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「身構えるな。大人しく結果を待て」 


 指摘と共に、前のめりになっていた身体が急速に引き戻され、ユカリは深く呼吸をする。扉の向こうでは、彼女達が強奪した亡骸が解剖真っ最中といった所だろう。

 『生ける戦争』を引き連れ乗り込んだユカリに、さしもの闇医者も驚愕した様子だったが、事情を話すと「高く付くぞ」と苦笑しながら手術室に入った。

 すぐに済むと闇医者は語り、実際大した時間は流れていないだろうが、緊張からかユカリの体内時計は異様に長い時間を刻む。

「あの――」

「終わったぞ。これだろう、求めた切り札は」

 術着を血で汚したファビアが、鈍色に光る膿盆を持って現れる。

 待機していた二人が覗き込むと、元の世界の物に例えるならUSBメモリに近い物が底に鎮座していた。

「胃液に耐える物質に包み隠すなど見上げた精神だ。これなら問題なく使用出来る」

「なら早く……」

「まずは再生出来るか、そして正解か否かの確認が先だ。再生機器は何処だ?」

「汎用的な媒体だ。好きな物を使え」

 すぐさまひったくってヒルベリアに向かいかねないユカリを抑え、ヴェネーノは手近な機器を起動。媒体を挿入して再生を開始。

 胃液の侵入を許す事で生じる、不可視の損傷への危惧は杞憂に終わり、鮮明な映像が画面に大写しとなり、描き出された凄惨な光景にファビアは顔を歪め、ユカリは思わず口元を覆う。

 湧き上がる怒りと嫌悪感で、胃の内容物が逆流して不快な酸味が口内に広がるが、どうにか嘔吐は堪えて荒い深呼吸を行う。

「悪くない動きだ。だが『転生器』の使い方が話にならん。力を半分以下しか引き出せていない。ヒビキが付けるには程度が低すぎる傷だ」

 ヴェネーノの場違いに冷静な分析が、妙に遠く感じる。それを聞いても尚、ユカリには同級生の行動原理が、全く理解出来なかった。

 砂川への暗い感情が体内を駆け巡り、それが放出先を求めた結果、呻きに近い声が零れる。

「……どうして、どうしてこんな事をしたの!? ヒビキ君の事が嫌いでも、無関係な人まで巻き込む意味なんて無い。私との間でだけ解決すれば良い筈でしょう!?」

「ヒトの感情は、当人にも制御出来ない時がある。この異邦人を私は知らないが、誤れば貴様も同じ道に転落するぞ。貴様とこいつはそう遠くない場所に立っている」

「私は……」

「闇医者が正しい。加えて「何故」の問いは不要。推測した所で答はない。問いたくば、直接対面して問え」

 激した感情に冷や水を浴びせる二人の指摘を受け、ユカリは沈黙。頭を冷やし、完全な納得まで至らないものの思考を強引に切り替える。

 映像は、砂川がヒビキの依頼人たる老人を殺害した事実を記録している。これを大々的に放映すれば、ヒビキを取り巻く状況は劇的に変わる。

 ファビアに黙礼して診療所を辞し、ユカリは陽が昇り始めた空の下、借り物の通信機器でベイリスとやり取りを交わし、指示次第ですぐ動けるとの報せを受け取る。

「小娘、ここから何処に向かうつもりだ?」

「記録媒体をベイリスさんに届けた後、ヒルベリアに向かいます」

「そうか」

 短い言葉を発した後、ヴェネーノはユカリを正面から見据える。全てを見透かすような鋭い目に怯えを抱き始めた頃、狂戦士は口元に半月を描き、背に翼を生み出して浮上すると同時に、目にも止まらぬ早業で彼女の手から記憶媒体を奪い取る。


 一体どういう事だ。ユカリが問うより速く、朗々とした宣言が届く。


「最後の助力を果たそう」

「……はい?」

「貴様は既に目的達成の指し手全てを理解し、後一手、即ち計画を起動させるのみとなった。最早俺の介入する余地はない。これを託した後、俺も本懐を果たす」

「ちょっと待ってください! それは――」


 ヒビキ君を殺しに行く事ですか。


 ユカリの問いを遮る形で、もう一段高い所に上昇した狂戦士は笑う。

「御膳立てはした。……さらばだ、ユカリ・オオミネ。次に対峙した時、貴様が盤面に登っている事を願う」

「……わっ!」

 神託の如き重々しい言葉と共に、ヴェネーノが再度翼を打ち鳴らす。

 乱立するビル街に爆風が吹き荒れ、地面に転がされたユカリが立ち上がった頃には、狂戦士の影も形も失せていた。

 最初から最後まで出鱈目な男だった。しかし、彼がいたからこそ、ここまで持ち堪える事が出来た。

 感謝の気持ちを伝える為、そして助力を無に帰さない為にも、やるべき事は一つ。

「……立ち止まっている暇は無い。行かないと!」

 弾かれたように走り出したユカリは、発動車の停留所へ向かう。

 まだ懐に金は残っている。全て支払いに回して移動すれば、今日中にアガンスに辿り着く。

 記録媒体が先に届けられたとしても、最後の引き金を引く事や、砂川に対して明確な意思表示を行う義務がまだ残っている。

 目的達成に向けて走るユカリ。彼女の視界に、とある存在が目に飛び込む。

「ユカリちゃん! ……良かった、無事だったのか!」

「フリーダ君!? どうしてここに?」

「ベイリスから君を迎えに行けと指示を受けた。準備もしている、さぁ速く!」

 フリーダ・ライツレが、荒い呼吸を溢しながらユカリに対し手を伸ばして立っていた。彼の実力は十分知っており、共に行けば確実にアガンスに辿り着ける。

 人間性もまた然り。常識と無謀さを両立させた彼は、何処で対面しても信用が置ける存在だ。 

 これらの条件が揃っているが故、疾走するユカリは足を緩めず、迷う事なくウラグブリッツでフリーダを斬りつけた。

「何をするんだ!」

「白々しいよ。あなたは砂川君の仲間でしょ」

「どうしたんだいきなり……」

「さっきの電話で、フリーダ君がドノバンさんと一緒にヒルベリアに向かったって聞いた。それが無かったとしても、最強の請負人と一緒にいる私の元に来るなんて無駄な事、フリーダ君がする訳ないよね」

 ヒルベリアでの生活で知った友人の側面を滔々と突くと、不愉快そうに歪んだフリーダの顔が解け落ち、見知らぬ少女の顔が露わになる。

 やはり、『万変粧フィクス』の詐術。加えて、路地から無数の少女が姿を現し、ユカリの逃げ場を塞ぐ形で得物を構えた。

「持っている物を渡してくれれば、無傷で留めてあげるけど?」

「世界最強の人が側にいた私が、あなた達程度に従うと思いますか?」

「ばっかじゃない? 世界最強がいたからって、あんたの力は上がってないでしょ」

 煽りに的確に切り返し、少女達が包囲の輪を一歩狭める。業物が相棒でも、数の暴力を前にすると勝ち筋は極めて薄い。

 相手の狙う物は既に手を離れているが、さてどうするか。

 黙して睨み合う時間が流れ、耐えかねたように包囲側が一歩踏み出した時、ユカリの耳に聞き慣れた叫びが届く。

「ちょぉーッと待ったぁッ! あなた達の相手は、この私、ライラック・レフラクタがやるんだよッ!」

『あー俺もいるからね』

「ライラちゃん!? ……それに、ルーカスさんも!?」

 後者の名を拾い、包囲する少女達がどよめく。

 長大な榴弾発射機を担いだ小柄な紫髪の友人と、吼える虎の防護布が目を引く青年は、予期せぬ役者の登場で固まるユカリに向き直る。

「助けに来たよ! さ、アガンスに向かって!」

「で、でも……」

「いーから! この子『攪乱者ユドナ』の力はユカリちゃんも知ってるでしょ? それにこのイケメンがいるから、楽勝で蹴散らせるよ!」

『病み上がりだし、あまり期待はしないでライラちゃん。でもま、そういう事だからユカリちゃんは行くと良いよ。……君の成したい事を成す為、走るんだ!』

 二人の力強い宣言に押され、ユカリは硬直した包囲の間を駆け抜ける。

 彼女を追おうとした何名かに向け、ライラは躊躇なく引き金を引いた。

 情け容赦の無い弾丸が舗装路に着弾し、詰められていた植物の種子が少女達に激突し、何人かが衝撃で沈む。

 臨戦体勢に移行した少女達に、ルーカスは微笑を称えながら、根元に地の色が出始めている白髪を掻き上げつつ人工声帯を起動。

『アレだよ。俺はまだ左腕が完全に動かないし、ライラちゃんは戦いの素人、多勢に無勢ってヤツで俺達は負けると思うんだ』

「だったら……」

『だからさ、俺達はここに来る前に取り決めをした。最初に仕掛けてきた五人は、どんな聖人でも目を背ける無残な死体に変えよう、ってね!』

 朗らかな調子で放たれた機械音声の、悪趣味極まる意思表示を前に少女達は硬直する。その様に苦笑しながら、ルーカスは跳ね馬の意匠が刻まれた柄を持つ『純麗のユニコルス』を引き抜き構える。

 即興の宣言に白い目を向けるライラに目で合図を飛ばし、両者が疾駆。

 金縛りから解かれた少女達も各々の戦闘様式で迎撃体勢に移行。

 朝の日差しが輝くハレイドの街角で、まるで美しくない戦いが幕を開けた。 


                  ◆

 

 『砂王竜』を退けたヒビキ達は、その後も行軍を続けてアトラルカ大陸北端に辿り着き、この瞬間は船上の人となっていた。

 足裏から伝わる独特の揺れも、海上特有の匂いを持つ風も数日の間接し続けていれば慣れる。

 呑気な感想を抱きながら、船室を出たヒビキは潮風を吸い込んで伸びをし──

「気持ち悪い……うェっ」

「アンタ本当に船弱いんだな……」 

 青い顔で手摺に凭れて只管吐き続けるハンナという、爽やかな気持ちを微塵に砕く光景を目撃することとなった

 料理に船と、苦手な物がポロポロ出てくる彼女に対し、当初感じていた畏怖は消え、親しみを覚えだしたヒビキは、手摺の上に座って笑う。

「もうすぐインファリス大陸に着くぞ」

「……フィニティスは船着き場からそう遠くない。君との旅がもうすぐ終わると考えると、少し寂し……」

 またハンナが下を向いて嘔吐する。

 体質云々で済まされない重篤さに、何か持病でもあるのかとヒビキが問うと、弱々しい首の横振りが返ってくる。

「単純に体質もあるのだろうが、私の場合、海に落ちたら死ぬと無駄な想像が働いてしまって……」

「飛べば良いんじゃね、それ?」

「水中では魔術の効率が著しく落ちるのは知っているだろう。骨を金属に置き換えた私は水に浮かず沈む。二つが組み合わさり……頼む、絶対に落とさないでくれッ!」

「味方を落とすバカが何処にいるんだよ」

 会話を諦めて前方に視線を戻し、昨日より更に大きく映るインファリス大陸を捉えたヒビキは、包帯が吹き飛んで剥き出し状態の義手を固く握り絞める。


 厄介事からの脱出は、ここでようやくスタートラインに立った。


 ハンナには強気に振る舞ったが、何もない状態で単身殴り込みなど可能性が絶望的に低いと彼も自覚している。フィニティスにあるかもしれない何かを見つけ出し、交渉材料を得なければここまでの足掻きも無に帰す。

 もう一人の異邦人との決着も、そうせねば付けられず、世界最強の男との再戦もまた然り。

 顔を引き締めたヒビキに、ハンナが気遣わしげに言葉を投げる。

「怖いと思うなら、逃げても良い。ヴェネーノは理論で測れる相手じゃない」

「アンタも戦う事は楽しいし人生の証明だって言ってたろ。なに弱気になってんだ」

「あの男は私とは……いや、世界の誰とも違う。ただ「強い者と戦う」を掲げて国を消し、地図を書き換えた個人はヒト族数千年の歴史でも奴だけだ。戦う者としての憧れより、恐怖の方が強い」

 ハンナ・アヴェンタドールも強者の括りに入り、そこらの軍隊を問題なく蹴散らす事が可能。彼女が恐れるヴェネーノの圧倒的な強さは、手加減されていた状態でもヒビキは体感している。

 ――ペリダス戦で引き出した力があっても、勝てるか分からない。あの力が無いなら……。

 高揚していた感情が現実を前に急速に冷え、急浮上する嫌な予測から逃げるように視線を逸らしたヒビキは、海上に浮かぶある物を認識する。


 銀色のラッパと形容可能な物体が、そこにあった。


 細かい傷は見受けられるが、年月を重ねて生じる風化や腐食の類は見受けられない。かなり最近になってここに現れた様子だが、これほどの物体がどうやってここまで来たのだろうか。

 ――『転瞬位トラノペイン』の失敗か? いや、物体の移動はアレじゃ出来なかった筈だ。飛行機械は……無理だよな。

 ヒビキの知識の範囲では、この世界にヒトが乗って飛行する機械は多くない。気球や飛行船といった、飛行生物に対して圧倒的に分が悪く、航続距離も短い代物はともかく、強力な発動機を核にした飛行機械は、空中で無慈悲な攻撃を受ける、らしい。

 飛行機械に搭載して迎撃を行う兵器の開発も進んでいるらしいが、現状は騎乗用の竜を始めとした飛行生物を使う方が主流となっており、大陸を渡れる個体を手懐ける者が少数の為、大陸を渡るヒトも少数なのが現状だ。

 ともあれ、ここまで巨大な物体の運搬は個人では困難。しかし国や自治体が落下させたのなら早急に回収に来る筈。

「推測の話だが、あれは過去の遺物だ」

「過去の遺物?」

「『エトランゼ』との大戦以降、ヒトの技術や文化は大きく後退した。嘗てのヒトは後世に技術を伝える為、何らかの方法を用いて保存したそうだ。最も、何処に何をどのような方法で隠したか分からないから、こうして偶発的な出現を……」

 ハンナの説明を聞きながら、ヒビキはぼんやりと銀のラッパを眺めるが、彼の思考は「幾らぐらいで売れるだろうか」や「どうすれば運べるか」等々、実にヒルベリア住民らしい物ですぐに満たされる。 

 ――あれだけデカけりゃ無理かぁ。でも売れれば……ん?

 不意に奇妙な声を捉え、ヒビキは横を向く。ハンナの悪ふざけかと考えた為だ。

 しかし、竜騎士の姿はなかった。

 彼女だけではない、上方の空も、下方の木の床も、見えていた筈のインファリス大陸も消失し、目に映るのは自分の身体だけ。目が痛みを覚える程の白しか、そこには無かった。

「お、おい。ハンナ? 冗……」

 逃避の言葉が不自然に途絶し、痙攣と共にヒビキの足が脱力。横倒しになって限りなく地面に近い位置で浮遊する。

 眼振で勝手にブレる彼の視界は、この瞬間、この空間に無い物を映し出していた。

 直近の戦闘を始点に、ユカリとの出会いからヒルベリアでの一人きりの日常、育ての親との最後の会話。遡る程に不鮮明になっていく視界を、唯々傍観する他ないヒビキの瞳は、やがて乱れ放題の白黒映像を捉える。

 情景など捉えられる筈もないのに、何故か彼は眼前の風景を克明に理解する。


 漆黒の空間の中で、誰かの様々な部位が削り取られていく。

 巻き戻し。

 落ち行く誰かの両の手を繋いでいた手が離れる。

 巻き戻し。

 三人が歩いていた地面が、物理法則を完全に無視して割れる。

 巻き戻し。

 足を止めて振り返る誰かの横に、それよりも大きな誰かが立ち手を取る。

 巻き戻し。

 危うさを感じさせる足取りで駆ける誰かを呼ぶ声がする。

 何処か懐かしい声は、ヒビキが常日頃から耳にしている単語を――


「――起きろ、起きてくれ。君はまだ死ねない筈だろう!」

「!」

 哀切な叫びを受け、映像で発せられた声を咀嚼する前に、ヒビキの現実は急速に正常へ回帰する。

 白黒の視界は彩色されて時間を下り、彼の眼に、今にも涙を溢しそうな氷の瞳が映る。

 マトモな意識を取り戻したと認識し、表情を一気に和らげたハンナを見て、ヒビキもたった今の奇怪な現象から、意思での制御が利く現実に戻れた事に安堵する。

 不格好な動作で目元を拭うハンナに、ヒビキは掠れた声を絞り出す。

「……すまん。でも、一体何があったんだ?」 

「私にも分からない。ただ、あの物体を眺めていた君が、急に苦しみだして倒れた。船医達もお手上げで、もうダメだと言っていたんだ」

 幼子のように泣きながら事情を説明するハンナ。敵に回すと実に恐ろしいが、こうして行動を共にしていると、本当に戦士なのかと疑う程に優しい側面も伺える。

 彼女に対する感謝を抱きながら、ヒビキは先刻の映像を回想する。

 ユカリと会った瞬間の映像から考えるに、自身の記憶を掘り返した映像とヒビキは理解する。だが、最後の映像が一体何なのかが説明出来ない。

 誰かに手を引かれた記憶は、ヒビキにはカルスから受けた物だけ。全てを失われた過去の記憶としても、地面が割れて堕ちる光景から、最古の記憶、即ちレフラクタ特技工房の一室まで結び付かない。


 ――君は私達と同じ存在だ。


 死の間際にペリダスが残した言葉が、呪詛のように脳内を回り、慌てて首を振って打ち消しにかかった時、ヒビキの身体が大きく震動する。

「着いたぞ!」

 船員の声を受け慌てて立ち上がったヒビキは、遂にインファリス大陸に戻って来られた事実を受け、先刻までの思考を打ち切って気を引き締める。

「ここから、歩けばすぐフィニティスだ」

「……そうだな」

「船員から撮影機を購入出来たのは幸いだった。よくよく考えると、記録媒体は何も持っていなかったからな」

 首肯を返して懐を撫で、船員に礼を言って下船したヒビキは、人工的な手が一度加えられたと思しき大地をハンナと共に歩む。 

 荒れてはいるが、継続使用が叶う程度に整備された道に違和感を覚える道程は、やがて高層ビルが乱立する廃墟に辿り着いて終わる。

「ここがフィニティスか」

「一見した所では、ロザリスと変わらないな。何故再生させない?」

 ハンナの指摘は真っ当な物で、広がる廃墟は多少の修繕を加えれば、問題なく再使用が可能だろう。何らかの生物に破壊し尽くされたなる風説と町の風景は、途轍もなく乖離していた。

 違和感が生じれば見え方もまた変わる。規則的に並ぶ街灯に、幾つか意図的な損壊が為された物や、真新しいタイヤ痕を見つけた二人は、顔を見合わせ結論を出す。


 ――生きている町、か。


 どれだけ環境が悪く、制約が大きくとも、そこにいる者達は可能な限り改良を行う。放棄された町はそれがなく、時間の流れに抗った形跡も少ない。

 ここは抗うを通り越し、実用に耐えうる為の修繕が繰り返されている。

 となると、逃避行の発端となった老人の言葉に説得力が生まれる。放棄を決断し、後は朽ち果てるを待つばかりと発表しておきながら、こうして整備を行っている場所を使うのは実に妥当な話だ。

「とにかく、研究所とやらの入口を探そう」

「だな。……丁度良く馬鹿が現れたしな」

 邪悪な色を宿したヒビキの目に、何処かへ駆けていく男。

 清潔な白衣を纏って書類を抱え、足取りに迷いが無い点から、自分達と異なる立場の存在と断定したヒビキはハンナに何やら耳打ちし、自身は力を解放。


「――――ッ!」


 物陰に隠れたハンナの拳が手近な街灯に刺さり、悲哀を感じる軋り音を上げながら金属製の支柱が曲がり、舗装路に倒れていく。

 何も知らなければ怪奇現象に映る光景を前に、思わず足を止めた男の背後から、音もなく疾駆していたヒビキの手が伸び、口を封じながら男を横倒しにする。

 空いた左手でスピカを背に突きつけ、意図的に感情を押し殺した声を飛ばす。

「聞かれた事以外に答えんな。俺は殺したい訳じゃない。大人しくしてくれるなら暴力は振るわない。……いいな?」

 激しい首の上下を視認した後、スピカの冷たい切っ先を男に背に押し付けた状態で、今必要な事を淡々と問うていく。

「お前の所属はアークス王国か? そして、この町の研究所に勤務している」

 首が二度縦に振られる。いきなり当たりを引いた、感情の昂ぶりを抑えてヒビキは更に問う。

「お前の研究している物は、異邦人に関連する事だ」

 全身がビクリと跳ねた後、抵抗するように動きを止めた男は、ヒビキが体重を乗せた事で背部からの圧力が強まった事を受け、慌てて縦に首を振る。

 答えを受け、ヒビキは緊張で乾いた唇を無意識に舐め、次の一手を打った。

「なら、道案内をしてくれよ。あぁ、拒否すれば――っ」

「絶対に話さないぞ! 殺すなりなんなりすれば良い!」

 相手の掌を噛んで口の自由を取り戻した男は、敵対者に対する怯えを超えた強い意思に基づいた拒否の言葉を放つ。

 見上げた意思だと感心したのも束の間、ヒビキの口元に悪意の筋が引かれる。

 内心でハンナに最上級の謝罪行為を行いながら、努めて軽い調子で言葉を紡ぐ。

「さっきさ、街灯が折れただろ? アレは俺がやったんじゃない」

「それが何の……」

「いやさ、俺の相方は滅茶苦茶強いんだが、性癖もヤバくてな。お前を生きたまま死体と××××××させた後、各関節ごとに身体を丁寧に切り取って、家族に写真と込々で送り付ける趣味があるんだ。残念だ。お前が望んでる訳だから仕方ないよな。おい……」

「止めろ! 案内する、しますから。……その人に渡さないでください」


 忠誠心が高い者は、戦闘職でなくとも死を恐れない。


 だが、マトモな世界に住んでいれば最低限保証される筈の尊厳が、徹底的に毀損される事に耐えられる者は少数。嘗てヒルベリアにいた脱獄囚の趣味をそのまま並べたが、これをやられて耐えられる自信はヒビキにもない。

「後で覚えておくようにな」

「……仕方ないだろ、絶対吐いて貰わないと駄目だったんだ」

 必要だったとは言え、勝手に変質者扱いされるのは万国共通で嫌な物だ。

 全力で威圧してくるハンナに、平身低頭で謝罪するヒビキは震えながら歩む男に続く。曲がり角を何度も左右に曲がり、周囲と比較して異様に荒廃した商店だったと思しき建物に一行は辿り着く。

「誘導されたのでは?」

「アレだけやられても、か?」

「忠誠心が極まった者なら不思議でもない」

 小声でやり取りを交わす二人を他所に、男はレジに鍵を差し込み、何やらキー操作を開始する。一分弱続いた入力の最後の一打が内部に響くと同時に亀裂が床に入り、あからさまに怪しい穴が床に生まれた。

 安堵の溜息を吐いた男が振り向くより速くスピカを旋転。後頭部を柄で軽く小突いて意識を奪ったヒビキは、ハンナと共に穴に飛び込んだ。

 その数分後、一人の男が突如廃墟に現われ、二人の消えた穴をのぞき込んでいた。

「なぁるほど。お前は『選ばれなかった者』らしいが、ここまで来た。ヒトは運命だけで決まらないってこったな」

 一・八五メクトルの長身に、誰もが息を呑む美貌を持つ四天王、ユアン・シェーファーは、芝居がかった物言いと共に大きく頭を振る。

 ふざけきった挙動と裏腹に、飴色の瞳に冷たい殺意。

 恐らく、この場所から避難しろと指令が出た為に、この男達は書類を持ち出し、施設を放棄して逃げを打ったのだろう。

 指示も、従う事を決めた選択も実に正しい。

 フィニティス全域を包囲する形で集束する、四天王に終焉の気配や大破壊を想起させる凶悪な魔力から判断するに、ここはまもなく地獄と化す。

 気絶した男を『転瞬位』でハレイドに送り、最後から二番目の奉公を行ったユアンは、先刻の二人に追従する形で飛び降りた。

 重力の打撃を『竜翼孔』で生まれた翼を用いて軽減し落下速度を調節。顔の右半分に刻まれた鷲頭竜の刺青を、不気味に発光させながら四天王は嗤う。

「さぁ、踊ろうぜッ!」


                 ◆


 感覚を麻痺させる長い長い落下の果てに、侵入者二人は硬い地面に降り立つ。

 無骨な舗装路と異なり、手入れが行き届いた清潔な床を目撃して、ますます疑念が膨らむ中、屈みこんだハンナが床材を削り取って検分する。

「医療現場や実験施設で用いられるビニル床か。しかもかなり分厚い」

「罠じゃなかったって訳か」

 弱々しく灯る非常灯の効果で、物語で語られる冥界のような仄暗さを持つ通路には、書類や私物と思しき物が散乱していた。先ほどの男の行動に加え、かなり急な撤収指示だったと匂わせる空間を、二人は得物を構えて彷徨する。

 薬品の臭いや、何処からか聞こえる機械の動作音を、微量な力の解放で強化した感覚器官でヒビキは捉え、小さく首を捻る。

 私物の散乱を除き、荒れた痕跡が感じられない所内には、薬品でも拭えない生の臭いが染みついており、ハンナも感知しているようだ。

 ――何が出てもおかしくない、か。

 腹を括って踏み込んだ一つ目の大部屋は、対竜用と思しき火器がずらりと並ぶ。これも価値は高い筈で、ハンナはかなり強い興味を示している。

 カメラは既に貸している為、足早に部屋を辞したヒビキに竜騎士も渋々追従する。

「少しぐらい撮っても……」

「普段なら幾ら撮ろうが、アンタに文句を言う資格はない。ただ、今は別だ」

「それはそうだが……」

 自国への忠誠心から出た行動を阻害した事に申し訳なさはあるが、今のヒビキに彼女の意思を酌む余裕はなく、総当たりで施設内を検分していく。

 空振りを繰り返しながら只管清潔な通路を歩み、突き当りに二つの扉が並ぶ光景を前に、ヒビキは懐からラッバームの鱗を取り出し徐に弾いた。

 表なら左、裏なら右の扉。

 役割を割り振った鱗は、裏面を上にして掌に収まる。

 結果に従い右側の扉に手をかけるが、金属製の分厚い扉は微動だにしない。平和的に開く手段もある筈だが、今は時間が惜しい。

 右腰の柄に手を掛け、ヒビキは一度目を閉じて大きく息を吸い込んで腰を落とす。

「――――ァッ!」

 短い息と共に、スピカが抜き放たれる。

 甲高い音が一瞬奏でられ、扉に刻まれた一本の縦線に従って扉が床に倒れ、重厚な地響きを轟かせた。

 そして、更にもう一枚同じドアが聳え立つ様を目撃するが、また斬って捨てる。驚嘆したように目を丸くするハンナに目配せを飛ばし、ヒビキは大部屋に一歩踏み出す。

 ――急な撤退指令を受けた状態で、ロックをしっかり掛けてたんだ。絶対に何かあ、る……。


 夢ならどれほど良かったか。


 目に映った物を認識した時、ヒビキが最初に抱いた物はこれだった。

 整然と立ち並ぶ円筒。灯りが落とされた室内でも、自律的な発光でヒビキ達に観察する許可を与えているそれの中には、極彩色の水が満ちている。

 

 内部に様々な形状の、しかし一貫してヒト型の生物が詰め込まれていた。


 吐き気を催すおぞましさと皮膚が泡立つ感触に耐えかね、救いを求めるようにヒビキは振り返る。日頃の氷のような表情が消し飛び、口の無意味な開閉を繰り返すハンナが、彼の視線の先にいた。

 光景が現実である証明と、自分も同じ顔をしていると無意味な確信を得たヒビキは、震える指でシャッターを斬りながら奥へ進む途中、耳に届いた水が泡立つ不気味な音に、慌てて振り返る。

 オレンジ色の鎧を纏った生物が、伽藍洞の内部から視線を向けていた。向けられた側のヒビキは、逃げ出したい衝動を抑えながら、相手と視線を絡めて全体像を確認して気付きを得る。

 鎧に刻まれた模様を始めとした様々な箇所が、先日アガンスで戦ったペリダスと一致する。即ち、この存在は彼と同じ世界から来た異邦人と考えられる。

「『孤高なる紫』と同じ模様だ、何故ここに彼が……」

「……他に後何体同じ物がいる?」

 公式発表を記憶から掘り起こしつつ、ヒビキは円筒を一本一本検分していく。

 途中、何かを訴えるように内部から鳴る鈍い音に怯えながらも、並べられた物全ての確認を終えた。

 そして、知りたくも無かった事実を彼らは知った。

「お前やベイリスが倒した個体、そしてペリダス以外、書面上四天王が倒したってされてる異邦人が全部ここにいる」

「だけではない。ここ三十年のインファリス大陸で『正義の味方』と括られた殆どが、ここに収められている。……異邦人を使って、何をする気だ?」

 無言のまま、先刻の研究員から失敬した書類をめくるヒビキは、全方位から視線を感じながらもハンナや自身が抱いた疑問の解に行き着き、無意識に歯を軋ませた。

 どれだけ崇高な理念を掲げようが、異なる世界とこの世界を強引に繋ぐという目的も、その為に異邦人を生け捕りにする行為も手段も正当ではない。

 顕現順と思しき配列で並ぶ円筒には幾つか空の物があり、その一つにユカリが収められる構図を、ヒビキの脳は勝手に描き出してしまい、彼の歯が砕けんばかりに強く噛み締められる。

 クソッタレな現実に頭に血が昇り、スピカを再び抜きかけたヒビキは、しかしとある方向からの視線と、ハンナの制止で動きを止める。

「破壊しても意味が無い。真実を持ち帰って上手く使う事で、彼らの状況を変えられるかもしれない。どうせ賭けるなら、そちらに賭けよう」

「……悪い」

 スピカを戻して何度か深呼吸したヒビキは、視線の主に向き直り意思疎通を試みる。八つの目を持つヒト型生物が、辛うじて動かした口の形は「逃げろ」と動く。

 「助けてくれ」でない事に疑問を抱くが、ここまでの逃避行の中で、無意識の内に張り続けていた警戒心が、忍び寄っていた殺意を絡め取る。

 力を解放して反転。性急な動作でスピカを抜く。

 暗所に描かれた蒼の半月が、黄金の弾丸を天井に弾き飛ばした。

「よく出来ました、だ。まぁこんなので死ぬ間抜けが、ここまで来れる筈ねぇか」

 まるで緊張感の無い言葉と、固い足音を引き連れて、奇妙な羽の装飾が目立つ足元から徐々に下手人の姿が露わになる。

 侵入者二人は、現れた存在が誰なのかを知っていた。

「ユアン・シェーファー……!」

「ハイウェイ以来だな。……で、そっちの『ディアブロ』とは初対面だが自己紹介の必要はないよな」

「こんな邪悪な試みを行うなど、アークスは一体何を考えている!」

「領土を犯してる奴が偉そうな口叩くなって。どこの国も、非人道的な振る舞いはやってる筈だ。異邦人が対象だからってヒスんな馬鹿くせぇ。後ヒビキ、お前はここで死んでもらうから一つよろしく」

 軽すぎる口調で身勝手な宣告を行ったユアンの姿が、突如掻き消える。

 どれだけ感覚を強化しても、感覚器官の地力の差で、二人はユアンを捉えられない。対する四天王は、こちらの動きが手に取るように見えている筈。戦う前に、勝敗が決まっているような物だ。

 ――気配がする方向に手あたり次第……

「ルぅあああああああああッ!」

「なにッ!?」


 甲高い火花と悲鳴が、ヒビキの眼前で散る。


 絶叫と共に振るわれたフラスニールが、ヒビキの首筋に伸びていた黄金の短剣を受け止めていた。

 強行突破を諦め、後ろに跳ねたユアンを白銀の刃が追う。

 接触は免れたものの、暴風に煽られて天井に追放された四天王に、ハンナは口から吐き出した炎を浴びせる。

「彼は私が抑える! 君は逃げろ!」

「んな事出来るかよ! アンタに……」

「君の目的を思い出せ! 私と死ぬ事ではない筈だッ!」

 正論を浴び、雷撃を受けたように姿勢を正したヒビキは、カメラを抱えてユアンが現れた方向に走り出す。

「……死ぬなよ」

「君と再戦するまで、私は死なないさ」

「再戦、楽しみにしとくわ」 

 闇の中に消えたヒビキを見つめていたハンナだったが、上方からの殺意を感じ犬歯を剥き出しに跳躍。

 黄金の光を纏うユアンと空中で何度も斬り結び、両者は絡み合ったまま落ちて壁に激突。体勢を立て直すよりも速く、同時に放たれた拳を互いに顔面で受けながら距離を取り、二人は武器を構えて睨み合う。

「ヒビキに惚れたか?」

「本命が決まっている少年に、惚れる訳ないだろう。私は私が正しいと思った物に与するまでだ」

「……正しい、ね。糞喰らえだ。それに、外に出てもアイツは死ぬ。ヴェネーノもここに来るからな。奴がアイツをブッ殺した後に、俺達も死ぬのが致命的な問題だが」

「!」

「未来を今語るのは違うわな。この瞬間を、死ぬ気でやるべきだ。『無戦完勝ノーゲーム』ユアン・シェーファーだ。派手に殺ろうぜ!」

「……ハンナ・アヴェンタドール、貴方のお相手をつかまつろう」


 片やアークス最強の一角。片やロザリス総統の懐刀。


 二国が戦争を行わねば本来成立しない至上のカードが、陰鬱な研究所で実現した。

 筒に格納された異邦人が見守る中、咆哮と共に両者が激突する。


               ◆


 途中何度も道に迷いながらも、研究所から脱出したヒビキが、厚い雲に覆われ始めたフィニティスの町を駆ける。

 アガンスもそうだったが、このような整備された土地の経路把握を、彼はやや苦手としている。何度も迷いながら、入った時と逆側に出る為の道を見つけ出して走る。

 ――二人の戦いはどう転がるか全く読めない。……急げ、余裕は何処にも無いぞ!

 心に何度も鞭を入れ、走り続ける彼の視界が突如開けた。

 立ち並んでいたビルが、この開けた場所に一切存在せず、妙に時代を感じさせる物が立ち並ぶ光景に様変わりし、ヒビキは鳥籠に放り込まれたような錯覚を抱く。

 精緻な装飾が刻まれた地面や、手作業で生まれたと思しき石像は損傷と風化が目立つが、芸術に疎く、荒み切った現状の彼さえも揺り動かす程に美しい。


 ――元は祭礼用の空間だったのか……。

 

 歴史に思いを馳せる事を打ち切り、前を向いたヒビキの目が、眼窩から零れ落ちかねない程に開かれる。

「イサカワ……テメエ何でここにいる!?」

 嵌めた張本人が立っていた事実に、疑問よりも先に怒りで全身が満たされたヒビキは、殺意を全身から放出して一歩踏み出す。

 対称的に、どこか怯えた風情のイサカワは両手を掲げて叫ぶ。

「待ってくれ! 戦う意思はないんだ! 俺は……」

「俺に何をしたか、忘れた訳じゃねぇだろうが。お前を生かしておけば、ユカリやフリーダ達にも被害が及ぶ。順序が逆だが、出向いてくれたなら幸いだ。今ここでテメエも倒す!」

 先日の傲慢さが消え哀願するように叫ぶ様子に違和感もあったが、受けた仕打ちが記憶の中を駆け巡った瞬間、斟酌する余裕は消える。

 怒りで全身を燃やすヒビキと、怯えるイサカワ。手を伸ばせば届く距離まで二人が接近した時――

「ヒビキ・セラリフと雌雄を決するのは、俺が先だ」

 一度聞けば忘れられない重い声を受け、弾かれたように首を回した二人の視線の先にある空。そこに、背に髪と同色の翼を生やした狂戦士、ヴェネーノ・ディッセリオン・テナリルスが滞空していた。

 滞空したまま、背のフランベルジュを抜いたヴェネーノは、鋼の瞳に不快さを滲ませイサカワを睨む。

「覚悟なく力を振るった末、安い後悔に苛まれヒビキの元に来たのか。何一つ予測を裏切らない、実に凡庸で、実に興味の湧かない安い男だ」

「誓約を果たす為、死線を超えここまで来たヒビキに貴様が依頼する権利は、いや同じ場所に立つ資格は無い。消えろ」

「違――」

「言い訳は後で聞く。聖戦の場に貴様は不要だ」

 尚も食い下がろうとするイサカワに一瞥もくれず、狂戦士の翼が激しく打ち鳴らされる。異邦人の身体が、吹き荒れた暴風に包まれ、ヒビキも思わず顔を腕で覆った。

 風が止んだ時、異邦人の姿は跡形もなく消失し、喜色を前面に押し出したヴェネーノだけが場に立っていた。

「依頼主の要望を酌み、先に提示しておこう。小娘は無事だ。貴様の汚名を晴らす為の最後の一手は打ち終わっている。貴様が俺に勝利し、ヒルベリアに辿り着けば五体満足の奴と再開出来る。……ザルコ」

「人使い荒いなぁもぉ。……あ、私竜だ」

 音もなくフィニティス上空に辿り着いていた、六枚の翼を持つ十五メクトル級の黒竜が、ヒビキの視界を覆うように舞い降りる。

 いきなりの竜の登場を受け、たじろぐヒビキにスコールのような鼻息を浴びせながら、四つ目の竜は朗らかに笑う。

「君、無罪になる為の材料を手に入れたんでしょ? 私があの子に渡しといてあげる。持ったままヴェネーノさんと戦ったら、間違いなく一秒で壊されるからさ」

「竜は嘘を吐かん。そして、物資の運搬までは契約の範疇だ」

 ヴェネーノにとってまるで無意味なユカリとの契約を、これまで遂行し続けてくれたのなら、今ここで拒否する理由はない。何よりユカリが信じたなら、殺し合いに関する事柄以外、この男は信頼出来る。

 そう折り合いをつけたヒビキが差し出した瞬間、カメラは竜が編み出した鉄の檻に包まれる。

「それじゃお二人さん、よい戦いを~」

 おぞましい外見と声質からかけ離れた軽い言葉を残し、出現時同様に音もなく飛翔し、雲を突き破って黒竜が退場。これで、広場は再び二人きりの空間となった。

「ユカリを守ってくれた事には感謝する」

「良き戦いを行う為なら、俺はどのような手間も惜しまん。……面構えが変わったな、良き戦いが出来そうだ」

 指摘を受け、ハッと顔を撫でる。

 食事無しの状況が暫し続く、慣れない環境に放り込まれる等の環境変化で、恐らく顔は削れ、目元に隈も刻まれているだろうが、ヴェネーノの指摘は即物的な意ではないとすぐに気づく。

 理不尽な感情の矛先を向けられた結果、何もかもを失いかけた事に対する怒り。状況を変革させる為に足掻いた意思。そしてユカリに対する感情。

 これらが混ざり合った結果、以前よりヴェネーノのお眼鏡に適う面になったのだろうと判断したヒビキは、緊張した面持ちでスピカを構える。

 持ち主の感情に呼応してか、一段と輝きを強める蒼の異刃に目を眇めた後、ヴェネーノは顔を空に向ける。

「まだ始まりではない。これは準備だ」

 短い言葉の後、狂戦士の口から吐き出された火球が彗星のように空を駆け抜け、町を瞬時に加熱。

 そして、爆音を上げ立ち昇った炎が、紅の障壁の如くフィニティスの周囲を一切の隙間なく包囲する形で揺れていた。

「『瀑風散唱炎アンフィスバエナ』は威力が低いが、横槍を防ぐには十分だ」

 数十メクトルの炎柱を瞬時に発生させる、凶悪な魔術が低威力と言われては、立つ瀬がない。炎に反応してか、はたまたヴェネーノの圧倒的な力に怯えたのか、零れ落ちた空の涙に紛れた汗を拭ってヒビキは呼吸を整える。

 ――着弾点に予め圧縮空気を何らかの方法で留めていた。そこに炎を着弾させれば、火勢は一気に強くなる……か? 雨で消えないならヴェネーノを倒して消すしかない。

 長外套を脱ぎ捨て、露わになった上半身の刺青から七色の、掲げた独竜剣フランベルジュから紅の光を発したヴェネーノが吼え、ヒビキも即応して体勢を整える。


「さあヒビキ、この雨に流した勝利も! 未だ拭えぬ敗北も! ひとつ残らず刃に乗せろ! この俺が全て受け、そして打倒してみせよう!」

「アンタを倒して俺は帰る! ……行くぞッ!」


 雨空の下、先手を打ったヴェネーノが地を蹴って始動し、相対するヒビキも加速。

 両者の得物が激突し、歴史の遺物が残るフィニティスの広場は、極彩色の光に飲み込まれた。


「ねぇ、どちらが勝つと思う?」

「決まってんだろ。ヴェネーノだ」

「ボク様達全員を殺す可能性を秘めた唯一のヒト族が、出来損ないのお人形に負ける筈が無いよ」

「ヒト族を甘く見ぬ方が良い。やつがれも先日敗北を喫した」

「貴方は手加減し過ぎよ。でも、これじゃ賭けにならないわね。カラムロックス、貴方はどう思う?」

「常識で思考すれば、十対零でヴェネーノが勝つ。あの少年も弱くはないが、積み上げてきた物と生まれ持った才が致命的に不足している」

「そんじゃ、見守る必要もなくね? さっさと準備を……」

「だがヴェネーノは何処までも戦士だ。狂気と冷徹な軍師の計算を、非常に高い次元で繰り広げる。……奴に穴を見出すならそこだろう」

「つまり、彼の計算に無い行動を彼が取れば、億が一の可能性が生まれるって訳ね」

「奇跡を掴むか、道理に則って押し切るか。なかなか楽しいカードになりそうだ~」

「やつがれ達が見守る意義はありそうだ」

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