8

 鬱蒼と生い茂る木々の隙間を縫い、長い首を持つ竜脚類『エウコリアス』が一頭、陽光をも遮る深い森の中を歩んでいた。

 竜脚類の括りでは小型の部類に入るが、全長七メクトルを誇るエウコリアスに伍する肉食生物や、彼を問答無用で捕食可能な竜はこのアムネリス大森林には不在。

 故に、エウコリアスはこの森の王であるかのように悠然と歩み、時折立ち止まっては木の幹を器用に剥がして食む。光景の端役となる小動物や鳥達も、敵意を持つ者が存在しない平和な世界を謳歌する。

 大自然が生み出したささやかな楽園を、不意に風切り音が切り裂く。周囲の動物達は音を認識し、彼らからごく近い所で発せられた、もう一つの音が止まった場所に視線を向ける。

 エウコリアスの生命を司る心臓が収められた胸部に、一本の矢が深々と突き刺さっていた。

 命中箇所、傷の深さ共に致命傷となるに足る物であり、仮に至近距離から矢を放ったとしても一撃で成すのは難しい物だった。

 それが、全ての者の知覚領域外から襲来した矢で刻まれた事実は、受容し難いものだった。

 エウコリアスの巨体の痙攣と呼応するように、吐き出される泥濘にも似た血を避けつつ困惑する獣達の耳に、今度は土を踏みしめる音が届く。

 彼らより大きな生物が発するそれが、確実にこの場所に近付いていると理解した獣達は四方八方に逃げていく。

 逃げ行く彼らとすれ違いながら、足音の発信者は黙々と歩み、大木に凭れかかって絶命したエウコリアスを見上げる。

 木を適当に削って製作したと思しき粗末な弓を提げ、背負った矢筒とそこに収められた矢も似通った代物。そして、得物を使用して草食竜を仕留めた者は、信じがたい事に、まだ幼児の括りに入る年頃の男児だった。

 多様な染料を活用した独特の色彩を持つ衣服の上に、木々に溶け込む事を重視した色の長外套マントを羽織り、一端の狩猟者の風情を醸し出す男児は、戦利品を持ち帰るべく長い首に縄を括りつけ、引き摺ろうと試みる。

だがトンを超える重量は流石に無理があり、暫し悪戦苦闘した後、男児は懐から『鷲頭竜』の頭部を模した笛を取り出して吹き鳴らす。

 音が森に溶けていく中で、四方八方から男児と同じ装いの、両耳が尖った男達が草木を掻き分けて現れ、喝采を上げながらエウコリアスを引っ張っていく。

 誰かを探すように周囲に首を巡らせる男児の頭に、硬い感触。

 見上げると、岩のように険しい顔をした、しかし男児と何処か似た空気を持つ男が彼の頭を撫でていた。

 誇らしげに言葉を発する男児を抱き上げ、エウコリアスを担いだ男達に指示を飛ばし、男は彼らに先んじて歩んでいく。

 集落に戻る道中で、会話を交わしている様子だが、今一つ不鮮明で聞き取る事は難しい。だがその中の一つである、悲しげな呟きだけは男児も何故か克明に捉えていた。

「お前の父が、俺じゃなく母さんの種族の男だったらな」

 不意に男児の視界が激しく揺らぎ、そして塗り替えられる。

 視界が安定した時、周囲の光景は先刻と同じ森を少し移動した所にある、小さな集落に変わっていた。

 木や煉瓦造りの小さな家や、独特の加工を施した動物の皮や骨で組まれたテントが立ち並ぶ集落の中、先刻よりも少しだけ背が伸びた男児が、似たような背丈の子供たちと共に、木製の玩具武器をぶつけ合っていた。

 集落内を行き交う大人たちは、彼らの戦士の真似事を見て、微笑を浮かべて通り過ぎる。

 拮抗しているように見えた戦いは、次第に片耳だけが尖る男児が優勢となり、やがて彼以外の全員が武器を弾き飛ばされて、ルール上の戦闘不能状態になる。

 勝者にとっては面白いが、敗者には一方的な負けなどつまらない。

 感情の差によって集団内でさざ波が生まれようとした時、勝者の男児の頭が背後から軽く、それこそ撫でる事と差異がない程に柔らかく叩かれる。

 男児と同じ色の髪を持ち、周囲の誰とも異なる尖っていない両耳を持つ若い女性は、場にいる皆に二言三言告げる。

 子供たちが肯定の意を示すと同時、集落の各建物から、名前を呼ぶ大人の声が響き、子供たちは女性と男児に手を振って各々の家へと走っていく。

 不満げに唇を尖らせて抗議する男児に、女性は微苦笑を浮かべながら、彼の手を引いて歩き始める。

 暫し表情が固定されていた彼も、彼女が言葉を発する度に表情を和らげ、やがて他の子供たちと同様、満面の笑みを浮かべて歩きながら何度も跳ねる。

 笑って見守っていた女性が、この集落の存在では無い者の気配を捉えて視線を前方に向け、相手の姿を認識するなり顔色がさっと青く染まる。

 男児も知識としてあった「アークス」という国の軍服を身に纏う二人組の男が、彼の知識では理解不可能な何かが記された書類を女性に突き出し、一読した彼女の表情が更に青ざめ、両者の間で押し問答が始まる。

「……こんな額、私達には支払う能力も、いえ、そもそも支払う義務がありません」

「アークスの威光があってこそ、グナイ族も独立を守っていられるのではないですかね? 文明から離れて基本的な歴史認識も忘れましたか、エリス・イスメア・シェーファーさん?」

「何を……ッ!」

 エリスと呼ばれた女性を見下している様が、男児の視点からもありありと伝わってくる相手は、言い合いを初めて早々に飽きと苛立ちが募ったのか、女性を乱暴に突き飛ばした。

 彼女が発した短い悲鳴を優れた身体能力で捉えたのか、近くの家から複数の者が飛び出して、軍人たちと怒鳴り合いに発展する。

 怒鳴り合いで生じる熱は、やがて皆をおかしな方向に発展させ、不毛な殴り合いに転じさせる。女性が必死で止めにかかるが男の力には敵わず、弾き飛ばされて男児の傍らに転がされた。

 呆然と事態を見守るしかなかった男児だったが、アークスの男が短剣を取り出したことに気付き、凶器への恐れに突き動かされて叫ぶ。

「おい! 刃物を使うのは……」

 叫びを受けた一人の若者が、抗議と共に刃物を奪うべく手を伸ばす。そこで、アークス軍人の目が不気味に光った事を認識したのは、男児だけだった。

 短剣を持っている男が、伸ばされた若者の手を巧みに絡めとって刃物を握らせ、自身に向けて思い切り引き寄せた。

 当然の道理として、短剣の切っ先は首筋に突き刺さり、血管を破壊して軍人を死に至らしめる。目から光が消えてゆく中、まるで己が勝利したかのような笑みを浮かべる様を目撃し、心に落雷が生じた男児の視界は噴出した血で紅く染まった。


                 ◆


「お邪魔します」

「邪魔だと分かってんなら帰れ」

「仕事の話があるから、その要望は却下とさせてもらいます」

「ああそうですか。なら、手短に頼む」

 ハレイド、フラガ通りの中に存在する集合住宅の一室。

 再開発で来年取り壊される事が決定した、この建物の全室を借りきっているユアン・シェーファーは、扉が開かれるなり室内で展開していた緑炎の遮幕を掻き消して、同僚のルチア・バウティスタに応じる。

 二世代の『四天王』に属する、歴史の中でも稀有な存在は、部屋から発せられるむせ返るような臭気に目を細めながら歩み、先刻まで炎を灯していた箇所に椅子を引き寄せて腰を降ろす。

 開封した状態で放置された保存食や嗜好飲料。散乱する卓上遊戯の駒や札。極めつけはうず高く積まれた三流娯楽雑誌と、ユアンが有する魔力で虫の類が寄り付かない点を除けば、まさしく建物相応な部屋と言えるが、ここから彼の私物は既に撤去されている。

 複数の住居を持つ意味が果たされている事以上に、各住居をどのタイミングで移動しているのか、そして幾つ有しているのかについては、ユアンが最も親しいパスカ・バックホルツにも伝えていない。

 全て偽名で登録、加えて種類も出鱈目に借りている為、総当たりの探索は非現実的。しかし、眼前の同僚には疲労の色は見受けられない。

 違和感を悟られぬように、ユアンは顎をしゃくって用件を伺うと、返事代わりに一枚の紙が差し出される。

「連続殺人犯の居所が掴めたそうよ。アトラルカ大陸北部、ジャザック領タドハクス砂漠を北上中。海峡を越えてフィニティスに向かっていると推測されている。……あなたのすべき事は、これで分かる筈」

「理解した。で、タドハクスで殺すのか? それとも捕獲か?」

「フィニティスまで泳がせた後に殺害。これは陛下の指示です」

 文面とルチアの言葉を同時に受け、目をしばたたかせた後、ユアンは相手が提示に合理的な理屈付けを試みるが、どう転がしてもマトモな着地点には至らない。

 結局、理解しようとしまいと、指示を完遂する事が最も合理的な話とユアンは結論を下し、犬歯を剥き出しに笑いながら立ち上がる。

「了解した。ま、ちゃちゃっと仕留めてきますわ」

 日頃纏う『四天王』専用の戦闘服の上に、多様な生物の鱗や羽毛を用いて編まれた長外套を羽織り、翼を広げた鷲頭竜を模した『魔蝕弓ケリュートン』を背負う。

 長外套の由来を知っている為に、仕事で羽織る同僚の意志を測りかねているルチアの横を通り抜けようとした時、不意にユアンは立ち止まる。

「俺の魅力が世界に知れ渡ったみたいで、最近周囲が物騒なんだ。だから冥土の土産代わりに教えてくれや。ルチア・バウティスタさん、アンタが本当に目指す物は一体なんだ?」

「意味がよく分からないのだけど?」

 相手の答えを予測していたのか、ユアンは大袈裟に肩を竦める。

「先代から継続する唯一の存在で、加齢で戦闘力が落ちた為、前線にあまり出ず陛下の世話を始めとした裏方仕事中心。ここまでは良い、仕事の形態にケチを付けるつもりはねぇ。だがな、アンタは四天王として四人が揃った時、いやいつ何時も他三人を見ちゃいない。別の何かを見て、思考して生きている。……俺達のことなんか、捨て駒としか見ていない」

「妄想が過ぎる。言い分に何か根拠でも?」

「カンだ。ただ、オズワルド・ルメイユはどうやっても負ける筈の無い奴に右目を潰されて殺害。スズハ・カザギリは性格的に有り得ない自殺。クレイトン・ヒンチクリフは、カザギリから何かを伝えられた後に四天王を離脱。何も無いアンタが、逆に何かあるとするのが常識的な考えって奴だ」


 敵意か驚愕か猜疑か。


 何れにせよ負の感情を身に纏ったルチアを鼻で笑って、ユアンは歩みを再開して集合住宅を辞する。

「ま、やることやった後の生きる目標に、アンタの腹の底を暴くのも悪かねぇな」

 『竜翼孔ドリュース』を発動して舞い上がったユアンは、空路の使用を決断し、指示された場所に向かって飛翔する。

 ハレイドを脱出してダート・メアに差し掛かった頃、不意に反転して下方に鋭い眼差しを向ける。

 厖大な殺意と闘争心を伴って殺到した、炎で形成された飛竜の噛撃を咄嗟に発動した『不視凶刃スティージュ』で受け流す。

 僅かに焼けた右手を軽く振りながら、本物の竜同然に雲を穿ち遥かな空に消えた炎塊と、放った者に対して視線を送り、ユアンは不純な感情によって形成された笑みを浮かべる。

「望みは理解したぜ、狂戦士さん。だが、生憎自己満足に付き合う暇は無いんでな」

 背の翼を打ち鳴らし、流れる風を掴んだユアンは再度水平の姿勢を執って前進。

 伝承の存在『鷲頭竜』の如き黄金の光を放ちながら、大願を成すための一歩を刻むべく、四天王は目的の場所に向かう。


                ◆


 アークス王国首都ハレイドの北部に位置する、丘陵地帯を切り拓いて形成されたのが、高級住宅街マッセンネという場所だ。

 中心部からの移動に馬車か発動車がほぼ必須となるが、景観の良さと訪れる手間と表裏一体の防犯性の高さから、人気に陰りはない。

 そんな場所だからこそ、近頃発生している、元軍人の連続殺人事件に住民達は皆神経を尖らせ、警察であっても情報を入手することにかなりの苦労を要していた。

 ある住宅の玄関先で、女性の甲高い声。

 高価な服で全身を覆った中年の女性が、対面している、帽子を小脇に抱えた少女を勢いよく突き飛ばし、肩を怒らせながら自身の家に入って行く。

 服を軽くはたいて立ち上がった、突き飛ばされた側のユカリは、肩を落として女性の家に背を向け、規制用ロープが張り巡らされた数メクトル先にある家に視線を向ける。

 ヒビキ・セラリフの無罪を勝ち取るべく、まずは現場から情報収集と意気込んでマッセンネに乗り込んだが、彼女が得た結果はシンプルで残酷な物だった。

 幾度となく提示されている、何の社会的地位も有していない異邦人が、この世界の社会に食い込める訳もない現実に、彼女は散々に打ちのめされていた。

 警察に話したのでもう話すつもりは無い、そもそも一般人に話す道理などない、といった正論や、見るからに汚らしい下層の人間に話したくもない。等の感情論に基づく罵倒が、被害者の住居近辺での聞き込みでユカリが得た報酬だった。

 ――適当に一人斬って聞き出すのが一番早く終わるぞ。


「……無関係の人を傷つけるのは駄目だよ」


 ハレイドに踏み込む前に狂戦士に示された、単純明快かつ野蛮な方法が行き詰った状況下でふと浮かび、首を振ってそれを奥底に沈めたユカリは、とぼとぼとマッセンネを歩く。

 立ち並ぶ邸宅で描かれる豪奢な街の光景が、手詰まりの自分を嘲笑っていると錯覚するまでに現状は悪い。

 容疑者が特定され、指名手配と追手が放たれた段階に至った今、世間一般の視点からすれば、この件はほぼ終わった話題となっている。

 ヒビキが悪逆非道の殺人鬼であり、彼を捕獲又は殺害さえ為せば平穏が戻る。

 固定された世間の認識は、弱者の喚き声だけでは覆せず、ヴェネーノに語った通り「一般人」皆が持つ、凡庸かつ強力な悪意に火を灯す鬼札を叩き付ける必要があるが、警察の捜査の後では入手難易度は跳ね上がる。

 公的な機関に情報開示を要求しても無視されるのが関の山。

 砂川に捕捉される可能性を考慮して選択肢を除外していった結果、空振りを繰り返した彼女の中で残った選択肢は一つ。

「報道機関、かな」 

 相手が中枢に食い込んでいる以上、狙うは私企業から得る情報しかない。

 決断を下し、乗ってきた自転車に跨ったユカリは中心部を目指し――

「やっぱり駄目だよね。うん……」

断り文句を射撃の的の如く無慈悲に浴び、街角のベンチで項垂れる結果だけを得る事となった。途中で買った、果実飲料の缶が変形するほどの力で握り締めるユカリは、甘さを恥じるように唇を噛む。

 元の世界の「アルバイト」という責任の比重が軽い立ち位置でも、仕事に関する情報を部外者に流すのはご法度。大切な人を救うお題目があっても、胡散臭い存在のユカリに情報提供など、断るのが真っ当な判断だ。

 現場付近なら手がかりがあるのでは。

 真っ当な判断の裏に隠れていた見通しの甘さを暴かれた上、指し手を失ったユカリがぼんやりと眺める、とあるビルに掲げられた液晶で、堅い服装のキャスターが、マッセンネでネリア・デルクールなる女性が殺害されたとの報を告げていた。


 あぁ、この世界でも殺人事件は日常なのか。


 魔術や奇怪な生物等々の存在によって、死がより近い場所にあると認識していたが、殺人への無感動な反応は元の世界と変わらないんだという、見当違いな感想を抱き始めた彼女の目と耳に、ネリアなる女性の情報が流れ込む。

 そして被害者の勤務先に、先ほど訪れた放送局の名が記されていると気付いたユカリの思考が急加速。


「ネリアはまだマッセンネから戻っていないのか?」


 ユカリを追い出した者の背後で、苛立ちを多分に含む声が飛んでいた。

 あの時は検討の俎上にも上げなかったが、殺害された女性が殺害された場所と、彼女の勤務先で出された場所、そしてヒビキが事態に巻き込まれた場所は見事に一致している。

 偶然と片付けるにはあまりに出来過ぎており、手札を失ったユカリにとってはこの上ない光明と思える事実だった。

 中身が空となった缶を屑籠に捨て、ベンチから立ち上がったユカリは、自転車に跨ってマッセンネに再度向かう。

 ――答えが見つかっていない以上、私は小さい可能性にも縋るしかない。あまり時間は無いから、今回は何か見つかると良いんだけど……。

 希望と焦りを等分に抱えながら小さくなっていくユカリ。彼女の姿を、物陰から二つの光点がじっと見つめていた。

 光点の主は、ベンチに座した時から再始動する瞬間までのユカリの行動を、余すことなく観察していた。声を発していない者の心情を読む力をヒトは有しない。

 されど、映像を目撃してからの様子の変化を見て、聡い者ならユカリが何かに気付いたと結論付けられるだろう。

 少女もそうなった側のようであり、「イサカワ様に伝えなきゃ」と呟き、町の何処かへと消えていった。

 不穏な動きに、ユカリが気付く事は終ぞなかった。


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