
否、彼の前にはもっと別の物が見えているのだろう。推測の域に留まるが、恐らく話題として提示された二人や、クレイトン・ヒンチクリフの利用法、辺りだろうか。
親しい仲であった人間が、危険な舞台に上げられる事を好む人間などいない。いざ彼がそうなりそうであるのならば、自分が出来る限り被害を軽微な物にしなければならないだろう。
しかし、サイモンの発した言葉に含まれていたもう一人、ユアンに対しての懸念も拭いきれない。
収監されていた男を使った遊びなど、嫌な予想しか出来ない。民間人を無意味に殺害する等の、最低の一線は越えないだろうが、元々勤勉な性質ではない為に不確定要素は多数存在している。
助手席に座す雇用主が許可した以上、パスカはもう何も手出し出来ないのだが。
――俺のやるべき事はもう決まって……ッ!
思考を中断し、パスカは突如としてハンドルを激しく切る。当然の結果として、発動車はタイヤのグリップを失い、激しく回転する。
発動車と同様の状態となっている視界で、本来の通るべきであった進路を睨むと、灰色のハイウェイの一点が黒く染まり、そこから炎が噴出している様子が確認出来た。
ここは火山地帯でも何でもない。ハイウェイの下は凡庸な草原だ。故に、発火が自然現象に依る物では無いと馬鹿でも理解出来る。
「ははぁ、なかなか大きな客人のようだ。私もこれほどの個体は初めてだ」
緊張感などなく、心の底から感心している様子の雇用主に軽い頭痛を覚えつつ、停止した発動車から飛び降りたパスカは、炎の中から現われた客人を睨む。
赤黒い粘液で全身が構成された不定形のそれには、目も鼻も口も無い。にも関わらず、こちらに対しての何らかの意思が感じられるのは、こちらの考えすぎだろうかと、対面する度に抱く感想と共に、パスカは『それ』を睨む。
魔力で肉体の構築が為された特殊生物『ボブルス』。それが眼前にいる液状生物の名だ。
『反逆者バークレイ』を抜き、サイモンの乗車している発動車に発砲して『七鋼防壁』を発動。
瞬きと共に色を自発的に変化させていく光を纏った、透明な金属の防壁が、発動車を覆う。
「常識の範囲内にいる相手の攻撃なら、そこから出なければ問題有りません。間違ってもボブルスの体組織を採取するといった思い付きを実践しないでください。下手をしなくても死にます」
「これは手厳しい。しかし、ヘイムダル条約に記載されている生物を殺すのは、少し問題ではないかな?」
「現時点で殺す意思はありません。いざという時は、分かりませんが」
敵意を剥き出しにしているボブルスの肉体から、粘液が吐き出される。通常体ならば受けた所で軽度の火傷で済むが、三メクトルほどに膨れ上がったこの個体のそれを受ければ、深手を負う可能性がある事は誰にでも理解出来る事だ。
幸運か、この個体が強力な力を扱いきれていない事に起因する必然か、吐き出された粘液は山なりの軌道を描き、パスカに猶予を与える。
疾走しながら、右手に握ったバークレイをこめかみに押し当てて引き金を引き、左手で魔術を構築しながら跳躍。
バークレイから放たれた銃弾に因る、効果の増幅が為された『
ただの投槍、加えて『牽火球』と同列に位置する最下級の魔術で構成された物体の投擲であるにも関わらず、放たれた氷の槍は吐き出された粘液塊を易々と貫き、本体にまで届き、地面に突き刺さる。
氷の槍によって地面に縫い付けられた痛みからか、ボブルスは身体を震わせる。
しかし相手は生物だ。無抵抗で蹂躙されるだけで終わる筈も無く、人のそれに似た腕を形成し、接近してくるパスカを捻り潰さんと振り下ろす。
「遅い」
もう一度バークレイの引き金を引き『
相手の抵抗を一瞬で切って捨てたパスカは、己の二倍を優に超える巨体を完全に射程に捉え、情け容赦無く拳を突き込む。
ズブリ、と音を立てて右手がボブルスの体内へと吸い込まれる。逃れようにも『牽凍槍』は未だボブルスを縫い止めたままであり、無理に動けば自傷行為に繋がるというリスクが、激しい動きを許容させなかった。
「終わりだ」
手応えを感じ、右腕を引き抜く。自らの部下の手に握られている紅い石ころを見て、サイモンは小さく感嘆の息を吐いた。
石ころを体内から引き抜かれた事に呼応して、ボブルスの身体は急速に縮んでいく。数秒程度で、通常体と変わらぬ三〇センチメクトルの矮躯への回帰を果たす。
パスカが念の為にバークレイの銃口を向けると、ボブルスは完全に怯え切った様子で転がってハイウェイを飛び降り、その下にある草原に消えた。
「流石だね。殺しもせず、外部に被害を与える力を奪い取って事態を終結させた。魔物を相手にした場合だと、これは他の四天王だとルチア君ぐらいしか出来ない事だ」
「お褒めに与り恐縮です。ですがボブルスの場合、体内の血晶石を引き抜きさえすれば、簡単に無力化が可能ですし、破壊してしまえば命を奪えます。他の二人にも容易に可能です」
運転席に戻ったパスカは血晶石を鞄に放り込み、アクセルを踏んで発動車を発進させる。
徐々に景色の流れる速度が速まっていく中、助手席のサイモンが問うてくる。
「そう言えば、ヒルベリアまでを繋ぐルートに現われる個体の処理は終わったのかな? 処理業者からの苦情がなかなか酷いようだけれど」
「ダート・メア近辺での出現報告が一旦途切れたので、現在は警戒状態を解いていますが、この区間と同様、原則として通行禁止状態を継続しているそうです」
「無理に通して食われたら不味い。だから妥当な判断だろうけど、もどかしいね。私の所に討伐隊を送る提案を持ってきてくれたら、すぐに判を押すのに。私の判だと、結局君達しか送れないから意味がないか」
「軍隊を動かすのにも、複雑な争いが絡むのは仕方の無い事です。そのような仕組みを選んだからには、受け入れなくてはならない宿命です」
揉めに揉めた結果として、自分達が単独で動く事になった例も多々として存在する。いずれも「死んでこい」と暗に言われている内容の物ばかりで、あまり思い出したくない。
たった今直面した、ボブルスの事態がそうはならない事を祈るばかりである。
――しかし、階層的には低い位置とは言え、禁猟令が出されているボブルスが大量発生というのは妙な話だ。生息数が減少に転じて以来、そのような話は一度も無かった筈だが……。
晴れ渡っている空とは正反対の感情を抱えたまま、パスカは発動車を走らせる。
◆
人間性が出来た人は、いやそこまで出来ていない人であっても、大体自分の子供にはこう言うだろう。
人との出会いとは貴重な物であり、大切にしなさいと。
大嶺ゆかりという十六年と少ししか生きていない少女も、善良なる両親の元で生まれ育ち、ごくごく真っ当な価値観を培って今日まで来た為、この言葉を信じていた。
「なぁクソガキ、手前も女なんだからもう少し愛想良くしろよ。この俺の人質兼下働き兼捨て駒なんて役割、普通の人間なら身に余り過ぎる光景だぞ」
「……そんな役割、喜ぶ人がいると思いますか?」
「喜ばねぇ奴は射ち殺す。そうすれば全員喜ぶ事になるだろが。胸もケツも無いんだから、せめて頭ぁ使え間抜け」
夜の闇を裂いて疾走するツインボウの運転席で、鼻歌交じりに馬鹿な言葉を吐き散らす、イザイア・ヴァンスライクなる男の助手席に放り込まれる事となった時までは、の話だが。
覚醒したイザイアと共に強制ドライブの事態に至ってから数時間。早々にユカリの知識が及ぶ範囲から出てしまい、今ではここが何処なのかさえも分からない。悪い事に陽も落ちてしまっている。
「そもそもあなたは一体何なんですか。起きるなり人を撥ねて攫って、何処に行くのかも教えずに延々と……」
「大人の義務である自らの仕事を果たそうとしているだけだ。何処に出しても恥ずかしくない理由だろ。お前に関しては何度も言ってるな、説明はもう不要だ。あの餓鬼は何だ? お前の彼氏か何かか? あんまパッとしねぇヒョロガキだから悪い事は言わん、止めとけ」
反論として言わなければならない事は沢山ある。何処から反論すべきか思考を巡らせていると、突如としてツインボウが停車した。どういうつもりかと運転席の方を向くと、またしても予想外の言葉が飛んでくる。
「まぁアレだ。文句があるなら今ここで降りろ。別に文句はねぇよ。お前がいる事によるメリットはあっても、いない事によって俺に不都合が生まれる事はないからな」
「……ここが何処だか分かって言ってるんですか?」
「馬鹿かお前、俺はロザリス人だぞ。目的地にしてこの国の首都ぐらいしか知る訳ねぇよ」
つまりはお前はここで野垂れ死ねという訳か。なるほど、ロクでもない生業をしていそうな男に実に相応しいロクでなしな発言だ。
呑気に考えている場合ではない。ここで放り出されれば、間違いなく相手の発言通りの末路を辿る。
元いた世界で凡庸な能力しか持たず、この世界でも首に下げたネックレスが光らない限りは大した事が出来ないと、彼女もその辺りは重々承知している。
「さっさと決めろ。俺は気の長い方じゃあないんでな」
急かす言葉を無視して考える。……現状打破の為の方策は、物凄くガキ臭く、引っ掛かりそうにも無い愚策しか思い浮かばなかったが、イザイアについての詳しい情報を何も有していない今、彼女に打てる手はそれしかなかった。
「……あっ!」
明後日の方向をユカリは指差す。
「あ?」
「あんな所にアイリス・シルベストロ!」
「何ィッ!? 何処だ!?」
追い詰められた小学生レベルの引っ掛けに、イザイアは予想以上に食い付いた。有り得ない速度で首が横を向き、完全にユカリから注意が逸れる。
世間話の一つとしてヒビキ達から聞いた、大陸全土で現在人気沸騰中の歌姫の少女、アイリス・シルベストロは、老若男女問わず大人気で熱心な信者もいるとの話だったが、ここまで引っ掛かってくれるのは予想外だった。
「何処にもいないじゃねぇかこの」
視線をユカリの方へと戻した瞬間、自分の腰に押し当てられた金属の冷たい感触に、イザイアの言葉は途絶する。
「おいおい、なかなか物騒な真似をしてくれるなクソガキ。だが、ここから撃てるのか? 撃って俺を殺せば最後、足が無くなるだろ。そこんとこ冷静に判断しろよ」
「車の運転なら、私一人でも見様見真似で何とか出来る可能性があります。今ここで放り出されるよりはマシですよ」
銃が震えているのは恐らくバレている。そこから自分が人をどうにかした経験が無いのも推測するのは、相手が場数を踏んでいる者なら容易に可能だろう。
そして彼がすぐに反撃を行える事もまた然り。
出来るか出来ないかでは無く、反抗の意思の問題だ。いざとなれば噛み付くと言う姿を見せておくだけでも、相手の出方は変わってくるだろう。
暫しの間、二人は沈黙したまま睨み合っていたが、やがて根負けしたのか、イザイアは視線を外して首を振る。
「お前みたいな女の言う通りになるのは嫌だが、ここで撃たれるのはもっと嫌だ。ハレイドまでは同行させてやるよ」
土地勘のまるで無い首都で放り出されるのもそれなりに困るが、ここよりはマシだろう。それに、リスキーな稼業を営んでいる者に対して、あまりに多くを求め過ぎて、やはりここで降りろと言われてしまっては本末転倒だ。
「ありがとうございます」
「なんだしおらしくなりやがって。気持ち悪いし堅苦しいからさっきまでの勢いで振る舞えよ」
「……」
「そういや名前は何だ? 一応礼節として聞いといてやる。俺に名前を聞かれるなんてお前如きには勿体ない光栄だからありがたく思え」
「大嶺ゆかりです」
「あぁ東方人だったのか。移民か何かか?」
「は、はい。そんなところです」
この世界の人間が当然抱く感想に対して、ユカリは口籠る。確かに東方人ではあるのだろうが、完全な正答ではない。
しかしそれを言ってしまえば最後、間違いなく狂人扱いされ、下手をすれば放り出される結論に逆戻りである。結局、曖昧な返答でこの場を凌ぐしかない。
「聞いてたより使えなさそうだが、まあ良い。今日はもう少し走ってから寝るぞ」
「結構夜が深くなってますけど、大丈夫なんですか? それに聞いてたよりって……」
「チンタラやってたら追手が来るだろうが。ちったぁ俺の立場を理解しろ」
密輸人の常識を理解するように求められても困るし、質問の半分には答えて貰っていない。
問い詰めるべくユカリが口を開こうとした時、ツインボウが乱暴な動作で加速し、思考を強引に止められる。
再び走り出したツインボウは、地面のデブリをモロに拾い、激しく跳ねる。衝撃をしっかりと吸収してくれる、元の世界の良く出来た車に慣れている身にとって拷問に等しい上下動に晒され、ユカリの顔色はみるみる内に変色していく。
「言い忘れてたが、中で吐いたらその瞬間に蹴り出すぞ。吐くなら外に吐け」
無理難題を突き付けられている気がしたが、今はそれどころではない。意識を持って行かれないように、この振動に耐える事が一番大切なことなのである。
――私、生きてヒルベリアに帰れるのかなぁ?
不安を抱えたままユカリの夜は更けて、いかなかった。
「……失速してませんか?」
「分かってんだよボケ。ちょっと待ってろ」
先刻までの快調なペースが嘘のように、ツインボウは瞬く間に失速し、やがて速度がゼロになる。
運転席から飛び降り車体の後部に回ったイザイアは、暫し沈黙した後、押し殺した声を発する。
「押すぞ」
「……はい?」
「燃料が切れてんだ。補給できる場所まで押してくぞ」
予想外の出来事だが、対処の手段は真っ当な物が提示された事に少し驚きながら、ユカリも助手席から降りて後部へと回り、イザイアと共にツインボウを押し始めた。
「んんんんん……」
持てる力を総動員して押すが、その力の入れように、目の前の物体はまったく応えようとはしてくれない。
「もっと力入れやがれ馬鹿!」
隣から怒鳴られ、左耳が痛む。このままぼやぼやしていると起きかねない事象に対し、危機感を抱いたユカリは更に力を込めてツインボウを押しながら問うた。
「……補給場所って、どの辺りにあるんですか!?」
「知る訳ねぇだろ! 今は黙って押せ!」
無駄に自信に満ち溢れた返答を寄越され、脱力して地面に転がりそうになるのを堪えながら、ユカリは発動車を押す事だけに意識をもう一度集中させる。
素性の分からないこの男と行動を共にする間に、自分の心や身体が壊れてしまわないか、ユカリの中で不安がむくむくと湧き上がる中、亀の歩みよりも遅い速度で、一台の発動車と二人の人影は荒野を往く。
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