13

 夜が更に深まった頃、マッセンネを一望可能な電波塔に異邦人と狂戦士が並んで立つ。

 暴力沙汰を極力避けたい思いから、ジェンジの亡骸との対面を警察署に申し出たが、問答無用で追い出される結果に終わった。

 そして後者が召喚した黒の飛竜に、アガンスの『氷舞士』とハレイド在住の闇医者宛てのメモを託した以上、試みの成功が必須の状況。

 道中購入した水と共に緊張を腹に沈めて立つユカリに、狂戦士の声が飛ぶ。

「貴様の世界に闘争は存在しないのか」

 事態と無関係な言葉を投げられた事実に、ユカリの目が円を描く。今まで行動を共にしてきたが、相手からの問いは初めてだった。


 相手の腹の底を探りつつ、答えを返す。


「個人対個人はまずありません。国同士ならありますけれど」

「そうか。貴様から両親と同じ匂いがしていたのも道理か」

「ドラケルン人は闘争が最優先の種族と聞きましたが、ヴェネーノさんのご両親は違ったんですか?」

 冷たい夜風が、両者の間を吹き抜ける。

「下らぬ事を聞くな」と斬られかねない失言と、発した後に気付いたユカリだったが、彼女の予想を裏切る穏やかな声が紡がれる。

「両親は善良だったが生来闘争に耐えられぬ身体で、またそれを好まぬ性分故、階層は底辺だった。俺が生まれたのは妥当と扱われ、強者のみ価値があるドラケルンの理論に則り、存在さえ認識されなかった」

 強者だけが存在を許される、闘争が骨となる社会では弱者や生来戦えない者、病人や老人は無くても構わない物とされ、彼らの意見や思考は置き去りにされて世界は進む。

 この理屈に従い、ヴェネーノの家族は陰に押しやられていたのだろう。

 残酷な構造だが、概して自身のいた世界も大差ないとユカリは理解する。

 ドラケルンの世界が暴力の強弱で構成されるなら、元の世界は力量に加え、生まれ持った家の財力や人脈で上下が構成されている。

 個々の力量より後者が重視される世界と、ドラケルンの世界はどちらが有情か、何も持たない彼女に判断は難しい。

 しかし何故このような話を、強者の側に立つ男が振ったのか。疑問の眼差しを向けるユカリに、ヴェネーノは苦笑を返す。

「余計な問いだったな」

「……どうして強くなろうと?」

 異邦人の食い下がりに、少しだけ瞳に未知の色を宿した狂戦士は、やがて曇天の空に視線を向け言葉を紡ぐ。

「ハンス・ベルリネッタの英雄譚を読み、憧憬を抱いたからだ。資産の保有や、学術的な方面で社会的地位を得る事が正道だったのだろうが、ドラケルンの中でそれは逃げと考えた。そしてフランベルジュを託された時、同胞から襲撃を受けた」

 声に後悔の色は無いが、幽かな寂寥感があるとユカリは感じた。

 どれだけ功績を残そうが、貶めにかかる者は少なからず存在する。

 一度「劣っている」と位置づけられたヴェネーノに対しては、それは苛烈な物だった筈だ。

 しかし、結末は魔剣を託されるという物。

 あくまで「普通」の感覚を持つ者はこれを、今まで貶めていたヴェネーノが自分達に復讐する準備が整ったと考えたのだろう。

 伝え聞く話では、ヴェネーノは闘争相手の生存を許さない。流儀を同胞にも当て嵌めたのなら、正当性の如何を問わず彼に帰る場所などない。

 己を取り巻く環境を変える為に動いた結果、改善どころか悪化して故郷を喪失する。あまりに悪辣な話だ。

 非当事者のユカリが沈鬱な表情を浮かべる様に、ヴェネーノは平時の自信に満ちた高慢かつ美しい笑みを浮かべる。

「勝手に慮るな。同胞には寧ろ感謝している。高い技量を持つヒトとの闘争の喜びを教えてくれたのだからな」

「……えぇ?」

「そして、唯一勝ち逃げを許し、一生の指針わ提示したスズハ・カザギリにも俺は敬意を抱いている。強大な力を持つ者が、全てを絞り出して闘う時こそ生命が最も輝く時。相手の全てを見られるなど、何より素晴らしい! 俺は全てに勝利する。この野望があるからこそ、生を感じられるのだ!」

 言葉の中に、一点たりとも嘘や虚飾は無い。 

 凶悪かつ独善的、そして彼以外の全人類にとって邪悪な思想だ。

 されど内に宿した思想に殉じるヴェネーノは、それを成すべく研鑽を怠らず、こうしてユカリと行動しているように、良き闘争の為なら回り道も厭わない。

 ここまで信念へ愚直に進む者は、何処の世界でも極めて少数。善の天秤に傾いていれば、恐らく偉業を成していたとの確信を、ユカリは抱いた。

「でも、世界中の強い人全員を倒した後はどうするんですか?」

「ドラケルンの戦闘可能限界年齢が平均で百といった所。後十年で現在跋扈する強者を全員打倒しても、俺の身体が動く間に新たな強者が現れる。その者も倒せば良い話だ。本当に誰も現れぬなら、エトランゼ打倒に向かおう」

 引っかかりに対し、あまりに巨大なスケールの返答をされて苦笑するユカリだったが、排気音を捉えて下方を見た瞬間、表情を引き締める。

 車体の周囲を覆う形で金属管が伸ばされ、太いタイヤを履いた、戦場で使われる装甲車に似た装いの発動車が、野太い音を発しながら眼下を駆け抜けていく。

「ヴェネーノさん!」

「言われずとも、だ」


 足場を蹴り、各々の飛行手段で宙を舞う二人が追跡を開始。


 程なくして、発動車から発せられるエンジン音が急激に増大。けたたましいスキール音を引き連れて距離が一気に開く。相手もこちらの存在に気付いたようだ。

 ハレイド市街に到達を許せば、生死はともかく目的達成の可能性が著しく薄らぐ。ユカリは軋む体に鞭を打ち、加速する発動車を追う。

 繋ぐ場所の特性で道路に他車の姿はなく、相手は忌憚なく加速を続ける。

 ここが最初で最後の勝負時として追従するユカリの目が、車内から発せられる白光を捉えた。

「躱せ」

 背後からヴェネーノの声。

 理性を放棄した出鱈目な動作で、錐もみ回転するユカリの横を、金属針の雨が不快な摩擦音を奏でて抜ける。視線を前方に戻すが武器の気配はない。

「『狂飆裂鋼雫メクウェリュプス』だ。たかが死体運搬車に魔術師を同乗させる程度に、この件は重く捉えられているようだ」

 淡々とした分析を聞きながら、失速を取り戻そうと試みる前に二の矢三の矢が迫る。無理な動きの連続で感覚器官が徹底的にシェイクされ、制御不能に陥るユカリの瞳に、魔術師が奇怪な棒を向ける姿。


 ──あぁ、これは死ぬかも。


 運否天賦に全て握られた状況下で、胴部に鈍い衝撃を受けたユカリの視界が不意に引き上げられ、下方を矢が駆け抜ける。 

 顔を叩く風の勢いが急速に増大し、背部を火傷しかねない熱量が襲う。

 振り返ると、月をも隠す巨大な両翼が持ち主と同様に、有する膨大な魔力で溶岩の如き赤い輝きを放ち、大気を掴んで空気を切り裂く様が目に飛び込む。

 身体を乱暴に掴まれ、息を詰まらせるユカリの耳に鋼の声。

「誓約を果たしてから死ね」

 異邦人の未来を変えたヴェネーノは、右腕一本でフランベルジュを繰り魔術を弾く。破砕音が後方に押し流され、上着がはためき身体を叩く感触を受けながら、ユカリはまんじりともせず前方の発動車を睨む。

 ヒビキとの一戦から考えるに、ヴェネーノは更に速度を出せる。だが、狂戦士の側に配慮がある為か距離の縮まり方が鈍い。

 いずれ捕捉は叶うが、時間をかける事に利はなく、ハレイド中心部に接近すればする程、他者を巻き込むリスクが増大する。


 最良の一手は何か。


 黙して思考する無為な時間が、暫し風と共に流れる。

 非はこちらにあるが、躊躇なく攻撃を仕掛ける相手に対し、平和的な解決は困難と分かっているが、ヴェネーノが合理的とする手段は、ユカリには選べない。

 直接戦う必要のない相手を殺害すれば、砂川と大差ないと良心が訴えている為だ。

 ──でも、それ以外に方法が……

 不意に、手詰まり状態だったユカリの思考に雷撃が奔る。

「ヴェネーノさん! 私を車の前に投げてください!」

「相手が轢殺して逃げる可能性がある。それでも良いのか」

「構いません!」

「良心への訴求は確実に突破される。ウラグブリッツを使え」

 鋼の声が急速に遠ざかり、視界が出鱈目に回転する。

 無造作に投げられたユカリは、狂った世界の中で頭部から道路に接近していると気付き、教わった受け身を無意識に引き出して身体を丸め、左上腕部から地面に落ちる。

 ゴムボールのように何度も弾みながら地面を転がり、激痛と奇怪な光景が、彼女の背後に押し流されて行く。

 滑走の勢いを利用して立ち上がり反転。ユカリの目に映る装甲発動車は、加速度的に大きくなる。

 エンジンの太い叫びと、魔術が空気を裂く音、ヴェネーノがそれを撃墜する音。これら三種の音が打ち消し合うことで、ユカリの耳は重く響く自身の心音のみ捉える。

 発動車に減速の気配は皆無。ヴェネーノの指摘通り良心への訴求は空振り。これでツーアウト。スリーアウトから繋がる物はチェンジではない、死だ。

 失敗への恐怖から加速する鼓動と足の震えは、「私に出来る筈もない」と理性の主張か。


 ──私は一度死んでいる。この程度で……怯えるな!


 必要な物は理性ではない、成功だけだ。それを世界に知らしめるように、ユカリは絶叫する。

 咆哮に呼応してネックレスが光を放つと同時に、全身がじんわりと熱に包まれ、身体を襲う緊縛が僅かに緩む。

 無意識に『怪鬼乃鎧オルガイル』を発動したと気付かぬまま、ユカリは硬い地面を蹴って跳ぶ。迫りくる発動車の一点を見つめ、落下しながらウラグブリッツを引き抜く。

 仕掛けを朧げに察したのか、運転手が泡を食った風情で同乗者に呼びかける。 

 が、後方から爛々と殺意を発して迫る狂戦士に、魔術士達は意識を総動員しており、運転手にアクセルを踏む以外の選択は奪われていた。


「お願い、当たって!」


 縋るような叫びと共に、薄翠色の刃が放たれた刹那、誰も聞いたことの無い音が世界に生まれ、ユカリの視界も崩壊した。


 飛び乗った異邦人が放つ突きで、薄翠色の刃はボンネットを易々と貫通しエンジンに到達。推進力を突如失ってバランスを崩した発動車は、けたたましい悲鳴を発しながらスピンを喫する。

 横滑りで道路を横断した末ガードレールに激突した発動車を、見上げる形で目撃するユカリの視界に赤が差す。額を撫でるとヌルリとした感触。頭部に傷を負ったようだが、腕や足が動く事を喜ぶべきか。

 少しズレた思考と共に立ち上がったユカリは、フラつく足取りながらも、迷いなく発動車に歩む。

「は、話せば分かる!」

「問答無用。寝ていろ」

 教科書で見たようなやり取りと打撃音が車内から聞こえた後、場に沈黙が降りる。

 無論、先刻の喧騒を聞きつけた誰かが、善意に基づき通報を行っているのは確実で、猶予は一刻もない。どうにか車の後部に辿り着いたユカリは、荷台の扉に手をかけ、躊躇を振り切るように開く。

「これだろうな」

「……ええ」

 荷台には、白い長方形の箱が置かれていた。

 無機質極まったその箱の上面には、昨日の日付と内容物の名前が記されており、目的の存在が入っていると、二人に理解させるには十分だった。

「急ぐぞ」

 黙したまま首肯し、ユカリは一歩を踏み出し──

 反射的に手を引き上げ、飛来した物体を確認する暇も惜しんで振り返り、そこに立っていた人物に瞠目する。

 隣に立つヴェネーノが喜悦を放出させる一方、正反対の感情を抱いたユカリは、極度の緊張で顔が引き攣る。

 一文字の傷が刻まれた顔は、険しさと苦悩が同居する複雑な表情を浮かべ、これまでと印象を大きく変える軍服を纏った男は、リヴォルバーの銃口をユカリに向けていた。

「目的の為に手段を選ばない君の行動には、毎度本心から驚かされる。しかし、今回ばかりは許容する訳にはいかない」

「……パスカ・バックホルツさん」 

 アークス王国四天王『断罪者ドミナキューター』パスカ・バックホルツ。


 最悪の邂逅が成された現実を受け、硬直するユカリの身体は、隣から忌憚なく放出されている殺意と闘争心を浴びてどうにか再起動を果たす。


「ヴェネーノさん、戦うのは話が決裂してからにしてください」

「何を言う、四天王と合法的に闘争を行う機会などそうはない。すぐに片付けるから気にするな」

「契約はまだ果たされていません。それに、順序ではヒビキ君、フリーダ君、ハンナさんとしていた筈です。宣言を変えることは、正しい振る舞いではない筈です」

 納得の色は欠片も伺えないが、一先ず剣を退いたヴェネーノを置いて、ユカリはもう一歩パスカに対して接近する。

「行かせてください」

「駄目だ。君の行為は紛れもなく犯罪だ。加えて、殺人犯の……」

「定義が歪められた物でも、ですか?」

 苦悩の色を強めたパスカを他所に、ユカリは言葉を継いでいく。

「直接関与していなくて、只捕縛を要請されたあなたへの非礼は先に謝罪します、ごめんなさい。でも、潔白の存在を貶める行為を、私は正義と言いたくありません」

「法に則り、我々はヒビキ・セラリフを追っている」

「確かに法に則っています。通報から短時間でヒルベリアへ迅速な連絡と、日が沈むより速い手配書の作成。そして、追跡にユアンさんを派遣した。この流れは、まるでヒビキ君が殺人を犯すと最初から分かっていたみたいですよね」

 パスカ・バックホルツは苦悩を更に強め、リヴォルバーを再びユカリに向ける。

「君の主張は理解出来る。だが……」

「悩むなら撃ってください」

 ヴェネーノが感心したように漏らした笑声を横から受けながら、ユカリはウラグブリッツを鞘に納め、銃を納めた腰嚢を狂戦士に投げ渡す。

 これでユカリは丸腰となり、力を振るえる者なら誰でも先手を打って彼女を殺害が可能な状況となった。

「あなたの、そして国の主張を通すなら、私を撃ってください。意識を失っている方々に聞けば、幾らでも正当性を確立させられます。さあどうぞ」

 ユカリなど足元にも及ばぬ強力な力を持ち、この国で畏怖と尊敬の対象となる男の顔から汗が一筋流れ落ちる。

「話は中央でも聞ける。君の主張を正当な物とするなら、俺と共に来るんだ。ヴェネーノの主張も聞く」

「砂川君が重用されている今、私が喚けばどうなるか分かる筈です。あなたの理論は全て正しい。でも、それでは私の中にある正義を、成すべき事を果たせないんです。……もう一度言います。理屈を通したいなら撃ってください」

 目を閉じて、もう一度ユカリは相手の動きを待つ。

 数十秒、無防備なまま待ったが何も起こらぬまま時間は流れ、やがれ目を開いた彼女は、顔を蒼白にし、左腕を添えてリヴォルバーの震えを抑え込んでいるパスカから視線を外し、既に箱を担いでいたヴェネーノに合図を送って飛翔する。

「待──」

 制止の声を置いて二人はハレイド中心部に向かう。

 後方から聞こえてくる獣のような咆哮に、強い罪悪感を抱くユカリの耳に、ヴェネーノの声が届く。

「決断に基づく振る舞いに罪悪感を抱くな。行動を貶めるぞ。奴に何か言いたいのなら、事が終わってからにしろ」

 重い言葉を受け、ユカリは黙したまま加速。

 二つの飛翔体は、やがて夜の闇に呑まれて消えた。

 最後まで二人を眺めていたパスカ・バックホルツの手から、手にしていたリヴォルバーが滑り落ち、乾いた音を立てる。

 崩れ落ちた彼は、拳を大きく振り被り、道路に叩きつけた。手を痛める危険性も忘れ、何度も、何度も。

 彼女の行為は紛れもなく違法。しかも、賞金総額二千億スペリアの化け物を引き連れていた。命を捨ててでも二人を捕縛する事が、四天王の使命だった筈だ。 

 にも関わらず、パスカは引き金を引けなかった。彼女に指摘された点に、彼も疑問を持っていた為だ。

 新種の魔力形成生物『グロブケルタ』の討伐を終えるなり、詳細を一切伝えられないまま、ヒビキ・セラリフに関する事象を聞かされ、この場所に向かえと命じられた。

 あまりに手際の良い流れと、新たなる異邦人への大きな権限移譲、そして追跡者にユアンを配置。ユカリの指摘通り、明らかにヒビキへの悪意が満ちている。

 沈黙したまま『竜翼孔ドリュース』を発動したパスカは、二人と同じ方角、しかし二人を追う事に繋がらない方向に飛翔する。

 内在する正しさを指針とし、自分より遥かに強い意思を持つユアンが追跡に向かったのは、彼が最も欲している物を餌にされた為だろう。

 放置していると、ユアンはヒビキの殺害をやり遂げる。

 今すべきことは、同僚が事を終わらせる前に彼を抑え、関係者全員が主張を行う場を設ける事だ。

 この考えが国に反する事は重々承知。独断専行は当然処罰の対象になる。

 進み続ければ自分だけでなく、ベケッツで平和な日々を送っている両親や兄に被害が及ぶと分かっている。

 だとしても、このままでは大切な何かを失うと直感で理解し、パスカは全ての通信機器を放り捨ててハレイドに進路を執った。

 

                  ◆


 一定以上の規模を持つ都市は夜でも人口の灯りが途切れず、この状態を『不眠症』と形容する者も存在し、ハレイドもその括りに属するだろう。

 されど、夜になれば眠るヒトの習性は誕生から数万年経っても、劇的には変わらない。通行人の数は非常に少なく、多少の奇行なら見逃される。

 そのラインを超えた馬鹿者が、今日この時間にはいたようだが。

「……はい、すんませんでした」

 ハレイド中心部のとある場所。

 弛み始めた上半身を露わにした中年男、ドノバン・バルベルデが警察官に対して深々と頭を下げていた。

 『正義の味方』騒動で武器を失った彼は、溜まっていた有給を申請して、趣味を存分に楽しむ生活を送っていたが、先刻上司から仕事の連絡を受けた。

 連絡をなぞるように舞い降りた黒竜から、メモを受け取り始動したのだが、如何せん酒精が回り過ぎていた。

 数歩ごとに屑籠に嘔吐していては、当然警察にも目を付けられる。

 数十分説教を食らい、ようやく解放されたドノバンは汚れる事を厭って脱いでいた上着を羽織り、のろのろと歩みを再開する。

 期間限定の同僚、フリーダ・ライツレも動いている為、これ以上の時間の空費は不味い。痛む頭を抑えて歩むドノバンだったが、角を曲がった所で誰かと正面衝突し、相手の顔を捉えて顔が引き攣る。

「っと」

「……すみません」

 派手な軍服を纏った少年、ドノバンの属する事務所が「敵」と扱うイタル・イサカワが目の前に立っていた。

 酒精が見せる夢と思いたいが生憎現実で、急激に酔いが引いたドノバンは身構えるが、イタルはその姿に首を傾げるばかり。

 ──俺が所長んトコ所属って知らねぇのか。……副所長の采配がまた当たった事になるのか。

 同等の実力を持つ二人の同僚は、容姿と仕事振りから隠密行動には向かないと、上司は判断を下して彼に仕事を割り振った。

 不惑に足を踏み入れ、醜寄りの外見で広報活動に参加しない自分が、つい先日やってきた者に認知されている筈もなく、この采配は大正解となった。

 そこまで思考した所で、ドノバンは眼前の少年の周囲に誰もいない事実に気付く。

 ──話だと、同年代の女を常に侍らせているらしいんだが。……何かあったか?

 無遠慮な中年男の視線に恐怖を抱いたのか、イタルはおざなりな会釈をしてドノバンの横を抜ける。

 その時、重低音が二人の間に響く。 

顔を僅かに赤くしたイタルの肩を掴み、ドノバンは汚れた歯を剥き出しに笑う。

「おめー飯の為にこんな時間にほっつき歩いてたのか。なら俺が出してやるよ」

「いや、別に……」

「遠慮すんなって」

 強く腕を引くと、イタルは抵抗を諦めたようにドノバンに追従し、奇妙な組み合わせが夜のハレイドを行く事となる。

 本来の命令から多少外れるが、こうして同じ場所に居る事で、ネリアの危険を減じられる。即ち仕事をしていると強引に理屈付けたドノバンは、仮住まいに案内して缶詰を二つ投げた。

「悪いな、俺もここに来たばっかで調理の環境が出来てねぇんだ。ソーセージとステーキどっちか選べ」

「ソーセージ、いただきます」

 伝わっていた傲慢さが見受けられないイタルの言動に、よく似た別人を連れてきたのではと、缶詰を開けるドノバンの内心に不安が過ぎる。

「俺ですか? 俺はイタル・イサカワです。……このソーセージ、美味しいですね」

「三千スペリアの高級品だからな。俺も始めて食うんだが」

 表情を緩めながらの名乗りで、当たりを引けたとドノバンは安堵するも、後が続かず部屋に咀嚼音が空しく響く。

 このままでは、すぐ完食されて出て行かれる。だがこちらから踏み込むと、地雷を踏む可能性が高い。

 次の一手はどうするべきか。

 無意味な脳内問答を繰り広げるドノバンだったが、不意にイタルの側が自分の方を見つめている事に気付く。

「あなたは何のお仕事を? それとお名前は?」

「俺? しょっぱい賞金稼ぎだ、敵性生物や犯罪者を狩るアレな。後、名前はイヴァン・バルベルデだ」

「……なら、イヴァンさんも人を殺した事があるんですか?」

「何の正当化にもなりゃしねぇが、殺らなきゃ殺られる環境にいた。当然あるさ。服で判断して悪いが、兄ちゃんも軍人だろ。なんで俺にそんな事聞く?」

 缶詰が軋む程、全身に力を入れていた様子のイタルは、問いを受け、虚ろな言葉を吐いて脱力する。

「信じて貰えないでしょうが、俺、違う世界から来たんです」

「この前、同じ事を宣う奴と戦ったから信じるぞ。おめーの着てる服、アークスの高位士官のアレだろ。それ着られるってのはすげぇじゃねぇか」

 ヘマをしでかして軍を追放され、今の立ち位置に流れ着いたドノバンの、半分本心から出た言葉に、イタルは顔を歪める。

「俺をここまで持ってきた力は、借り物なんですよ」

 どうにも、相手は溜め込んだ物を吐き出したい状況下であり、続けていいか? の意が籠められた視線を向けてくる。単なる良心以外の感情にも動かされ、ドノバンは首肯を返す。

 纏う物も言動も善寄りに映る少年が、何故大量の悪評を背負いこむようになったのか、彼にも興味が生まれていたのだ。

「この世界に来た時、目の前で女の子が変な奴に襲われていたんです。……今思えば、見捨てておけば良かったけれど、俺は彼女を庇った。相手は武器を持っていて、元の世界での力を考えたら勝てる筈も無かったのに、よく分からない力で相手を倒せた」

「何処からか軍部に伝わってスカウトされたって訳か。悪かない話だな」

「スカウトされたと言っても、世界の仕来りに暗い俺に与えられる仕事は一つ。ハレイドをパトロール、だけ。その中で、何故か俺と同じ年齢の女の子とばかり出くわしました。力を行使して「救う」度に称賛を受け、俺は肯定されました。知らない内に、心が劣化していっていたんでしょう」

 彼の行為を正当化と非難、そのどちらかをするつもりなど、ドノバンにはない。

 命のやり取りで飯を食う者は、大抵善悪の判断が壊れる。

 所詮ヒトの主張は己に都合の良いクソで、議論はそれのぶつけ合いであり、相手を叩き潰して正当化させる事が終着点。だからこそ、何か一つの考えを絶対とするなど、不可能と考えていた。

 だが、彼にそのような行動をさせた環境に、ドノバンは強い疑問を抱く。

 一人の少年の行く先々に、同じ年頃の異性が、常にトラブルに巻き込まれた状態でいるなど、偶然ではありえない。誘導があったと考えるべきであり、利害を勘定すれば誘導の主はアークス王国の者だ。

 ――普通の奴がいきなり力を持ち、完全に肯定され続けりゃ、そりゃ感性が壊れる。寧ろこうして話せる辺り、こいつはまだ保っている方だ。だがよ、誘導する利点が何処にある?

「元の世界で「どうでも良い存在」だった俺は、承認欲求に飢えていた。そして致命的に間違えた。……最大の間違いを修正出来ないせいで、手に入れた地位と名誉を、惜む気持ちが強まっている有り様です」

 独白を続けるイタルが握る缶詰の中、後数本のソーセージが浸かる液に波紋が広がる様を、ドノバンは見て見ぬふりをした。

 致命的な間違いとは、恐らくヒビキを嵌めた事だろう。

 誰でも抱きうる凡庸な嫉妬や羨望は、力が加われば凶悪な事象を引き起こす原動力に十分成り得る。

 永久監獄に投獄された『死光花』や、ヴェネーノのような突き詰めた狂人は多くない。イタルの犯した過ちは凡庸な所から始まった物だが、それが旧知の存在との決裂を齎した。

 ヒビキとユカリは、利害関係や恩の領域をとうに超えていると、ドノバンは同僚の話から判断しており、彼を嵌めた挙句、突破口を叩き潰したと来れば、イタルと彼女の関係は最早修復不可能だろう。

 嘗て似たような過ちを犯したドノバンは、自業自得とはいえイタルを笑うことなど出来ず、さりとて肯定することも出来ずにいたが、やがて彼の肩を軽く叩く。

「お前のやらかした事は消えないが、ケツ拭く権利はまだ残ってる。それを否定する事は誰にも出来ないし、今まで通りに振る舞おうが誰も咎めない。じっくり考えるこったな」

「……僕を責めないんですか?」

「責めてもなんも変わらんし、俺はお前に何かされた訳じゃあない。それよか、前に進む方が有益だろ」

 言葉の意味を咀嚼するように、暫し硬直していたイタルは、目元を拭って立ち上がる。

 不相応な力と地位の嵩上げで生じた精神の劣化が治癒した訳でも、状況が変化した訳でもない。どう手を打とうが、敗戦処理以上の意味は持たないかもしれない。

 動いて失敗する方が、自己の中で問答を繰り広げるよりマシという、苦い過去から身に付いたドノバンの思考は、少なくともイタルを刺激させる材料にはなった。

「イヴァンさん、ありがとうございました。……どんな形になっても、全て終わった後ご報告に伺います」

「適度に気負え、思い詰めるんじゃなくてな。最悪、元の世界の事なんぞみーんな忘れて生きれば良いんだし」

 異邦人を見送り、缶詰肉を口に押し込んで嚥下したドノバンは、懐を探りつつ思考する。

 少年の行動を誘導し、精神を劣化させたのはアークスの誰なのか。それを行って生まれるメリットは何か。そして、異邦人が現れる頻度が早まっている理由は。

 前二つは行う意味が分からず、残る一つも現状関連付けは難しいが、低い次元と言えど政治や国の仕組みに触れたドノバンは、この三点がどうも繋がっているように思えた。

 ――となると、あいつもだがあっちの異邦人も危ない。……ん?

 取り出した煙草を点火せず咥え、寝転がった瞬間、ドノバンは自分が何かを忘れていると気付く。

 同時に通信機器が喧しく鳴り響き、通話を開始して忘れ物に気付いた彼の顔が引き攣る。

「やべぇ! フリーダを忘れてた!」

 泡を食ったように装備を整え、元軍人は慌てて所定の場所へ駆ける。

 疑問の解消がかなり遠い未来となり、解消の形が最低な物になるとは、当然この瞬間の彼は知る由もなかった。


                  

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