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「さあ始めよう! 世界で最も無意味な、そして、最も美しい闘争をッ!」

 ヒトの領域を逸脱した咆哮で大気が震動し、地面のゴミが派手に転がっていく。

 相手の力に真っ向からぶん殴られ、ヒビキの身体は一時的に硬直するも、絶対の敗北への恐怖から脳はすぐに再起動を果たし、予定調和の死を回避する為に駆動する。

「俺は無学で無能な借金持ちだから、アンタをよく知らないけど一つだけ分かる。アンタが戦ってきたのは俺でも知ってる強い奴ばかりだろ? 俺なんか倒しても何の意味も無いと思うぜ?」

「ハンナ・リーンバーツ・アンフェルシア、世間的にアヴェンタドールは俺と同じ当代ケブレスの所有者と知っている筈だ。奴もいずれ俺が倒す存在、そして奴を倒した貴様もまた同じ。無論、もう一人の男も貴様を倒した後に挑む」


 ――やっぱりハンナか! あんの×××××!


 ベイリスとのやり取りで触れた通り、彼の認識では『ディアブロ』戦の実情は負けに等しい引き分けだが、先に白旗を上げたのは相手側。

『ディアブロ』が撤退した事実だけ見れば、ヒビキ達が彼らに勝利したと判断することも可能だろう。故に、噂を聞きつけた狂戦士は姿を現したのだ。

 外から見た単純な結果と実情。二つの食い違いが最悪の邂逅を齎した現実を受け、愕然とするヒビキの耳にユカリの声が飛ぶ。

「目を付けた相手を殺していくなんて、誰も幸せになれない振る舞いです! どうしてそんな無意味なことをするんですか!?」


 ユカリの至極真っ当な問いをヴェネーノは鼻で笑う。


「無意味か。小娘、意味のある行い、生き方とは一体なんだ? 嘘と欺瞞の海に己を委ね、誰かが作った規則の中で飼い犬同然に生きる事か? 安全地帯に逃避し自分を描かず、無価値な量産品として振る舞う事か? 

 下らん。全てを己の責任で曝け出し、闘争に於いて勝利を重ね、正しさと意味の獲得が生者の義務であり有意義な生き方だ。故に俺は最強を望み闘争を行う。何も提示出来ぬまま賢しげに口を開く無能は下がれ。存在自体が邪魔だ」

 金剛石の意思に基づいた語りに押され、沈黙したユカリにヒビキは「これ以上話さなくて良い」と意思を籠めた視線を送る。

 理解したか微妙なところだが、論戦から退いたユカリから意識を逸らす意図も籠め、ヒビキは一歩踏み出す。その一歩の間に、相手が纏う物を正確に捉えた彼の頬を汗が伝う。


 法や世間一般の常識、敗北への恐怖に起因する闘争の忌避。


 全てを踏み潰して立ち、戦に勝ち続けてきたと一目で認識可能な、まさしく竜や戦争と形容すべき男の「気」で意識を手放したくなる恐怖に襲われながらも、ヒビキは口を開く。

「俺がアンタに勝てば、ユカリに何もしない。これは間違いないんだな?」

「誓おう。俺が欲するのは良き闘争、無価値な小娘に興味はない」

「……なら、決まりだな」

「止めて!」

 ヴェネーノの横を駆け抜け、ユカリが両の腕を広げてヒビキの行く手を阻む。

 それを見て退屈そうに欠伸を溢した狂戦士が、彼女ごと斬り捨てる動きを見せず待機の姿勢を執った事実を受け、安堵の息を吐いたヒビキは、今にも泣き出しそうなユカリの説得にかかる。

「必ず勝って終わらせるからさ、ユカリは安心して見ていてくれ」


 無言で少女の首が横に振られる。


 過去に彼女の前で積み上げた、無惨な敗北の山が説得力を無に帰させている。ヒビキも痛いほど理解しているが、実際に突きつけられると胸が激しく絞めつけられる。

 彼女が求める物は、無傷でこの場を切り抜ける結果だろうが、眼前の狂戦士が相手ではその道は既に閉ざされている。


 自分か、敵か、ユカリか。


 誰かが確実に死ぬ盤面を形成された今、前進む以外の選択肢は消失している。故に、ヒビキは引き攣った笑みを浮かべる。

「分かった、前言撤回。この戦いがどうなるかは分からない。ユカリの願いは、悪いけど今は無視するしかない。……でも、ユカリが見ていてくれるなら、勝率は結構上がる。この状況を無事に切り抜けたいと思ってくれるなら、俺の事を見ていてくれ」

「!」

「準備は済んだか?」

 ヒビキの言葉に、どのような感情の発露に依る物か、ユカリが目を綺麗な円形にした所で、退屈に飽いた風情のヴェネーノから問いが投げられる。


 スピカを引き抜いて構える。

 

 ヒビキからの返答に狂戦士は喜悦を表出させ、身を覆う長外套を放り捨て完璧に鍛えられた上半身を露わにした。

 肉体に刻まれた無数の、意匠も色彩も規則性が無い刺青に目を奪われ絶句する二人だったが、相手の仕掛けはまだ始まったばかり。

 背負われていた、無骨さと儚さと美しさが両立した、ヒビキの身長に匹敵する長大な剣が掲げられ、剣と一体化したヴェネーノから放出される圧倒的な魔力と闘争心がマウンテンを包んでいく。


 開戦の合図なのだろうが、受け手側は動きを止められた。


 己が無残な亡骸に変えられる光景を幻視し、ヒビキの体から大量の汗が噴き出し、強烈な吐き気がせり上がる。殺し合いの経験を持つ彼がこのザマなら、ユカリが耐えきれる筈もない。彼女は糸が切れた人形のように崩れ落ち、意識を手放した。

 ――精神力でここまでやれるのか。……どんなバケモンだッ!?

「闘争に集中しろ」

 声に弾かれて視線を前に戻すも、前方には不気味な程の静けさがあるばかりで、ヴェネーノの姿は見えない。

 では何処から聞こえた? 答は単純だが、常人離れした物だ。

 

 敵は上方から迫っていた。


 無音の疾走から跳躍に繋いで距離を詰めたヴェネーノが、美しい両手剣を頭部に向け迷いなく振り下ろす。剣風でゴミが千々に霧散する異次元の斬撃を、咄嗟にスピカを掲げて受けたヒビキの身体が右に傾斜。同時に激痛が襲う。

 彼の生身の右足、正確には膝関節部が砕け、皮膚を突き破って大腿骨が飛び出し、肉が弾け飛んでいた。

「はっ……がァああああああッ―――」

「この程度か? 期待外れだな」

 スピカを弾き飛ばしてマウンテンに突き刺さった魔剣が、竜の昇天と化して上昇、ヒビキの顔を半分にすべく迫る。『魔血人形』の力を解放し、鼻柱を斬られながらスピカを回収する流れの中で、左足で地面を爆散させながら後退し距離を取る。

 右足の修復を待つように、両手剣を掲げて停止する狂戦士の実力を、肩で呼吸しながら弾き出したヒビキは戦慄する。

 決して誇れる腕力を持たないが、ヴェネーノと同族のハンナが放つ攻撃も、一応力の解放無しで受けられた。

 しかしヴェネーノ相手では、後手に回り不完全な体勢だったと言えど、斬撃を受けて右足が破壊された。そこに至るまでの無音の始動と、一瞬で十メクトル近くを詰める瞬発力。魔術の補助無しでは、力の完全な伝達が難しい空中攻撃の威力。

 これらの材料を総合して下された結論を前に、ヒビキの体温が急速に低下する。


 ――今まで戦った中で、コイツが一番強い! 他の連中と比較にならない程に!


「どのような策を講じても構わん。俺と『独竜剣フランベルジュ』が打ち破るだけだ、全力で来い!」

「……スカした口利いてんじゃねぇぞッ!」

 夏の雨雲の如く膨れ上がる敗北と死の予感を押し殺し、どう聞いてもかませ犬の科白を吐いて右足の修復が成ったヒビキが前進。

 相対するヴェネーノは、水平の斬撃を放つべく長大な剣を構えて腰を落とす。

 予備動作だけで、これから展開される悪夢を畏れたのか、大地のゴミがさざ波のように揺れた。

  

 暴風を纏った二者が激突。縺れ合ったまま両者旋回。


 星屑の如き火花が飛散する中、剣を支点に突如回転したヴェネーノのつま先が胸板に叩き込まれ、肋骨を砕かれながらも、迫る横薙ぎの斬撃を側転で回避。

 旋回速度と剣自体の重量で、反応に遅れが生まれると踏み、ヒビキは死角から首を狙うが、手首の返しのみで達人の剣速に到達し、急激に引き戻されたフランベルジュを受け、スピカ諸共吹き飛ばされる。

 靴底から火花を散らして後退するヒビキに、殺意と闘争への狂喜で瞳を輝かせるヴェネーノが迫る。体重差が四倍以上ある相手では、どんな策も現状の彼我の速度、重量、筋力の差で圧殺される。

 ――これならどうだ!?

 両足の悲鳴を無視して宙に逃げてスピカを砲台に変え『大鯨恐槍雨ヴァレル・ストラフォーリエ』を発動。

 擦過音を奏でて射出された、鉄をも穿つ水の槍が空気を裂いてヴェネーノに突進。一対百なら、幾ら『生ける戦争』でもボロを出す筈。そこを叩けば活路はある。

「押し通るッ!」

「はぁっ!?」


 狂戦士の選択は、人形の思考を粉微塵に破壊した。


 ヴェネーノの上半身に刻まれた無数の刺青が、意思を持つ生命体のように瞬き、極彩色の光が身体を包む。虹を纏った狂戦士は疾走しながらフランベルジュを戦旗の如く掲げ、ヒビキの身の丈に伍する魔剣を片手で振り回す。

 華麗に繰られる魔剣が生んだ竜巻で水の槍が空中で撹拌され、てんで見当違いな場所に突き刺さって消えていく。

 単純な腕力で魔術を破壊したヴェネーノは、勢いを保持して思考が一瞬停止したヒビキのいる高度に辿り着き、輝く刀身で彼の頭部を強かに殴り付けた。

 衝撃で意識が半分吹き飛び、赤に彩られた視界が明滅する中で、繋いで放たれた逆袈裟をスピカの刀身で受け止めるが、簡単に押し負けて空から追放される。


 このまま落ちていては、空中で解体されて終わる。


 咄嗟の判断で身体を捻り、不意を衝く形で剣技を叩き込む算段を付けた時、空中で加速して迫る敵の姿が揺らぎ、突如ヒビキの眼前に出現。

 圧倒的な筋力をフル活用した、豪雨の如き手数で放たれる音速の刺突が、人形の肉体に炸裂。

 態勢の変化が仇となり、突きをモロに浴びたヒビキは、全身に穿たれた巨大な穴から血霧を撒き散らしゴミの平原に転がる。義手と義足を構成する『血晶石』を始めとした金属が削られる音を聴きながら、必死で体勢の立て直しと逆転の一手を探す。

 そして、決が出る前に彼の世界は赤く染まる。

 

 何故赤いのか? 彼の全身が炎で包まれているからだ。


 単純な話だが、生きたまま火炙りなど耐えられる筈もない上、ハンナ・アヴェンタドールに類似の攻撃を受けた経験から、身体が過剰に反応しヒビキの戦意と体力は加速度的に削られていく。

 くぐもった悲鳴を溢し、地面を転げて消火を試みるヒビキだったが、殺意の波濤の接近を感知し、炎塊と化したまま抜刀体勢に移行。

「『鮫牙断海斬カルスデン・スクァルクート』ッ!」

 焼けた喉から声を絞り出し、前方の炎を蒼の閃光が地面のゴミを道連れに引き裂く。膨大な魔力から生まれた水の鮫が狂戦士に突撃を開始。

 敵を高圧の水で引き裂き、それを耐える相手は純粋な質量で圧殺。二段構えのこの技には、過去に対峙した相手も多少の焦りを見せた。

 だが視界の先に立つヴェネーノには、一切の動揺が見受けられない。

 世界を泥濘に書き換え進む水塊に追随して疾走する、ヒビキが相手の反応に疑問を覚え始めた時、狂戦士が淡々と鋼の声を紡ぐ。

「『セラリフ一刀流』か。ノーティカ本国で、カルス・セラリフが指導しても習得者が生まれなかったそれを、独自解釈はあれどモノにした才覚は素晴らしい。……だが、その程度で俺を倒せると思うなッ!」

「何ッ!?」

「――ォオオオオオオオオオオッ!」

  

 転瞬、ヒビキの世界が歪んだ。


 意思疎通を拒否するように放たれた、落雷の如く周囲一帯を震わせるヴェネーノの咆哮が、ヒルベリア全域に響き渡る。

 音の暴力を浴び、マウンテンに堆積したゴミが粒子レベルにまで粉砕され、おこぼれを伺っていた生物が転がるように逃走。強引に意識を再覚醒させられたユカリが、衝撃波を浴びて病葉同然に飛んでいく様に、ヒビキは反応出来なかった。

 目の前にあった水塊が、攻撃を受けた訳でもないのに魔力結合を解かれて崩壊、消滅。更にフランベルジュの紅蓮の切っ先が己を貫かんと迫る状況では、他に意識を回せる筈もなかった。

 ――咆哮だけで魔力で形成した物質を破壊? んな冗談、あってたまるかッ!

 先日対峙した『正義の味方』が生み出した疑似生物は、敵の魔術を無効化する『破幻詠エクスプローディア』を用いてヒビキ達の魔術を封じてみせたが、能動的な行動が不可能という代償が存在していた。

 疑似生物特有の癖ではなく、『破幻詠』発動時大抵の者に生じる、生物として当然の隙である為に、ルーチェ・イャンノーネの『縛鎖獅魂憑化ケル・ヴェルゼ』の奇手で撃破出来た。

 転じて、眼前の敵は自身も能動的に動きながら技を潰した。

 攻撃と防御を高い次元で両立可能な相手に、ここから事態をどう転がしても勝ち目はない。事実から導き出された絶望の答えに支配され、ヒビキの思考が停止するが、戦いは無情にも止まらない。

 撃ち出された、視界を揺らがせる陽炎を纏った突きを、止まったままの思考で回避するも、強引な繋ぎで飛来する魔剣を見て、ヒビキの目が見開かれる。

 足への魔力流入を強引に引き上げて距離を取り、ヴェネーノが魔剣を振り切った瞬間スピカを投擲。不可視の巨人に蹴り飛ばされるような背の衝撃と共に、彼我の距離が一気に詰まっていく。

 その中で、敵がまったく狼狽の気配を見せず、余裕すら伺える動きで、体勢を整えている様を目撃し、ヒビキは本来狙っていた動きへ体を整えながらも瞠目する。

「魔術を用いず超高速で移動する者なら、過去に幾人も仕留めた。驚く必要などない」

「……その事実だけで、こっちは死ぬほど驚いてるよッ!」

 常人の目では到底捉えられぬ斬撃を何合も交えた後、ひときわ甲高い音を響かせ、ヒルベリアの淀んだ空に蒼の異刃が回転しながら宙を舞う。

 敵が無手になる絶好の隙を活用すべく、狂戦士は紅い半月を世界に描く。

 危機感に突き動かされ、無意識の内に跳躍して地面に深い亀裂を刻むそれを回避し、ヒビキはスピカに向けて手を伸ばすが、彼が次を放つ前にヴェネーノは終の一手を整えていた。

 

 回避したのではない、のだ。

 

 ヴェネーノが仕掛けた罠に、己が絶対の敗北に引きずり込まれた事に、ここでようやく気付く。

 大地を融解させて輝く二条の紅き閃光、即ち神速の斬撃がヒビキを捉えた。

「!」

 痛みは一瞬。その一瞬で、敗北は決定した。

 両腕が身体から離れて地面に落ちる、貴重過ぎる体験を特等席で見物し、左腕が本来繋がっている場所から、物が焦げる臭気と魔力の流れが急停止する感触。

 超次元の芸当を身体で受けたヒビキは、呆然とした顔で地面の腕と肩口の傷を交互に見比べ、動きを止めてしまう。

「終わりだ」

 ヒビキの首筋に、フランベルジュの暴力的な熱気が伝わる。この状況では彼がどう動いたとしても、狂戦士が首を撥ねる方が速い。

 勝利を手中に収めた為か、ヴェネーノは昂ぶりを霧散させ淡々と口を開く。

「悪くはない、現状の貴様はそれだけだ。未来ある蛹を握り潰すのは惜しいが、これもまた定め――」

 乾いた銃声。そして肉が弾ける音。

 言葉を切り、フランベルジュと共に後退するヴェネーノの姿が急速に傾ぐ。勝利以外の絵がない状況の相手が退いた事実に疑問を感じた時、ヒビキの右足を強烈な痛みが襲い、酩酊状態に陥ったように身体が揺れ、支えを失いゴミの大地に倒れ伏す。

「小娘。貴様自分が何をしたのか理解しているのか?」

 動きを止めた狂戦士の静かな、しかし火砕流の烈しさを内に宿した問いは、何故かユカリに向けられていた。

 倒れた状態でヒビキが首を向けると、異邦人の少女の手には銃。銃口からは硝煙。そして彼の右太腿に銃創。

 親しい存在に撃たれた事実に激しく動揺するヒビキを放って、ヴェネーノは右腕を回転させフランベルジュをユカリに向ける。狂戦士から放出される、静かだが強烈な殺気によって、ヒビキの身体は勝手に震え出し、歯がカチカチと不快な音を発する。

 また意識を手放してもおかしくない状況のユカリは、両目から涙を流し、痙攣同然に足を震わせている。その中でも、彼女はヴェネーノを真っすぐ見つめ、大きく息を吸い込んで口を開く。

「こ、殺せば良いじゃないですかっ!」

「……」

 死に限りなく近付いた彼女の口から、完全な泣き声で衝撃的な言葉が発せられ、ヒビキのみならずヴェネーノも虚をつかれた様子で硬直する。

 その隙を突いて、ユカリの口から音の洪水が生まれる。

「良いですよ! 私もヒビキ君も殺せば! でもよく考えてみてください、ヒビキ君の右足を撃ったのは私! 言わば、あなたがヒビキ君を殺せる状況にまで持って行けたのは私の一手があったからです! 別に無視して殺しても構いません、他人の力を借りる情けない振る舞いを、あなたが許容出来るのなら!」


 ――いや待て、いくらなんでもそりゃ無茶だ!


 ヒビキの指摘がなくとも、ユカリの叫びは粗雑な暴論と誰もが理解するだろう。

 両腕を斬り落とされた段階で、左腕の再生より速くフランベルジュがヒビキを捉える事は必定と化していた。奇跡の助力で回避出来ても、地面に落ちたスピカを拾う隙は生じない。

 ご都合にご都合を重ねてスピカを拾えたと仮定しても、完調の状態で技を破られた上に右腕を失って出力が低下し、刻限が更に近付いたヒビキが、未だ一つの技や魔術を見せていないヴェネーノに勝つ可能性は皆無。

 どう屁理屈を捏ねても、ヴェネーノがユカリの提示を受け入れる道理は無い。

 本来殺害のリストに入っていなかった彼女が、自身を対象に押し込んだだけの愚かな行為だ。

 全身に刻んだ刺青を奇妙に明滅させながら、ヴェネーノは怒気を振りまきながらも沈黙。心臓を鷲掴みにされる恐怖と緊張が、審判を待つ二人を支配する。

 永遠に続くのでは。そんな錯覚を抱かせる息苦しい時間は、ヴェネーノが開戦時に放り捨てた、長外套を身に纏った事で終わりを告げた。

「良いだろう、ここは小娘の小細工に乗ってやる。貴様が介入出来ぬ場所で、一対一で仕切り直せば良い話。俺はいつでも挑戦を受ける。ヒビキ・セラリフよ、至高の闘争を描く為に腕を上げておけ」

 背中から紅蓮の翼を生み出したヴェネーノは、哄笑と共に跳躍、塵芥を竜巻のように巻き上げて飛翔する。

 ヒルベリアの住人全員を恐怖に陥れる、重い笑声が完全に消失するまで、二人は身じろぎ一つ出来ず、狂戦士を見送った。


                 ◆


「そういう訳だからさ、今回の治療費は値……痛ッ!」

「値切るかド阿呆。慈善事業をやっている訳ではない」

 理解を全力で拒みたくなる床や壁の紅い彩や、至る所に物騒な物が転がっている、陰惨な空気が充満する部屋の中心に設置された手術台の上。

 ヒビキは桃色の髪を持つ少女にしか見えない医師、ファビア・ロバンペラに拳を浴びて顔を顰める。

 ヴェネーノに両腕を斬り落とされた彼が、日頃義手義足の整備を頼んでいるライラではなく、首都ハレイドに住む彼女の元に治療に向かった理由は、いつまでたっても左腕が再生しない事に起因していた。

 彼の常として懐は極寒状態であり、当初は普段通り放置して治癒を待つつもりだった。ユカリが泣きながら治療に向かう事を懇願していなければ、実際にそうしていただろう。

 しかし、治療中とたった今受けている。ファビアからの説明を統合すると、彼女の意を無視していれば左腕を永遠に失っていたと理解し、ヒビキの背を氷塊が滑り落ちた。

「左腕を斬った瞬間、傷口を高熱で焼いたな。傷の悪化も停止するが、魔力回路の繋がりを破壊し、傷を負った者の再生を妨げられる。理屈は単純だが、数に存在する回路全てを一撃で焼くとは、『生ける戦争』の名は伊達ではない、か」

「そんな奴に果敢に挑んだんだから……」

「貴様の行動は果敢とは言わない。只の蛮勇だ」

「だよな……」

 反論の余地がない正論に肩を落とすが、折角時間と金をかけて知識の豊富なファビアの元に来た事を有効活用しようと、先日の戦いで生じた出来事について問いを投げた。

「この前ペリダスと戦った時、変な事が起きたんだ。相手の攻撃を間違いなく受ける状況で、急に周りの動きが遅く見えた。そこでスピカを抜いたら、何でか相手より速く攻撃を放ってたんだ。アンタは何か知って――」

 ふと顔を上げて目にしたファビアの瞳に、慄きに近い物が宿っている事に気付き、ヒビキは閉口して相手の出方を伺う。

 年の功か、十七の餓鬼に追撃されるボロを見せぬまま、年齢不詳の医師はやはり赤で汚れた応接机の上に座り、ヒビキの目を見据えてゆっくりと口を開く。

「貴様は『魔血人形アンリミテッド・ドール』の最終機能を用いて生物の限界を超えた。ただそれだけの話だ。『四天王』如きと互角に渡り合う程度が天井なら、国が莫大な予算を投じて開発するなどあり得ないだろう?」

 

『生物の限界』


 大抵の者に縁が薄い言葉を前に、ヒビキは口を中途半端に開いて硬直する。。

 「説明するからその辛気臭い顔を近づけるな」と手を振られ、無意識の内に伸びていた顔を引き、元の着座姿勢に戻ると、どこからか取り出した白墨でファビアが壁に図を描き始める。

「ドラケルン、シルギ、ベスターク、キノーグ。そして最多種たる私達ヒュマやその他少数種族と、ヒト族は肉体に宿る力を全て引き出せない。加えて、全開にしたところで竜を始めとした強大な生物に純粋な力で勝てない。故にヒトは兵器等の開発で対抗し、勢力を広げた。ここまでは分かるな?」

 初等教育中退でも、その程度は経験と伝聞で蓄積した知識から分かる。ヒビキが首肯を返すと、ファビアは「及第だ」と呟いて机に置かれた杯を傾け、汚泥色の珈琲を流し込む。

「俺の分は?」

「水で我慢しろ。では、無意識にかけられた制約を取り払えば良い。研究者はそう考え、体内で循環する魔力量を強引に引き上げて疑似的な制約解除を行った。それが『魔血人形』の理屈だ、これは誰もが行っている肉体強化でしかない上に、結局ヒトの天井を打破するには至らなかった」

 魔力の流れを増幅させて筋肉や脳を活性化し、戦闘力を向上させる行為は、現代では戦士どころか一定以上の負荷をかける肉体労働者でも行っている。

 『魔血人形』がそれを行う事での向上度合いは、一般的な方法よりも高いだろうが、それだけではエネルギー切れのデメリットを超えられない。付随する超再生機能で、完璧な差別化が成されているとも言い難い。

 ――そこで、生物の限界を超えるって所で差別化してんのか。

 ヒビキの推測を肯定する形で、ファビアの説明が継がれる。

「肝要となるのが脳を補助する形で配された血晶石だ。これは、他の部位とは異なる特殊な加工が施してあった。血晶石の特性の一つ、魔力の急速充填と放出には用いられず、脳の処理能力を極限まで高める事に特化しているそうだ。専門外の私には修復出来ん、壊すなよ」

「処理能力を高めると、どんな効果があるんだ?」

「『特別を特別でない者に与えるアンリミテッド』、だ。生物では竜や昆虫の特殊な種でも音速が限界のところを、光速に限りなく近い所まで辿り着ける。貴様がペリダス相手に引き出したのも、これだろう」

 ファビアが一度立ち上がり、乱雑に積まれた書類の山を漁り始める。会話が途切れて手持無沙汰になり、相手の言葉を咀嚼していく内に、ヒビキの頬が少し緩む。

 ――光速に限りなく近い速度を出せる、か。……なんだ、これさえ使いこなせれば、大体の相手に勝てるじゃねぇか! 

 先ほど徹底的に打ちのめされた、頂点に立つヴェネーノの動きも、強化された視覚で辛うじてだが捉えられた。そこから行った彼の推測は恐らく正しく、扱えるようになれば、全貌が見えない『エトランゼ』を除いた連中を一瞬で撃破可能となる筈だ。

 戦闘に食われる時間が大幅に減少し、ユカリを元の世界に帰す方法を時間を増やす事も、夢ではない。 


「何を考えているか聞かんが、恒常的に、いや二度と使おうと考えるな」


 冷や水を浴びせるように、敢えて抑えた声を発しながら紙束を抱えて戻ってきたファビアに対し、無意識の内に反発を内包した視線を向ける。

 彼の視線を真っ向から受け止めながら、年齢不詳の医師は彼女らしからぬ真摯な声を吐き出した。

「生物の限界を超える事が安全な筈が無い。散逸した資料の断片から見える記録では、被験者の八割が脳を破壊されて死亡している。ヒトの器に、光の領域に行く力を後天的に付与する事も、引き出す事も非常にリスクが高いと理解しておけ。先日の闘いで、貴様は死んでいてもおかしくなかった。使わず済むよう励め」

「死……」

 大逆転の手段が、既に何度か踏み込んでいた最悪の到達点に至る、最速の方法であるとの側面を突き付けられ、浮ついた感情は吹き飛び、ヒビキの心は沈む。

 才能、時間、肉体的条件。全てが世界に点在する化け物共と比して劣る彼にとって、一発逆転のカードは無意識の内に渇望していた代物だった。

 手中に収める事が可能でありながら、自身の命を代償とする可能性が存在する為に、使用困難な札だった事実に落胆するヒビキの視界に、紙束が滑り込んでくる。

 一通り目を通すと、とある退役軍人に関する資料であると見当が付き、それを今見せてきたことに疑問を抱いた所で、差し出し主の声が飛ぶ。

「『正義の味方』が言っていたのだろう? 世界がどうたらと。ソイツは多少なりとも知っている筈だ。近頃頻発している、退役軍人の殺害に対する護衛依頼も兼ねているそうだ。一先ず話を聞いてこい」

 意外な形で可能性を提示された事に、呆気に取られた表情を浮かべたヒビキだったが、すぐに首肯して足早に部屋を退出していく。

「ありがとな、先生」

「礼はいい。働いてツケを返して貰わないと困るからな」

「あっ、そういう理由……」

 肩を落として、人形の少年は仕事に向かう為の一歩を踏み出す。


                  ◆


 依頼人バルトリオ・クェンティンの邸宅を訪問し、依頼の概要を聞いたヒビキは、結論は後日として依頼人の元を辞して、ハレイドの商業施設が立ち並ぶ区域を訪れていた。

 ヒルベリアとは大きく、多少似た要素を持つアガンスとも異なる、二十階以上のビルが当たり前のように空へ進出する光景を眺めつつ、特段の目的意識を持たずに店を冷やかして回る。

 ――フィニティスに異なる世界の存在に関する研究施設がある、か。調べに行くのも悪くないか。

 アトラルカ大陸とインファリス大陸を分かつ海峡に接する、アークス領の町フィニティスは荒廃状態で放置されている、までは一定以上の年齢の者なら誰もが知っている。

 町として機能していた頃から、ロザリスに程近いにも関わらず、軍事拠点が設置されていない点に疑問を呈する者も少なからずいたし、ヒビキもその一人だった。

 だが、そこにアークス国軍の研究施設が存在し、『正義の味方』の亡骸が集めらていたという話は、依頼人に聞かされるまで知らなかった。

 ロザリスを迂回する経路で向かう必要がある為、時間と手間はかかるが、一度調べてみる価値はあるだろう。

 ――ユカリはどうするかな。同行させた方が良いのか?

 彼女が大きく関わる話なので、一緒に向かう事が最善手で、彼女の性格から考えても同行を望むのは間違いない。

 だが放棄された現在、フィニティスに立ち入る者は政府絡みの者だけであり、手持ちの情報は皆無に等しい。無理に同行させて、負傷や死亡に至らしめてしまうのが最悪の結末であり、それだけは何としても回避する必要がある。

 強大な敵性生物に関する情報を最低限得てから、結論を出すべきと判断したヒビキは、アガンス在住で現在療養中の『氷舞士』への協力要請を検討しつつ、ヒルベリアで入手が難しい生活用品を購入していく。

 借金返済に殆どが充てられ、ペリダスそのものの討伐報酬は諸事情から辞退したが、アガンスでの仕事の結果、彼の懐は史上最高に温かく、すぐ荷は膨れ上がった。

 目的を果たし、帰る準備を始めた頃、ヒビキの目はとある武器店の店頭に鎮座している品に引き寄せられる。

 ――ノーティカの剣匠カルプノス作、暴海王リオプレッサ!

 海竜の鱗を模した柄の装飾と、用いられる金属の性質によって鈍い黒色を持つ刀身に施された、微細な鋸状の加工で製作者を判別可能な一・一メクトル程度の片刃剣は、本来このような町中にある物ではない。

 特殊な加工が施された波打った刀身で敵の肉と魔力を削り取り、鈍く長い苦痛を与えて消耗戦に持ち込む、剣そのものの重量で撲殺、はたまた魔術で押し流す。

 使用者次第で自在に表情を変える業物があれば、戦いの幅は間違いなく広がる。

「――って、たけぇな!」

 手にしたら、の空虚な妄想を一通り繰り広げた後、肝心の値札にようやく目が行ったヒビキは、そこで踊る数字に驚愕して叫び、一気に現実に引き戻される。。

 お値段実に六千万スペリア。剣の価値からすればこれでも安いだろうが、到底ヒビキの手に届く額ではない。

「色々売れば届くか? そうすると生活費が……。いや、スピカに加えてコイツがあれば――」

 店員が護身用の武器を構え出した事にも気付かず、独り言を漏らして購入方法を模索していたヒビキの脳裏に、間抜けな会話を交わした後にファビアから受けた言葉が走り抜ける。

 ――強力な道具があれば、誰も知らないような圧倒的な力があれば。誰もが考える事だ。戦闘能力は才覚に依る部分が大きい上に、格上との戦いで打ちのめされている貴様がそのような感情を抱いたとしても否定はしない。

 だがこれだけは覚えておけ、何かを成した者、極限の強さまで至った者は皆、限界を超える領域に足を踏み入れる段階までは、修練で辿り着いている。

 まずは励め、禁忌の領域に踏み込むかどうかは、そこで決めても良いだろう。

 自分にはスピカがあり、この業物の底力は未だ目撃していないと、ヒビキ自身はそう信じている。まだ、スピカと見れる限界さえ見ていない自分が、有名人の武器を手にした所で進歩はない。寧ろ、限界が低くなるだけだ。

 結論が出たヒビキはディスプレイから身体を離して、身構えていた店員に謝罪の言葉を告げて帰路に就く為に歩き始め――

「誰かっ!」

 そして、耳に飛び込んだ男性の声に反射的に振り返る。

 道路に尻餅を付いている、会社勤めと思しきこれと言った外見的特徴のない男性の視線を追うと、薄汚れた身なりの少女が駆けていく様が見えた。

 ヒルベリアではそれなりに目にする光景、だがハレイドで見るとは思わなかったと、下らない感想を抱きつつ、ヒビキは見物するばかりで動かない周囲の者を押し退けて男性を助け起こし、そして自身の荷を彼に託す。

「何を掏られた?」

「さ、財布を……」

「了解した。ちょっとこの荷物、預かっといてくれ」

「お、おい君!」

 恩を売れる行為でもないが、現場を目撃しておいて助けないのは気分が悪い。ただそれだけの理由で、ヒビキは男性の声を振り切って追走を開始する。

 左、右、右、そして左と曲がりながら、人気の無い場所に向かう風情の金髪少女に、完全に追いつかない程度の距離を保持した状態で、ヒビキは追走しつつ捕縛の策を練る。

 相手の、そして彼の狙い通りに人の気配が薄らいだ路地裏へ舞台が移った時、ヒビキはスピカを抜き砲台形態へ変形。『牽水弾』を少女の足元目掛けて放った。

「!」

 水の弾丸はヒビキの狙い通り、少女の足がこれから接地する箇所に着弾し、コンクリート舗装の路面に水溜まりを作り出す。

 『牽水球』なら、素人相手でも直撃で死ぬ事はまずありえない。加えて威力を絞った上に着弾点は地面。が、相手が何の心構えもしていないのなら、これで十分だ。

 突如として接地感覚を狂わされた少女は足を滑らせて転倒。手を離れて宙に舞った財布を懐に納め、ヒビキは少女の腕を極める。

「離して!」

「被害者面してんじゃねぇよ。どう考えてもテメエは加害者側だろが。恨みはないが、あのおっさんに謝罪ぐらいはしに行こうぜ」

「アンタに私の何が分かる!」

「分かる訳ねぇだろ。一応言うならどんなに生い立ちや境遇がアレでも、超えちゃいけない一線ってのが……」

「そこのお嬢さん、お困りかな?」

「……あぁ?」

 割り込んできた声に、剣呑な声を溢しながら振り返った先に、何の特徴もない黒髪の少年が立っていた。

 観察出来る範囲で武器は見受けられないだけでなく、少年の身体は何の鍛錬の形跡も、戦闘経験を匂わせる動きも気配もない。

 この状態に至るまでの経緯を知らずに、首を突っ込んできたお節介野郎だと判断し、ヒビキは煩げに手を振り少年を追い払いにかかる。

「悪いが、状況を理解してないなら帰ってくれ。別にアンタを――」

「はい! すっごく困ってます!」

 様々な方向の物を舐め腐った少女の声が差し込まれた瞬間、ヒビキの感覚は浮遊感に支配される。

 そして背部に鈍い衝撃が走り、全身の骨と肉が軋んで苦鳴が口から漏れる。

 ――いったい、何が、起きた!?

 口の中で不快な存在感を示す唾と血を吐き捨て、歯噛みしながらヒビキはふらつく足を叱咤して立ち上がる。

 スピカを抜刀した状態で、謎の現状で距離が開いた少年を観察するが、相手に攻撃を受けた理屈が解せず混乱は深まるばかり。

「その程度か。……この国の上層部にも認められた力を持つ俺と、異世界の雑魚では比較するだけ酷か」

「何訳分かんねぇことを……」

 ヒビキの声が絶叫に変わる。

 少年がヒビキを見つめていた。

 それだけで彼の左腕は肘を転回点として奇妙に捻じ曲がり、スピカが乾いた音を立てて地面に落る。

 魔術に依る攻撃と仮定しても、体内の魔力の流れが見えるヒビキであれば、眼前の相手程度の動きなら、発動される前に先手を取れた筈。

 目視の検分では、相手は身体能力から経験の全てがド素人と断じる事しか出来ず、どの要素から判断しても、ヒビキが負ける理由などない。

 だが、現実は合理的な理由なき敗北をヒビキに提示し、それ故に彼の中にある恐怖と絶望は加速度的に膨らんでいく。 

 ――ヴェネーノやペリダスなら分かる。……こんな奴に、こんな奴に一方的にやられるなんて、俺の今までの戦いは、何だったんだよッ⁉

 心中で悲痛な叫びを吐き出している内に、いつの間にか接近していた少年から、素人丸出しのローキックが叩き込まれ、ヒビキは胃の内容物を口から逆流させながら地面に崩れ落ちた。

 動きと威力がまるで釣り合わない攻撃を受け、完全に動けなくなったヒビキを見下ろし、少年は冷笑と共に口を開く。

「まあこのくらいにしておいてやる。次からは、無辜の少女に因縁を付けるだなんて真似は止めておくんだな。……これはお前に対しての罰として俺が貰っておく」

「待ってくれ! スピカは……」

「負け犬の言葉を聴く余地なんか、ないと理解しろよ、ゴミ」 

 無様に地面に張り付いたヒビキからの懇願を鼻で笑って、少年は地面に落ちたスピカを拾い上げ、少女を連れて去っていく。

 ハレイドの片隅で完膚なきまでに打ちのめされたヒビキは、通りがかった警官に助け起こされるまで、身じろぎ一つ出来なかった。


                 ◆


 一方的にヒビキを叩きのめした少年は、彼の視点では悪人から救出した事になっている少女と並んで歩きながら言葉を交わす。

「ほんっとに助かりました! 私、おにーさんにずっとついていきますからね!」

「力のある者の義務だからね。あのチンピラもこれで改心するだろうから、忘れてやれ」


 そこで少年はヒビキから取り上げたスピカを改めて眺め、その美しさに見惚れると同時に、記憶を呼び起こしてスピカが通常の武器ではない事に気付く。

「これは確か、廃材を加工して製作する武器の一種だったか。製造場所は確かヒルベリア……」

 思考する少年の目に気付きの色。

 ヒルベリアに、この世界にやって来たばかりの彼は当然訪れた事はないが、そこに見知った存在がいるとは、彼に権力と知識を与えた者から聞いていた。

 含み笑いを零して、少年は歩き始める。

「なになに? おにーさんヒルベリアに向かうんですか?」

「ああそうだ。そこに、俺の知人がいる。これほどまでに早く会えるとは思ってはいなかったがな!」

 周囲の者が顔を顰める声量の笑声を高らかに響かせ、少年は少女を引き連れて何処かに消えた。


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