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「この×××××! 二度と来るなぁ!」
轟音と紅炎が散乱するゴミと捜査官を吹き飛ばす。
家主不在となった家の入り口で、小さな身体を怒りで震わせるライラは、銃身に多数の膨らみを持つ身の丈程の
「き、君ぃ、自分が何をしているのか……」
「分かってるよ税金ドロボー! ヒビキちゃんを疑う×××××に、ここに入らせる訳にはいかないんだよ! 私はドシロートだから全員には当たらないけど、この弾で一人確実に仕留める!」
全員で死ぬなら、職業意識でどうにか割り切れた筈だろうが、自分だけが死ぬ可能性を秘めた理不尽なくじ引きは、単なる走狗には許容範囲外だったようで、警察官達は恨めし気にライラを一瞥し去っていく。
国に目を付けられる蛮行を実行せずに済み、安堵するライラだったが、すぐに現実を思い返し表情を引き締める。
ファビアからヒビキが殺人の汚名を着せられたと通信を受けたユカリが、ライラの元に飛び込んできたのが四日前。
ハレイド在住の医師がシラを切り通してくれたのは朗報だが、最早ヒビキを取り巻く環境は彼女の善戦も無意味となりつつある。
「あっ、ユカリちゃん……」
理由は、無言のまま戻ってきたユカリが抱えている紙束にある。彼女が地面に置いて火を点けたそれは、ヒビキの写真が掲載された、いわゆる指名手配書だった。
賞金稼ぎが動くか微妙な金額ながら懸賞金も記載されており、これで彼は王国公認の犯罪者になってしまった。
先日襲来したヴェネーノもこの手の物が作成されているが、彼は英雄の殺害や国の消滅等の大罪が原因で、ヒビキとは比較しようがない。命の価値や数で序列を付けるのは間違っているが、たった一人の殺害でここまで迅速に手配書を撒かれるのは極めて稀だ。
これから先、容疑が晴れても彼に貼り付けられた最悪のレッテルは、大衆が飽きるまで消えない。飽きた頃には社会的な名誉は汚損され尽くし、居場所はヒルベリアでも保証されるか危うい。
目を伏せたまま肩を震わせ、手配書が一刻も早く燃え尽きるよう火に燃料を注ぎ続ける姿に、ライラは居たたまれない物を感じて目を逸らした。
数十枚の紙が完全に炭と化した時、ユカリは目元を軽く拭って立ち上がり、自身の腰に巻き付けた二本の剣と背嚢を視認。
手配書の回収に向かう前から装備していたそれの意味を、敢えて問うていなかったライラだったが、嫌な予感に押されて口を開く。
「ユカリちゃん。それで一体、何をするつもり?」
「ヒビキ君を――」
「やあ大嶺。色々大変そうだな」
一番聞きたくなかった声を耳に捉え、視線を前に向けた二人の前には、予想通り、ユカリの元の世界での知人が、相も変わらず多数の少女を周囲に侍らせて立っていた。
「何しに来たのさ! ……えぇと、×××××野郎の何とか!」
「賤民に口を利く権利を与えた覚えはない。引っ込んでいろ」
「ライラちゃん!」
不愉快そうに目を細めたイサカワが指を打ち鳴らしただけで、ライラの身体が宙に浮き、ヒビキの家の中に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられて戻ってくる。
戻ってきた段階で、これ以上の負傷を防ぐべくユカリは彼女を抱き止め、そして謎の推進力に引っ張られて土の地面に転倒。
少年の周囲に集う少女達の嘲笑を耳に受けながら、ユカリはイサカワを睨む。
「……砂川君だよね?」
「何のことだ?」
「とぼけないで! 砂川君が持っていたスピカが、都合よくヒビキ君の依頼人を殺した凶器になった。これだけで十分でしょう!」
「おかしいな。この町の住人が使う武器は正規の持ち主が持たないと力を発揮しないと聞いた。その上、あの事件は依頼人と支払いで揉めた卑しい男が殺害したと、警察の報告では出ているぞ? オマケに俺はそんな物を持った覚えも無ければ、事件が起こった時間にあの場所に行った覚えもない。なぁ、そうだよな?」
悪徳宗教の信徒のような従順さで、周りの少女達はイサカワに肯定の意を示す声を上げ、ユカリは顔を歪める。
間違いなく、この男が噛んでいる。
だが盤面を崩す材料が無い今、ユカリに理想の具現化は不可能。
この場をライラと家を守りつつ突破する。これを第一の目標に置いて手段を模索し始めたユカリの両脚が突如脱力し、腕も同様の状態に陥る。
無論、彼女の意思ではない。ユカリはイサカワを見上げる形で睨むが、その程度で怯む愚者はいないとばかりに、笑みを浮かべた少年から歪んだ音が吐き出される。
「元の世界のお前はもう少しマトモな奴だったと思うが、ゴミ溜めにいると感性が劣化するようだな。……少々強引だが一緒に来てもらう」
「誰があなたなんかと……」
「邪魔をするぞ」
妙に律儀な断りと大地を断つ重々しい音が、薄曇りの空が広がるヒルベリアに響き渡る。
強大な気配を察したイサカワが後退すると同時に、ユカリの身体が自由を取り戻すが、それを喜ぶ暇などなく、声の発信源に目を向けた。
場の者全てが彼女と同じ動きを執り、そして発信者の姿を認識して例外なく目を見開いた。
一・七メクトル程の全長を持ち、竜の翼に酷似した形状の刃は全体的に銀と黒で構成されているが、所々に紅と虹色の光が奔り、凶暴さと美しさを両立させている。
剣の形と、刀身に刻印された飛翔する竜の意匠に悪夢の記憶を刺激され、ユカリは声の方向に視線を向ける。
視線の先、とっくの昔に頓挫した計画の為に作られたとヒビキ達が語っていた、古びた鉄塔の頂上。風に靡くは赤熱した鋼の髪と、損傷と補修痕が目立つ長外套。
「ヴェネーノ……さん」
「如何にも。我が名はヴェネーノ・ディッセリオン・テナリルス。小娘、ヒビキは何処だ?」
返答の最中、地面に突き刺した『独竜剣フランベルジュ』の隣に降り立ったヴェネーノがユカリに鋼の声で問いを放つ。
ヒビキに放出していた闘争心が、たった今は消え失せているが、記憶に刻まれた理解を超えた強さへの恐怖に硬直するユカリの視線の先、イサカワが侍らせる少女達が抗議の声を上げる。
「ちょっとアンタ何様のつもり!?」「イタル様の邪魔をしないでよ」「こんな奴パパっと黙らせて……」
「黙るのは貴様達だ」
短い断言と共に、ヴェネーノが少女達に視線を遣っただけで、十人近くいた少女達が意識を手放して倒れ伏し、逆にライラがゼンマイ仕掛けの玩具に似たぎこちない動きで再覚醒。
何とか踏みとどまったイサカワは、敵意も露わにヴェネーノを睨むが、狂戦士は煩わし気に「退け」と短く告げる。
「いきなりやってきてその言い草は……」
「戦っても構わんが、ここでやれば寄生虫共を巻き込むぞ。貴様の経験を考慮すれば全員は守り切れず、俺には勝てん。そして、貴様がそうして振る舞える説得力を失う。三度目は言わん、退け」
両者の間に一迅の風が吹いた。
ユカリ達に敵意が滲む視線を向けながら、『転瞬位』と思しき魔術を起動させて薄らいで行くイタルに、ヴェネーノが思案の色を見せた後、もう一度口を開く。
「忠告する。力をあまり乱用するな」
「何だと!?」
「力には責任が伴う。貴様は既に幾人か殺害しているな。ならば、貴様も標的と化したと心得ろ。加えて、借り物の力で勝ち得た信頼は空虚だ。勝利を重ねている内は良いが、敗北した瞬間、大きな痛手を被るぞ」
一瞬、イタルの表情から傲慢さと悪い意味でのブレの無さが消え、困惑と疑問に変じた。
見知った姿に、最も近い表情が浮かんだことに疑問を抱いたユカリだったが、それが解明される事もないまま相手の姿は掻き消え、役者の数は一気に減じる。
へたり込んだ状態のまま、成り行きを見届けたユカリ。彼女の中で、ヴェネーノが現れた瞬間からとある考えが浮かび上がっていた
――後ろ盾がない私が、動く為にはこの手しかない!
「ヒビキはいないのか。では奴に伝えて」
「ヴェネーノ……さん! 私を手伝ってください!」
「ちょっと何言ってんのさユカリちゃん!?」
狂戦士の放出する「気」に当てられて黙り込んでいたライラが、思わず二者の間に飛び出し、ヴェネーノすら呆気に取られたように動きを止めた。
その隙を衝き、ユカリはヒビキの現状と、それを変える為に自分が何をしたいのかについて一気に捲し立てた。
内心では汗が止まらず、脚は理性の制御を手放して震え、思案するヴェネーノを捉えた視界はブレる。
一秒先の未来では、自分の首と胴が離れている。
ホラー映画世界の事象を実現可能とする相手に、無謀が過ぎる提案。
だが自身でも理解している通り、後ろ盾の無い彼女に、ヒビキの無実を証明する取り組みへの障壁を可能な限り排除する手は、これ以外なかった。
「問おう。良き闘争の相手に成り得ぬ貴様は何を対価とする?」
「……私の命でどうでしょうか。一回限りですけれど技の練習台ぐらいには……」
「技とは実戦で磨き昇華させる物。貴様如きに放つなど、時間の無駄だ」
微風さえ生じさせない静かな挙動で、ヴェネーノはユカリの首筋にフランベルジュの刀身を接近させていた。
彼が少しでも身体や手を揺らせば、魔剣が首を刎ねる状況に晒され、ユカリの目と口から、生物の本能として涙と形容不可能な声が零れ落ちる。
「そこまでしなくて良いよユカリちゃん。幾ら状況が悪くたって、こんな犯罪者に頼る必要なんてない!」
ライラが腰に手を回し、ユカリを引っ張ってフランベルジュの射程から逃れさせようと試みるが、ユカリが震えながらも踏み留まり徒労に終わる。
協力を勝ち得てヒビキの無実を証明しても、対価として生命を手放せば彼の性分を考えると、喜びより悲しみが上回るとユカリも分かっている。
ヴェネーノが望む物を何一つ有しない彼女の、唯一の手札を切った形だが、大外れの札を引いた可能性は著しく高い。
数多の修羅場を切り抜けてきたのであろうヴェネーノの目は、その手札の無さを見抜いたのか、もしくは検分を終えたのか先刻と宿す色を変え、ゆっくりと口を開く。
「小娘、貴様の中にある力はカロンの物だな。何処で手にした?」
想定外の問いを処理出来ず、間抜けな硬直を晒した少女達を他所に、狂戦士は沈黙の後、頭を振って己の問いを打ち消す。
「あの男と同様に偶然得たか。……だが、あの存在が力を分け与えるなど、なかなかに奇怪、そして興味深いな」
「……え?」
結論を出したヴェネーノの動きに反応出来ず、硬直していたユカリは、フランベルジュが引かれ、相手の左手が彼女の首を掴んだ光景を、妙に遅くなった世界で捉えた。
剛力による首の圧迫感、次いで強烈な浮遊感を覚え、ユカリは地面とライラが瞬く間に遠ざかる光景を目にする。
「最高の状態のヒビキを倒す為、そして貴様を観察する為、貴様の案に乗ってやろう」
ライラからの返答を置き去りにして、地上から細かい容貌の確認が不可能な高度に辿り着き、二人は瞬く間にヒルベリアを脱出する。
「これからどうするんですか!?」
「あの男の貴様への執着を見るに、我らがこの近辺に留まっていればまた捜査官が来る。無辜の者を巻き込めば話が拗れる故に距離を置く。その後貴様の持つ情報を全て出して貰う」
「は、はい!」
「始契約条項の追加だ。貴様が意思を捨てた時、俺は首を刎ねる。……途中下車は許さん。降りるなら今だ」
「言うは易く行うは難し」の格言通り、掲げた目標、ヴェネーノに切った見得を実現させる難易度は、元々の手札の格差を考えると非常に高い。一枚手札が増えても、事態は単純な暴力で全てが解決するものではなく、難易度の劇的な低下は恐らく生じない。
全てを理解しながらも、様々な意思を内包したユカリが首肯を返し、ヴェネーノは竜の笑みを浮かべて更に加速。
かたや世界最強の称号を掴みかけている狂戦士。
かたや特異点を持たない異邦人。
凡人の想像を飛び越えて成立した、奇妙な組み合わせは、更に速度を増しながら空を往く。
◆
とある武人は砂漠を天然の処刑場と形容した。
遮蔽物が極端に少なく太陽光を存分に受ける為、日中の気温は五十度に達するが、遮蔽物が少ない事は地表から逃げる熱を保つ機能の乏しさにも直結し、冬の夜には氷点下の観測記録も存在する。
知識や装備が乏しい者を放り込めば、確実に死に至らしめる事が可能となり、情報の共有が進んだ現代で、丸腰で踏み込む者などまずいない。
現代の隆盛が嘘のようにヒトの姿が確認し難い、アトラルカ大陸北部に広がるタドハクス砂漠。
自殺志願者が、よたついた足取りで砂の海を漂流していた。
「ず、水をくれ、誰か……」
今や立派な連続殺人の容疑者となり、逃亡の罪も加算された少年、ヒビキ・セラリフが刀身が穢れ切った『蒼異刃スピカ』を杖のように用いて歩いていた。
左目からはとっくに光が消え、口の端に乾いた血と吐瀉物の残滓がこびり付き、左足は殆ど引き摺っている状態。誰にも聞かれず消えた先刻の声も、熱風と乾きに侵されて醜く掠れ、日頃の彼から大きく変質していた。
砂漠に飛ばされてからまだ数日だが、飲まず食わずの状況に晒され続けた結果、彼の心身は限界を迎えている。
狐の群れを退けた後で最初に、そして唯一発見した植物を狂喜して胃に収めたのが最大の過ちだった。激しい嘔吐と下痢で脱水症状を引き起こし、不慣れな環境に適応するだけの体力的余裕を喪失したヒビキは、野生生物の襲撃を退ける事さえもままならず、ひたすらに身体を削り取られた。
手足を失えば終わる。
危うい状況で下した判断に基づいて、完全な再生をこの二か所に絞って今日まで歩き続けて来たヒビキだったが、とうとう糸が切れた人形のように砂の大地に仰向けに倒れた。
一度倒れてしまうと、強力な磁力に引かれているかのように、身体は地面に張り付いて動かない。上下左右全方位から迫る熱の波濤は、停止した状態では更に強まったような錯覚を抱かせる。
予定調和の死を待つヒビキの口から、出来損ないの笑声が漏れ出し、彼の脳裏は何処で間違ったんだという、無意味な過去の振り返りで埋め尽くされる。
空虚な思考に割り込む形で、地震にも似た震動を伴って砂を踏む重い音が耳に刺さり、億劫げに首をそちらに向ける。
熱風を割って現れたるは、目測約七メクトル、全身を骨の粒で覆って耐刃性を高めている四足歩行の竜だった。
ヒビキは知る由もないが、ヴェネーノも
この個体も便乗した有象無象に過ぎず、『砂王竜』を始めとした『
足元の砂を吹き払う咆哮を上げ、四本の脚を器用に繰って竜が加速し、餌のヒビキとの距離を瞬く間に詰める。
――あぁ、こんなところで俺死ぬのか。
ゲテモノに改造してまで生に縋り、何一つ
身体が動かない事で抵抗手段が完全に失われたせいか、恐怖の感情は薄い。
諦念の情に塗り潰されて目を閉じたヒビキの瞼の裏に、無数の出来事が浮かび、そして今まで対面してきた人物の姿が映っては消えていく。
最後に浮かんだのは、自身を拾ってくれたカルス・セラリフでも、身体の整備をしてくれたライラック・レフラクタでも、馬鹿な行動にも散々付き合ってくれたフリーダ・ライツレでもなく――――。
「――『
澄んだ女性の叫びと肉と骨が爆ぜる音。
続いて届いた地響きに似た苦鳴と、砂漠のそれとは趣が違う熱と臭気がヒビキの感覚を刺激し、閉じていた瞼を押し上げたヒビキに、先刻と激変した光景が映し出されていた。
竜の背部に無数の杭が突き刺さって地面に縫い留め、体内に侵入した箇所から独特の臭いを持つ炎が噴き上がり、竜の全身に拡散される。
単純な水での消火は困難な炎を生み出す『
殺気を感知したのか、接近されるのを嫌った竜の右前肢が横に振るわれ、砂を巻き上げて迫る、大槌の一撃に等しい威力を生む相手の選択を女性は姿勢を低くとって回避。
頭部装甲と竜の爪が接触。橙色の火花が散るも疾走は止まらない。
竜の牙に酷似した装飾を有する白銀の剣と同化して、敵の懐に潜り込んだ女性が、剣と同色の閃光を伴う斬撃を放って竜の傍らを通過。
数秒間、互いの動きが停止した。
停滞が解除されると同時、炎と趣の異なる赤が弾け飛ぶ。炎塊に女性が通過した軌道上に線が描かれ、それに従って竜の身体が上下に分かたれて傾斜する。
切り離された上部が地面を転がり、そちら側にあった頭部から物悲しい鳴き声が短く奏でられ、主を喪失した下部の膝が折れて落ちる。
尾が小さく振られたのを最後に灯が消え、傍観者たるヒビキの耳を聾する重低音と共に、竜の身体は横倒しとなる。断面から吐き出される血は、潮が満ちていくようにゆっくりと拡散し、砂の大地を染め上げる。
肉の焦げる嫌な臭いを存分に堪能しながら、ヒビキは自身の死期が僅かに延びた安堵と、救世主が誰なのか疑問を抱く。
「無事か?」
一定の答えを出す前に、救世主の女性がヒビキに向かって歩いてくる。
霞んだ視界と曖昧な聴覚ではハッキリと認識出来ないが、以前対面した存在ではないか。そう考えたヒビキが記憶を探る間に、女性の声は接近してくる。
「見たところ何の装備も無いようだが、何故ここに……」
女性の声が途切れ、性急な動作でヒビキを抱え上げる。必然的に両者の距離が縮まり、右目のみの視覚にも、相手の顔がハッキリと映し出される。
竜の頭部に似た意匠の面覆を跳ね上げて露わになった、白磁の肌と銀色の髪。氷を想起させる切れ長の水色の瞳。その瞳が、気付きに至り大きく見開かれる。
相手の姿を認識したヒビキは、彼女が嘗て対峙した存在だと理解し、枯れきった喉から声を絞り出す。
「君は、なぜここにいる……!?」
「ハンナ・アヴェンタドール……!」
再戦の機会が生まれない限り、二度と出会う事はない。
両者の確信が予想外の時と場所で打ち砕かれ、砂漠の中で奇妙な沈黙が生まれた。
◆
日が沈み始めた頃、ヒビキはハンナに肩を貸されながら、彼女が設営したと思しき野営場に辿り着く。
小さなオアシスに設けられた野営場に辿り着くなり、ハンナから瓶を投げ渡され、中身が水だと認識した瞬間ヒビキは貪りつくように飲む。
ただの水、されど今の彼にとってどんな高価な品より欲しかった物。細胞の隅まで浸透する感触に、危うく涙を溢しそうになりながら飲み続け、そして激しく咳き込んだ。
「水は逃げないし襲ってこない。だから落ち着くんだ」
背中を
最低限の生命保持が叶った彼と向き合う形で、ハンナが腰を降ろして問いかけの視線を向ける。
強引に沈黙を通す手もあるが、一応救ってくれた相手に仇を返すことになると良心の促しに応じて、遅々とした調子ながら、ヒビキはここに至るまでの流れを語り始める。
ヴェネーノの名前が出た時、あからさまに恐怖の色を表出させたハンナだったが、それ以降の転落劇には、同情で留まらない真摯な感情を伴う顔で話を聴いていた。
「そんな訳で、立派な犯罪者になった俺の人生はお終いって訳だ。まさかこんなところで終わるとは思ってなかったけどな!」
空虚な笑声を空に放り投げ、両手を広げて後ろに倒れ、微細な砂が背に張り付く独特の感触を受け止めながらヒビキは目を閉じる。
熱を伴った風も絶え、沈黙が野営地に降りる。焚火が燃える音だけが全てとなっていた場を破壊するように、目を伏せたハンナが口を開いた。
「……君は、君はそれでいいのか?」
「良いって何が?」
「君がここで死ねば、君を最も信頼し、君も信じていた異邦人の身が危ない。元は同じ世界にいたとしても、何の躊躇いもなく他人を嵌めるような人間性の者が、彼女に有益な存在だと本気思っているのか?」
「あぁ? じゃどうしろってんだ? 片や能無しの犯罪者、片や軍のお気に入り。アイツの本来の目的を達成するのなら、どっちの近くにいるべきか分かるだろ。俺なんか、死んだ方が良いんだよ」
底の底まで叩き落とされ、一切の希望を失った為に垂れ流され続ける後ろ向きな言葉が、不意に打撃音に遮られた。
ハンナの拳が、ヒビキの右頬を強かに殴りつけたのだ。先ほどと異なる体勢で砂に転がった彼の襟首を、誇り高き竜騎士は掴んで釣り上げる。
「なにしやが……」
相手の目から涙が流れ落ちている様子に、ヒビキの言葉が止まる。
「君は、あの子が単なる損得勘定であの場所にいると思っているのか!? 共にいるのは単に他にアテが無いから。本当にそう考えているのか!?」
「他に何が……」
「ある! 損得勘定だけでいるなら君の命を救うなどしなかった筈だ! 単に目的を果たす為なら同じ世界の者が来ずとも、私達や四天王の元へ行く選択もあの子には出来た。それを選ばなかった意味が分からないのか!? 君自身もそうだ。私との闘いの時に、君は退却の選択を放棄した。あの子を見捨てれば私と戦わずに済んだものを、君と友人は戦いに身を投じた。その意味を考えろ!」
「なら俺に何をしろってんだよ。俺には何も、押し付けられた容疑を消せる権力も、強引に状況を変えられる暴力も無いんだ!」
理不尽な現状への怒りか、ハンナがぶつける感情に思う物があったのか、ヒビキは力を未解放の状態で彼女を突き飛ばし、自らも地面に落ちて砂に塗れる。
ハンナは体勢を崩したまま、ヒビキは立ち尽くしたまま、互いに口を閉ざして闇が深くなり始めた砂漠に静寂が戻るが、再度それを打ち破ったのもハンナだった。
「軽々しく物を言ったと君が感じたのなら謝罪する。だが、もう少し考えてくれ」
顔を伏せ、竜騎士は設営を済ませていたテント内に消える。一人残されたヒビキの、感情の突沸が終息した脳は、感情の彼女の言葉を肯定していた。
損得勘定で推し量れる領域から、自身のユカリに対する感情はとうに超えていると分かっている。それに、貶められたまま、本当に欲しい物を掴めぬまま人生を終えるなど、どんな死に方より無様で惨めで無意味だ。
彼女がどう思っていようが、ユカリを元の世界に帰るその時、見送る事が出来る場所に立ちたいと思っている。
自分が何者なのか、解き明かしたい欲もある。
あまり認めたくはないが、叩き付けられたヴェネーノからの挑戦状に対して、明快な解答を返したいと望む、戦う者としての意地も心の片隅に転がっている。
彼の内側で、彼の望む物はここで砕けるなと歌っているが、失敗した場合にユカリがどんな目に遭うのかを考えるだけで身体が竦む。
身体を蝕む怯えと、前に進もうとする意思がぶつかり合う中で、砂漠の夜は更けていく。
◆
夜はやがて明け、そして朝が訪れる。
目を覚まし、出立の準備をしようとテントから出たハンナは、視界の端にいたヒビキが顔を伏せたまま接近してくる事に気付き、向き直って身構えるが、彼の頭が下げられ、そこから声が絞り出された。
「俺の考えは浅はかだった。昨日あんな事を言った奴が言って良い事じゃないと分かってる。……俺はまだ死にたくない。まだ、終わりたくない。頼む、俺に力を貸してくれ」
望んだ物を「現実」の障壁が立ち塞がっているからと言って捨てられる程に「正しい人」ではないと、夜通し考え続けたヒビキは、自分という物を理解した。
ならば、我が身に刻まれた汚名を雪ぎ、ヒルベリアに帰還しなければならない。その確率を少しでも引き上げる最善の策が、強く、そしてブレない精神を持つハンナの助力を仰ぐ事だ。
身勝手であり、虫の良い願いにも関わらず、ハンナ・アヴェンタドールはヒビキの左手を力強く握りしめ、夜空の月にも似た静かな微笑みを浮かべた。
「その言葉が聞きたかった。このハンナ・アヴェンタドール、君の為に力を振るおう」
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