終:現実にいつか、呑まれる前に

 バディエイグが位置するグァネシア群島から、インファリス大陸へ向かう高速船。廃材や生ゴミが放り込まれる時間以外、船員達も足を運ばない部屋の扉が軋んだ音を上げて開かれ、人影が滑り込む。

 人影、ヒビキ・セラリフは室内に充満する臭気や多種多様な汚物に目もくれず、よたつく足取りで部屋の片隅に辿り着き、膝から床に落ちる。

 何度か深い呼吸を繰り返した後、くぐもった苦鳴が漏れ、続いて反吐がぶち撒けられた。


 友人達と先程摂った食事から胃液、そしてどす黒い血まで。


 目撃者がいれば、確実に船医を呼ばれる醜態を晒すヒビキの顔に極大の苦痛。全身が痙攣し、床を掻き毟る左手の爪が剝げ、指先から血が噴き出す。見開かれた目から苦痛の涙が流れ、口から喘ぎ声が吐き出される。

「こ……れが……代償、か」

 辛うじて言葉の形をした音を、ヒビキは絞り出す。右手を支えに頽れることを免れ、滑稽なまでに震える左手を掲げる。

 定まらない視界に映る彼の手。その内側では血と汚液以外の色。彼が力を行使する時に放たれる蒼光と同色の液体が脈打つ。

『魔血人形』の力を解放した時、右腕に生じる現象は左手に発生したことは過去一度も無かった。恐慌状態に陥ってもおかしくない光景自体に対する恐れは、理由を知っているヒビキには無い。

「痛みが力に変わるのなら、幾らでも受け取ってやる。俺はもう、決めたんだ」

 苦痛に苛まれながらも、強い意志に満ちた音を発し、ヒビキは目を閉じる。

 音を文字に直せば美しい決意表明と思えるだろう。だが。仮にこれを聴いた者がもしいたなれば、そこに肯定的な感情が生まれる事は無い筈だ。

 紡がれた音には、悲壮なまでの覚悟と決意、そして諦観で構築されていたのだから。


                   ◆


 ヒルベリアからファナント島への道程。

 漆黒の夜会服を纏う『船頭』。カロン・ベルセプトが構築した七色の空間を彼女と並んで歩みながら、ヒビキは紡がれる言葉に耳を傾ける。

 本来『飛行島』で伝えるつもりだった。

 そのような前置きから始まった語りは、ヒビキ・セラリフという存在が世界から望まれておらず、どう足掻いても数年以内に死を迎える残酷な現実。

 そして――

「あなただけなら、元の世界に今ここで帰ることが出来るわ。……積み上がった数多の問題は解決出来ないまま、だけれど」

 何も知らなかった頃に目撃していれば、間違いなく心を奪われていた神秘的な美貌を曇らせたカロンの言葉は、大きな衝撃をヒビキに齎した。

 寿命を含めた問題は放置したままでも、生まれ故郷の土地を踏める。辿り着いた瞬間に即死するかもしれないが、突き進んだ果てに何かを得られる保証もない。

 この上なく魅力的な提案を、ヒビキは躊躇無く首を振って拒む。

「俺だけじゃ……いや違うな。俺が帰るんじゃ意味が無い。帰るべきなのはユカリだけだ。元の世界に家族や友達がいて、その人達から帰る事を望まれているアイツが帰れなくて、俺が帰るのは正しくない」

「……本気で言っているの?」

「初等教育中退でも、一応見るところは見てる。それにさ、俺だけってことはアレだろ? 俺はいつ死んでも問題ないから、世界への負担か何かが少ないからだろ? で、ユカリの役目は俺が消えても続く。違うか?」

「何も間違っていない。あなたの言う通りよ」

「だったら、アンタの提案には乗れない。俺は戦う……だから、頼む」


 立ち止まったヒビキが、隣を歩むカロンに頭を下げる。


「シグナやハンスに、アンタは力を分け与えた。ただ『エトランゼ』に勝つ為じゃない、世界の繋がりを断ち切る為の力を。ユカリの役割を、俺にやらせてくれ」

 複数の魔力を持つことは、器がヒトで有る限り困難を極める。歴史書に刻まれる大魔術師で無い限り、一時的に保有することが精一杯。それすらも成功例は少ない。 

 異邦の生まれ故に生来魔力を持たず、世界の規則から逸脱した形で力を得たヒビキには、その難易度は常人の数十倍、数百倍と言ったところ。

 加えて、大嶺ゆかりに本来託される筈だった力は世界の繋がりを断つ為の代物。

 二千年前に現れ、アルベティートとの死闘の果てに散った異世界の英雄、シグナ・シンギュラリティのような規格外の怪物にのみ与えられた力を、世界に拒まれた者が身に宿せばどうなるか。

 及び腰のカロンを見れば、正解など容易に分かる。辿り着く前に死ぬ、道理かつ最低の現実に呑み込まれるのだろう。

 弾かれ者にはお似合いの結末と言えるし、死に対する恐れの克服など一生不可能という自覚はある。だが、世界の繋がりを断つ大仕事には、間違いなく何かしらの手痛い代償がある筈だ。

 嘗て背負った者達に生存者がいない力を、ゆかりに背負わせる道。それは、ヒビキにとって絶対に許されない道だった。

「あなたの死を、あなたの友人や異邦人は望まない。それでも背負うの?」

「他に道が無いなら、それが一番合理的だ」

 ヒビキ・セラリフの選択基準に、彼自身の幸福は消えていた。自己犠牲と言えば美しい。だが、帰還する権利を本来享受すべき十七歳の少年が至るには、誤り過ぎた到達点。

 数多のヒトを見て来たカロンですら、痛みを覚える領域に至っているヒビキは、一切のプライドを放棄して並び立つ船頭に懇願する。

「アンタには分からないかもしれない。けど、いちゃいけない存在だって言うのなら、一つぐらい何かを残させてくれ。世界が……ユカリがあるべき場所に戻れるのなら、俺は何も望まない。……全てを失っても構わない、アイツに渡る筈だった力を俺にくれよッ!」

 名も無いだれかのままで。誰にもなれないままで。胸を張って生きられる程にヒトは強くない。故に他者と繋がることでヒトは自分を『誰であるか』定義する。

 そして、この世界に居てはならなかった存在で、繋がるべきでなかった存在との定義を押しつけられたヒビキは、何かを成す事にそれを求めた。


 美しく、愚かで、悲壮な決意。


 硬直したヒビキを、カロンの水晶の目が静かに見下ろす。魂の終着点を統治する伝説を背負い、数多の死者を見てきた船頭の目に、様々な感情が宿っては消えていく。

 規則の遵守以上に、業を背負わせる事を忌避する意思が強く表れた彼女の姿は、超越者ではなく自身の子を見る母親のそれに近かった。

 沈黙の最中、遠くから水晶が砕ける音が届く。

 道の終わり、即ちファナント島への到着が近い事を示す音を受け、業を煮やしたのか。ヒビキの左手がスピカに伸び――

「分かったわ。……望みを叶えましょう」

 無謀な実力行使に動きかけた左手を右手が抑え、たおやかな指がヒビキの顎に当てられる。

「なん――」

「望むなら耐えなさい。そして、受け入れなさい」


 予想外の行動に硬直するヒビキの唇に、カロンの唇が重なる。


 甘い光景が生まれた刹那、ヒビキの手からスピカが滑り落ち全身が痙攣。内側から何かが砕け、強引に再構築される鈍い音が生まれ、白かったヒビキの肌が黒に染まり、至る所から黒の汚液が吐き出される。

 充血した生身の右目から血涙が溢れ、全身から煙が噴き出し始めた頃。カロンの顔がヒビキから離れる。時間にすれば三十秒もなかったが、永遠にも思える苦痛に晒されたヒビキは顔を歪め喘鳴を吐き散らす。

 醜態を晒しているが、確かに生きている少年を見下ろすカロンは、意図的に感情を排した言葉を紡ぐ。

「大嶺ゆかりに託される筈だった力を、貴方に託した。求められる瞬間まで行使することは叶わないけれど、貴方が『魔血人形』の力を行使する度、拒否反応が起きる」

「それが……さっきのアレか」

「『エトランゼ』が鬼札として恐れたヴェネーノすら退けた、貴方の意思を私は尊敬しているし、出来るのなら全てを叶えてあげたい」

「けど、それは世界の規則が許さないってか。難儀な話だな」

 小さく頷き、カロンが前方に開かれた白の円環を指し示す、微かに見えるのは塵芥や血、そして人体が舞う光景。

 ゆかり達がいる場所に降り立つのだと、即座に解したヒビキは乱雑に口元や元の色に回帰した肌に付着した液体を拭い去る。

 望んだのなら、後は踊りきるまで。その為にはまず、友や想い人に変化を気付かれてはならない。

 降り立った先で待ち受ける戦いに意識を切り替え、歩き出したヒビキの背にカロンの声。

「意思を貫徹することは素晴らしいわ。でも忘れないで。貴方が想うように、貴方を想う人も必ずいる。逃げることは許されなくても、頼ることは出来る。その時は、躊躇わないで」

 心が揺れなかったと言えば嘘になる。

 生まれた揺らぎを押し殺し、左手を掲げるに留めたヒビキは、躊躇なくファナント島へ飛び込んだ。


                    ◆


 そして第一関門を乗り越えた今。自分は愚かな勘違いをしていたと、ヒビキは気付きに至っていた。

 拒否反応は戦闘時に厖大な力を使用した後に生じる物。その推測が、そもそも大間違いだった。

魔血人形アンリミテッド・ドール』の力は、生命活動の為に二十四時間毎日止まる事無く行使され続けている。行使されなくなる時とは即ち、彼が死ぬ時だ。

 つまり、全身を刃で切り刻まれる痛みと、消し炭になりかねない高熱を肺腑が抱え続ける、常人なら瞬時に発狂する拒否反応は、彼が生きている限り永遠に続く。

 久方ぶりにゆかりと再開が叶う状況があり、その為に敵を撃破する。明確な目的が齎した高揚によって、ここまで耐えられたが、それが切れた今はこの醜態。

 過ぎた力を身に宿す重さを、身を以て思い知ったヒビキは、荒い息を吐きながら立ち上がり、窓に映る静かな海を見つめる。殺風景なヒルベリア育ち故、景色を楽しむ風情は乏しい。

 それでも今は、少しでも意識を逸らす試みを行わなければ、精神が砕け散る確信がヒビキにはあった。


 いつまで、どこまで耐えられるのか。

 そして、最悪の拒否反応である肉体の完全崩壊を回避し続けられるか。


 自身の手で全てを背負ったヒビキは、そこに滞留する迷いを打ち砕く為にか、右手を壁に叩きつける。

「……俺は全部成し遂げる。現実が俺を呑み込んで、喰らい尽くす前に、ユカリを元の世界に帰してみせる。世界にいらないって言われた人殺しが、生にしがみつく理由なんざ……それだけで良いんだよッ!」


 悲壮な叫びは、誰にも届けられぬまま狭く不潔な室内を回る。

 定められた道から多少逸れたが、終着点は何も変わっていない。少年が歩む道には血塗られた戦いが延々と続き、最後は運命に殉じて朽ち果てる。

 救い無き結末を予見するかのような光景は、数時間に渡り只そこに在り続けた。

 


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