7

 とあるビルの屋上。ユカリの身体が宙を舞い、そして柵にぶつかって停止する。背を打ち付けて身体が軋み、彼女は激しく咳き込む。

 時刻は深夜。不眠症のハレイドにも人の気配は薄く、音を受け誰かが出てくる気配もない。

「その程度か。満足させろとは言わんが、いい加減俺の指以外を動かすよう仕向けてみろ」

 人差し指一本の突きとは思えぬ重い一撃を受け、胃の内容物を全て吐き出し、そのまま意識を手放したい衝動に駆られる。が、鋼の声と現実は、ユカリにそんな甘い物を許してはくれない。

「……もう一度お願いします」

 転がったウラグブリッツを握って立ち上がり、震える声で告げる。

「好きに攻めてくるが良い」

 左手の人差し指を一本立てた状態で脱力して立つヴェネーノは、愉快そうに笑う。圧倒的な強者に対し本能が怯えを叫ぶ中、ユカリは突進する。


 片方には全く旨味のないこのやり取りのきっかけは、昨日の夜にあった。


「小娘、異なる世界からの来訪者という貴様の言は事実のようだ」

「どうしたんですかいきなり……」

「ここ数日見てきた、貴様の無能具合で理解した。魔術や世界についてあまりに無知で無力だ。よくここまで生き残っていたな」

 先日繰り広げた暴虐で得た生物の肉を、骨ごと噛み砕いて咀嚼したヴェネーノの評にユカリは閉口する。

 能力の低さから異なる世界の者と断じられたのは初のケースだが、反論は出来ず、眼下に広がるハレイドの人口灯の海に視線を向ける。この町に到着し、手始めにヒビキを取り巻く状況を確認した結果、それが彼女の予想以上に悪い物と知った。

 目撃済みの手配書に加え、受信可能な地域に限るが、手配書をベースにした報道が為されている。早急に解決策を手にする必要があり、夜明けと共にマッセンネへ情報収集に向かうと彼女は決めていた。

 明日の動きを模索しながら、自身が得た筋張った肉を難儀して咀嚼する彼女を、狂戦士の刃の瞳が凝視する。


 約定では興が削がれれば斬られる。


 眼前の相手は実行に対し、何ら躊躇の無い性分だと嫌という程理解している。

「弱さが過ぎて話にならん。加えて、弱いままの者には我慢がならん。少しばかり教育してやろう」

 身体を強張らせていた彼女にとって、狂戦士が放った言葉は予想からかけ離れた物だった。

 呆気に取られた様子で固まるユカリを他所に、肉を文字通り完食したヴェネーノは、食事中も握っていたフランベルジュを掲げて立ち上がり、アークス王国首都を悠然と睥睨する。

「……教育って、一体何をするんですか?」

「戦闘力以前に最低限の知識が無いままで許されたのは、ヒルベリアの特殊な環境故。貴様が生き延びる為には、それらを身に付けておくべきだ」

「あ、ありがとうございます……。でも、ヴェネーノさんが指導してくれるんですか?」

「知識はあるが、万が一にでも誤った知識を与えては困る。よって、主に教えるのはザルコだ」

「……ザルコ?」

「はいはーい! 私です私!」


 心臓を鷲掴みにして直接揺さぶる重低音が上方から襲来し、反射的に顔を上げたユカリの目に、月をも隠す巨大な飛行物体が映る。


 一直線に接近するそれの全体像が徐々に明らかになってくるが、既存の知識の何処にも無い姿だと認識し、ユカリの不安と疑問が急速に膨張する。

 やがて二人のヒト族を見下ろす形で、緋色の二等辺三角形が立ち並ぶ口蓋が映る。生物が通常あるべき場所に二つ、茨の如く複雑に湾曲する無数の角の中に二つと四つ存在する瞳は、琥珀色に鈍く光る。背部の翼は、それぞれ異なる形で片側三枚、計六枚が黒の鱗で覆われた身体から伸びていた。

 薬缶から噴き出す水蒸気に似た熱と勢いの吐息を浴び、瞬く間に顔や身体がずぶ濡れになるが、ユカリは眼前の竜に対する恐怖で動けない。

「あぁ、これが異世界の、そして獲物の友人ですか。でも、何故に私を?」

「日頃貴様が自慢している、血統と知識を活用する機会と考えたからだ」

「なるほど、流石ヴェネーノさん、私の操縦方法は完璧ですね!」

「十五年も付き合えばいい加減分かる」

「あ、あのう。この竜は……」

 置いてけぼりの状況下で辛うじて問いを投げると、仰々しく動いた琥珀色の瞳に全身を照らされ、ユカリの身体は縮こまる。対称的に、ザルコと呼ばれた異形の竜は楽しそうに六枚の翼を揺り動かした。

「私の名前はザルカリアス・フェリリウム・カッ……」

「『蝕輝竜』ザルコだ。白銀龍の遠縁らしいが、ヒトの罠に嵌る間抜けだ」

「ひど! 名乗りを遮った挙句悪口まで言うなんて! これは大激怒案件ですよ!」

「やれるものならやってみろ。容赦はしないがな」

 ところどころ物騒だが、概ね友人同士の気安い調子の会話を広げる様は、美辞麗句を並べ立てる職の者なら、「美しき異種交流」とでも形容するだろう。

 世界最強の狂戦士と、一語一語が地響きのように重く、無意識に魔力を撒き散らして受け手の体温を低下させ続ける黒竜が当事者の為、瞬きも忘れて硬直するユカリの反応が正しい物になるのだが。

 彼女を他所に何らかの合意が成ったのか、ヴェネーノが退いてビルの柵に座す。そうユカリが認識した時には、既に狂戦士は瞑目し行動を停止していた。

「何かあればすぐフランベルジュを抜いて斬りかかってくるでしょうし、始めましょうか。お名前は?」

「大嶺ゆかりです」

「ユカリさんですね。私は――」

「ザルコだ」

「……ザルコで覚えてください。しかし東方人種は他所の世界にもいるんですねぇ、ユカリさん、あなたは魔術がどうやって存在しているかご存知ですか?」

 ビルを軋ませる黒竜の魔力の波濤に、全身が総毛立ちながらもユカリは首を横に振る。すると竜の口元から淡い水色の光が漏出し、光は奇妙な楕円状の物体を描く。

「私達生命を形作り、大気中にも存在する不可視物質。『素粒』と呼ばれる物は世界にいる者全てが体内に有してますが、ヒト属は意図的な使用を最初行っていませんでした」

「素粒の貯蔵量の問題以前に、猿から進化したばかりの生物に身に余る代物だったのだろう。だが、元より先天的な武器や力に劣る存在は、何もしなければ絶滅の一途を辿る。我らヒト属は道具の開発と、竜や魔力形成生物が放つ魔術の体得を生存への手段とした」

「脳内に虚構空間を生み出して設計図を組み立て、全身や大気中の素粒を消費。そして無から有を生み出す。この一連の流れを、それこそ神の御手によるもの、はたまた何らかの偶然でヒト属は知った。実際に素粒の生成、運搬を行う力、いわゆる魔力を消費する訳ですから、有から別の有に作り変えているだけですが」

 押し寄せる大量の情報に翻弄されながらも、戦いそのものよりは何とかなると自身に言い聞かせて咀嚼を試みるユカリに対し、竜と狂戦士の講釈が続く。

「最初に生まれたとされる物が、自然現象や動物の器官を再現した『生象系』。我々竜もある程度使っていましたが、科学技術の発展と共に爆発的な発展を遂げた『化成系』、世界の法則を乱す『変象系』。そして既存の枠に収まらない『超越系』の四つに、魔術は分類されています」

「炎を放つ魔術でも、『牽火球フィレット』とナパームを生成して放つ『焦延留炎バルドラム』では系統が違う。生然系の前者より化成系の後者の方が、ナパームの組成を正確に把握する手間がかかる。人工物であるが故に構築式も複雑化し、消耗も増大する」

 ごく僅かな期間と言えど、行動を共にしている狂戦士がこれまで使用した魔術は『竜翼孔』のみ。推論だがこれは『生象系』に該当する筈。

 ユカリの視線に気付いたのか、四つ目の黒竜はヴェネーノに身体ごと向き直る。

「この人は魔力回路に問題があって基本的に『生象系』しか使えませんね。『変象系』の『破幻詠エクスプローディア』は、あくまで竜の咆哮を真似ただけですし。でも使い手が極めて少ない『超越系』を創出しているだけで、十分歴史に名を……」

「剣技だ。断じて魔術ではない」

「いや、アレは何処からどう見たって魔術でしょ。まったくこれだから――」

「あの、超越系の魔術を持っている人はどの程度いるんですか? まさか……」

 まさか、ヴェネーノさん以外はエトランゼだけなんて言わないですよね?

 仮にそうだった場合、たった今自分が行動している理由となっている少年の命が絶望的になる。

 抱いた悲惨な推測が現実でないと、縋るように溢して途切れた問いを、彼女の意思を知ってか知らずか、両者は丁寧な回答を返す。

「『断罪ノ剣アポカリュート』や『時序可逆遡行デローリア』を有するエトランゼ。そしてカロンが繰る様々な魔術の全て。超越系の天然物は以上だ。無論、俺が知り得ぬ物が存在する可能性は十全にある」

「大戦以降、即ち記録が残っている中では、現代は使用者が多いです。劣化でも『断罪ノ剣』を再現したマルク・ペレルヴォ・ベイリス、『少女は剣と屍の上で踊るトーキー・ダンスホール』のデイジー・グレインキー。この人に負けましたが東華のヤン・リーエン。そしてこのヴェネーノ。デイジーの力は、薬物と強引な肉体改造でようやく成立しているお粗末な物ですが、『超越系』を持っている一点で四天王になれましたからね」

 泣き喚かなかったのは、単に感情が寸刻麻痺していたせいだ。二人の語った内容は聞くだけで恐ろしく、内容を理解した彼女を絶望の底に叩き落とした。

 お粗末とザルコが評したデイジーすら、ヒビキ達は真っ向勝負を回避しようと常に行動している。竜の口ぶりではヴェネーノは彼女を遥かに上回り、彼より上にいるのはこの世界で神に等しい存在と、世界を跨がせる奇術を持つ者。

 釈迦の掌で転がされた孫悟空の逸話が、元の世界にはあった。

 差異はあるが、大筋の状況はまさしくこれで、どう足掻こうがヒビキの社会的、肉体的どちらかの死は既に確定したのではないか。

 逃げ出して良いと言われれば、恥も外聞もなくこの場から去っていたのは疑いようが無いし、眼前の二人は別段退路を塞がなかった。

 恐らく前進して世界の狂暴な側面を深く知っても、尻尾を巻き遁走しても地獄が待っている。

 どちらに進んでも良き目は出ないが、現状と未来を変える可能性を齎すのがどちらかなのかの問いに、ユカリは答えを出して腹を括った。

 掌に噴き出していた汗をズボンで乱雑に拭い取る。

 引き攣った頬を左手で抑え、口元を右手で覆い暫し思考を整理しながら身体を襲う震えを抑え、心なしか微笑を湛えているようにも見えるヴェネーノを見据える。

「取り乱してすみません。ヴェネーノさん、続きを……」

 言葉を遮り、ヴェネーノが突如フランベルジュを構え鋼の瞳を下方に向ける。

 ヒビキと対峙した時より温いが、ユカリに怯えを抱かせるに足る闘争心を全身から放出し、狂戦士は一歩踏み出す。

「余計な客が来た」

「あなたと私がここにいたらそうなりますよねぇ。どうするんですか?」

「蹴散らすまでだ。ザルコ、貴様は小娘を守れ」

「あなたの力なら、私がどうこうする必要はないでしょうに。でも、了解しました」

「すぐ戻るが、不在中に貴様が逃げても俺は何も言わん。何を決断し、何を選ぶか。これは全ての者が等しく持つ権利だ」

 言い捨ててビルから飛び降り、ものの数分で、この場所からかなり離れた地点から、剣戟や魔術の炸裂音が届く。言い分から考えるに殺戮劇の開幕はない筈だが、やはり不安は残る。

 夜の町を茫と見ていたユカリだったが、やがて隣から聞こえる笑声で我に返る。

「大丈夫ですよ。あの人は大悪人ですし、ろくでもない思想に取り憑かれていますが、だからこそ弱い人を無意味に殺す事はしません。今彼の頭の中は、多分ヒビキって方を倒す事で満たされてますしね」

 親しい間柄であるが故の軽い、しかし確信に満ちた物言いには納得が行った。そこで、彼女の中で次の疑問が浮かぶ。

 ヒトと竜では当然後者が格上の筈。眼前の黒竜が自慢げに語った「白銀龍」の親戚という部分をヴェネーノも否定しなかった。


 では、何故高位の竜たるザルコはヴェネーノと親しくしているのか。


 疑問を伝えるなり、黒竜の鱗が瞳と同色に瞬きユカリは身を竦ませる。そして、緋色の剣が並ぶ口蓋が開かれる。

「恩義ですかね。十五年前、私はアメイアント大陸を住処にしていたんですが、その中にあったプラウディム共和国って国に捕獲されまして。支配者級の生物と戦った直後に『剛錬鍛弾ティー・ツァエル』やらを雨のように浴びては、流石に勝ち目がなくてね。お陰で翼が二枚無くなりました」 

 暴風と共に黒竜が反転し、奇妙な背部を異邦人に見せつける。

 そしてユカリは後天的な作用が明確に伺える欠落と、僅かに露出した肉の赤を発見し、黒竜が受けた痛みを想像して顔を歪める。

「『蝕輝竜』の二つ名通り、私の血は生物器官の結合を崩壊させる作用があります。逃げなくて大丈夫です、私が発動しない限り、効果は出ませんから」

「ごめんなさい」

「いえいえ。で、プラウディム共和国は大陸一の巨大国家、コルデック合衆国を打倒、そして大陸全土を支配すべく国の支配者層を除いた国民全てを、死して尚戦い続ける兵隊に変える研究を行っており、既に投入可能な領域に至っていました。私は最後のピース、彼らの持つ武器の素材として捕まった訳です」

 非人道極まる研究内容を告げられ、ユカリは絶句する。

 国は国民があってこそで、どれだけ悪辣な国でもお題目を最低限整える事が常道。

 お題目の放棄を通り越して、国民全てを兵器として使い捨てるなど、狂気の沙汰であり理解不可能。そして、そんな国に囚われたザルコが今生存しているのが、彼女の中で巨大な疑問として浮かぶ。

 瞠目し、やけに乾く喉を唾液の嚥下で誤魔化し、ユカリは続きを促す。

「そんな訳で、散々血や鱗を取られて解体を待ちの状態だった時、ヴェネーノが現れた訳です。上半身に刺青を入れているなんて知りませんでしたから、最初はおったまげましたよ。全身血塗れの下から変な光が瞬いてたんですから。で、私を見るなりこう言ったんです。「貴様がこの大陸の覇者か。何故捕縛されている?」ってね。ハナから殺意満々だったのは今と変わらないですね」

「それで、ザルコさんはなんと?」

「そりゃ否定しましたし、死ぬなら真実を知る者がいて欲しいので洗いざらい喋りましたよ。したら彼怒り狂いましてね。「己の命を賭さずして最強を目指すなど腐っている。俺が全て叩き潰す」と。あれだけ怒った彼は、あの時だけですね」

 良き戦いの為なら、非合理的な行動も厭わない。

 ヴェネーノの行動指針は、この数日間自身と行動している点で明白で、彼がそのような怒りを抱いた事は想像に難くない。

 そして、眼前の黒竜の口ぶりからするに、最悪の兵器は解き放たれなかったと考えるのが妥当だろうか。

「エトランゼ殺しの魔剣で私の拘束を解いたと思った瞬間、返す刀で研究所をぶっ壊し始めて、出てきた警備の軍人も殺した段階で、プラウディムの上層部も焦って国民を死人兵に変えました」

「え……」

「数百万の死を恐れず、何度も蘇る軍勢とヴェネーノは数週間戦い続け、全てを打倒した。『国喰らいの竜』の異名や、彼の奥義の発想はここで生まれました」

 最悪の兵器が解き放たれた事以上に、ヴェネーノが勝利し国を滅ぼした事実に、ユカリの身体に雷撃が奔る。

 数百万に及ぶ無辜の人々を殺戮し国を滅亡させた行為は、どう取り繕っても悪だ。だが、ヴェネーノが何もしていなかった場合、最悪の兵器の力で途轍もない災禍がアメイアント大陸を襲っていた筈だ。

 世界を傾ける危険があっても、情報が虚偽だったり、滅亡させる領域まで進めた際の非難等、様々なリスクから、正規手段で国が他国への侵攻するのは非常に難しい筈。

 となると、ヴェネーノは世界の危機を回避したという、異名との乖離が激しい偉業を成した事となる。彼に対する認識をどう定めるべきか混乱するユカリを他所に、黒竜の話は締めくくりへ向かう。

「動かない死体の海を前に、「次に会う時は敵同士だ」と言って彼は去ろうとしました。ですが、受けた恩を返さないのは竜としても悪。引き止めて三日三晩議論を重ねた結果、今の関係に至りました。何らかの切欠で敵となれば私も瞬殺されますが彼は愉快な男ですよ。ユカリさんには恐ろしくてたまらないでしょうが、色々盗んで今後に活かしてくださいね」

「懐かしい話をしているな」


 振り返ると、無傷のヴェネーノが防護柵に腰かけていた。


 無傷の身体と、音が絶えていた事実から感知した追手に完勝した様子の男は、ユカリの視線を受け鷹揚に笑う。

「寝て貰っただけで殺していない。付け加えるなら、連中に顔は見られていない。そして竜は嘘を吐かん。これが答えだ」

 回答を受け、圧倒的な技量を再認識させられた男を、ヒビキが打倒出来るのかという疑問と不安が再燃する。

 しかし、これについて自分がどうにかする事は出来ず、過去の修羅場をくぐり抜けてきたヒビキを信じる他ない。

 今自分がやるべき事は、ザルコの言う通りヴェネーノから知識を盗み、夜明けと共に再開されるヒビキの無実を獲得する為の取り組みに、全力を尽くす事に尽きる。

「さっきの続きをお願いします。三系統についてお話が出ましたが、『変象系』は一体何が該当しますか?」

「代表的な物は『転瞬位トラノペイン』だ。他にも『破幻詠』や『歪惑界過ロウレルト』が該当する。もっとも、俺は使用出来んが」

「『変象系』は、この世界に存在する法則に手を加え奇跡を実現させる物ですからね。無意識かつ超高速で面倒な計算を完成させ、世界に顕現させるには、膨大な魔力か知識の保有と、それを転がすだけの処理速度が必要で、魔力量によるごり押しが効きませんから、この人は使えません。主として使用するヒト族は、基本的に高等教育機関で教育を受けた者だけです。ユカリさんは『生象系』から――」

 奇怪な講師陣による講義は夜明けの少し前まで続き、これによってユカリのこの世界に関する知識と、底知れぬ魔術やヴェネーノへの恐れが、確かな増幅を果たしたユカリに対し、ある提案が投げられた。

「知識ばかり詰め込んでも意味がない。貴様が望むのならば、同行している間に限るが稽古をつけてやろう」

「おぉ、あなたにしては太っ腹過ぎる発言ですね!」

 呑気なやり取りの後、両者から視線を向けられたユカリは身を竦ませるが、すぐに首肯を返す。世界最強に鍛えて貰えるなら、守られるだけの立場からの脱却も少しは出来るようになるかもしれない。

 そのような意思を知ってか知らずか、ヴェネーノは突き出した右の拳から人差し指を立て、数秒経過してもユカリが踏み込んでこないことに訝しむ。

「来るが良い」

「……武器は使わないんですか?」

「寝言は寝て言え」

 にべにも無い回答を受け立ち竦んだユカリに、姿勢を変えない狂戦士の鋼の声が飛ぶ。

「貴様の実力は俺にとってこの程度だ。不満なら俺を打倒してから言え」

 煽りの類が一切ない、単なる事実の提示だが、短気な者や半端な腕自慢なら怒り狂っていただろう。力に欠けるが故に負の感情を抱かずに済んだユカリは、深呼吸をした後突進。

 片方が停止している事で両者の距離はすぐに詰まり、薄緑色をした刃を、ユカリはヴェネーノの脇腹に向けて薙いだ。

 そして、無音のまま彼女の動きが止まり、ウラグブリッツも持ち主に呼応する形で、前進も後退も出来ない状態で停止する。


「やはり弱い」


 疑問と、狂戦士の声が届くと同時に、異邦人の身体は一回転。硬い地面に、負傷しない程度の速度で落ちる。何もかもが理解出来ず顔を上げたユカリの目に、数秒前と全く同じ姿勢で立つヴェネーノの姿が映る。

「現実はこうだ。続けるか?」

「……続きをお願いします」

 こんな所で折れていてたまるかとばかりに、跳ね起きたユカリは蝕輝竜が見守る中で、再度ヴェネーノに挑む。

 体力が尽きて泥のように眠りに落ちるまで、彼女は百回近く地面に伏せる羽目になり、ヴェネーノを一歩たりとも動かせなかった。


                   ◆


 緊急事態の中で勉強をするなんて思ってもいませんでした。私が魔術を任意で使えるようになるのか分かりませんが、何がどこで役に立つか分からないので、可能な限り覚えていきたいですね。

 必要性が高い接近した戦いについては……自分の弱さが恨めしいです。一歩も動かない相手に叩きのめされるのは、ヴェネーノさんが強いと分かっていても悔しい物があります。

 一刻も早くヒビキ君の状況を変えるのが第一ですが、その先を考えて、少しでも強くなれるよう、ヴェネーノさんから盗んでいきたいと思います。

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