2:夢の中へ

 どうしようもない現実に直面し、道を喪失した挙句大切な存在とも離れる事になった存在とは、何処までも救いようがなく何処までも無様だ。

 置物同然に硬直し、ただ呼吸するだけの物体と化したヒビキ・セラリフの目に、ゆかりから最後に言葉を投げられてから、既に九度目の朝陽が届く。

 昼行性の生物に活力を与える陽光は、現実を更に深く焼き付けてくる為に不快でしかないが、遮幕を閉ざす為に立ち上がる気力も湧き上がらない。

 最低の言葉をユカリに叩きつけてしまってから、ヒビキはずっと部屋の片隅で閉じ籠っていた。

 施錠をしていない為、何度か債権者にして医者のファビアが診察の為に現われ、何らかの言葉を投げてきた筈だが、まるで入ってこなかった。

 世界が煩わしいのならば、目も耳も塞いでしまえば良い。

 状況からすると最良の行動を、最初は試した。


 目を閉じれば、養父の最期とアルベティートの無機質な視線が視覚を塗り潰す。

 耳を塞げば、自分が未来も価値もなく排除されるべき害虫であるという『エトランゼ』の宣告が延々と響き続ける地獄を体感する羽目になった。


 生身の足と腕を斬り落とし、失血による意識喪失も試みた。

 カルスやユアンにヴェネーノ、今まで自分が殺してきた者達が怨嗟を放ち、冷たい眼差しを友人やユカリに向けられた挙句、踵を返される光景を幻視。

 湧き上がった負の感情の集合体が痛みを上回って彼に覚醒を強要し、何も変わらない現実を前に安堵と絶望が巡る。

 何の生産性も意味もない日々を、ヒビキは飛行島から帰還したその日から繰り返していた。

 『魔血人形アンリミテッド・ドール』の力が機能し続ける限り、食事を摂らずともしばらく保つ。保ってしまうのだ。自傷行為をしようが、終着点に向かう時間は大きく変わらない。

 身体の信号でそう理解したヒビキは、もはや身じろぎ一つしない文字通りの人形と化していた。


 何処で間違えたのだろうか。

 答えは単純、お前がこの世界に放り出された時、生き意地を張ったところが全ての過ちだ。


 一塊となった問答が延々と回り続ける中で、ヒビキの目が潤み――


「無様だな」


 若々しいが、どこか遠い声が開け放たれた扉から届く。

 声の主、暗緑色の髪を持ち、右目を髑髏の意匠が刻まれた無骨な眼帯で覆った、性別と年齢を読み難い人影は、ヒビキの前まで悠然と歩み寄る。

 確か、飛行島の最上層で見たような気がする。

 記憶の発掘にかかったヒビキに相対した人影は、一切の躊躇なく彼の襟首を掴み、強引に立たせて口を開く。

「数多の意思を踏み躙った男がこのザマか。……まさしく、お前に負けた連中は恐ろしく無駄な死を遂げたということか」

「……あ?」

 見ず知らずの人間に慰められることなどあり得ないと、ヒビキは経験から当然理解していた。

 同様に、そのような輩に罵声を浴びせられることも無い筈だ。

 切れていた思考が徐々に繋がっていくなか、人影の罵声は続く。

「世界は停滞しない。永劫に動き続ける。お前は引き篭もり停滞する道を選んだ。停滞した存在を世界は、そして歩むと決めた人間は相手にしない。お前の未来は、懸想している相手に見捨てられ、栄養失調もしくは魔力の枯渇による酸欠で死ぬ。五流の娯楽雑誌にでも持ち込んでみろ、誌面の隙間を埋める――」


 言葉を切って頭部を引いた男の髪が、風に巻かれて舞い上がる。


 怪物との決戦以来になる、『魔血人形』の完全開放を行ったヒビキは、失せていた生気を怒りで強引に引き戻した。

「テメエに俺の何が分かるッ!」

 咆哮と共に踏み込み、右拳を放つ。

 颶風を纏った拳は人影が足を幽かに動かすだけで回避され、突進の速力を活用した回し蹴りも、空気をかき回すだけの結果に終わる。

「どうした? お遊戯がしたいのなら他所でやれ」

「ほざけッ!」

 煽りに乗る形で更に拳打を仕掛けるヒビキだったが、人影を黙らせるどころか、拳を身体に掠める事すら叶わず、空振りが延々と続く。

 ――どういうことだ? 何発か当たってる筈だろ!

 闘気を全く感じさせない、優雅かつ無駄のない身のこなしで、相手が相当な手練れだとすぐに察した。だが、明らかに捉えた筈の拳すら、まるで霧を殴ったかのように何の手応えも無いのは妙だ。

「遅い」

「……!」

 焦りで注意が分散したヒビキの目前に、無機質な顔。

 失策を自覚した彼の胸に、撫でるような軽さで掌が乗る。

 転瞬、ヒビキは後方に吹き飛ばされ壁に背を強かに打ちつけた。

「その程度か?」

 鈍い痛みも、何故攻撃が躱され、攻撃を食らったのかの疑問も、相手の言葉で全て消える。

 嘗て、世界最強に手を掛けた男や異邦の戦士は「感情の変動で限界を超える存在」とヒビキを評した。

 底の底まで叩き落とされ、求める回答が提示される前に初対面の存在から嘲弄の言葉を浴びる、理不尽極まる状況は彼の持つ素養を遺憾なく引き出した。

 飲まず食わずだったにも関わらず、平時と変わらぬ魔力を絞り出したヒビキは、部屋の片隅に立て掛けられていたスピカを引き寄せる。

 左眼に暴力的な熱が宿り、心拍数が跳ね上がる。眼に宿る熱の増大に比例する形で視界がクリアになり、相対する人影の内部を左眼が捉えた時、ヒビキは異変に気付く。

 ――内臓が……いや、骨も無い? んな馬鹿な事が!?

 根元が異様に歪んだ剣を、相手が抜いた現実を前に思考を中断。スピカを跳ね上げて弾き、生まれた隙間に突きを放つ。

 引き戻された剣が蒼刃と激突。火花を散らして持ち主への進撃を阻むが、相手が力負けして道は残った。

 好機と踏んだヒビキは、存在する二歩分の隙間で踏み込み、左足を軸に回転しスピカを引き絞る。常人なら反応すら出来ずに解体される組み立てに男は即応。剣と眼帯を放り捨て右目に魔力を充填、右腕を突き出し構える。

「『鮫牙――』」

「『船頭乃戯曲――』」

「誰がそこまでやれって言ったよ、オズ」

 呆れと本気の怒りが丁度半分ずつの声が挿し込まれ、両者つんのめるように急停止。

 床に刻まれた擦過痕に目を遣りつつスピカを納めたヒビキは、オズと呼ばれた人影が、声の主の方向へ退いた事を受け力の解放を止めた。

「身体に刻まれた技は心が折れても錆びない、か。良いと評するべきなのかねこれ」

 戦いを中断させた声の主、痩身長躯に金髪碧眼、どの角度から見ても二十代半ばに見える容貌のクレイトン・ヒンチクリフは、ヒビキとオズと呼んだ人物を交互に見比べる。

 彼の用いた呼称で、ヒビキは突然現れた存在の正体を認識するが、ある事実も知識として持っているが故に混乱し、それはそのまま口から転がり出る。

「先代四天王、オズワルド・ルメイユは死んだ筈だ」

「それは正しい。ボクは十一年前に死んでいる。現状は『船頭』の力で仮初の生を得たに過ぎない」

 船頭の単語を受け、ヒビキの目に宿った殺気はすぐに萎え、完全な停滞状態だった時と同じ色に回帰する。

「で、世界の盤面とやらの上に立つ『船頭』サマの子分が俺に何の用だ? アンタ方にとっちゃ俺は不要物なんだろ。さっさと帰れよ」

「『エトランゼ』の戯言を信じるのか?」

 長き時を生き、ヒト属の世界を壊滅寸前まで追い込んだ圧倒的な実力を持つ怪物は、単なる暴力以外の側面でも世界を長く見つめてきた事による知識の類でも、ヒトを圧倒する。

 故に言葉は重い筈だが、眼前の自称死人はヒビキの返答に疑問を浮かべる。その反応に怪訝な物を抱いたヒビキは、しかしすぐに歪んだ方向での着地を果たしたようで、力なく首を振った。

「そりゃアンタならそう言えるだろ。名乗りを丸呑みすんなら、元四天王で『船頭』の力で蘇生した奴と、死ぬだけの奴が同じ――」

 頬に、後頭部に、そして顔面全体に衝撃が走る。

 潰れた蛙のような姿勢で床を這わされたヒビキはすぐに跳ね起きて構え、オズワルドの目に宿る物を視認して動きが止まる。

 生まれた空隙に、元四天王の声が滑り込む。

「ボクの力と立ち位置に関する議論が、お前の針路に意味を持つのか? 指を咥えて去り行く異邦人を見送り、強大だが所詮他者でしかない『エトランゼ』の言葉に呪われて死ぬ。生き様の捉え方は人それぞれだが、最低の死に方だとボクは思うがな」

 行動せずに死ぬのは、美徳でも何でもない愚者の選択だ。

 言葉の趣旨を著しく乱暴に纏めるとこうなり、ここまで生き延びた事実から逆算すると、ヒビキもオズワルドの主張を抱えていたことは疑いようがない。

 ただ、人は追い込まれている時に賢し気な指摘を、しかも逃げ場を奪う正論を叩き付けられると感情が大きく乱れる。ヒビキもまた一般論から大きく外れることなく、左眼に蒼を灯してオズワルドの襟首を掴み上げる。

「……アンタに何が分かる!? 力も、地位も、世界からの愛も得たアンタが、踏み躙り続けた先が死の運命を押し付けられた奴の気持ちが! 大切に思っていた奴と立つ場所が違った絶望が! それを変えられない現実が、分かんのかよッ!?」

「動かなかった先に待っている物と、その先に待っていた最低の結末に直面した時の感情なら分かる」

 二人の制止以降、沈黙を守っていたクレイが問いに答えた。

 弾かれるようにヒビキは彼の方向へ視線を遣り、初めて目撃する男の表情に、暴発していた感情共々冷却される感覚を抱き、オズワルドを取り落とした。

 何処か遠くに向いていた目を、ヒビキに戻した元四天王は力なく微笑み、背負っていた長槍を床に降ろす。

「お前と俺達じゃ確かに違うように見える。けれど、オズはともかく俺は反論の仕様がない負け犬だ。お前には、俺みたいになって欲しくない。俺達が来たのは『目を背けた』結末を見せる為だ」

「アンタが負け犬? んな馬鹿な……」

 ヒルベリアに流れ着きこそしたが、四天王時代の彼が積み上げた実績は、調べる度ヒビキに驚愕を与えていた。現在は手放していても、嘗て常人が渇望するもの全てを持っていたことは揺るぎない事実なのだ。

 天地以上の差がある男が体験した『目を背けた』結末とは一体何か。己の卑しさへの嫌悪が微量に、クレイ達がこの瞬間に提示してくる物が、自分に何かを齎すのでは、という藁にも縋る思いを心の大半に満たしたヒビキの目が、幽かに揺れた。

「ボクとクレイを含め、用いる記憶は六人分。客観性は確保出来る筈だ」

「『回喪乃銀幕ワンマンシアター』で描かれる光景に介入は出来ない。それは即ち、一切邪魔される事なく過去を追体験出来るって訳だ」

「お前の精神が保たなくなれば、勝手に解ける。術者が定めた光景が全て終わった時もまた然り。何を見つけ出すかは、お前次第だ」

 思考の整理を待つつもりはないとばかりに、元四天王達の手に魔力が集束し、燐光を放つ。

「ちょ……」

「いざとなったら助けてやる。だから今は……眠れ」

 急展開が過ぎる状況への戸惑いも露わに立ち上がったヒビキ。

 彼の動きは、二人から放たれた光を浴びた事で停止し、まさしく催眠術を受けたように床へ落ち、かけた所をクレイの両腕が受け止めた。

「……軽いな」

「ここ数週間を考えると無理はない。休息にもなるだろう」

「ロクでもない光景を見る事が休息になるのか、怪しい話だがな」

 腕の中で寝息を立て始めた少年の、目の下に濃い隈が刻まれ頬が削げ落ちた顔を見つめるクレイの、そして彼を煽るだけ煽った死人の表情は一様に硬い。


 積み重ねた過去は間違いなく素晴らしかった。しかし、結末は最低の代物だった。


 瓦解を最後まで見届けたクレイも、死によって引き金を引いたオズワルドも、事実を受け入れながらも直視を拒んでいた。

『回喪乃銀幕』が対象に見せる光景は、発動者と基盤となった記憶の持ち主によって多少のバイアスはかかるが、実際に存在していた過去の光景を映し出す。

 自らが見たくない代物を、他人に見せる事を好む者はまずいない。見せたとしても、ヒビキを必ず前進させると断言出来ない、薄暗い物だという自覚は二人にもある。

 光を失ったヒビキに、暗闇を見せて尻を叩くやり口は賭けに近い。少女が去った今、これが失敗すれば少年が再起する可能性は更に減じる。

 強引かつ無謀、そして危険な手段を用いてまでヒビキの再起を試みる理由は、二人の中に確かに在る。


『紅き雷狼』と呼ばれた男には、親愛なる隣人であり、形態こそ特殊だが一応弟子となった少年が、彼らしさを取り戻す事を願い。

『悪夢乃剣』と呼ばれた死人には、彼に力を与える『船頭』も含め、世界の異変に対する鬼札となり得る少女と共に歩む存在を求める。


「上手く行くと良いんだがな」

「それはコイツ次第だ」

 眠るヒビキを囲い、重い空気を纏った二人は短い言葉を交わし続ける。

 そんな彼らの背後、うず高く積み上げられた血晶石の山が在った。

 ヒビキの義手義足を形成可能な唯一の物体であるそれに、小さく蒼の光が灯る。

 注意が別に向いているとは言え、優れた魔力感知能力を持つ二人も捉えられなかった小さなそれは、血晶石から離れて床を這うようにヒビキの元へ向かい、彼の体内へと吸い込まれていった。 

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