14
命の価値を知る方法?
死んでみれば良い。周囲が好き勝手に値付けしてくれる筈だ。
生きたまま知りたい? だったら、世界が肯定する『正しい』殺しを重ねろ。
『正しさ』に沿って殺し続ければ、いつかは英雄になれる。
俺がその見本だ。勧めはしないが、頭の片隅に置いておきなよ。
……答えになっていない? 贅沢を言うなよ。
だったらもう一つ。ブレずにいることだ。
誰もが皆、大切な何かを持っている筈だ。それを守り抜くために、ブレずに生きて、走って、戦え。
どれだけ無様で愚かであっても、そうして守り抜いた芯は天を掴む翼となる。誰にも侵せない、不可侵の輝きを君に与えるだろう。
この領域に自分が届いているのか、届くためにブレずに在れているのか。確かめる術が少ないことが難点かなぁ。
ギガノテュラスとの決戦前夜、とある宿にて。
ハンス・ベルリネッタ・エンストルム。
◆
異空間に座したハンスが広げた両手に、彩り豊かな球体が転がり出る。
球体は意思を持つかのように彼の手を離れ、淡い光を放ちながらゆかりの周囲で回る。
「君が一番よく知っているように、世界は一つじゃない。そして二でも三でもない。何度か対峙した筈の『正義の味方』の世界も存在する。文化のレベルから魔術の有無まで、かなりの差はあるけれどね」
個人の力量差や地域ごとの技術力格差が大きいこの世界と、元々いた世界は当然違う。魔術の有無と、それが齎す様々な差を見れば分かる事だ。
「数十億年前に宇宙が誕生した時、無数の世界が生まれた。生命体が生まれず滅んだ世界もある中で、生き延びたのが俺や君が住む世界だ。基本的に、世界同士が交わることはない」
基本的に無い。
この言葉に何の保証や価値もないと、ゆかりは我が身を以て知っている。沈黙を守ったまま、ハンスに次を促した。
「けれども、低確率で世界は繋がる。大体は無機物の往来程度で済むけれど、稀に生命体が移動することもある。元の世界で、変な動物を見た! とかそういう話は無かったか? 全てとは言えないけれど、結構そういうのが他世界の連中でしたって話は多いんだ」
指摘を受け、ゆかりの瞳が揺れる。
有名どころではツチノコ。或いは河童。現代では廃れたが、嘗てネッシーなる爬虫類が世間の話題をさらった。
彼等を否定する根拠に、生態系を維持する為に求められる個体数や、生活の痕跡があまりに少ないという物があった。だが、彼等が異なる世界から来たのなら、上述の指摘は全て無に帰す。
唐突に世界を転移し、正確な理解を得られぬまま死んでいく。話の種でしかなかった存在が直面していた残酷な現実に身が竦ませるゆかりを他所に、ハンスの言葉は続く。
「低確率かつ少数でも、世界の繋がりを放置すれば最悪の事態も生まれかねない。繋がりを断ち切る必要があって、その為にカロンは繋がった世界から特別な存在を呼ぶ。それを『選ばれし者』と呼んで、君が該当する訳だ」
「私が選ばれし者と、あなたは言います。けれど……私にそんな力なんて」
「さっき使ったじゃないか。あの力の根源は、君達の世界が嘗て異なる世界と接続を果たした時に流れ込んだ物。異なる世界と接触し、力を得た者の血縁者なら選ばれても何ら不思議じゃあない。君の同胞の……力を得た男の子と、そもそも運命を背負った後一人を除いてね」
力を得た男の子の方は、道を分かった同級生のことだろう。
では『運命』とやらを背負った一人は誰なのか。そして、自分が何を成せば良いのか。
至極当然の場所に行き着き、首を捻って露にしたゆかりの疑問は、ハンスの次の言葉で砕かれる。
「最後の一人は君もよく知っている。というか、さっきまで一緒にいただろう。ヒビキ・セラリフ。彼が最後の、いや、最初の異邦人だ」
眼前の勇者が放った単語の意味を、最初は理解出来なかった。
理解した時、勇者が嘘を吐いていると考えた。いや、そう思いたかった。
だが、魔剣越しに一定の知識を持っている、程度の相手に嘘を吐く利は無い。加えて、そのような精神の持ち主に、世界を繋ぎ、転移者に力を授ける事が可能な『船頭』が、軽々しく名を語らせるなど許さないだろう。
内側が激しく荒れ狂うゆかりを他所に、勇者は残酷な現実を淡々と放つ。
「君達と違って、不正に発動された『
紡がれていた声が不意に途切れる。勇者と呼ばれた男に、躊躇の色があった。
触れるなと、大切な存在に言い含められていた物に触れるような。
自死の道を歩む家族を見送るような。
禁忌を犯す振る舞いに揺れる感情を、組まれた指の開閉で表出させた男は、やがて観念したように天を仰いだ後、再びゆかりに視線を固定する。
「不正に発動された力で転移し、この世界の力を手にした存在は、絶対に元の世界に帰れない。君の帰還とほぼ同じ頃、ヒビキ・セラリフは死ぬ。これが彼の背負った定めだ」
ヒビキ・セラリフは死ぬ。
短い音に乗って届いた事実は、ゆかりの呼吸を数秒間途絶させた。
意味を膾炙し、それが到底受け入れられる代物ではないと断じたゆかりは、先刻の負傷が残した激痛すら忘れてハンスに掴みかかる。
「どういうことですか!? 彼が、ヒビキ君が死の運命を背負っている? おかしいでしょう!? 彼に、何の罪があるというのですか!?」
「罪とかの話じゃないんだよ。異邦人が複数流れ込めば、死を定められた存在は必ず現れるってだけの話なんだ。特に、君のように特異な力を持つ者がいるとね」
「そんな話で……納得できる筈がないでしょう!」
「うん、いや、それは分かってるんだけどさ」
困惑を滲ませている表情を見ずとも、ハンスはゆかりの望みを叶える力を持たない。船頭に力や知識を下賜されて世界の規則を知ったに過ぎず、既に落命しているが故にそれを変える術もない。
彼に当たり散らすなど、玩具を取り上げられた幼子の如き振る舞い。短いながらも積み上げてきた人生経験から、ゆかりも分かっている。ハンスが嘘を言って利を得られることもなければ、そうする必要性がないこともまた然り。
ヒビキの死が不可避。
提示された事実は、彼女から冷静な思考を奪うには十分過ぎたのだ。
「……まずここを受け入れてくれなきゃ話が進まないんだけど」
説得に対するゆかりの反応は、ヒト一人を殺しかねないギラついた目で睨み返す、というもの。このままでは永遠に膠着状態に陥り進展が無いと判断したのか、ハンスは大きな溜息を吐いた。
「見せたくなかったけど、君なら良いか。……確定したヒビキ・セラリフの結末から、目を逸らすな。そして考えろ、君自身がどうしたいか」
ゆかりの反応を待たず、ハンスが指を打ち鳴らす。二者の周囲を巡っていた球体の輪郭が緩み、無数の光帯を形成。光は絡み合って巨大な紗幕となり、そこに風景が描かれる。
ゆかりが今立っているこの場所に酷似した、しかし至る所に極彩色の汚液が飛散している点が差異となる空間に、肉体を酷く損傷した少年が立っていた。
「……!」
今更見間違える筈もない。半分になった左手で武器を握り、焼け焦げた足で辛うじて立っている少年は、ヒビキ・セラリフその人だ。
生きていること自体が奇跡と断じられる惨状を晒すヒビキは、誰もいない空間の一点に視線を固定。自壊寸前の膝を折ることも無く、死に呑まれつつある目に戦意を燃やして咆吼する。
「盤面に登りし者達よ……集えッ!」
咆哮に応える形で境界から八条の閃光が迸る。発信源の力を示すかのように強い輝きを放つ閃光は、ヒビキと観劇者の視界を灼く。
視界が色を取り戻した時、七つの人影が立っていた。
輪郭で体格と性別が推測可能な人影は、一糸乱れぬ動きでヒビキに武器を向ける。
幻影達が始動し、不可視の『何者』とやり取りを交わしていたヒビキも、武器を構えて疾走。
轟、と暴風が生まれた。
幻影の放つ攻撃を受ける、または仕掛ける度に、限界に達している事が明白なヒビキは動きを乱し、彼の停滞を見逃さず相手は仕掛けてくる。
右目を潰され、肺を蜂の巣にされ、心の臓を穿たれる。
徹底した蹂躙を受け、全身から上昇する黒と赤を口腔から吐き出し、何度も悲鳴を上げるヒビキの義手や義足から蒼が散っていく。
待ち受ける未来は誰の目にも明らかで、ゆかりは、そして映像のヒビキにも見えている筈。
「目を逸らすな。未来を視る、捻じ曲げようとする覚悟があるなら」
ハンスの冷たい声に打たれ、苦痛に心が折れかけていたゆかりは、涙を零しながらも、未来の光景に視線を引き戻す。
そして、光の中のヒビキも膝を折ろうとしなかった。
「あああああああああああああああああああッ!」
狂声を絞り出し、武器と一体化して舞う。
降り注ぐ刃や砲火の雨を掻い潜り、幻影達を切り刻み、彼らが宿していた力を己の肉体と刃に取り込んでいく。何かを遂げる為に必要な、しかし痛みを覚える行為は、やがて一つの幻影を残すところまで来た。
残された一つは、赤い光で縁取られた影。
微妙な前傾姿勢や、恒常的な震えから考えると恐らく老人と思しき影は、唯一ヒビキに攻撃を仕掛けず、ただ状況を見つめていた。
「あぁ、そうか」
やけに穏やかな声と共にヒビキは幻影に向き直る。両者の距離は互いに手を伸ばせば届く程度。どちらかが仕掛ければ、反応を許さず決着が付く距離。
絶好機に動こうとしなかったヒビキは、恒常的に生じている物とはまた別の震えを見せる幻影に頭を下げる。
「……な、お祖父ちゃん」
不鮮明な言葉を受け、幻影は一際大きく身体を震わせ、視線をヒビキに固定する。その様を見て微笑みながら、ヒビキは幻影に刃を捻じ込んだ。
他と同様、砂塵と化して散っていく幻影は、完全に消失する瞬間までヒビキを見つめ続けた果てに、赤光と転じ刀身に吸い込まれて消えた。
七つの力を取り込み、ヒビキは彼の正面に立つ境界と対峙する。
ヒトに収めるには過大な力の流入で、既に身体の大半が崩壊している。身体の内側から亀裂が奔る音が断続的に生まれ、彼の聴覚を犯し続け、目の焦点はブレ放題。
満身創痍をとうに超え、明確に人ならざる何かに変貌したヒビキは、深い呼吸を繰り返しながら一度目を閉じる。
閉ざされた目が開かれた時、彼の両眼には雲一つ無い蒼空が宿っていた。
白の軌跡が、空間内に描かれる。
描き手が持つ剣技のそれと同様の軌道を描いた軌跡は、眼前に聳え立っていた境界に狙い過たず届き、光の蠢動を止める。
調和を崩した白は焼き付くように境界に刻まれ、そこからじわじわと全体を浸食していく。
やがて、白に支配された境界の表面。
全てを拒絶するような輝きを放っていた場所に、亀裂が広がる。
亀裂の拡大に連動する形で境界は砕けていく。先刻の幻影と同様の現象をヒビキは、そして観劇者のゆかりも固唾を飲んで見守る。
祈るように立ち尽くすヒビキの目前で、浸食され尽くした境界が砕け散り、塵芥すら遺さず消え失せた。何らかの大儀を成した事を噛み締めるように立ち尽くす。
そして、義肢が砂塵のように消え失せ、血を吐き散らしながらヒビキは頽れる。
境界の破壊に連動するように、空間全体が激しく震え出す。逃れる術も無く、仰向けに倒れたヒビキは崩壊を見つめる。残存する力を掻き集めて口をほんの少しだけ動かすも、音が生まれる事はなかった。
光はそこで終わり、ゆかりは現実に回帰する。
展開されていた光景を、夢と切り捨てられたらどれだけ良かっただろうか。
何の救いもなく、ただ呑まれるがまま死んでいく。それがヒビキに与えられた運命だ。
『最悪』の謳い文句を掲げた物語は、世に幾らでも転がっている。否、フィクションと比較せずとも、元の世界で散々見聞きした惨事と比較すると、たった一人の死など矮小に過ぎる。
だが、その一人は遠い世界でも、フィクション世界の誰かでもない。様々な事象を共にし、繋がりを得た少年なのだ。賢しげな論理など、何の意味も持たなかった。
たかが一人で切り捨てるには、ゆかりにとってヒビキは大きな存在になっていた。
「一応言うけど、これは決まっている事だ。簡単には覆せない」
敢えてだろうが、突き放すようなハンスの物言いも、ゆかりの心を掻き乱す。
じゃあどうして見せたんだ。自分が望んだにも関わらず湧き上がる身勝手な感情の暴発を辛くも抑え、ゆかりは何度か頬を叩く。
「簡単ではない。……なら、覆る可能性がゼロではないという事ですか?」
「おっ、良いねぇ。そういう女の子、俺は嫌いじゃないよ」
何処か陰はあるが、ハンスは年齢不相応な笑みを浮かべる。彼がそのような反応を見せた理由を、ゆかりが理解するのにそう時間は掛からなかった。
眼前の男は勇者と称されるまで、降り注ぐ理不尽を打ち払って生きてきた。
死した現在では、こうして運命の伝書鳩的立ち位置にいるが、運命に従うだけよりも、捻じ曲げる方が性に合っているのだろう。そして、ただ伝書鳩をするつもりは端から無かった筈だ。
砂粒ほどの希望に縋り、噛みつかんばかりに距離を詰めたゆかりを抑え、ハンスは右腕を旋回。ゆかりの身体を包み、そして大きく後退させる暴風が空間から失せた頃。
男の手に、焼け焦げた物体が握られていた。
自壊寸前まで損壊しているが、注意深く見ると確認出来る、天翔る竜の装飾は精緻極まり、先端に少しだけ残る金属片が無ければ、単体で宗教的な供物と錯覚する典雅な物体。
グァネシア群島に降り立った直後の夢で、ゆかりはそれを目撃している。
ハンスの相棒にして、ハンナやヴェネーノまで続く魔剣の起源。『征竜剣エクスカリバー』の柄。夢の中では、使い手が死ぬまで原型を保っていた筈の魔剣がここまで損傷し、そして自身に差し出される。
食い違いと疑問で動きを止めたゆかりに、ハンスは苦笑する。
「本来、使い手の死と同時に消滅するんだけどね。俺がカロンに回収されたから、その場では消えなかった。けれど、カロンと俺の力はどうにも相性が悪くてね。こうして柄以外は消え失せてしまった。でも、たった一つだけ力が残っているんだ」
「力……ですか?」
「そう。『一回だけ、時間遡行を除くどんな願いも叶える』これが、エクスカリバーに遺された力だ」
時間遡行を除く、どんな願いも叶える。その部分を切り出せば非常に有用だが、一度きりとは非常に重い。
強大な力を得ると思考に緩みが出るのは人の性。力が著しく不足しているまま血戦の舞台に上がれば、何度も逃避を肯定する感情が生まれ、エクスカリバーに宿る力の行使を試みるだろう。
自分がどれだけ弱いか、大嶺ゆかりは知っている。
『選ばれし者』なる大層な肩書きは、他者から与えられた物で勝ち取った物ではない。先刻の映像で目撃した、何かを得る為に死さえも受容して足掻いたヒビキの領域にはほど遠く、明けぬ暗闇に屈する瞬間も必ずある筈だ。
真っ当な論理で組み立てるなら、エクスカリバーを手に取る資格は無い。多くの戦場を超えてきたハンスならばゆかり以上に分かっているだろう。
「目標とか、出来る出来ないかとか、あんまり考えなくて良いよ。大事なのは、自分がどうしたいか、だよ」
ハンスの静かな声に、ゆかりの背筋が伸びる。
「どれだけ綺麗な言葉を並べても、世界の有り様は強者が弱者を食い散らす物だ。けれども、弱者にだって足掻く権利があるし、実際に引っくり返した事もある。俺がギガノテュラスと相打ちになったようにね」
眼前の男は覚悟を問うている。未だ片鱗すら見えない敵から勝利をもぎ取り、元の世界に帰還する。そして、ヒビキを戒める死の定めを打ち砕く。
身に余る願いを叶える為に、果てなき絶望に対峙する覚悟を。
対立する存在が抱く願いを、己の願いの為に踏み躙る覚悟を。
踏み躙った存在の願いすら背負って、屍と血霧舞う道を歩み続ける覚悟を「今」示せるか。
決断の時はこの瞬間だけ。過去にも未来にも、二度と同じ選択の機会は現れない。
善良で無力な高校二年生にはあまりに酷な問いを受け、ゆかりの脳裏に、凄まじい速度で自問自答が巡る。
資格だの権利だのといった賢しげな話やお題目を横に放り捨て、ここまで生き延びてきた命に答えを求める。シンプルに思えるが非常に困難な試みに挑むゆかりを、黙したままハンスが見守る構図が暫し展開される。
爪が掌に食い込み、赤が零れるまで強く手を握り締め、乱れる呼吸を捻じ伏せる。逃げ場所を探すように泳ぐ目をハンスへ強引に固定し、やがてゆかりが右手を開く。
赤に塗れた手が、エクスカリバーの柄をしかと掴み取った。
「なるほど。進むのか」
「それが、あなたの望みじゃないんですか?」
「正解のようで外れだ。期待出来そうになかったら、君が踏み込んで来た段階で斬った。泣き言ばかりなら追い出していたし、足掻こうとしないなら託そうともしない。だから、そこんとこは胸を張ってくれ。成功する事を、担保してあげられはしないけど」
「勇者なのに、現実的な思考なんですね」
「勇者ってのは、世界に対する振る舞いと戦果で他人が勝手に貼り付けるレッテルだよ。ただの希望馬鹿も、悲観主義に浸って頭が良い風に振る舞う阿呆も。レッテル通りの思考回路の奴は、勇者どころか雑兵にもなれず死ぬだけだ」
希望を信じていながら、過酷な現実を冷静に見つめ、手札を総動員して最善の結果を掴まんと足掻く。勇者と讃えられた男の思考は地に足が付いた泥臭い物で、お伽噺の存在のように温くはない。
優しい言葉は、結実せぬまま乾けば何もしないよりも残酷な代物。希望だけを見て歩めば、辿り着く先は楽園ではなく墓の下だ。
全てを解しているからこそ、ハンスは問うたのだろう。
そして、問いを受けた大嶺ゆかりは、身に余る願いを結実させる道を選んだ。
――分かってる。とても難しい道だって。けれども、私はヒビキ君を……。
「決めたのなら戻ると良い。遅くなっているけれど、時間は流れている。異邦人や友達がここに雪崩れ込んで来たら、結構不味い事態になるんだ」
分厚い手に肩を叩かれて身体が揺らぎ、ゆかりの思考が外側へ引き上げられる。
連動して顔を上げると、男臭い笑みが目に映る。歴史書に仕舞い込まれた男は、慈愛に満ちた目でゆかりを見つめながら、空間のある一点を指し示す。
「そこが出口だ。あまりこういうのは好きじゃないけど、一応言う。君の願いの結実を。君がこの世界で渦巻く何かを祓うことを、俺は心から願う。……頑張れよ」
「私はあなたのような勇者になれない凡人です。けれども、全てを賭けて足掻いてみせます。……ありがとうございました」
一礼し、生者の世界に回帰すべくゆかりは歩き出す。
負の感情は未だ拭えない。けれども、ここが大嶺ゆかりの新たな出発点。ある筈のない希望を求めて、彼女は内側で紅の炎を灯す。
傷ついた彼女の右手の中で、エクスカリバーの残骸は意思と共鳴するように輝きを放ち続けていた。
◆
異邦人が去り、残されたハンスは、閉ざされた世界を茫と見渡す。
カロンの言葉や、朽ちぬ身体といった事象以上に、二千年もの長きに渡り全てが固定されたこの空間を見る事が、彼が自身の死を肯定させる最大の要因となっていた。
――貴方の最後の使命は『選ばれし者』を導くこと。意味は、いずれ分かるわ。
「約二千年かかるなんて、詐欺じゃないのかな?」
問いかけた男の顔には、焦燥と微量の怒り。強制的に涅槃に辿り着いた以上、嘗てのように剣を振るって道を描かけないこと自体は受容している。
しかし、監禁同然の状況で世界が蠢く様を只見続けることは、勇者と呼ばれた男の倫理や信念とは相容れぬものだった。
「『エトランゼ』も、仕事を与えて貰っといてなんだけどカロンも勘違いをしている。確かに君達は強く、世界が生命に満ちるまでを見つめてきたんだろう。
けれども、君達は既に盤面より上にいる。戦う者の視点を失った君達は、もう絶対じゃないんだ。……だから世界の接続が繰り返されていても、首謀者の命を取れず、自ら敗北の道を整えていることにも気付かない。カロンは分かっているようだが、それでもまだ足りない」
他者からの理解を求めない、淡々とした独白が途切れる。
男の目に映るは、死を定められた少年と盤面に登ることを決めた少女の姿。
愛も勇気も、憎悪も怒りも、悲しみも喪失も。全てを飲み込んで世界は進む。誰かが望んだ楽園も、別の誰かが望んだ地獄も、決して実現することなく淡々と回り続ける。
それが世界と、ハンスは知っている。
道理に基づく形で、二人の選択を世界の大半が嘲笑うだろう。だが、いよいよ産声を上げようとしている最悪の事態は、たった一人の信念と執着が組み立てた代物だ。
どれだけ秀でていようと、一人のヒトが世界を捻じ曲げるなど夢物語とハンスは自身の、彼の後継者と成り得る存在の死から知っている。
その夢物語が実現する異常事態の前には、世界の仕組みや旧来の強者達が有する絶対性は揺らぐ。揺らぎが生み出す間隙にこそ、彼等の選択に一縷の望みが生まれる。
彼等に待ち受けるのは、不可避かつ不可逆、そして誤てば即座に全てが灰燼と帰す。理不尽と不条理に満ちた選択の道だ。
身に余る戦いに身を投じる者達が、せめて正しい形に辿り着けるように。無意味と知りながら、男は願う。
「道は見えずとも、歩みを止めるな。望むのならば剣を降ろすな。それだけが、道を守る唯一の正解だ」
呟き、赤き勇者の姿は陽炎の如く揺らいで消えた。
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