5
「状況は分かった。では、貴様は何をすべきと考えている?」
「アトラルカ大陸に……」
「阿呆か」
キィン、と空気が硬質化する音がユカリの耳を叩くと同時に、右耳付近の髪の毛が切断されダート・メアの大地に落ちる光景を見て、彼女から血の気が失せる。
下手人のヴェネーノは、欠伸混じりに『独竜剣フランベルジュ』を背負い直す。三桁に乗る重量の剣を、座した状態で音も無く抜き、髪の毛をほんの数センチ切断したのだ。
超絶技巧を特等席で見物し、加えて相手がそれの行使に何の迷いも殺気も無かった事実を受け、相手の気分次第ですぐに首を取られると再認識し、ユカリの背筋を悪寒が貫く。
硬直する彼女に、ヴェネーノは退屈そうに言葉を紡ぐ。
「ヒビキが無罪を求めて動き、アークスが追手を放つまでは確定している。無力な貴様が戦場に飛び込み、何を成せる?」
無情極まる切り捨ての言葉は、暗に無駄な選択肢を消してくれている。
無理やり前向きに捉え、現地にいない自分がどうすればヒビキの無罪に近づく手を打てるか、思考していたユカリはやがてヴェネーノに問いを投げる。
「……ヒビキ君が罪を被せられたのは、殺人を犯した後と思しき現場を見られた事、そしてファビアさんの元へ向かう姿を目撃されたから、でしょうか?」
「あの男が抱く物と別の意図があり、もう少し周到に行うつもりだったのだろうが、大衆の目に捉えられた為に手間が省けたと言ったところか。大衆は同一地位の者が見た光景で奴を悪逆非道の殺人鬼と定義した、在り来たりな話だ」
「……求めた、ですか」
ヴェネーノの冷酷なまでに淡々とした分析を受けて、ユカリは唇を噛んだが、一方で相手の分析を肯定もしていた。
善悪の判断や、一度貼り付けられたレッテルを覆す為の材料が乏しければ、一般人は多くが是とする方向に迎合する。
悪意、そして態々多数派に反論する必要性も関心もない、などの理由でそのような現象が起きると理解し、元の世界ではそちら側にいたユカリは、人生で初めて覆そうと試みる側に立ち、最善手を探す。
眼前の狂戦士は、採点以外は契約の範疇外と言わんばかりの様子で、見ているだけで酷く精神を搔き乱される手遊びを繰り広げる。
――見ていると隙だらけなんだけど、実際に何かしようものなら……。考えないようにしよう。
相手の肩書きと実力を再認識した時、ユカリの中にある疑問と思い付きが生まれ、口から零れ出る。
「ヴェネーノさんは、どれだけの戦果を挙げたんですか? 二つ名が付く数なんて、私には想像出来ません」
「単純に勝敗だけで考えるとドラケルンの集落にいた頃は敗北が多い。出奔した後では、引き分け二つと敗北が一つあるが、それ以外は全て勝っている。戦った数を全ては覚えて居ない。俺の強さがどうかしたか?」
「犯罪者である前に、貴方は強い。貴方が今立っている場所から引き摺り下ろされる光景は、多くの人が見たがっている物。だから、貴方に戦いを挑む人は絶えない。そうでしょう?」
結論が何であるのか、気付きを得たヴェネーノが笑みを浮かべて続きを促し、ユカリもそれに乗る。
「砂川君が実際に罪を犯した瞬間を捉えた物、それを見つけ出して大衆に公開します。そうすれば、潮目は変わる筈です」
「貴様にしては良い思考だ。本物である事が望ましいが、仮に贋物を撒いたとしても「軍上層部の人間が犯罪者」なる話は、強者が転落する筋書き(シナリオ)を好む一般市民にとって、ヒビキが主役であるよりも旨味がある。現状は間違いなく変わるだろうな」
「捜査資料に触れられない以上、私は市民の人が持っているかもしれない、犯行の瞬間を抑えた物を手に入れる他ありません。ヴェネーノさん、ハレイドに行きましょう!」
「少し待て」
目的達成に必要な物を理解して意気が上がり、勢いよく発した言葉につれない答えを返され、ユカリは少し脱力する。
彼女を他所に、当のヴェネーノは悠然と立ち上がって顔を空に向ける。
「一日一度は身体を動かしておかねば鈍る」
「はぁ。……でも相手なんていないですよ?」
「呼べば良いだろう。――――オオォオルゥアアアッ!」
ヒビキとの闘いで放ったそれとは趣の異なる咆哮が、ダート・メア、そしてアークス王国の各所にまで轟いた。
咄嗟の判断で耳を塞いでも尚、全身を激しく揺さぶる音の暴力にふらつくユカリだったが、すぐに彼女の感覚は地面の震動を捉える。
嫌な予感に押されて視線を向けた遠方には土煙。それは加速度的に巨大化し、発信源として疾走する生物と無数の思しき影も大量に映る。
「飛竜はいないか。だが数は問題ない」
「一体何をしたんですか!?」
「竜が縄張りを誇示する時に放つ咆哮を放った。こうすれば、土地ごとに縄張りを主張する生物が寄ってくる。後は分かるな?」
接近する生物の数は、目測で五十を優に超えている。
「一対一、それかこっちがなるべく不利にならない数で戦うのが大事なんだ。一対多数になった時は、大人しく逃げた方が良い」
以前ヒビキが教えてくれた、戦いの基本を真っ向から否定した振る舞いを執る狂戦士の表情には、隠し切れない喜びと興奮。
恐らく野獣の軍勢にヴェネーノは真っ向勝負を挑み、そして勝利を収めるのだろう。
何処までも次元が異なる行動原理、言動、実力を目の当たりにして、呆けたように立ち尽くすユカリに鋼の声が飛ぶ。
「何を突っ立っている。貴様も付き合え」
「あの数を相手にですか!?」
「貴様が求める理想と比すれば、あの程度の数は困難の内に入らん。加えて、万が一の時に振るえる力が無いのでは、何も手に出来ず死ぬぞ」
言い捨てたヴェネーノはフランベルジュを尾のように引き連れ、大群の巻き起こす物と酷似した土煙を噴出させて疾走を開始。
取り残されたユカリも、慌てて彼の後を追った。
◆
「君の歩いていた方角と、インファリス大陸に向かう方角は真逆だ」
体力回復と情報の整理に費やした昨日の夜。ハンナから衝撃の宣告を受け、ヒビキは供された妙に塩気が強いスープを吹き出した。
野営地を一見すると長距離移動に使えそうな道具は見当たらず、ハンナ自身が先手を打つように「私の実力ではアークス大陸まで飛ぶ事も瞬間移動も出来ない」と告げられ、不安が湧き上がるなか、ヒビキは強引に眠りに就かされた。
そして目覚めた今、彼はハンナと共にある生物の上に乗って熱砂の海を行軍していた。
「こんなのが砂漠にいたんだなぁ、っと」
「あまり数はいないが、呼ぶことが出来て良かった」
二人が乗っているのは「キャメロニス」と呼ばれる、ヒルベリアのマウンテンにも多く生息する、バスカラートの近縁種に当たる四足歩行爬虫類である。
バスカラートの大型個体の数値が平均値となる身体は毒々しい斑点で彩られ、ハンナ曰く、地面と接する足裏には脂肪のクッションに似た物が存在し、重量と熱に耐える構造を持つ、らしい。
事実、相当な高温である砂の地面や、軽装と言えども骨や関節の強化で体重が三桁に達するハンナや野営道具を乗せても、キャメロニスはヒトの走る速さよりも速く砂漠を往っている。
トカゲ達も夜には休息が必要な為、移動は日中に限定されても歩くよりも格段に速い上に体力の消耗も抑えられる。
――これで何とか砂漠を抜け出せる見込みは付いた。後はフィニティスでどうするか……ん?
ものの十分もしない間に、彼我の距離が大きく開いていると気付き、ヒビキは慌てて手渡されていた即席鞭でキャメロニスの身体を叩く。
馬を鞭で叩く事と同じ意を持つ行為らしいが、効果はハンナとの距離が更に開いていく事実で判断出来るだろう。
「いやほら、もうちょい速く歩いて……」
「キゅいッ!」
「は?」
無意識の内に叩く回数と強さが増した結果、短い鳴き声を上げたキャメロニスは前肢を高く掲げる姿勢を執り、ヒビキを背中から振り落とした。
落ちるまでの僅かな猶予で体勢を整え、距離を開けて様子を伺うが、トカゲの側はそっぽを向いてヒビキとの対話を拒否する意思を見せていた。
このままでは置いて行かれる。トカゲを説得する必要があるが、爬虫類と意思疎通を試みるのは彼にとって初めてで方法など知る由もなく、間抜けに突っ立ったまま頭を掻く。
「何をしている?」
「いや、多分だけど鞭で叩き過ぎてキレられた」
「それは当たり前だ。君自身に置き換えて考えるんだ、ちゃんと意思疎通を行っていない相手に命令をされれば嫌じゃないか?」
「つってもトカゲ相手に意思疎通って……」
いつの間にか戻ってきてヒビキの事情説明を受けるなり、渋い顔を作ったハンナは「少し待て」と彼に命じ、キャメロニスの元へ歩む。
警戒心を露わにするトカゲと正対したハンナは、背負っていた禍々しい魔剣『金剛竜剣フラスニール』を地面に突き刺して無手となり、口を開く。
そこから漏れ出た、普段の彼女の声とは全く異なる、まさしく竜の声と形容可能な音を聞いたヒビキの目が見開かれる。
――ドラケルン人は、竜が用いて爬虫類全体が理解する言語を使えるらしいが、まさか本物の使い手をこの目で見るとは思わなかったな。
ヒビキの感嘆を他所に、不可思議な音で交わされるやり取りは進み、やがてハンナが彼の側に首を回しハンドサインを送ってくる。
「一応許可は貰えた。あまり強く叩き過ぎないように」
「……おう」
手品を見たように目を白黒させながらも、キャメロニスに軽く頭を下げて背に跨り、ヒビキ達は行軍を再開する。
迷子の命を刈り取る高温と、それを抱えた熱風が襲来する過酷な気候は不変だが、徒歩から騎乗の変化と、定期的な補給が行える状況に変わったことで、ヒビキの心身には先の数日間とは異なる余裕が生まれていた。
加えて遥かに格上の存在であり、何れ激突するであろうヴェネーノを知る者と共に生ける幸運を、無駄にするのはあまりに惜しい。
「なぁ、アンタはヴェネーノについてどれだけ知っている? ……言いたくないなら言わなくて良いけどさ」
「……」
並行して歩むハンナの顔に明確な恐怖が宿り、即答には至らない。その様子を見て、ヒビキは狂戦士の天井を上方修正する必要に駆られた。
砂を踏む音と、シュウシュウとボイラーから発せられる音に似たキャメロニスの吐息が、二人の間にある音となったが、すぐにそれはハンナの声で破られる。
「奴と私は十三の年齢差があり、名が売れた段階の奴と直接対面したのは、フラスニールを手渡された七年前と、つい先日の二度だ。だから、ここから先は第三者からの伝聞が混じっている点を理解して欲しい」
首肯するヒビキから視線を外したまま、ドラケルンの騎士は意図的に感情を抑えた声を絞り出す。
「まず、ヴェネーノには致命的な欠陥がある。膨大な体内の魔力を、魔術として放出する速度が極端に遅かった。……当代ケブレスの魔剣を引き継いだ者を、生まれた段階の才覚で比較すれば、カレル、私、ヴェネーノの序列だったそうだ」
「……おい、それマジかよ」
「本当だ。無論奴も天才の部類に入る。だが現代戦闘に於いて、この欠陥は致命傷だと君も分かるだろう?」
古今東西、拮抗した戦いであればあるほど先手を取る重要性が増す事実は、戦いに身を投じた経験があれば誰もが理解している。ひたすら防御に徹し、相手の隙や疲弊を待つ様式の者もいるにはいるが、ごくごく少数だ。
威力が高い魔術や技を構成して流れを身体に叩き込み、戦闘中に放つのは相応の技量が必要で、それを持っていたとしても、強力な魔術の発動は時間がかかる。悠長に上位の魔術を放つより、下位の魔術を大量に放って畳みかける方が正しい局面は幾らでもある。
ハンナの言葉を汲み取れば、ヴェネーノは下位の物の発動速度も常人以下だったと考えるのが妥当。では、何故世界最強に手をかける領域に今いるのか。
トカゲのざらついた肌を軽く撫でながら、ヒビキはハンナの次の言葉を待った。
「奴は生まれながらの欠陥を物心付いた頃に自覚し、更に強さへの執着も異常に強かった。……その結果がドラケルン人でも異常に早い、五歳から竜討伐に身を投じた」
「……五歳って、冗談か何かだろ?」
「真実だ。制止を振り切り身を投じた竜討伐で、奴はあっさりと腕を消し飛ばされた。幸い、膨大な魔力による肉体再生能力の高さと迅速な治療で、事なきを得た。これで懲りるだろうと誰もが思ったそうだ」
「でも、現実は違ったって訳か?」
「ああ。それからも奴は何度も竜の討伐に出向き、毎度身体の何処かを失った。……無数の敗北から、奴は無数の魔術を巧みに繰る戦闘様式は不可能であると悟り、少ない剣技と己の身体を愚直に磨き上げ、七歳で『裂空竜』テナリルアスを討伐した。私達ドラケルン人は家名の後ろに、自身が最初に討伐した竜の名を取り入れて名乗る。……七歳でそれを成し遂げたのは後にも先にも奴しかいないそうだ」
『
流石に予想外が過ぎたか、元々悪い顔色を更に悪くしたヒビキに、ハンナは少しだけ気遣いの眼差しを向ける。
「以降も奴は戦いを続け『独竜剣フランベルジュ』に選ばれた頃、私が生まれた頃に集落を離れて今に至る。フランベルジュの力で、魔術を構築する速度は多少向上していると聞くが、伝聞を聞くに基本は変わっていない。異常に高い身体能力と一撃一撃が必殺の剣技を用いて、真っ向から叩き潰す。私が受けた報告だけでも、アリエッタ・リンクヴィストやタレイル・ソーンタークが……」
「分かったもういい。……ありがとな」
竜騎士の言葉を、彼女の方向に手を掲げて強引に止め、暗澹たる気分に侵されたヒビキは、手中の即席鞭が千切れるまで握りしめる。
彼女の説明で思い出したのだが、ハレイドで見つけた『暴海王リオプレッサ』の持ち主は、名前を挙げられた内の後者だった。
ノーティカ出身の四十四歳は、国を超えて敵性生物に挑む、ヒビキなど比較の俎上に上がらない程の実力者だった筈だが、ロザリスの中枢が捉える確度の高い情報で、ヴェネーノに敗北した現実がある。
振り返ると、ヒルベリアでの一戦で、ヴェネーノは一切の剣技を用いずに完封勝利を果たした。即ち、自分と対峙した際にはまだ本気を出していなかったと、ヒビキは気づいてしまう。
情報を得ていくごとに、勝利の可能性が薄らいでいく。強引に容疑を消す事以上に、あの狂戦士の壁はヒビキの前に傲然と立ちはだかる。
「……伝えない方が良かったか?」
「いや、教えてくれてありがとうな。相手の強さに際限がないって先に言われりゃ、下らない策を練る時間を捨てて、開き直って実力向上だけに時間を割ける」
強がりが多分に籠ったヒビキの言葉を受けて、ハンナが張り詰めていた緊張の糸を緩めて微笑む。
「ヴェネーノとの再戦を生命を繋ぐ理由の一つとした、君らしい言葉だ。……奴を倒せる力を求める理由の中に、あの娘を守るという理由もあるのだろう?」
「なっ!? いや、それはうん、多分あるんじゃねぇのかな……」
「照れるな。私は良い理由だと思うぞ。……この子達にも急ぐよう頼んではいるが、今日明日では海峡は渡れない。野営の時にでも私の持っている技術を伝えよう。ヴェネーノに直接応用出来るかは分からないが、ドラケルン人の戦闘術を知っておいて損はない筈だ」
会話を交わしながら、トカゲに跨った二人の行軍は続く。
最強の狂戦士に目を付けられた挙句、死んだ方がマシな状態にまで社会的地位を汚された時、希望など何処にも見つけられなかった。
ハンナ・アヴェンタドールも、全ての道程をずっと共にしてくれる訳ではないが、道を提示してくれる現状だけでとても心強い。
――まだ俺は終わっちゃいない。お前に会うまでは、絶対に死なない。だから待っていてくれ、ユカリ!
視線の先にある筈のインファリス大陸を幻視しながら、ヒビキは改めて生存する為に足掻く意思を固めた。
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