15:どうせいつか、終わる旅は

 蒼光の終着点。

 全てを忘却したように立ち尽くすヒビキの前に、七年前に消えたカルス・セラリフが立っていた。

 幻覚を疑ったが、姿、声、振る舞いといった要素全てが本物だとヒビキに告げ、確かにいなくなった現実との齟齬が彼の動きを止める。

 ヒビキを他所に、記憶からそのまま切り出した豪快な笑みを湛えてカルスは歩み寄る。

 彼我の肉体的な距離は、最後の瞬間から流れた時間に伴う成長で縮まったが、カルスの動きは共に過ごしていた時と全く変わらないものだった。

 髪を撫で、頬を軽く叩き、全身を注意深く観察して深く頷く。変わらぬ流れでヒビキを検分したカルスが、硬直したままの彼に言葉を紡ぐ。

「本当に女の子みたいだったけど、ちゃんと育ってくれて何よりだ! うん、やっぱりお前は――」


 鈍い音が、蒼光に満たされた空間に響く。


 左手がカルスの胸を打ち据え、声は強制的に途絶する。生まれた隙を衝くように、ヒビキは何度も拳を振り上げ、同じところに吸い込まれていく。

「……んで、なんで置いて行ったのに今更来たんだよ。笑いに来たのか?」

「な訳あるか。俺は」

「うるさい黙れアンタが喋るな! アンタの成した事も、クレイさん達が過去に何があったのかも、先に何があるのかも全部見た! アンタが生きていた方が良かった筈だ。なんで俺を生かした!? なんにも無い事、分かってたんだろ!?」

 二度と再会が叶わないと思っていた存在にぶつける言葉として、この上なく醜悪かつ独善的な代物と分かっている。

 先に待ち受ける物の巨大さと、挑む資格を最初から持たず、ただ死ぬだけの残酷な現実。そして、資格を持っていた男の命を奪い取った認識が、ヒビキから真っ当な思考を奪い去っていた。

 敗北のみ映る現実に対峙した時や、悪辣な策に嵌められた時に流した物とは異なる涙が喉を焼く。様々な感情が行き来する声を何度も詰まらせながら、ヒビキはカルスの胸に身体を預け喚き続ける。

「分かってるよ、俺は逃げた! フリーダやライラ……ユカリにある未来が無い。一緒に歩けない事が、一人だけ取り残されて死ぬのが怖い! ……こんなことになるなら、生きたくなかった」

「おい、ヒビキ……」

「『エトランゼ』も言っていた、アンタが盤面に登るに相応しい存在だと! 俺はアンタの劣化コピーでしかないと! ボクなんか、あの時死んでいれば良かった!」

 世界最強の男や最悪の敵を前に、命を張ってみせたヒビキ・セラリフの姿はここにない。

 あるのはただ、父親を前に泣き喚く、ヒルベリアに放り込まれた幼子の姿だ。

 言語の態が崩壊した号哭を吐き出し続けるヒビキの頬に、カルスの硬い手が触れる。懐かしい感触と歪み放題の視界の中、カルスは強くヒビキを抱き締めた。

「エトランゼの馬鹿共も、ノーランも、後この事態を引き起こした××××××の妄言も放っておけ。お前を劣化コピーと呼ぶ奴は何も分かっちゃいない」

「けど!」

「最後になるんだ、ちゃんと聞け。お前が出会った人や、戦った奴はお前をどう見ていた?」

 問いを受け、意味を解したヒビキの目が真円を描く。

 全ての始まりとなった異邦人大嶺ゆかりから、世界最強の決闘者ヴェネーノ・ディッセリオン・テナリルスまで。

 出会い、刃を交えた者達は皆、ヒビキを一人の存在として扱っていたのは事実だ。だが、それは正解を知らなかったからだ。

 浮かんだ反論を、エトランゼにも肯定された男は首を振って否定する。

「知らなくても、振る舞いで中身は分かる。ちゃんと生きてきたから、出会った人は皆、お前を一人のヒビキ・セラリフと見て、そして道を交えた。与えられた力に溺れる輩なら、そうは見ていなかった」

「……」

「知らずに喚く外野は放っておけ。出会った奴等がお前を肯定した。否定するのは、そいつ等を貶める事にもなる。それにな、お前はもう運命を変えてるんだよ」

「運命を……変えた?」

「そ。ここに来た時。初めて『魔血人形』の力を使った時。ヴェネーノとかと対峙した時。本来死ぬべきだった場所全てで、お前は生き残った。なら、エトランゼ共のホザいていた運命とやらも超えられる。違うか?」


 無茶苦茶な事を言わないでくれ。


 普段のヒビキなら、他の誰かに言われていたのならこう返していたかもしれない。

 彼を抱きしめ語り掛けているのは、救ってくれただけでなく今に至る物をくれた男だ。

「只の人形でもなけりゃ、死の定めを受容する存在でもない。お前は自分の意思を掲げて進める筈だ。やりたい事は、ここで引き篭もる事じゃないだろ?」

「……でも、皆に酷い事言ったんだ」

「謝れば良い。言ったろ、一人の男として見てるって。だったら、ちゃんと謝ったら許してくれる。ライラちゃんやフリーダ君は勿論、お前の好きな子だってな」

 内側で何かが砕ける音が生まれ、それが反響する度に立ち込めていた暗雲が薄らぎ、消えて行く。

 カルスの言葉は、客観的に見ると単純極まりないが、巨大な壁によって迷子に陥ったヒビキを救い出す欠片となる物だった。

 未だ視界が歪んでいるが、行くべき場所が見えたヒビキはカルスの手を離れ、よろめきながらも立ち上がる。涙の膜が張られていても尚、彼の両目には先刻と異なる光が宿っていた。

 変化に気付き、微笑みに微量の寂寥感を宿したカルスを見つめながらヒビキは告げる。

「おやっさん、ありがとな。行ってくるよ」

「死ぬ為の道じゃない。生きる為の道だ。……最後に良いか?」

 左肩に手が置かれ、その感触を慈しむように幽かに目を細めながら、文字通り最後の言葉にヒビキは耳を傾ける。

「どんな時も一人の男として、本当のご両親の……そんで、カルス・セラリフの息子として、誇りを持って生きてくれ。それだけが、俺の願いだ」

 言葉を何度も噛み締めた末、ヒビキは力強く頷き、蒼光の始まりへ向かうべくカルスに背を向け踏み出す。

「ありがとうな。最初に出会えたのが、アンタで良かった」

 一度だけ立ち止まり、そんな言葉を残して少年は幻想の空間から去った。

 既に世界から退場し、万が一に備えて残していた力で再構築されたに過ぎないカルスは、己の運命をよく理解している。崩壊が始まった肉体に意識を向けず、目を閉じたまま呟く。

「良かったじゃないだろ。……俺は、お前に殺しの手段しか教えてないんだぞ」

 死者は語る力を持たない。たった今終わった時間はもう二度と訪れない、意思を交える最後の機会だった。


「愛している」


 本当なら、ヒビキに伝えたかった。

 けれども、彼の運命を捻じ曲げた自分にその資格が無いと、他ならぬカルス自身がよく理解していた。

 勝者と敗者。どちらにも消えない傷を刻み、対峙した者の全てを呪いの如く背負って生きねばならない闘争の世界に、ヒビキを引き摺り込むべきではなかった。

 彼のいるべき場所は、もっと明るく、幸せな場所だった筈だ。

「あなた達には、本当に申し訳なく思っている。けど、俺はあの子を愛していた。それだけは一切の嘘偽りはない。……光無き道しか示せなくても、だ」

 出会う前に散った本当の両親への謝罪が中空へ消え、閉ざされた瞼から透明の粒が伝う。

 生まれた瞬間から兵器と定められ、両親すら手に掛けた男が流す最初で最後の涙は、身体と同様に落下する途中で消えて行くが、彼が抱いた感情は消えない。

 始まりは気の迷いだったとしても、最期にあったのは誰にも否定を許さぬ愛情だった。己の人生で決して得られる筈の無かった、それどころか鼻で嗤っていた物の重みと美しさを得た男は、ヒトとして逝ける。

「忘れるな。お前は選ばれなかったが選んだんだ。……必ずその先に光はある。幸せになってくれよ」


                  ◆


 薄暗い部屋に、突如蒼の奔流が放たれる。

「ほーう、ここまで変わるモンなのか。鈴葉の目は、正しかった訳だ」

 空間そのものを軋ませる力に身構えた二人と、妙に人間臭い呟きを溢した妖刀の目前で、蒼の奔流は一箇所へ集束し、雷鳴と大波が齎す飛沫を合わせたような轟音を残して消える。

 残滓も完全に消失し、感覚器官が正常な状態を取り戻したクレイは、目に映った存在の姿に思わず頬を緩める。

「……遅かったな」

「悪かったよ。けど、多分大丈夫だ」

 

 蒼星を左眼と左手に宿し、ヒビキ・セラリフが立っていた。


 別人のような。表現するには変化が乏しい。華奢な肉体も、一筋だけの蒼髪も、体内に定められた残酷な物も、恐らく変わっていない筈だ。

 ――変わったのは、心か。

 選べぬまま刻み付けられた傷。今ここに居る事。そして戦いの盤面に登る事。


 全ての意味を解して、選んだ色で世界を描くべくヒビキは再起した。


 虚飾の希望も明けぬ絶望も変わらぬまま、大口を開けて彼を嗤い続ける。ここで引き篭もっていればという後悔を感じる事が、戦い続けた果てに幸福を得る可能性よりも高いだろう。

 立ち上がろうと、否、立ち上がった事で危うさは増した。そんな状況でも、ヒビキ・セラリフは歩むのだろう。そんな確信を抱き、クレイは無言のまま少年の肩を軽く叩いた。

「……行ってくる。ユカリ達は何処にいる?」

「グァネシア群島だ。既に刻限の日は過ぎている。……主から託された、使え」

 オズワルドが差し出した『転瞬位』が刻まれた水晶を受け取り、スピカを鞘に納めたヒビキはそれを躊躇なく握りしめた。

「勝って戻って来い。敗北の先に、道は無いぞ」

 首肯を残し、ヒビキの姿は燐光に包まれ消えた。

 異邦の少女を救う為に。

 

 そして、彼の旅を最良の形で終わらせる為に。

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