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「学生って楽で良いね」
誰もが皆一度は聞いたと思うし、大体の点で正しい言葉だと思う。
平均的な奴は無条件に生活が保証され、自分の事だけ考えれば良いんだから、生き慣れた人にとっては非常に楽だろうね。
でも、今この瞬間に学生である俺たちは生きることの経験値がとても低い。
基礎的な経験値を得る為に学校に通うんだから、低くて当たり前なんだけど、時に人生を潰す人がいるように、学生の関係はそれなりの魔境だ。
「調子に乗っている」や「頭のおかしい奴」とかのレッテルを貼り付けられれば、瞬く間にソイツは居場所を失う。特別な才能があれば話は別だけどね。
何でこんな話をするんだ? 俺も、中学時代に間違ったクチだからだよ。
社会通念や道徳的に問題にならない範囲で自分を出して振る舞っていたら、勝手に嫌われた。話し相手が減ったから、話しかけてきた同じように嫌われていた女子と適当にやり取りしていたら告白された。
どうしたかって? そりゃ断るよ、好きでもない人と付き合うなんて嫌だろ?
その結果、最低野郎のレッテルを頂いて完全に孤立した所で中学が終わり、父の仕事の都合で、高校は今まで住んでいた日本の首都からかなり離れた県となった。
長い時間を過ごすコミュニティで孤立するのは流石に辛い。これは九か月だけの経験でも身に染みて理解出来た俺は、生き残る為にそれなりの努力をした。
……努力と言っても感動秘話に成り得る代物じゃない。
学校内では適当に周囲に迎合して、自分を殺せ。これだけだ。
どこぞの車のように、場所において求められる反応だけを返して笑い、正しい意味で適当な八十点の付き合いをすれば良いと理解し、そのように振る舞う内に俺は誰からもそれなりに好かれ、高校生活はいつも周りに「友人」がいる、模範的な物になった訳だ。
「砂川はいつも楽しそうだな」
「お前っていっつも笑ってるよな。悩みなんかないだろ?」
ありがとうございます、だね。
クソガキの猿芝居ぐらい見抜いてくれよセンセー。
友達名乗ってんなら少しは疑えクラスメイト様。
お前たち、本当に俺がこんな底抜けの能天気野郎だと思ってるのか? 思ってるんだろうな、人間って他人の事はどうだって良いんだし。
まあ良いや、成功は成功だ。それに地を出して孤立するよりはマシだ。そうに決まっている。
実情はともかく俺は一人ではなくなった、筈だった。
すぐに一人きりの頃と趣の異なる、虚しさと退屈さに襲われるようになった。そりゃそうだ、自分の意思を封じて適当に合わせるだけなんて、何も楽しくない。
俺の腹の底を見た奴は誰もいなくて、そこを理解した上で接してくれる奴がいないのは、どうしようもなく孤独だ。
「孤独は死に等しい」と創作物のキャラクターが言っているのを見て、失笑していた俺を恥じたい。息が詰まる程に苦しい。生きている意味なんか無いんじゃないかって安くて切実な疑問が湧いてきて、でも日常って奴は続く訳だ。
誰か助けてくれ。心は叫んでいても、顔は笑顔で楽しい言葉を吐き出す。滑稽極まりない乖離を抱えたまま、日々を消化していた。
そんなある日、いつの間にか各々の判別さえ付かなくなりつつある「友人」達と適当な会話を適当に打ち切って、俺は図書室に向かう。
「悪い、遅くなった」
「私も今来たばかりだから大丈夫だよ」
俺と同じように成り行きで図書委員になった同級生、大嶺ゆかりは既に作業を始めていた。
貸出方法の変更で必要になった、バーコードシールの貼り付け作業を黙々と進めつつ、大嶺を少し観察する。
容姿はそれなりに整っているし、誰とでも話せる良い奴だが、趣味が合いにくいし何処か一歩引いている様な面がある。「友人」達の勝手な大嶺の総評はそんな物で、実際彼女は学校の主流派にいない。
俺との接点も少なく、図書委員の仕事中も必要以上の無駄な話をしない彼女だったが、今日は度々手を止めてこちらの方を見つめてくる。
「どうかしたか?」
シールを裏表紙と背表紙に貼る単純作業に、まさか特殊な手順などあるまい。
そう思いつつ、俺がいつも通り適当な笑みを浮かべて問うと、大嶺は何処か気まずそうな表情を浮かべて口を開く。
「何でもないよ、気にしないで」
「何か出来る訳でもないけど、話ぐらいは聞けるぞ」
「あなたの事を案じていますよ」と相手に認識させる為だけの気遣い擬きにも、大嶺は引っかかる気配を見せず、更に口ごもるばかり。
踏み込むのは悪手だったと判断して、会話を打ち切り作業に戻ろうとした時、ふと脳裏に低俗な興味と期待が湧き上がる。
湧き上がった感情に突き動かされそうになるが、下手にこれを投げれば、変な尾ひれを付けて話を流布され、立ち位置を失う危険性がある。
凡人かつ、小さなコミュニティ内の立場を守りたがる小物の思考で、どうにか口を閉ざしたまま作業を片付け、退出する頃合いとなる。
「先に帰っていてくれ。ちょっと借りたい本があるから、俺がやっておく」
「ありがとう。それじゃ、また明日」
鞄を肩に引っ掛けて、扉に手をかける。後は少し右手に力を籠めれば扉は開き、外に出られる。
その状況で大嶺は立ち止まってこちらに向き直り、先ほどの、つまり作業の途中に向けて来ていた物と同じ感情を湛えた目で俺を見据える。
こちらの腹の底を見透かしているかのような、不思議な力が内包されていると錯覚する強い視線に、気圧されて黙り込んだ俺に対し、目の力とは真逆の弱い声が飛んだ。
「砂川君、無理はしない方が良いよ」
「……は?」
無理はしない方が良いよ。
完全に意表を衝かれた驚き。そして、他の「友人」達とは異なる何かを見せてくれるんじゃないか、という期待が笑ってしまう程に膨れ上がっていく。
無意識の内に続きを催促する目を向けていたのか、大嶺はもう一度口を開いてこう付け足した。
「皆が楽しく過ごせるように振る舞うことは大切だと思う。それに、普段の砂川君も楽しそうに見えるよ。……でも、自分を押し殺すところまで「頑張って楽しまなくて」良いんじゃないかな? ……ごめんね、変な事を言って」
どんな間抜け面なのか、俺の顔を見た大嶺は謝罪の言葉を残して去る。
間違いなく、彼女は出過ぎたことを言ったと後悔をしているだろうが、俺はそうは思わない。寧ろ、奇妙に胸が熱かった。
もちろん、俺が自分に都合良く考えているとは分かっている。「頑張って楽しまなくても良い」と言ったから、彼女が俺の全てを理解している都合の良い状況はある筈もなく、この言葉だって、ただの思い付きで言ったのかもしれない。
過度な期待は止めろ。他の奴とそう変わりはしないぞ。
内在する冷静な自分が説得を図っていたが、普段なら俺を制止させるそれも今回は効果を齎さなかった。
「……どうしようかな」
一人きりの図書室で、しばらくの間俺は立ち尽くしていた。
帰宅してからも消えない感情に、これは恐らく好意という奴だとラベルを貼っても、そこから先をどうするかは未知の領域だった。
空虚な関係ながら「主流派」にいる俺と、そこから遠い大嶺では接点が少ない。
上手く立ち回ればどうにかなるかもしれないが、失敗した時のことを考えるとなかなか踏み出せない。
大嶺と関係を構築する一点に於いては無駄な時間を消費して、迎えた夏休み前のある日。
前日に発生した地下鉄事故で彼女が行方不明となったと、無表情で無感情、いつでも平坦な口調が特徴の担任から、いつも通りの平坦な調子でホームルームで告げられた日の帰り道。
友人からの誘いを断り、家の近所に位置する寂れた公園のブランコに座る。
昔の人が作る言葉の上手さを噛み締めながら、後悔と事故の情報を回想し、車両ごと消え去る超常現象に巻き込まれては、もう大嶺と会う事など無いだろうと凡庸な結論を出して、軽く伸びをする。
――こうなるんだったら、もう少し積極的に動いておくべきだったな。
どうしようもない嘆きを胸に押し込み、日常に回帰するべく立ち上がって一歩踏み出した時、足元を含めた俺の周囲から地面が消失した。
「……えっ、おい、ちょっと待て! なんだこれ!?」
局面打開に何も貢献しない叫びを上げ、予定調和とばかりに身体は下に落ちていく。
変だな、この辺りは地下鉄が通っているんだから、こんなに落ちるなんて有り得ないんだが。明後日の方向に飛んで行った思考が、意識を手放す前に感じた物だった。
意識を再び取り戻した時、まず闇があった。
身体の感覚は全て正常。だからこそ、自由が利かない点に俺は不思議な物を感じる。
突然闇が消え……いやこれは違う。ただ強烈な灯りで色が黒から白に変わっただけで、まだ俺は闇の中にいる。周囲の様子が全く分からず混乱する中、マトモに機能していた耳が声を拾う。
「目が覚めたかな?」
聞き覚えの無い声だ。口を動かして回答を返すが、俺の声は全く聞こえない。
が、相手には届いていたようで、中年男性と思しき声が続く。
「不幸なことに、君は元居た世界とは違う世界に飛ばされてしまった。もう戻ることは叶わない。そこでだ。贖罪にならないと重々承知しているが、君にこの世界で生き抜く為に不足の無い力を与えようと思うのだけれど、どうかな?」
違う世界に、生き抜く為に不足のない力?
冗談としてはあまりに幼稚だ。丸呑みするとしても、力だけで社会的な居場所を確保出来るとは思わないし、可能な社会なら願い下げだ。
「君の思い人が飛ばされた世界と、ここは同じ世界だ。生命を繋ぎ止める意味はあると私は思うよ」
他人に明かしていない心の内を的確に捉える打撃を受け、俺の呼吸が一瞬止まる。大嶺がこの世界にいる? いやいや、世界が云々もそうだけど、何で出来の悪いフィクションみたいな話を並べるんだ? 信じる馬鹿は今時いないぞ?
俺の理性は真っ当な判断が出来ている。
でも理性の先にある物は、明らかに男の言葉に希望を抱き、在り来たりな欲望を成就させたいと願っていたようで、勝手にリアクションを返していた。
「良い返事を頂けて嬉しいよ。すぐに力の譲渡は終了するが、一度眠って貰う必要がある。目が覚めた時に変な所に降り立っていたら、ハレイドという町に向かうと良い、私が力を貸そう」
声が途切れると同時に、白から七色に変色した光が俺の周囲を覆う。
光は絡み合い、空想の生物が有する醜い腕に形を変え、腕は俺を鷲掴みにした。四方八方から腕に引かれ、激痛に対する絶叫を漏らす猶予も与えられぬまま、俺は無残に引き千切られて破片と化す。
何故この状態になっても意識があるのか。
疑問さえも微塵に砕く光は俺の全細胞に侵入し、人としてあるべき何かを書き換えていく。
例えとして置き換えられる物がない、唯一にして最悪の苦痛を受け続け、生きる意欲が焼かれていく。もういい、こんな苦痛を被ってまで望みを叶えたくないから、俺を解放してくれ!
惨めで切実な願いを嘲笑するように、再び現れた光の腕が俺の破片を引き寄せ、押し固め、かき混ぜる。
処理能力が限界に達したのか、ここで俺の意識は七色の光の底まで沈み、そしてそれすらも認識出来なくなった。
◆
「イサカワ殿。体調でも悪いのか?」
アガンスで一、二を争う規模と、市民からの絶大な信頼を誇る「ベイリス特殊事務所」の所長室。
対面するイタル・イサカワから手渡された書類を一読し、彼に返答を返すべく顔を上げたマルク・ペレルヴォ・ベイリスは、心ここにあらずの相手に、気遣いの目線を向ける。
「あ? ああ、申し訳ない。では、返答を聞こうか」
素であろう、年齢相応の戸惑いの表情を覗かせたイタル、そして自身の隣に立ち、隙あらば相手を殴殺してやろうと殺気立つフリーダに交互に視線を向ける。
小さく溜息を吐いて、アガンスの名士は口を開く。
「ヒビキ・セラリフの確保、場合によっては殺害の依頼は、ハレイド政府の意向であっても、我が事務所は請け負わない。これが答えだ」
「……報告を行いやすくする為に、理由をお教え頂けるとありがたい」
最悪の回答とは異なる物が雇用主から出され、フリーダの表情が和らぐ。
対照的に、眉を跳ね上げる以外に感情の揺れを抑えた異邦人に、ベイリスは微量の驚きを抱きつつ、書類を相手方に滑らせて口を開く。
「彼が本当に殺人を犯したか。ここが曖昧に過ぎる。目撃証言はあったにせよ、発覚拘束を試みる流れがあまりに速い。憶測で語るのは流儀に反するが、少なくとも彼の主張を聞かない限り、私は彼を容疑者と見做すつもりはない」
「知人、という点で手心が入っているのでは?」
「その点は否定しない」
当てこすりに近い問いにあっさりと肯定し、若者二人が鼻白む中、氷舞士の言葉が室内に朗々と響く。
「この事務所は独立採算の組織で、私が一応の頭目だ。国の仕事を委託されていても、それは業務の一部であり全てではない。成功報酬以外で金銭を受け取った訳でも、事務所が税金で生かされている訳でもない。よって、私的な感情で仕事を選り好みする権利はある。現段階では意見を変えることはない」
「承知した、貴方の発言は包み隠さず報告させて頂く。……邪魔をした」
あっさりと引いたイタルにフリーダは驚きの、そしてベイリスは確信を得た表情に変わり、所長室の扉に手をかけたイサカワの背に声を投げる。
「力を手にし、何もかも肯定される状況は確かに心地よいだろう。しかし、君の望む物は現状の振る舞いとは異なる筈だ。……今からでも遅くない、せめて同じ世界の存在と聞くユカリさんには真実を告白し、道を修正するべきだ。これについて協力を求めるのなら、私は喜んで君の力になろう」
年長者からの真摯な言葉を背で受けたイサカワは、しかしそれに対して何か返すことなく退出。フリーダは忌々し気に閉ざされた扉を睨み、彼を視線で諌めたベイリスは杖を手に取って立ち上がる。
先日の『正義の味方』との激戦で『エトランゼ』の技を再現する暴挙を行い、反動で数週間の戦闘禁止を言い渡された氷舞士は、それが解除される頃まで歩行の障害が残るとも診断されていた。
機動性を著しく欠く現状で仮に先手を打たれた場合、苦しい戦いが待ち受けていた事への恐怖を、おくびにも出さず氷舞士はフリーダに向き直る。
「交渉が終了しても、相手が完全に立ち去るまで緊張を解いてはならない。相手が退いてくれたから良かったが、狡猾な相手なら隙を衝かれていた」
「肝に銘じます。……ヒビキの追跡を蹴ってくれて感謝しますが、最後に何故助力を匂わせる言葉を? あんな奴……」
「根っからの悪だから助ける必要などない、かな? 君の次の言葉は」
図星を突かれたか、フリーダは口を中途半端に開いた状態で硬直。彼の視点に立てば、ヒビキを苦境に陥れた憎むべき相手と、イサカワの像は固まっている。
ベイリスとて、そこから大きく離れた見方をしている訳ではないが、疑問を解く為にグラスに注がれた水で唇を湿らせて口を開く。
「確かに彼は悪の可能性が高い。しかし、根元から腐り果てていないと私は考えている。地位や権力をひけらかす真似を、仕事に持ち込む者は無数にいる。他人の意見を一切聞こうともせず、意見を暴力で押し通す者もまた然りだ。彼の噂は少なからず耳にしたが、少なくとも公の場では、ヒビキに見せた類の行為は行っていない」
「……」
「付け加えるなら、彼からは犯罪者や異常者特有の気配がなく、一挙一投手足に迷いがあった。恐らく、彼自身も宿った力へ理解が及んでいない。行使に対する怯えと疑問が見えた。根本が腐っていれば、とうに捨てられる物を彼はまだ残している。そこに希望はある筈だ」
「だから助力の手を差し伸べたのですか?」
鷹揚に頷いて肯定したベイリスだったが、表情はすぐに曇る。
結局のところ相手に変化を齎せず、事態を現状維持に留める事が精一杯。ヒビキの救出に関する事象は停滞。
最低限の意思表示が叶った点だけが成果とあっては、心が痛むのだろう。
事務所に勤務を始めて、二週間も経過していないフリーダでも推測可能なほど、氷舞士は善に傾倒している。
四天王に推挙されながらも、最終的に国王が拒んだ理由はここにあるのだろう。そう推測をするフリーダに、ベイリスの声が飛ぶ。
「皆もそろそろ戻ってくる筈だ。私は情報の整理を行う。君はルーチェを連れてきて欲しい。情報の提供と今後の行動計画の立案はその後で行おう」
イタルの前で啖呵を切ったが、安定した収入を齎す国の仕事を失うのは、経営者からすれば非常に恐ろしい話だ。
被る打撃を理解しながらも、同郷で仕事で助力を受けただけの存在の為に、それを投げ捨てる意思表示をしてくれた男に対し、少しは報いる必要がある。
力強く敬礼を返したフリーダは所長室を辞して、彼が提示した目の前の仕事をまず片付けるべく事務所を飛び出した。
彼より先に事務所を退出していた少年、即ちイタルはアガンスの町を『転瞬位』を用いて脱出し、ハレイド市街を特段の目的意識を持たずに歩んでいた。
凡庸な体格に今一つ合わない豪奢な軍服を着用していない上、軍に拾われたばかりの彼を知る一般人は皆無に等しく、少女達もこの場には不在。
図らずも静かに思考出来る環境を得たイタルの内心では、氷舞士の言葉が何度も反響していた。
思うように力を振るうのは楽しいし、容姿の秀でた少女達が自分の元に集ってくるのも快い気分にはしてくれる。元の世界では決して出来なかった事だ。それらは全て、意識が判然とするなり使えるようになった奇特な力による物だ。
しかし、時折生まれる意識の断絶と、現在地の急激な移転、そして主観的な意識を保てているにも関わらず、言動をコントロール出来ない事態は、一体何なのだろうか。
何故、少女達は自分の元に集うのか、ここまで急激な立場の上昇が叶ったのは何故だ。
「うわっ!」
「――っと」
強大な力への酔いをも打ち消す、強い疑問を抱えて歩むイタルの背に鈍い衝撃と、情けない声が届く。
不意を衝かれる形だったが、体勢を崩すことなくそちらに向き直った彼の目に、紙が盛大に舞う光景と、特段の外見的特徴が存在しない男が舗装路に転がる様が映る。
「大丈夫ですか?」
「ごめん。久しぶりに外に出たものだから……」
無精気味に伸びた髭が不似合いな若い男の声が、イタルの顔を見た瞬間に硬直した。初対面にこんな顔をされる覚えは、無いと言えば嘘になるだろうが、ここまで激烈な反応をされる謂れはない。
「きっ、きききっききみは!」
「?」
そうこうしている内に、破綻した叫び声を上げながら男は落っことした紙を搔き集め、何度も足を縺れさせながら、イタルから遠ざかっていく。
行き場を無くした手を後頭部に持っていき、一人残された彼は暫しそこで立ち尽くしていたが、不意に地面に転がっていた物に気付いてそれを手に取る。
「身分証、か?」
無精髭を剃った男の写真が載ったそれには「ジェンジ・エスパロガロ」と名前が記載されていた。住所の記載は見つけられなかった為、警察にでも届けようと決めた時だった。
「――っ!」
首筋に鈍痛が奔り、その痛みは上昇して脳に達する。一呼吸ごとに形容の形が変化する
痛みに襲われて蹲ったイタルだったが、それはすぐに終息し、何事も無かったように立ち上がる。
周囲を見渡し、そして手中の身分証を見つめる目から、先刻まで有していた色は霧散し、人形の少年を痛めつけた時や、同じ世界から来た少女と対峙した時と同じ物が宿っていた。
◆
同時刻、ギアポリス城の王の私室。部屋の雰囲気と著しく乖離した、野営時に用いる簡易テーブルを挟む形で二人の男女が対峙していた。
「最近の糧食は味も良くなっている。君が前線の要だった頃とは比べ物にならない進化だと思うけど、実際の所どう感じているんだい?」
「技術進歩の加速を考えれば、驚く事でもありません。そもそも、食事をするだけならこのようなテーブルなど必要無いですよね? それに、食事なら私が……」
「ルチア君の気持ちはありがたく受け取ろう。本題に行こうか。ユアン君は今何をしている?」
粘土状の軍用糧食をスプーンで掬い取って口に運び、味の品評を繰り広げていたサイモン・アークスは焦りも露わに部下の言葉に問いを被せ、対面する四天王ルチア・バウティスタは、爬虫類を想起させる三白眼を細めて応じた。
「ユアンは自宅待機かと。彼の自宅は幾つもありますから特定は不可能ですし、あくまで一応ですが彼の言い分も正当性があるので、行動の強制は難しいですね」
「なるほど。例の件で煽っても駄目かな?」
「覚悟を決めている者に揺さぶりは無意味かと。彼を指示通りに動かすにはハズレのゴミの現在地を割り出す必要があります。……あの勘違い男を差し向ければ良いのでは? 途中で死ねば構想と異なれど良い筋です」
「言葉が悪いよルチア君。彼は立派な私の部下だ。君達と同格としても良い」
期間限定だけれどね。と付け加えて含み笑いを漏らし、再び糧食を口に含んで何度か頷いた後、サイモンは言葉を継ぐ。
「正直に言えば、彼がハズレを倒して彼女を連れてくる事が最良だった。けれども、ハズレを失った彼女は狂竜を手札とした。奴の執着対象を考えれば何れ彼女とは離別する。でも、いつになるかは読めない」
「最高指揮官はヴェネーノ討伐作戦への署名を求めたそうですね」
「狂竜の首を取れば、彼の派閥が我が軍を数代先まで掌握出来る。そう言った私欲を差し引いても、国民の精神は大きく安定するだろう。居所が掴めたのなら動きたいのは当然だ」
アークス国王はスプーンを手放し、直属の部下に対して広げた状態の両手をゆるりと上げる。足も上げようとしたのか、両膝をテーブルに強かに打ち付ける音が響いて、彼の顔が歪む。
「これだけの国が、ヴェネーノ一人に滅ぼされた。我が軍に匹敵する練度の軍を持つ国も、その中にあった。……ヒトは欠落を埋める為に何かを求める。だが彼は「世界最強」という漠然とした物にそれを求めた。集団は安定した力を生むが奇跡は起こせない。彼を倒すには奇跡の介入が必要。だから彼の討伐作戦に軍は出せない。国民の命を浪費させない為の単純な話だ」
「私が言うのも間違いなのでしょうが、仮にも国民をハズレと形容した口で、よくその主義を語れますね」
「厳密には国民ではないからね。船頭の邪魔が入って目的には使えなくなったから、大切にする対象からは外れている。それだけだ」
慈愛から無関心、「船頭」の単語には憎悪と、目まぐるしく感情の色を変える雇用主にルチアは反応を見せず、缶詰の中身を全て食べ終えた上で、彼女が今欲している物を得るべく問いを重ねる。
「では次の指示を」
「タドハクス砂漠で活動を行っている緑化研究員から、類似の人物を目撃したと情報が出ている。真実とするなら、彼が向かうのはフィニティスのあの研究所だ。そこでユアン君に始末してもらえば自国内で完結する」
「無実を勝ち取る上で必要な何かを得る為、あそこに向かう訳ですか。……狙いが分かっているのなら、都合の悪い材料を消しておくべきではないでしょうか?」
「最終的に死んで貰えれば良い。仮にユアン君に勝利して帰還を成せたなら、引き伸ばしに成功したと褒めるべきだし、情報と一時の平穏を褒賞として与えてあげる事が、勝者に対する礼儀だと思うよ」
「……御意に」
主君の物言いに若干の疑問を浮かべながらも、結局理解を放棄した風情で部屋を辞したルチアを見送り、サイモンは両手を組んで瞑目する。
喧噪が消えた室内の空気は、いつの間にか、全ての他者の理解を拒む、冷たく張り詰めた物に入れ替わっていた。
彼の中で回っている物が何であるか、外部から伺い知る術はない。
ただ、再び開かれた双眸に宿る光は、彼が纏う質素極まる僧服が有する意味とはかけ離れた、確かな闘争の光が宿っていた。
「常識で考えればユアン君が勝つ。だが、狂竜と対峙して生き残った男だ、常識はあまり役に立たないとみるのが妥当。……違う筋書きの準備もしておくべき、か」
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